第140話

 迫り来る死の足音に少年たちの心が悲鳴を上げ、今にも壊れそうな心を、恐怖で竦む足を、だが前だけを見つめ走り続ける。

 一度足を止めればもう二度と走ることなど出来ないであろう、と誰もが本能的にそのことを理解していた。

 

 魔物を相手に走って逃げ切れるほど現実は甘くはない……だがそれを認識してしまえばもう走り続ける事など出来ないことを誰もが分かっていたからこそ、少年たちは考える事を放棄しただ走り続けた。

 

 それは逃れられぬ帰結へと至る……残酷な現実に対する彼らのささやかな抵抗……狼たちの群れの中に投げ出された哀れな子羊たちには、もう他に為す術などなかったのだ。


 レオニールの背後で縺れる足音と共に地面へと倒れこむ気配がする。

 た……助けて、とミゲルの小さな悲鳴が、恐怖と疲労のために掠れ、声にならない叫びがレオニールの耳に届く。

 必死に前方を走っているクロイルは気づいていない……目を瞑り、自分の手を強く握り返してくるリリアナもまたそれには気づいていない様子であった。


 振り返っては駄目だ。


 頭の中で誰かがそう囁く。

 其処にある現実を目のしても自分に出来る事など何一つないではないか……どうせ助けられぬ命なら気づかぬ振りをした方がいい……いや、本当に気づかなかったのだと自分自身に信じ込ませ走り続けるしかない。


