第3話【3】北野殺人事件

「安吾先輩、ちょっと冗談が過ぎやしませんか」


 桜花堂学園高等部一年、風紀委員(仮採用期間中)の鳥羽華子は、赤いトマトソースを頭にベッタリと塗りたくった安吾を強く責め立てた。


 どういう理由だか、旧校舎校長室で倒れていた安吾。


 それが全て演技だったと知り、今まさに華子は腹を立てているところなのである。


「もしも私が警察に通報していたなら、もっと大事になっていたんですよ」


 しかし安吾は、華子の言うことに耳を貸すつもりがないらしい。まったく動じることなく自分の携帯電話を開き、それを操作しているだけだった。


「ちゃんと聞いてくださいッ!」


 華子がヒステリックに叫ぶと同時だった。安吾は携帯電話のディスプレイをこちらに向け、そこに表示された一件の受信メールを華子に見せつけた。


 差出人の名を示す場所には『北野』とある。


 華子と安吾の共通の知り合いで北野となれば、桜花堂学園の英語教師である北野しか思いつかない。つい先日、学校を転校していった生徒からの手紙を、北野の依頼で解読したばかりだ。


 ところが本文といえば数字が並んでいるだけの簡素なものだった。タイトルにしても、無記入の際に自動挿入される『無題』となったままだった。


  ―――――――――――――――


55555 5 6666 5 55


  ―――――――――――――――


「また暗号解読の依頼ですか?」


 そのディスプレイに顔を近寄らせながら、華子はいぶかしげに尋ねる。しかし安吾は首を横に振った。あまり勢いよく振ると、トマトソースが飛び散るのでヤメて欲しい。


「厳密に言えば、依頼ではない」


「依頼ではない? だとすればイタズラにしか見えないんですけど」


「ダイイング・メッセージ」


「…………は?」


 いい加減にしてくれ。先ほど実体験したばかりの言葉が、またしても目の前にぶら下げられる。ましてや理科室で人体模型の背中にあった暗号を、一瞬でもダイイング・メッセージではないかと疑った自分を思い出して、恥ずかしくなってしまう。


 安吾は自分のことをからかって、バカにしているんじゃないかと疑った。しかしそれは華子の被害妄想に過ぎなかったらしい。


「職員室で北野が何者かに襲われたらしい」


「ええッ」


 衝撃的真相。


「この時刻はおそらく事件直後」


 安吾はメールの受信時刻を指し示して言う。今朝の六時台。まだ華子がベッドの上で、憧れの人とお花畑の中を追い駆けっこする夢を見ていた時刻だ。


「これは犯人を特定する重要な手掛かり。ダイイング・メッセージだ」


「何か平然と言っていますけど、その前に北野先生は……?」


 華子は心配した。「死にゆく間際ダイイング」と冠せられるからには、行き着く先は「ダイ」である。


「そのことなら、そろそろ連絡が来ると思うのだが」


 安吾は壁に掛けられた時計ではなく、入り口の扉に目を向けた。


 それに釣られて華子までが視線を向けた丁度その時、校長室の扉が勢いよく開け放たれる。まるで安吾がタイミングを合図したかのような登場。そこに立っていたのは華子が尊敬してやまない風紀委員のトップ。彼こそが伏見小太郎委員長だった。


 華子は今朝方の夢を思い出して、頬を赤らめる。


「病院から連絡が入ったよ」


 伏見は口を開くなり言った。明らかに会話の冒頭部分ではない。前置きが端折られている。事前に北野先生の事件について情報を共有していたということだ。


「多少の傷は残る可能性もあるそうだけど、今のところ命に別状はないって。意識も取り戻したらしい」


 不幸中の幸い。良かった。


「なら今回、俺の出番はナシだな」


 安吾は伏見の報告にそう答えた。ダイイング・メッセージとは、死人が口を利けないからこそ第三者が解読する必要があるわけで、メッセージを残した本人が生きているなら、その本人から真相を聞いてしまえば良いだけだ。発信者ではなく暗号のほうが死んでしまった、死語ならぬ「死暗号デッド・メッセージ」。


