第11話


 改良設計のプランに上ったFMA202という機体は、いつかフェスティバルの空に見たものだった。あの日サムと二人で見上げた、銀色の飛行機。



 大変だぞと、いろんなひとから念を押された。

 いまの飛行機には優秀な自動制御機能がついているから、事故はそうそうないが、それでも可能性はゼロではない。まして試作機のテストパイロットならなおさらだ。トゥトゥの飛ぶ空と違って、ずっと高いところを飛行するから、一度事故が起きれば危険も大きい。

 その上、航空機を嫌うトゥトゥからの視線は、厳しいものになるだろう。いわれのない中傷も受けるだろうし、悪くすれば嫌がらせを受けることだってあるかもしれない。

 ほんとうにそれでもやるのかと、誰かに訊かれるたびに、エトゥリオルは繰り返し、自分の胸の内をのぞきこんだ。

 いつかのフェスティバルの日、空を舞う銀色の機体を見上げたあのときから、いつか飛行機に乗って空を飛べたらと、心のどこかで思っていた。

 それはずっと、ただの夢想だったのだ。

 トゥトゥのパイロットはまだひとりもいないと聞いていたし、操縦士の訓練は大変だということも、知識としては持っていた。だからそのいつかというのは、やってくるかどうかもわからない、遠いいつかだった。おそらくはそんな機会はないだろうけれど、もしかしたら何かの間違いでそんな日がやってくるかもしれない。そういう距離の向こう側にある、甘いばかりの願望だ。

 それがただの夢ではなくなって、まだどこか実感がわかないような日々の中で、エトゥリオルは何度となく自問した。本当に、僕は空を飛びたいのかと。

 飛びたかった。

 子どものころ、みんなの舞う空をひとりで寂しく見上げていたころの感情を、いまでもよく覚えている。

 空を飛んだからといって、いまさら彼らの仲間に入れてもらえるとは、思っていなかった。ただあの空を、もう一度、どうしても飛びたかった。

 願っても叶わないことだからと、子どものころからずっと諦めて、押し殺してきたつもりの願いは、本当に死んではいなかった。そのことをエトゥリオルは、ようやく自分に対して認めた。



  ※  ※  ※



「あのね、ほんとはリオには内緒だったんだけど」

 同僚からそう耳打ちされたのは、エトゥリオルがテストパイロットになるための勉強を始めて、まもなくの頃だった。

「夏の終わりごろ、改良設計の話が来るちょっと前に、ジンがしばらく、ずっと残業ばっかりしてたでしょう。あれね、本当に忙しかったっていうのもあるんだけど。半分はね、操縦系とインターフェイスの改良設計の、シミュレーションをやってたのよ。トゥトゥのパイロットが乗るための――会社の命令も全然きてないのに、こっそりね」

 エトゥリオルは驚くあまり、テキストを表示した端末を、落っことしそうになった。彼女は小さく含み笑いを残して、自分の仕事に戻っていった。

 ――それが本当なら、ジンは彼が思うよりもずっと前から、エトゥリオルがいつか空を飛ぶ日のことを、考えていてくれたことになる。ただ、それが彼のためになるかどうか、判断しかねていただけで。

 何度もまばたきをしてから、エトゥリオルは首を回して、ジンの姿を探した。ジンは隅のブースで、他社の技術者と打ち合わせをしていた。

 本当にそれが自分のためのことだったと思うのは、うぬぼれだろうかと、エトゥリオルは考えた。それから首を振って、考えるのをやめた。いま彼がすべきことは、かけてもらった期待に応えることだけだ。



 何度となく、計測があった。骨格、姿勢ごとの筋肉と骨の動き、視覚や音に対する反応。

 地球人のために作られて改良されてきた操縦席は、座席もインターフェイスも、そのままではトゥトゥには扱えない。ひとつの装置や部品を置き換えれば、その周辺のあらゆるものに影響が出る。ときには重量バランスが変わって、機体そのものの形にも影響が出る。エトゥリオルが想像していたよりも、よほど大げさな改良になった。

 ひとつひとつの部品や装置や配置について、改良の方針を決め、アイデアを出し、検証し、ほかの要素と組み合わせてシミュレートしていく。彼が漠然と思い描いていたものと、実際の作業はずいぶん違っていた。なんというか――たとえば計算やシミュレーションはコンピュータがやるにしても、発案や検証については人間がするというぐあいに、もっと役割がわかれているものだと、エトゥリオルは勝手に思い込んでいた。