 自分はリリアナを最後まで守り抜かなければならないのだから。


 レオニールは震えるリリアナの手を握り締め、強く足を踏み出す……そして心の中で詫びる、済まないミゲル、と。


 ――――君は謝ってばかりだな。


 刹那、レオニールの心の中に一陣の風となって憧れる少女の声が木霊する。

 脳裏に映る美しく可憐な少女は困った様な表情を浮かべ、神秘的な黒い瞳が自分を見つめている。


 レオニールは自分が抱く理想に、その少女の姿がら目を逸らせる。

 力がないのだから仕方が無い、助けられぬのだから仕方が無い、と幾ら必死に叫んでも少女は困った様に自分を見つめるだけでその小さな手が差し伸べられることはない。


 何で僕だけ……。


 クロイルやミゲルたちに向けらる少女の笑顔、彼らに伸ばされる少女の手。


 レオニールの表情が歪む。

 それは羨望、嫉妬、恐怖、絶望、様々な感情が入り混じった醜い表情であった。


 不意に響く声、ミゲルの叫びがレオニールの耳に届く。

 だがそれはレオニールが覚悟していた様な怨嗟や怨讐に満ちた、見捨てられた者が発する呪詛の言葉ではなく……。


 皆……逃げて、と。


 恐怖に怯え、助けを請い、見捨てられ自分はもう助からないと悟った少年が絶望の中最後に見せたのは、


 勇気。


 仲間を思い搾り出したなけなしの勇気。


 そのミゲルの想いに触れた時、リリアナの手を掴む手が離れ――――レオニールは駆け出していた。

 振り返ったレオニールの眼前には景色を埋め尽くす黒い塊……魔物の群れが迫っている。

 座り込むミゲルの隣に立ったレオニールは腰の長剣を引き抜く。


 「クロイル、リリアナを頼む!!」


 振り返らず有らん限りの声でレオニールは叫んだ。

 雄雄しく、とは言い難い恐怖に震えた情けない叫びであったろう、自分の叫びに、泣き叫び自分の名を呼ぶリリアナの声が遠ざかっていく。

 少なくともクロイルには自分の意思が伝わったのだ、とレオニールは安堵する。


 「悪いけど時間稼ぎに付き合って貰うよ、ミゲル」


 呆然と自分を見やるミゲルの顔に浮かぶのは、恐怖に押し潰されながらも必死にそれに抗い口元を歪ませている……泣き笑い、そんな表情であった。

 そして自分も恐らくミゲルと同じ様な表情をしているのだろうな、と思う。


 目の前に広がるこの異様な光景を前に後悔が無いなどと言えば嘘になる……だが気づいてしまった、気づかされてしまった……だからこれはもう本当にしょうがない。


 自分はこれまで色々なものを諦めてきた。

 血統、家柄、自分の才能……都合の良い言い訳を盾にして、諦め、目を逸らし、それに気づかぬ振りをして自分自身を守り続けてきたのだ。

 現実は残酷で自分は無力な存在であると、抗うことすら放棄して誤魔化し続け、その実自分が傷つくのを何よりも恐れてきた弱い己の姿に、極限状態の中にあって尚ミゲルが見せた意地は、他者から見れば取るに足らぬ本当にちっぽけな……だがレオニールにとってそれは持たざる身だからこそ眩しくその心に響いたのだ。


 気づいたからといって何かが劇的に変わる訳ではない……だからこれはもうしょうがない。

 がくがくと足は震え、迫る魔物の姿に瞳からは涙が溢れ止まらない。

 自分は此処で死ぬ……勇ましく剣を振り上げたとて一瞬で理不尽に呆気なく自分は死ぬのだろう。それこそがこれまで自分が逃げ続けてきた紛うことなき現実なのだから。


 後数歩、レオニールの剣の間合いにノー・フェイスが迫る。

 それは同時に自身の最期を告げる使者の到来を意味していた。


 レオニールの隣でミゲルも立ち上がり剣を構えている。

 恐怖に震え、怯える二人の姿には雄雄しさも凛々しさもなく、憐れさすら感じさせる……だが構えた剣は震えながらも掲げられ、決して地に伏せることは無い。

 それこそが最期の瞬間まで抗い続けることを止めぬ彼らが示した意地の……勇気の象徴であるかの様に。


 そうか……あの人は示してくれていたんだ……己の意思で、己の足で立ち上がれ、と。


 ノー・フェイスの触腕が振り上がられ、レオニールたちの視界を黒い壁が覆う。


 ――――刹那。


 それは吹き抜ける風が如く。

 閃く剣閃がレオニールたちの眼前、ノー・フェイスの頭部を瞬断する。

 

 頭部を失い崩れゆくノー・フェイス……レオニールたちは眼前に突如舞い降りた女神と見紛おう美しき黒髪の少女の姿を呆然と見つめる。


 

 一つ借りが出来たな、と黒髪の少女、エレナは先程まで自分が居た絶壁の上、此方に手を振る妖艶な美女、エリーゼの姿を僅かに見上げ……だが直ぐに迫る魔物の群れにとその視線を戻す。


 それは翼の様に、両腕を広げエレナが魔物の群れへと駆けた。


 

 繰り広げられるその光景を前にミゲルも、そしてレオニールも少女の姿から目を逸らすことが出来ない。

 魅入られるとはまさにこの事だろうか、二人はただ少女の、エレナの姿のみをその視線で追い掛け、追い求めていた。


 「レオ!!」


 状況の変化に気づいたのだろう、踵を返し戻ってきたリリアナに背中から抱きしめられてもレオニールはエレナの姿から目を離すことが出来ない。


 それ程にそれは異常な……奇跡的な光景。


 たった一人の少女に魔物が蹂躙されていく……現実には有り得ぬ、そんな光景を前に誰もが息を飲む。

 

 戦場を駆ける戦乙女は舞い踊り、奏でる双剣の旋律は死者を弔う鎮魂歌。

 