 ところが……、


「ただひとつ問題があるんだ」


 伏見は言い出しにくそうに切り出した。


 伏見の抱えている問題なら、たとえ「誰かが北極点まで行って、カキ氷を作らなきゃならない」という内容だとしても、華子は成し遂げる覚悟がある。


「それは何ですか?」


 華子は安吾を押し退けて尋ねた。


「頭に強い衝撃を受けたせいで、襲われた前後の記憶が失われているそうだ。だから犯人が誰なのか、未だ特定はできていないと聞いた」


「襲われた前後? つまりメールについても覚えていないということか」


 安吾は真っ先にメールのことを口にした。よほど気にかかっている様子だ。


「ああ、その件も確認した。北野先生は覚えていないらしい」


「確かな情報か?」


「病院に付き添っている教頭先生からだ。多分、間違いないと思う」


 蚊帳の外に立たされていた華子が事件について教えを乞うと、伏見は現段階で分かっていることをまとめてくれた。


     ☆


 事件が起きたのは今日の早朝。


 まだ陽が昇ったばかりで、普段なら学園内に誰も姿を見せないような時間帯だったと推測されている。


 現場は十三号館にある教職員室。桜花堂学園にいくつか分在する教職員室の中でも、主に高等部の担任や教科担当する教職員たちがデスクを並べている場所だ。


 目を覚ましたばかりの北野自身の証言によると、間もなく行われる定期試験の問題作成のために昨夜から徹夜で作業していたとのこと。このことは夜間見回りの警備員も承知しており、深夜に二人は会話を交わしているので間違いないと思われる。


 その教職員室の入口付近で、後頭部から血を流して倒れている北野を発見したのは、最初に出勤してきた同僚教師だった。


 彼はテニス部の顧問をしており、部員たちが朝練を行うため、その準備に他の教師たちより早い時刻に出勤してくるのが常である。


 もしも彼が、たとえば寝坊だとか、通勤電車の遅延だとか、何らかの理由で普段通りの時刻に教職員室に顔を出していなければ、北野の発見はもっと遅れていたことになり、処置が間に合わず最悪の状況を迎えていたことも十分に考えられる。


 ひとまずは病院で意識を取り戻した北野に、関係者一同、胸を撫で下ろしているといったところだ。


 しかし簡単に安堵するわけにもいかないのも実情。


 頭の傷と状況から考えて、北野は誰かに背後から襲われた可能性が濃厚だからである。それに加えて安吾に送られてきた謎のメール。


 これは事故ではない。事件なのである。


 ただし不祥事を恐れる桜花堂学園としては、できることなら穏便に処理したいと考えている。


 そのためには学園独自で真相を解明した上、速やかに犯人を特定しなければいけない。そして犯行可能だったという観点から、絞り込まれた容疑者は二人。


●一人目は第一発見者である同僚教師、麻生啓太あそう けいた


●二人目は高等部の生徒、植松周平うえまつ しゅうへい


 第一発見者として人命救助に尽力した麻生啓太としては、容疑者として名前を挙げられることに納得できないことだろうが、あくまでも犯行が可能だったかどうかという点から考えると、彼の名前を外す決定的理由は見つからなかった。


 そしてもう一人、植松周平が容疑者として名前が挙がったのは、麻生啓太が北野を発見する直前、教職員室から走り去っていく植松の姿を目撃したと証言しているからである。


 またこの証言について麻生啓太は、「絶対に見間違いはありえない」とも付け加えている。


 一方、植松周平はそれを受けて「自分はそんな時刻に教職員室を訪れた覚えはない」と強く否定している。「職員室前の廊下ですら、今日はまだ一度も通っていない」とも証言している。


 ただし、その時刻に植松周平が学園の敷地内にいたことは、正門脇にある守衛室担当の警備員が目撃している上、本人もそれを認めている。しかし彼は麻生啓太が北野を発見した時刻、自身のクラスの教室で勉強していたのだそうだ。


 少し不自然に思える植松周平の行動だが、三人兄弟の長男で自分専用の部屋を持っていない彼は、自宅での受験勉強に不便を感じて教室を利用することが、今までにも何度かあったらしい。早朝は集中力が高い貴重な時間帯であるにもかかわらず、図書館など外部の一般施設は開いていない。


