第3話【2】安吾殺人事件
「安吾先輩、大変です!」
桜花堂学園高等部一年、風紀委員(仮採用期間中)の鳥羽華子が、勢いよく旧校舎校長室の扉を開くと、そこにいつもあるはずの姿がなかった。
財布のお金に然り、自宅の家具に然り、冷蔵庫のプリンに然り。あるはずだと思って疑いもしなかった物が消えていた時、人は虚を突かれたように硬直してしまう。
ちゃんと授業には出ているのだろうかと、こちらが無用な心配をしてしまうほど、華子が顔を出した時には必ず旧校舎の校長室にいた安吾。大抵は応接セットのソファーに寝転び、本を読んでいたように思える。
ここ数日は華子が放課後に校長室へ行くと、まず安吾に珈琲を淹れさせられ、ついでに自分が飲むためにカフェオレ(断じて珈琲牛乳ではない)も一緒に作る。それから旧校舎からの退去勧告をした後、決まって上手くはぐらかされ、そして最後に使ったカップを洗ってから家に帰る。そんなことの繰り返しだった。
校長室にある小型冷蔵庫の中には、いつの間にか華子のために一リットルサイズの牛乳パックが常備されている始末。
ところが今日は少々、勝手が違う。
不審に思いながら部屋に足を踏み入れた華子は、その場で凍りついた。
そして数秒後、状況を飲み込んだ華子が最初に行ったのは……
「ぎょえええッッッ」
腹の底から奇声を上げることだった。
しかしそれも無理はない。入口の位置からはソファーの陰になって見えなかったが、目の前の床には、うつ伏せに倒れた部屋の主……安吾の姿があったのだから。
横たわる安吾の後頭部右側はベッタリと濡れている。おそらくは安吾自身の血だ。ただならぬ状況にあることは、一見しただけで容易に分かる。
絶叫と共に肺から全ての空気を吐き出した後、そのまま今度は息を吸い込む作業を忘れていた華子は「うぐッ」と息苦しくなって我に返った。
そうしてから震える足を懸命に前へ進ませる。
「あ……安吾先輩?」
ピクリとも動かない安吾。名前を呼んでも反応はない。
そして注目すべきは、その右手指先にあった。
きっと後頭部から流れ出た自らの血を使用したのだろう。床に赤い文字が書き残されていた。俗に
これぞ暗号の中の暗号。いわば
暗号界において、決してこれを避けて通ることは許されない。すべてのアンゴニストから垂涎の的だと、安吾先輩から散々聞かされ続けていた究極設定である。
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92‐16‐08
―――――――――――――――
二ケタの数字が三つ並び、それがハイフンで結ばれている。
「きゅうにい、いちろく、ぜろさん」
華子はそのメッセージを声に出して読み上げた。
華子が経験した暗号解読で二ケタの数字で思い出されるのは平仮名五十音表だけども、今回のように『0』が使用されている時点で成立しない。
骨格標本の頭蓋骨に記された暗号には『0』を示す言葉が登場したが、あくまでもそれはヒントへ導くためのものであって、それを他の文字に変換したわけではない。
仮に携帯電話の数字キーとそれを押下する回数の組み合わせで考えたとすると『りあん』もしくは『りぁん』となる。機種によって多少の差異はあるかもしれないが、かろうじて人の名前らしき単語が浮かび上がった。
しかしどうにも釈然としない。
「一体、安吾先輩は何を言い残したかったんだ?」
今までに比べると、あまりにも簡素な内容。華子はどう手を付けるべきか悩む。
まあ、当たり前と言えば当たり前。力尽きる間際に残せるメッセージとは、せいぜいその程度のものでしかないのだから。
「こんな時に安吾先輩がいてくれたら、ズバリ言い当ててくれるに違いないのに、どうして安吾先輩が大変な時に限って、安吾先輩はいないの」
本末転倒、支離滅裂なことを口走る華子。
「ああ……落ち着け、私ッ」
声に出して自分自身に命じる。
「そうだ、まず珈琲を落ち着けよう。いや、違う。心を落ち着かせて、珈琲サイフォンで珈琲を落とそう」