 実際にはそうではなかった。コンピュータが無数に発案し、自らそれを検討して、拠り分けた選択肢を人間に差し出す。それを人間が別の視点で検討し、戻す。エンジニアが何かを思いつけば、それを端末に入力し、コンピュータによって無数の類似パターンについて検証とシミュレーションが開始される。うまくいきそうだったら小型のモデルを作って、実験が進められる。

 そういうことの往復によって、驚くほど速やかに、多くのアイデアが試されてゆく。膨大な試行の反復と蓄積。

「本当は、小型のグライダーみたいなもののほうが、自分で空を飛ぶ感覚に、もっと近いと思ったんだが――」

 ジンがあるとき、ぽつりとそういった。端末の画面に、彼が呼びだして見せたのは、FMA202とはまるでフォルムの違う、小さくて軽そうな飛行機だった。画像で見るだけでは、それはいっそ、おもちゃのようにさえ見えた。

「こっちは地球と違って、風が強すぎる。シミュレーションはしてみたんだが、安全性を考えたら、運用は厳しい。――FMAじゃ、自分で飛んでいるという感覚は、あまり強くないかもしれないが」

 エトゥリオルは微笑んで、静かに首を振った。彼が乗りたかったのは、あの銀色の機体だ。けれどその感情は、うまく言葉にならなかった。



 小型機の操縦資格は、大型の航空機に比べれば、比較的容易に取れるらしかった。

 それでもエトゥリオルが勉強することは、山のようにあった。ただ機械を操作する方法を体で覚えればいいというのではない――万が一の機械の故障や誤動作に、パイロットは対処できなくてはならない。そのためには飛行機が空を飛ぶ仕組みを理解する必要があったし、装置や部品のひとつひとつの役割と、それが壊れたときの対処を、いちいち把握しなくてはならなかった。

 支社長は君を広告塔にしたがっているという、いつかのジンの言葉のとおり、支社としては本当なら、どんどん取材を入れて、エトゥリオルの存在をアピールしたいらしかった。

 それを、設計部のスタッフが上申して、待ったをかけてくれた。悪意による捻じ曲げられた報道はいくらでも予想されたし、周囲が落ち着かなければ、エトゥリオルの訓練にも差し支えが出てくる。

 それよりも改良設計がひと段落して、彼が完成した新型機で空を飛ぶときが来てからのほうが、宣伝効果も大きいはずだ――やや強引な説得ではあったけれど、支社長はその意見を呑んだ。定期的なプレスリリースはあったけれど、現場に記者が乗り込んでくるようなことは、ともかく差し止められた。

 計測、学習、シミュレータによる訓練、たび重なる健康診断、公的機関への許可申請。やることはいくらでもあった。改良設計そのもののプランが二年計画だったのは、考えようによっては、ちょうどよかったのかもしれない。



 春が来るころにはエトゥリオルの学習も、模擬装置を使ったシミュレーションが中心になっていた。

 よく晴れたある日の午前中、エトゥリオルはジンに連れられて、工場に向かった。よく行く、支社に隣接しているすぐそばの作業場のほうではなくて、少し離れた郊外にある、航空機専用の工場。

