第9話
部屋の端末を使って、前の日の主要な報道を簡単にさらうのが、エトゥリオルの日課になっている。
空いた時間に携帯端末でチェックすることもできるが、彼にとっては目で読むよりも耳で聞く方が、情報が頭に入ってきやすい。それで目覚ましを兼ねて、決まった時間に記事を音声再生している。
あらかじめキーワードを入れておけば、関心のある事件や報道を中心に、コンピュータが勝手に記事を組んで、順番に流してくれる。以前から似たような習慣を持ってはいたけれど、マルゴ・トアフに移ってきてから、少し変化があった。
以前はトゥトゥの報道しかチェックしていなかったのが、テラ系の人々が運営している放送に重心がシフトした。それも、できるだけ選んで英語のほうを聞くようにしている。
彼らの報道はたいてい、英語と
日によって流れる分量はもちろん違うけれど、おおむね羽をつくろい終えるころには、おおよその記事の概要くらいはつかめている。
その朝、いつものようにニュースを聞き流していたエトゥリオルは、羽をつくろっていた嘴を止めて、顔をしかめた。
航空機反対派の演説だった。添えられている名前は、どこかの大学の教授だかいう、高名なトゥトゥだ。トピックの途中で音声がセルバ・ティグに切り替わったのは、本人の話をそのまま録音したデータを記事に組み込んであるからだろう。
『――航空機の利便性は、理解できないことはない。しかし利便性だけを追求することの危うさを、今一度、顧みてほしい』
すぐに止めようかとも思った。迷ったのは、飛行機を嫌う人たちの言い分も理解しなければ、それらの声に反論することさえできないという考えが、頭の隅にあったからだ。――そんな機会と勇気が、自分にあるかはわからないけれど。
『航空機だけではない。近年、テラ人よりもたらされた技術によってトラムの速度が上がり、安定性が上がった。それは一見、喜ばしいことのように思える。しかしトラムで旅をするトゥトゥが増えたことは、果たして本当に喜ぶべき事態だろうか』
論者は声高に続ける。背景に雑音が入っている。どこかで行われた講演だか講義だかの、録音なのだろう。
『使わなければ、肉体というものは衰退する――生物はそもそも環境に適応するように出来ている。極北の孤島に住む、空を飛ぶことを忘れた陸生の鳥を、メディアを通じて見たことが、誰しも一度はあるだろう。空を飛ぶだけの強い翼を失うとき、それはわれわれのアイデンティティの喪失のときでもある――』
再生を止めた。
それでも案外、自分が平静でいられることを、エトゥリオルは意外に思った。けれど、それも当然なのかもしれない。過去にこうした論調の報道を見かけたことは、一度や二度のことではない。こんなことでいちいち傷ついていては、彼のような者にはきりがない。
身支度を終えて、エトゥリオルは部屋を出る。社内で使うIDカードが、そのまま寮の部屋の鍵も兼ねている。
ふっと、予感のように思う。さっきの記事と、演説の主の名前を、そのつもりはなくても、自分は忘れられないだろう。
※ ※ ※
今日からジンが出勤する日だった。
エトゥリオルが設計部に入ったときには、ジンはすでに自分の席についていた。ほかのエンジニアから小突かれながら、詫びたり、言い返したりしている。
その表情は、思ったよりもずっと明るかった。エトゥリオルはほっとして、上司のもとに駆け寄る。
「おはようございます」
「おはよう。――先日は、すまなかった」
「いえ」
エトゥリオルは首を振って、ジンの顔をまじまじと見た。痩せたのはまだ戻りきらなくても、その表情は、普段どおりに見えた。
ためらって、エトゥリオルは言葉を飲み込む。気になることはいくつもあった。あのあとジンは、あのメールの入ったディスクをどうしただろう。姉というあのひとに、返事を送ったのだろうか。
けれど、皆の耳のあるところで話すのは憚られる気がしたし、それに、ジンの落ち着いた表情を見ていると、過剰に心配されることを、彼は望まないだろうという気がした。
「――復帰早々、いいニュースよ、ジン」
同僚のひとりが、そういいながら近づいてきた。その眼がいたずらっぽくきらきらしているのを見て、エトゥリオルは首をかしげる。
「なんだ」
「FMA202」
噛み締めるようにゆっくりといって、彼女はにっこりと笑う。「改良設計。二年計画」
わっと、周囲のエンジニアたちが湧いた。きょとんとして周りを見渡すエトゥリオルの肩を、アンドリューが小突いた。
「うちの持ってる小型貨物機だ。――新型の設計じゃないが、久しぶりに本業らしい仕事だな」
一拍おいて、ようやくエトゥリオルは理解した。飛行機の、改良。航空設計部門の本務。
盛り上がる周囲のひとびとを見ていても、すぐには実感がわかなかった。エトゥリオルは羽毛を膨らませたまま、まばたきを繰り返す。
――僕にもなにか、手伝わせてもらえるんだろうか?