 ちなみに植松周平は、偶然にも伏見や安吾と同じクラスに在籍しており、過去にも彼が早朝登校していることについては、伏見も知っていることだった。


 つまり真っ向から対立する二人の証言。少なくとも「植松周平が職員室を訪れたかどうか」の観点において、どちらか一人が嘘を吐いていることは明白である。


 麻生啓太の証言が真実ならば、植松周平の犯行である可能性が濃厚となる。もちろん真犯人である麻生啓太が他人に罪を被せようと、嘘の証言をしているとも考えられる。そのため片方の証言を鵜呑みにするわけにはいかず、犯人を特定できずにいるわけだった。


 そして目を覚ました北野の記憶が当てにならない以上、残す手掛かりは安吾の携帯電話に送られたダイイング・メッセージのみということになる。


 以上が今現在の状況である。


     ☆


「これで俺が死体になりきっていた理由が分かっただろう」


 旧校舎校長室で死体のフリをして倒れていた安吾は、タオルで頭のトマトソースを拭き取りながら、自分の奇怪な行動について華子に釈明する。しかし華子に分かるはずがない。


「分かりません。そんな変態プレイ」


「最近ちょっとハマってきたくせに」


「ハマっていません」


 安吾と華子の掛け合いに、伏見は居たたまれなくなって視線を外した。


「暗号を解くために必要な最大のポイントは、暗号を残した人物の気持ちになってみることだ。しかし今回、どうしても腑に落ちない点があった。だから俺はダイイング・メッセージを残す人間の立場になってみたというわけだ」


「へえ、安吾先輩にでも、簡単に解けない暗号があったんですね」


 何事にも完璧はない。こんな状況で不謹慎なことだけども、安吾に親近感を抱き、それが安堵感に結びつく。しかしそれは華子の早とちり。


「いや……暗号はすぐに解けたさ。このメールは容疑者のうち、一人の名前を表している」


 強がりで言っているふうでもない。本当に安吾は、北野から届いたメッセージの解読を済ましている様子だった。


「本当か、安吾。だとしたら風紀委員から正式に依頼する。その答えを教えてくれ」


 伏見は安吾に詰め寄った。安吾がすでに答えを導き出しているなら、当然、その答えを知りたい。でも、だからといって簡単に納得できないのは、隣で聞いていた華子だ。


「伏見先輩は、学内での金銭取引には反対だったのではないのですか?」


 今回だけは特別に……なんて話はムシが良すぎる。癒着だ。伏見が安吾のことをファーストネームで名前を呼んだことも、その気持ちに拍車をかける。


 過去には華子も安吾に依頼料を支払ったことがあるが、それはあくまでも個人としてのことに過ぎない。


 しかし風紀委員や学園が暗号屋を利用するという行為は、今後、安吾が学内で商売することを容認するということにつながる。暗号屋は正式に存在を認められてしまうのだ。


「考えたくはないが、植松くんが犯人である可能性もある。もしそうだとすれば、目的はおそらく北野先生が作成中だった試験問題。風紀を守る立場として、このまま黙って指を咥えているわけにはいかない。その反対に植松くんが犯人でないとすれば、今の彼を救えるのは安吾だけなんだ」


 伏見の口調から、真の趣きは後半にあることは明らかだった。伏見は同級生である植松を助けたいと願っていた。


「それは分かっています。それでも信念を曲げてまで……ふごぉ」


 感情的になった華子の顔面を、安吾は大きな手で押さえつけた。口が塞がれ、言葉を続けられなくなる。そして息まで苦しくなる。


「ハナが出しゃばると、話がややこしくなる。俺は立場だとか、信念だとかに興味はない。そこに暗号があるなら解けば良いだけだ」


 そう言うと安吾は、手足をバタつかせていた華子を解放し、ホワイトボードの前へ移動した。メールの内容をそこに書き出す。華子にはもう口を出せない状況と雰囲気。


「これは携帯電話で打たれたメールであるというのがポイントだ。ちなみに北野の使用機種はえげつなく古い。フリック操作とは無縁だと考えてくれ」


 北野が暗号解読を依頼した際、華子も北野の携帯電話を見た。タッチパネルではなく、キーを押下して操作するタイプの携帯電話だった。


「まずは文字変換キーを使わず、この数字が示す通り、そのまま何も考えずに自分の携帯電話でキーを押してみれば良い。ちなみにスペース部分はだ」


 携帯電話でメールを打つ場合、どの会社の電話端末であっても、シフトキー押下や、タブ操作で文字種を選択することができる。これを初期状態のままで操作すると、メール本文には平仮名が打ち込まれるわけだ。