 葬送曲に誘われ冥府へと渡る亡者の如く、積み上がられて行くノー・フェイスの死骸。単騎で次々と魔物を屠っていくエレナの姿は戦慄を覚える程に妖しく美しい。


 やがて道幅に限りがある山道に魔物の死骸が積み上がり道を塞いでいく……そして少年たちは信じられぬ光景を目の当たりにすることになる。


 一人の人間、エレナを前に魔物の群れがその歩みを止める瞬間を。


 「ルイーダ、この子たちを街まで、行けるな」


 エリーゼの魔法により共に崖下まで転移していたルイーダが主の問い掛けに答える様に短く嘶く。


 エレナが見上げる視界の先、既にエリーゼの姿は無い。

 何処かで見ているのではあろうが、あの気紛れな女性は其処まで自分に手を貸すつもりはないのであろう、とエレナは直ぐに意識を切り替える。

 エリーゼという女性を良く知るだけにエレナはその事でエリーゼに対して特に不信感を抱くようなことは無かった。他者から見れば理解できぬ常軌を逸した行動に見えても、自分自身の行動自体が似たようなものだと思えば、それに対して怒りなど覚え様筈も無い。


 「詳しい話は後で聞くとして今はただ振り落とされない様にこの子にしがみ付いていればいい、後はルイーダが街まで運んでくれるから」


 エレナは乱れた呼吸を整えながら額に滲む汗を手で拭う。

 色々と問いたいことはあったが、だが今は時間がない。

 エレナに急かされ、この状況を理解したレオニールとクロイルが屈み込むルイーダの背にリリアナとミゲルを乗せる……だがレオニールもクロイルも自分たちが乗る素振りは見せない。


 そして二人の言葉が重なる。


 此処に残る、と。


 「私は此処で死ぬ気はないよ、君たちの存在は足手纏いにしかならない、と言ったら?」


 「それは関係ありません、最悪僕たちは見捨てて下さい、エレナさんの言葉を疑う訳じゃない……でも四人も乗せて走ればこの馬に制限を掛けることになりますよね……あの森を抜けるのにこの馬の機動力を殺ぐべきじゃない、僕は生き残る確率の話をしているんです」


 真っ直ぐにエレナを見つめるレオニール。その瞳に迷いの様なものは見られない。


 刹那の沈黙。

 

 最初に視線を逸らせたのは……エレナであった。


 「良い顔になったじゃないか少年……いや、レオニールだったね」


 それ以上エレナは問わなかった。

 レオニールたちに背を向け、エレナは魔物の群れへと向き直る。


 レオニールは心配げな眼差しを自分に向けるリリアナの髪を優しく撫で大丈夫、と安心させる様に頷いて見せる。

 今までにないレオニールの覚悟に満ちた表情に、止めようとするリリアナは悲痛な表情を浮かべたまま言葉を詰まらせてしまう。


 「ミゲル、リリアナを頼む」


 ミゲルは何か言葉を掛けようと口を開きかけるが、その口から言葉が綴られることはなく、代わりに強くミゲルはレオニールに頷いて見せた。


 「行け、ルイーダ」


 主の声に反応し立ち上がると地を蹴り上げルイーダは駆け出す。

 走り去るルイーダの姿をレオニールとクロイルは見送り、そしていつしか互いに向き合っていた。


 「はっきり言っておくぞレオ、俺はお前が気に入らない」


 「知っていたよクロイル、そうだね……僕も君が大嫌いだ」


 睨み合う二人……だがやがその場には笑い合う二人の声が響く。


 そんな二人の笑い声を背にエレナは僅かに瞳を伏せる。

 

 新しき芽は息吹き、思いもまた紡がれていく。

 その事がエレナには堪らなく嬉しく、二人に気づかれぬ様にそっとその口元を緩ませる。

 

 ならばこそ、その若き可能性を摘み取らせる訳にはいかぬ。 


 夥しい魔物の死骸。それを乗り越える様に新たな魔物がエレナの眼前に犇いている。


 「この道の先、押し通りたくば我が千刃を超えていけ、このエレナ・ロゼの魂を、その意思を噛み砕けると思うのならば挑み来るがいい」


 高らかに謳う少女の後ろ、少年たちが剣を構える。

 

 エレナの両の腕が動き、双剣で刻み象るは正十字。


 山道を埋め尽くす程の黒き魔物の群れに対するは三人の騎士。

 

 それはまさに神話の一節。


 戦乙女と騎士たちが綴る物語そのままの光景であった。


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