その考えがようやく頭に下りてきたのは、けっこうな時間が経ってからだ。
エトゥリオルはどきどきする胸を押さえて、自分に言い聞かせた。まだわからない。なんせ自分はまだまだ下っ端だし、全員がその仕事にかかりきりになるとも限らない。なんせいま回ってきているような、飛行機本体ではない設備の一部だったり、そのほかのこまごました設計の仕事だって、なくなるわけじゃないのだ。
だけど、ほんのちょっとくらいは、なにかさせてもらえるかもしれない。どきどきする胸を押さえて、エトゥリオルは思う。雑用でもいい。飛行機に、関わりたい。
エトゥリオルはとっさに、ジンのほうを振り返った。
どういうわけか、ジンはやけに浮かないような顔をしていた。
※ ※ ※
ジンは顔をしかめて、端末とにらみ合っていた。画面に表示されているのは、航空機反対派の抗議文だ。会社から業務として回覧されてきたものではなくて、報道で流れたものだった。
改良設計が決まって、一週間が経とうとしていた。
昨夜、改良設計のチーム編成について、支社長からわざわざじきじきに呼びだされて、打診を受けていた。その場には設計部の部長も同席していた。上意下達でないのは、職場環境としてはまあ喜ばしいことかもしれないが、判断を任されたジンは、迷っていた。
一晩が明けても、どう返答するか、決めかねていた。そこに視界に飛び込んできた記事だった。
「いやあ、参ったよ」
アンドリューが頭をかいて、隣の席にどさりと荷物を置くのに、ジンは視線だけで振り返った。件の機体が運用される予定の空港を四か所、三日かけて回ってきたはずだった。滑走路や整備場の状況を見て、操縦士や空港従業員、現地の整備士たちの意見を吸い上げるのが目的だ。
「どうだった」
「いや、まあ、空港のほうはな。路面の状態なんかでいくつか気になることはあるけど、大きい問題はなさそうだ。それよりさ、飯がまずいのなんのって」
「――現地の店で食ったのか」
「そそ。最近、空港近くのちょっといい店だと、地球人でも食べられるメニューには、マークがついてるんだぜ」
いって、アンドリューはわざわざそのマークを、端末のディスプレイに呼び出して見せる。「これこれ。――でもなあ、味はなあ。結局途中からは、持って行った携帯食だよ」
ひとしきり食事の愚痴をこぼしたあとで、アンドリューはそのままのトーンで、急に話を変えた。
「それと向こうで、反対派のトゥトゥに絡まれた」
「――大丈夫だったのか」
とっさにジンは体ごと振り向いた。アンドリューはいつものとおりへらへらしていて、特に怪我をしている様子はない。
「や、こっちの連中のほうがそのへん紳士的っつうか、理性的っつうかなあ。いきなりキレて掴みかかってくるような連中はさ、地球に比べたら、やっぱり少ないよ」
アンドリューは苦笑する。「けどやっぱり、気分的には参るよな。わざわざ空港の前に座り込んでるんだぜ。そんなに嫌いかね、ヒコーキが」
アンドリューは頬を掻いて、付け足す。「――違うな。俺らが、かな」
ジンは端末の記事に視線を戻した。そうかもしれない。トゥトゥたちは技術にではなく、それを押し付けてくる
ジンはいっとき渋面で考えていたが、やがて目頭を揉んで、記事を閉じた。
※ ※ ※
「リオ、ちょっと話がある」
ジンに手招きされたエトゥリオルは、首をかしげながらデスクを離れて、打ち合わせ用のブースに移動した。
普段のちょっとしたミーティングや指示なら、デスクで済ませてしまう。わざわざ席を離れるということは、なにか込み入った話だろうかと、エトゥリオルは考えた。
知らないうちに、なにか自分は失敗をしただろうか――エトゥリオルがつい不安になったのは、ジンの表情が険しかったからだ。
「すまないが」
ジンはそんなふうに切り出した。「FMA202の改良設計のプランから、君は、外れることになった」
エトゥリオルは二度瞬きをして、それからああ、とためいきを落とした。
正直にいって、かなり落胆した。大きな仕事を任せてもらえるとは、自分でも思っていなかった。それでも、ほんのちょっとした雑用でもよかったのだ――飛行機に関われるかもしれないというだけで、胸がわくわくした。