安吾なら何はともあれ珈琲を体内に流し込む。カフェインを摂取すれば、華子にだって脳内で何かが進展するかもしれない。
☆
「ふうーッ」
数分後、華子はカフェオレを片手に、改めて横たわる安吾と暗号を眺めた。
まだ完全に冷静と言えなくとも、さっきと比べればずいぶんと平常心を取り戻せたと思う。頭の中に思い浮かべた将棋盤の上に、駒を穴熊囲いにだって並べられる。
「こういったメッセージは、最初の時点で読み間違えているのが推理小説の定番。最初から読者に正しく提示すると、主人公よりも先に犯人へ辿り着いてしまうもんね。数字だと思っていたものが、実はアルファベットだったとか。あとは見る方向が間違えていて、上下逆さだったとか」
華子はそう言いながら、ぐるりと安吾の周囲を一周する。
―――――――――――――――
92‐16‐08
【アルファベットの読み違い】
→ qz‐ib‐og
【上下が逆さま】
→ 80‐91‐26
―――――――――――――――
「固定概念さえ捨てれば、最初から目の前に答えが出ている。ほら、いかにも安吾先輩が言い出しそうなことでしょ」
しかし、色々と見る角度を変えてみても、メッセージは浮かび上がってこない。
「うーん……数字はこのままで合っているのかな? となると重要なのは数字の部分ではなく、残されているハイフンのほうということ」
定番として他にも、途中で力尽きたゆえにダイイング・メッセージが最後まで完成していないというパターンもある。こちらも無視はできない。
たとえば目の前にあるメッセージの最後に『
数字の間にある線をハイフンではなく、迷う余地なく華子はマイナスだと判断していたことだろう。
「92から16と08を引くと……計算式の答えは68になる。ろくじゅうはち……ろは……ロハ……只……タダ……無料。おっと、無料クーポン券。そう言えば駅前で配布していたハンバーガーショップのドリンク無料券、有効期限は今日までだった」
かなり連想が逸れてしまい、リセットすべく頭を振った。
計算式で導き出された『68』という数字。
そこから犯人の誕生日が六月八日だとか、名前が六車八郎さんだとか、そう考えたほうが自然だけど、それでもビシッと決まったという感じがしない。
そこで華子は気がついた。
推理小説でイニシャルが決め手になるのは、あくまでも容疑者が数人に搾り込めているからなのだ。そこは孤立した古い館、犯人は宿泊客の中にいる、みたいな。
先ほどの『りあん』に納得がいかなかったのも、きっと同じ理由からだ。
つまり現時点では容疑者が一人もいないので、たとえば犯人の名前が『鈴木』だと分かったとしても、それだけでは全国の鈴木さんが容疑者となり、物語の結末としてはだらしがない。袋小路の行き詰まりだ。
そこで華子は、ふと壁に掛かけられた鏡に目を留めた。
両腕を回してやっと抱えることのできる大きな姿見の鏡。額縁に彫られた装飾は部屋の扉と同じデザインだ。つまりここが本当に校長室だった時代からそこにあった物だろう。
「試してみるか……」
意味不明の文章を鏡に映して裏返しにすると、正しい文章が浮かび上がる。数字の『3』が、アルファベットの『E』に変化するなんていうトリックも定番だ。
しかし紙とは違って、メッセージが書き残されている床のほうは動かせない。となれば当然、動かすのは鏡のほうだ。
壁に埋め込まれて固定されていたり、とんでもない重さがあったりするとお手上げだが、思っていたより軽い力で鏡は動いた。
「よいしょっと」
裏側の一点だけで吊られていた鏡を壁から外し、それをひとまず床の上に下ろす。
「…………あれれ」
今まで鏡によって隠されていた壁にあったのは、観音開きになっている小さな木の扉だった。
縦横ともに30センチ程度。開けてみないことには中がどうなっているかは分からないが、周囲との位置関係を考えると、そこだけ壁がくり抜いてあるようだ。当時は隠し金庫などの細工に用いられたのだろう。
ただし現在は、第三者に開けられないように鍵がかかっている様子は見当たらない。