 華子と伏見は、それぞれ自分の携帯電話でメール機能を呼び出し、安吾に言われた通りに数字テンキーを押した。フリック機能を遮断することも忘れない。


  ―――――――――――――――


5555 5 6666 5 55

   の な    へ な  に


  ―――――――――――――――


「……のなへなに?」


 画面に現れた平仮名は、意味があるとは思えない言葉だった。


 華子は今までの経験から、それを他の文字に変換できないか考えてみる。


  ―――――――――――――――


nonahenani


  ―――――――――――――――


 とりあえずローマ字に変換。このままではどうにもなりそうにないので、反対から読んでみる。


「いなねはのん……稲根羽音いなね はのん?」


 誰だ、それは。新しい登場人物か? やはりこれも意味が通じない。犯人の名前はまだまだ遠いらしい。


 華子の推理が停滞しても、それでも安吾の解説は先へ進んでいく。


「それがもしもシフトキーの操作ミスで、メールを打った本人は文字種選択を『半角カナ』に設定していたつもりだったとしたら?」


 華子が使っている携帯電話だと、タブ操作で目当ての文字種に一発変換できる。しかし北野の携帯電話だと、左のシフトキーを一回押せば『かな』入力から『半角カナ』入力へと移行。そして繰り返し押すと『半角英』、『半角数字』となり、その次は元の『かな』へと戻る。安吾の仮定は、この操作をミスした場合の話だ。


 ホワイトボードには横書きで「ノナヘナニ」。


 しかも安吾は『カナ』ではなく、わざわざ『半角カナ』と限定した。つまりそれは――、


「もしかして、ギャル文字ですか?」


「ギャル……文字?」


 伏見が首を傾げた。


「別の文字や記号を使って、メールの文章を打ち込むことです」


 華子は伏見に説明した。特に『半角カナ』にこだわる必要はないけども、二文字を一つの文字と見立てて読むのが基本になっている。たとえば『ナ』と『ょ』を組み合わせて、『ナょ』を『な』と読ませるとか。


「暗号にも似ているが、本来の意味からすれば似て非なるものだな。画面を少し離すとか、目を細めてみるとかすれば、知識がなくとも簡単に読める」


 安吾はギャル文字を小馬鹿にするような言い方で、華子の説明を補足した。


「ほら、これを良く見てみろ。『ノ』と『ナ』を組み合わせて『け』。『ナ』と『ニ』を合わせて『た』と読ませる」


「だったら、その間にある『ヘ』は?」


 ギャル文字初対面の伏見は、まだコツがつかめずにいた。


「音を伸ばす『~』だろうな」


  ―――――――――――――――


  ノナヘナニ

   ↓

  ノナ ヘ ナニ

   ↓

  け~た

   ↓

  啓太


  ―――――――――――――――


「け~た……けいた。つまり犯人は麻生啓太。麻生先生ということか」


 ついに暗号が示し出したその名前を、伏見は叫んだ。


 第一発見者である同僚教師、麻生啓太。その動機はさて置き、教職員室で作業中だった北野を背後から襲った麻生啓太は、偶然にも最初に発見したような顔をして、救助を求めに外へ出たのだろう。


 彼の犯した最大のミスは、すでに北野が事切れていると、確認もせずに判断してしまったこと。だからこそ救助連絡が間に合ってしまったわけであり、まだ意識のあった北野が、その隙をついて安吾にメールを送ることができたのだろう。


 自分の知っている教師が事件を起こしたことはショッキングなことだが、それでも同級生が犯人であった場合と比べれば衝撃は小さい。伏見の表情からは驚愕と安堵、複雑に入り混じった感情が読み取れた。