だけど、話はそう簡単ではないらしい。
しかたがないと、エトゥリオルは思おうとした。航空機を動かすためのしくみというのが、一般の機械類にくらべてとんでもなく複雑だというのは理解していたし、ちょっとの間違いが人命に関わる性質のものでもある。自分はまだ半人前なのだし――
そこまで考えて、顔を上げた。
何に違和感を覚えたのか、エトゥリオルは自分で、すぐにはわからなかった。一拍遅れて、気付いた。外れることになったと、ジンはいった。
それではなんだかまるで、もともと入ることになっていたかのような言い回しではないか。それとも、単なる言葉尻の問題だろうか? エトゥリオルは瞬きをする。
ジンはかすかに目を伏せて、話を続けた。
「もともと、全員が今回のプランに関わるわけじゃないんだ。FMA202の原型は、ほかの航空会社も共同で開発した機体だから、よそのエンジニアとも一緒にチームを組むことになるし――」
ジンはこんなに多弁だっただろうか?
エトゥリオルは顔を上げて、じっとジンの顔を見た。一言、君はまだ経験が浅いからといえば、それだけで済むことだ。
「いま抱えているような、ほかの細々した業務だって、誰かがやらないといけないわけだし……いや」
ジンは唐突に言葉を切って、がりがりと頭を掻いた。
ひどい渋面だった。
目を丸くするエトゥリオルと視線を合わせて、ジンはひと呼吸おいた。それから、いった。
「――正直にいう。俺の判断だ。支社長は君をチームに入れたがってる」
エトゥリオルはいっぺんに羽を逆立てた。
「それなら、どうして――」
「支社としては、君を広告塔にしたいんだ。俺は、それが気に食わない」
エトゥリオルはぽかんとした。
いわれていることの意味が、すぐには飲み込めなかった。広告塔――宣伝? 自分が航空機の設計にかかわることが?
「近ごろ、反対派の報道が続いただろう。航空技術を、地球人が強引にトゥトゥに売りつけているっていうようなイメージを、O&Wとしては、払拭したいんだ。それには君の存在がアピールになると、支社長は思っている」
ジンのいう話が頭にしみわたるのに、少し時間がかかった。渋面のまま、ジンはいう。「トゥトゥ自身が航空機を歓迎しているという絵を作りたいんだ。――引き受ければ、おそらく取材も来るだろう」
「かまいません」
エトゥリオルは反射的に声を上げていた。
本気だった。いまさらトゥトゥの報道に、どう記事を書かれたって、気にしないと思った。どうせ自分はトゥトゥとしては――
ジンがいった。「メディアに姿を出せば、バッシングの矛先が君にまで向かう」
反対派からしてみたら、エトゥリオルの姿は裏切り者のように映るだろうというようなことを、彼らしくない婉曲な言い回しで、ジンはいった。
「君が、同胞から不要の敵意を向けられるところを、俺は見たくない」
エトゥリオルは息を吸い込んだ。
ジンは渋面のまま、まっすぐにエトゥリオルの顔を見ている。視線をそらして、エトゥリオルは細く、震える息を吐いた。
もし、自分がまだ半人前だから、とても機体には触らせられないといわれたのだったら――それならきっと、諦めがついた。またいつか機会があるかもしれないと、次を待つ気になれただろう。
僕が、トゥトゥだから。
「トゥトゥが――」
エトゥリオルは口を開いた。それは、自分でもはっきりわかるくらい、ひどくひきつれた声になった。
ジンが眉を上げて、何かをいいかけた。それを遮って、エトゥリオルは続ける。
「彼らが飛べないやつはトゥトゥじゃないといって、あなた方が僕はトゥトゥだからというなら――僕はいったい、どこにいけばいいんです」
いい終える前に、自分で耐えられなくなった。エトゥリオルは椅子を蹴立てて、駆けだした。
「リオ!」
ジンが追いかけてくるのも、驚いたほかのスタッフが声をかけてくるのも、全て振りきって、エトゥリオルは走った。
廊下を駆け抜ける。目を丸くして通りかかる社員が振りむくのがわかった。
戻れ――まだ仕事中だ――そう忠告する自分の声も振りきるように、エトゥリオルは走り続けて、社屋を飛びだした。
職場放棄はテラの社会では、どれくらい重い違反だろう?