興味に駆られた華子は、おそるおそる扉に手を伸ばした。
しかし誰もいないはずの背後から、誰かに見張られているような悪寒。華子の危機回避本能が叫んでいる。この扉に関わっちゃいけない。華子は寸でのところで踏み止まった。
「そうだ。こんな物に気を取られている場合じゃなかった。それよりも早くこの鏡で暗号を映し出さなきゃ」
誰も聞いていない部屋に向かって空々しく言い訳しながら、華子は急いで横たわる安吾の脇にまで鏡を運んだ。
床の暗号がそこに映るように固定し、倒れないように片手で押さえながら鏡の中を覗き込む。
しかし結論を言えば無駄な徒労。そこに解読の糸口は見つからなかった。
そもそも文字を反転させるだけなら、もっと簡単な方法がいくらでもあったのではないかと反省する。携帯電話のカメラ機能で写真を撮って、その写真を鏡の前にかざすこともできた。普段は使わないが、写真を反転させる加工機能もあった気がする。
自分の愚かさを呪いながら鏡を元の位置へと戻し、その傾きを真っ直ぐに調整する。
すると鏡の中には、ちょうど部屋の中央にある応接セットが映っていた。
「……あれ?」
違和感を覚える。
テーブルの上には、安吾がいつも使っているカップに飲みかけの珈琲。
それとは別に、もう一つカップが置かれている。これは安吾の他に人がいたことを示すのではないだろうか。
有力な情報を持つ人物の存在。テレビのニュースキャスター風に言うなら「何らかの関わりがあると見て行方を追っています」といったところ。
「これは事件です」
と意気込んだものの、それは華子が鏡を運ぶために置いた自分のカップだった。
脱力。膝から崩れ落ちる華子。
やっぱり華子のカップを除けば、そこにあるのは安吾一人分のカップだけだ。
落ち着いて考えたら、本来はテーブル上のカップから来客の有無を判断できたのだろうが、安吾は他人のために珈琲など淹れたりはしない。
ここの主人に代わって客人に珈琲を淹れるのは、いつも華子の役目なのだ。
「その時に私が校長室にいたなら、来客にはお茶を勧めていたはず。そうすればテーブルの上に残されたカップの数から来客の有無、場合によってはどんな相手か特定できたはずだったのに」
またしても本末転倒。
「…………はッ」
言葉に出した後に気がついて、恥ずかしさが込み上げてくる。
「校長室に同席していたなら、カップで判断する必要ないよ」
自分で自分にツッコむ華子。他に誰もいない部屋であるにもかかわらず、まるで誰かに聞かれているような感覚がして恥ずかしさが倍増した。
慌てて周囲を見回して誰もいないことを確認する。念の為にテーブルの下も覗く。
そこで改めて部屋の全体をチェックしたのだけども、普段と違っている点といえば、デスクの上に置いてあったものが床に散乱していることぐらい。落ちている位置から想像すると、安吾が倒れた時にでも手を掛けてしまったのだろう。
「何か見落としていないか?」
電気スタンド、書類カゴ、数本のペン、モバイル用の充電器、野球のボール、ビーチサンダル。落ちている物を一つ一つチェックしていくが、怪しい点は見当たらない。
それらに混じって数冊の本も目に入った。どれも背表紙の下のほうに図書室の管理シールが貼られていて、安吾が貸し出しを受けた本だと分かる。
旧校舎に続いて図書室の本。学園の所有物は生徒全員の物だ。大切に扱わってくれないと困る。万が一にでもページが千切れていたり、折れ曲がったりでもしていたら、次に借りた人の気分が害されるではないか。
現場を勝手に荒らしてはいけないという常識と、物を大切にするという常識。二つの常識の間で葛藤した末、我慢ならなかった華子はそれらを拾い集めた。
「こういうところが、人から恨まれるんですよ」
皮肉を込めて華子は床に転がる安吾に向かって言う。当然ながら返事はない。
安吾の頭を蹴り飛ばしてやりたい気持ちをグッと堪えつつ、華子は拾った本のタイトルを読み上げながら小脇に重ねていく。
全部で四冊。