 しかし……、


「慌てるな。俺が気になっているのは、実にそこなんだ」


「最初に安吾先輩の言っていた、腑に落ちない点があるって話ですね。だけど一体、どこが気に入らないって言うんですか? 完璧な解読だったじゃないですか」


 悔しいが、安吾の解読に間違いがあるとは思えなかった。ケチの付けどころもない。風紀委員からの依頼を無事に完遂。


 これで「宇徳安吾を旧校舎から立ち退かせる」という華子の仕事は果たせなくなった。同時にそれは、華子の風紀委員正式採用が遠のいたということでもある。


「暗号の解読はこれで合っている。しかし実際に自分がダイイング・メッセージを残す立場になって分かったことは……」


「分かったことは?」


 華子は投げやりに聞く。


「非常に面倒臭いということだ」


 安吾は大まじめな顔で言った。しかし華子には冗談にしか聞こえない。八つ当たりみたいなものだが、軽い怒りが込み上げた。


「何ですか、それは? フザけてます?」


「いや、鳥羽さん。これは意外と重要なことかも」


 意外にも安吾の肩を持つ伏見。二対一で少数派閥に属する華子は、急に肩身が狭くなった。


「そうか、小太郎は気がついたか。さすがだな」


「もったいぶらず、私にも教えて下さいよ」


「ハナが突然、後ろから襲われたと考えてみろ」


「私が……突然、後ろから?」


 言われた通り、頭の中に思い浮かべる。背後に人の気配。背中から腕を回され、ギュッと強く抱きしめられる。


「いやん、伏見先輩のエッチ」


「鳥羽さん、その想像はちょっと違う」


 伏見が照れながら注意を促す。


「はッ、すみません。今のは忘れてください」


 もう一度、仕切り直し。背後に人の気配。ハッと振り返ると野球のバットを振りかぶった安吾。冷たい目で華子を見ながら口元を歪ませた。


「安吾先輩の人殺しッ」


「今度は何を想像した?」


 安吾のツッコミ。想像の中と同じ冷たい目だった。


「いえ……お気になさらず、続きをどうぞ」


 誤魔化す華子。安吾は説明を再開した。


「頭を殴られてから脳に衝撃が伝わって気を失うまでに、多少の時間があったとしよう。それで、その間に何ができる?」


「北野先生は、その間にメールを打ったんですよね。それぐらいなら……助けを呼ぼうと必死だったと思いますし」


「たとえ知人宛てにメールを打つ時間と余力があったとしても、わざわざ暗号を組み立てる余裕なんてあると思うか?」


「……ッ!」


 そんな余裕はどこにもない。華子なら誰かに報せるという発想が、まず出てこないと思う。


「そもそも推理小説の中でダイイング・メッセージが利用されるのは、第三者に犯人の名前を報せようとしていることを、犯人に悟られないようにするという目的がある。中にはメッセージの存在自体が、気づきにくいように仕掛けられている物だって珍しくはない」


 安吾はダイイング・メッセージにおける大前提と意義を説く。


「だって、もしも犯人が戻ってきたら大変です。メッセージに気がつかれたりでもしたら、別人の名前に書き換えられちゃうじゃないですか」


 推理小説の王道パターンを取り上げる華子。犯人の手ではなくても、時間の経過によって変形するパターンも存在する。


「ところが今回の場合、まったくその理由が該当しない。メールは送信さえしてしまえば、たとえ犯人に気づかれたって削除したり書き換えたりされる心配は無用。いくら手元のメールを操作しても、相手先のメールは書き換えられないからな」


「……あ、そうでした」


「だから素直に、そのまま犯人の名前を書き込めば良いだけだったんだ」


 安吾の実験で使用した暗号は、前もって四冊の本を用意する必要があった。襲われた後に、被害者自身が図書室まで行って用意するのは絶対に無理だ。


 被害者自身には無理。だったら別の人物、たとえば犯人には可能だったということ。事前に偽装工作の準備だってできるし、場合によっては犯行後でも時間を使える。


「だとすれば北野先生の携帯電話を使って安吾先輩にメールを送信したのは……」


「自分以外の人物を犯人に仕立て上げようとした真犯人が、北野の携帯を使って俺にメールを寄越した。そう考えると最も辻褄が合う。容疑者が二人で、その片方が犯人に仕立て上げられたとすれば?」