そんなことを冷静に考える自分が胸のどこかにいて、エトゥリオルは走りながら、ひとりで笑った。
土ぼこりの舞わないマルゴ・トアフの歩道を、エトゥリオルは駆ける。いくあてはなかった――誰も知り合いのいないところがいい。
吸い込む風が、冷たい。それなのに体の中はひどく熱かった。
知らない路地に飛び込んで、何事かと驚く人々を避けながら、エトゥリオルはけっこうな距離を走った。
気付いたときには、湖が目の前に開けていた。
立ち止まって、エトゥリオルはとっさに、水面に見とれる。当たり前だけれどまだ太陽は高くて、風に細波だつ湖面が、銀の粒を捲いたように輝いている。広い――遠い対岸には、豊かな森が広がっている。
こんなに大きな湖が、すぐ近くにあったなんて、これまでちっとも知らなかった。
マルゴ・トアフという都市の名前を、エトゥリオルは思う。古い言葉で、水の町という意味だ。この湖が、由来になっているのだろう。空を飛ぶトゥトゥたちからすれば、一目瞭然に違いなかった。
端末に連絡が入ったことを知らせる音がして、エトゥリオルはびくっとした。ポシェットからとっさに掴みだして、反射的に受信機能をオフにする。切った瞬間にはもうそのことを後悔していたけれど、もう一度、スイッチを入れる勇気は出なかった。
強い風が吹いて、対岸の森がざわめく。
湖畔には、ちらほらとトゥトゥやテラ人の姿があった。観光だろうか、この町で働く人々が、ちょっと休憩に来ているのだろうか。
水辺にふらふらと近づいて、エトゥリオルはそこに移る自分の顔を見た。そこにいるのは、痩せっぽちで、子どもじみた顔をした、ひとりのトゥトゥだった。
僕はほんとうに、まだ子どもなのかもしれないと、エトゥリオルは思った。オーリォを済ませていないというのは、ただ伝統と形式の問題ではなくて、自分の翼で空を飛んで北の地を目指さないかぎり、トゥトゥは言葉通りの意味で、精神的にも肉体的にも、大人になれないのかもしれない。
水鏡の中で歪む自分の嘴を、羽毛を、エトゥリオルは見つめる。
ジンに当たってしまったあとで、エトゥリオルははじめて、自分の気持ちに気付いた。
彼は、テラ人になりたかったのだ。
サミュエルやジンやハーヴェイや、借りた地球の本の中に出てくる登場人物たち――エトゥリオルは、彼らになりたかった。
それが馬鹿げたことだというのは、誰にいわれなくても、自分でわかる。彼は、トゥトゥだ。どんなに半人前で、子どもじみていて、ほかのトゥトゥに仲間と認めてもらえなくても、それでも動かしようもなく、エトゥリオルはトゥトゥなのだった。
また風が吹きつけて、湖面が乱れる。葉擦れの音が轟々と唸りを上げて、鳥たちが舞い上がる。
銀色の光の乱舞する湖畔で、エトゥリオルは泣いた。人目を気にする余裕もなく、みっともなく声を上げて、子どものように泣いた。
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