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『記憶への再三なる挑戦』
有名な脳科学者による論文。過去の実験データを中心にして構成されている。
『素因数分解の解説(二)』
数学の解説書。分かり易いと受験生たちの間で評判。
『号外!四国鉄道路線旅』
人気エッセイストが執筆した旅行記。雑誌連載終了後の描き下ろし作。
『元気になる一日の始まり』
朝の体操を推奨する健康に関する本。食事についても触れられている。
―――――――――――――――
多種多様な暗号を解読するには広い知識が必要なのは分かる。それでも四冊それぞれの内容には、あまりにも統一性がないように思えた。
しかも『素因数分解の解説(二)』は三巻セットの真ん中だけだし、『号外!四国鉄道路線旅』にいたっては、本編の『日本縦断旅行記』の読者にしか意味の通じない内輪ネタが満載という始末。図書室にはちゃんと、それぞれのシリーズが全巻揃っていたはずだというのに。
安吾が過去に読んでいたとも考えられるが、発売されたばかりの新刊本でもあるまいし、ひとつのシリーズを通して読んだほうが絶対に内容を理解しやすい。
少なくとも華子なら、御飯とオカズの間に歯磨きするような真似はしない。
安吾の乱読ぶりに呆れつつ、華子は最後に手にした『元気になる一日の始まり』をパラパラとめくった。
ふんだんにカラーページを使って、視覚で理解させる構成になっている。毎朝の時間に余裕さえあれば、その内容を実践して爽やかな一日が過ごせそうだ。
「……ん、ちょっと待って」
ひとつ気になることにぶつかり、華子は手にしている本を見比べる。
「再三、(二)、四国、一日」
思った通り、どの本のタイトルにも数字が入っていた。しかも上手い具合に一から四までが欠けることなく揃っている。
「三、二、四、一」
華子は拾い集めた本を、その数字の小さい順に手元で並び替えてみた。
―――――――――――――――
『元気になる一日の始まり』
『素因数分解の解説(二)』
『記憶への再三なる挑戦』
『号外!四国鉄道路線旅』
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「ああッ!」
それぞれのタイトルの頭文字を拾い読むと『元素記号』というワードが浮かび上がる。偶然にしては出来すぎだ。
これは当然、発見者に向けて安吾が残したメッセージの一部と考えるべきだろう。床に書かれた数字だけでは暗号は完結していなかったのだ。
そして華子は再び安吾が残した数字に目を向けた。元素記号に数字とくれば、それは原子番号を示している可能性が高い。いや、もうそれ以外には考えられない。
華子はそれぞれの原子番号に対応した元素と、その元素記号を黒板に書き並べた。
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92→ウラン→U
16→硫黄 →S
08→酸素 →O
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もしも真ん中の数字が『09』だったなら、対応するのはフッ素の『F』で、浮かび上がるのは『U‐F‐O』となる。未確認飛行物体UFOだ。
安吾を襲ったのは宇宙から来た地球外生命体だったという、非常に安吾に相応しい最期だったわけだが、それは違うらしい。
「えーと…………USO……ウソ?」
そこに並んだ三つのアルファベットをローマ字読みした直後、華子の全機能が停止した。
そして長い時間が経った気がする。
再起動後、華子は振り返って叫んだ。
「嘘かよッ」
そこには華子を指差して高笑いする安吾が立っていた。
ちなみに血で書かれた文字は時間が経つと変色する。毒々しい赤い色で記された文字なんて、小説や空想世界の中でもなければ、それはトマトソースだと昔から決まっているのだ。
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