「残された答えはひとつです」


 真犯人の目的が最初から北野を殺すことだったならともかく、事件が発覚すれば当然ながら試験問題は差し替えられて、データを盗む意味がなくなってしまう。


 大方、真犯人である植松周平の当初の計画では、早朝の誰もいない職員室を狙っていたのだろう。


 そこを運悪く北野に見つかってしまった。


 そして逃げようとした時に押し退けたかして、その勢いで北野は壁に頭をぶつけて気絶。植松周平は北野を殺してしまったのではないかと勘違いして、メールの細工をした。


 普段からよく早朝に登校していた植松周平なら、麻生啓太が他の教師より早く出勤することを知っていたとしても不思議じゃない。咄嗟に罪を押しつけることを考えたのだろう。


 後半部分にはかなり想像が含まれているが、そんなところが真相だと、華子は思う。


「何より北野先生が、ギャル文字を使うなんて到底考えられません」


 ようやく真犯人が誰なのかに気がついた華子は、まるで自分が言い当てたような顔で伏見に視線を送った。


「ありがとう。すぐに対処しよう」


 その時、伏見の携帯電話が鳴った。表示されている番号を見た伏見は、二人に「病院にいる教頭先生だ」と告げてから電話に出た。


「……え、そうなんですか?」


 詳しい会話の内容までは聞き取れない。が、予期していなかったことが起きたことだけは想像がついた。いくつかの会話を交わしてから電話を切り、伏見は華子たちに報告する。


「北野先生、記憶があやふやながらも『きっと睡眠不足の不注意から転んでしまって、壁に頭をぶつけたのだろう』って言っているそうだ。事件性はないようだから、このまま学園の中だけで処理するという話になっている。僕が今から病院へ出向いて、ここで解明できたことを全部説明して来ようと思う」


「やめておけ」


 安吾は部屋を出て行こうとする伏見を呼び止めた。


「相変わらずのクソ真面目だな」


「どうして止めるんだ。これは犯罪なんだぞ」


「あの先生のことだ。本当は犯人の顔を覚えていたとしても『記憶がない』と嘘を答えるだろうし、深く追及されたなら『自分で転んだ』ことにするだろう。特に可愛い生徒を売るような真似はできないはずだ」


「…………?」


「俺だって罪を隠すことが良いことだとは思わない。しかし被害者である北野自身が記憶喪失の真似までして庇っているんだ。……つまりアレだ。俺が言いたいのは、北野の気持ちを少しぐらいは汲んでやっても良いんじゃないのかってことだ」


「それもそうだね」


 少し考えた後、伏見は表情を和らげて答えた。今日初めて見る彼の笑顔。


「しかし暗号を解読したのは間違いない。約束の依頼料は、ちゃんと払ってもらうぞ」


「いいや、やっぱり金銭のやり取りは良くないと思う」


 伏見は笑顔のまま、平然と支払いを拒否した。


「オイオイ、天下の風紀委員長様が人をダマして、詐欺まがいのことをして良いのかよ」


「代わりに……そうだな、鳥羽さん」


「私ですか?」


 急に名前を呼ばれて、華子は威を正した。背筋がピンと張る。


「桜花堂学園高等部一年生、鳥羽華子さん。貴方を正式に我が風紀委員の一員として迎え入れます」


「や……やった!」


 思わぬ急展開。華子は飛び上がって喜んだ。しかし伏見からの辞令は続く。


「そして風紀委員から出向という形で、暗号屋の助手として働くことを命じます。もちろん宇徳安吾の行動が常識の範囲から逸脱しないよう、常に近くから監視する役目であることも忘れないようお願いします」


「へ……」


 華子はバンザイをしたまま、呆気に取られた。


「そりゃあイイ。たった千円で雑用係の丁稚小僧を手に入れたと考えれば、悪くない買い物だ。その提案、喜んで受け入れよう」


 こうして桜花堂学園高等部一年、鳥羽華子は、 風紀委員(仮採用期間中)から、晴れて風紀委員(暗号屋出向中)へと肩書きを変えたのだった。

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