 大きな建物だった。中に足を踏み入れる前から、機械油のにおいがしていた。建物の中とは思えないような広大な空間を、さまざまな重機が忙しなく行き来している。

 整備場の真ん中に、銀色の飛行機が、堂々と横たわっていた。

 ぽかんと口を開けて、エトゥリオルはそれを見上げた。まだ出来上がってはいない――よく見れば、作業中の箇所を示すペイントが、いくつも目につく。

 それは飛ぶ姿から想像していたよりも、はるかに巨大な機械だった。

 ――これで、小型機なんだ。

 エトゥリオルはおそるおそる、機体に近づいた。

「触っても?」

 案内してくれていた作業員に訊くと、中年のテラ人は、にやりと笑ってうなずいた。

 促されて、エトゥリオルはそっと手を伸ばした。かぎづめの手が、機体の表面に触れて、かちりと小さく音がする。冷たく、頑丈な、鋼鉄の皮膚。

「おいおい、そんなにそろっと触らなくても大丈夫だよ。いくら君に腕力があっても、こいつを壊すのは簡単じゃないぜ」

 作業員に笑われた。エトゥリオルはきょろきょろして、それからもう一度、機体に触れる。手に返ってくる感触は、力強かった。

 これが、彼の相棒になるのだ。



   ※  ※  ※



 訓練が始まって半年が過ぎた。それは待ち遠しく、苦しくて、長いような短いような、奇妙な時間だった。

 季節は初夏を迎えていた。

 その日の朝、支社長がじきじきに設計部まで足を運んで、満面の笑みで、それを発表した。エトゥリオルの操縦許可証が、ようやく到着したのだ。

 操縦免許とは違う。免許を取るためには、これからさらに教官を隣に乗せた状態で、一定時間の操縦経験を積まなくてはならない。まずはその訓練飛行をするための、許可証だった。このあと、本物の免許を彼が手にするのは、まだまだ先のことになる。

 ただそれだけの許可が、ここまで遅くなったのにはわけがあった。マルゴ・トアフはエトゥリオルの目から見ればかなりの規模の都市だが、それでも彼ら地球人にとっては、小規模の居留地なのだ。各国の企業が身を寄せ合って、それを便宜的に国際機関の支局が統括しているという、不安定な都市。

 航空機の操縦に関する資格試験や認可の体制は、これまで、この街の中で独立して整えられてはこなかった。いまヴェド上で活躍しているパイロットはほとんど皆、地球で免許を取ってからこちらへ移住してきている。当然ながら、トゥトゥにはそのような免許制度はない。

 そのせいで、どの機関がどういう手順で許可証を発行して、それに誰が責任を負うのかということが、なかなかまとまらなかったそうだ。これ以上遅くなれば、試験飛行のスケジュール自体を、大幅に見直さなくてはならなくなるところだった。

 許可証が届いたときには、試作第一号機は、すでに完成していた。

 衛星の観測データと気象予報が念入りに何度もチェックされ、スケジュールの調整がなされた。

 エトゥリオルの初フライトは、その三日後に決まった。



  ※  ※  ※



 試験飛行場は、広かった。

 マルゴ・トアフの郊外、航空機メーカー各社の工場がずらりと並ぶその先に、その飛行場はある。

 自動車を降りて、エトゥリオルはその広々とした飛行場の、さまざまな方角に伸びた滑走路を見わたす。

 地球でならば、低空を飛ぶ航空機も多いらしいのだけれど、ヴェドではトゥトゥとの衝突が危険というので、離発着のためのごく限られたエリアの外では、一定以上の高度しか飛ぶことが許されていない。

 その離発着のための施設周辺には、かなりの範囲において、トゥトゥの飛行を禁じる区域が設定されている。間違っても彼らがうっかり飛びながら越境しないように、周辺ではアナウンスがされている。地上にも大きな目立つ標識が立っているし、ちょうどトゥトゥが飛ぶあたりの高度の前後には、うっとうしいほどの数のマーカーまで浮いている。

 ここから飛び立って、その区域のなかで決められた高度まで上がり、予定空域のフライトをこなして、戻ってくる。

 風は強すぎず、弱すぎず、一定の速度で吹いている。空は晴れ渡って、よく澄んでいた。見渡す範囲には、雲ひとつない。

「絶好のフライト日和だ」

 そういって、彼の教官はひとつ、気持ちよさそうに伸びをした。

 こういう飛行訓練のときには、訓練を実施する資格のある人間が、同乗しなくてはならないらしい。

 ヴェドに暮らすテラ人パイロットはけっこうな数がいるが、そういう指導をする資格のある人間はあまり多くなくて、だからかなり無理をいって、彼には予定を開けてもらっている。エトゥリオルが操縦免許の申請資格を獲得するまでの時間数を、これからこの人物に、助けてもらわなくてはならない。

 よろしくお願いしますといって、エトゥリオルは神妙に頭を下げた。

 通常の路線に使われている飛行場ではなく、あくまで試験用の設備だから、本物の管制はない。

 ただの小型機の操縦訓練というだけならば、本来は必要ないのだが、必然的に試作機のテストを兼ねての操縦になることから、この日は仮管制まで準備されていた。近くの建物から飛行がモニタされ、随時、無線で指示が飛んでくることになっている。

 もうじき訓練開始時刻だった。

 エトゥリオルは、飛行場の端に遠慮がちに停まっている試験機を見つめた。

 銀色の翼を輝かせて、それは、静かに出発を待っていた。

 空を仰ぐ。いつか兄の背に乗って飛んだ空を、エトゥリオルは思い出す。それから地上のごみごみした建物の隙間から、いつも見上げていた空を。

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