第2話【3】人体模型の憂鬱
理科室は、音楽室や美術室などの特別教室だけを集めた十一号館の一階にある。実験器具や楽器や彫刻、授業で使用する備品を共有管理する関係で、初等部から高等部までの生徒全員が利用している。
中等部の生徒が高等部の校舎に入るには遠慮するし、高等部の生徒が初等部の校舎に入ると目立ちすぎる。だからこそ安吾は、誰であっても大丈夫なように理科室を選んだのだろう。
翌日の昼休み。
安吾の指示を忠実に実行した桜花堂学園高等部一年、風紀委員(仮採用期間中)の鳥羽華子は、少し早めに理科室に入り、そこで人が現れるのを待った。
いわゆるガイコツの骨格標本と、右半身の筋肉と左半身の内臓を恥ずかしげもなく顕わにした人体模型。その二体の間に入り込み、できるだけ目立たないように努める華子。
しかし明らかに不自然。挙動不審。街中なら職務質問レベル。
「落ち着け、華子。あくまで相手の気持ちに応えられないことを伝えるだけ。この場における主導権は私にあるんだから」
バクバクと音を立てる自分の心臓に言い聞かせ、ようやくオカシな姿になっていることに気がついた。
「なにやってんだろ、私」
呼び出した相手が来る前に、気持ちとポジションをリセットしようと、慌てたのが良くなかった。急ぎ過ぎたせいで骨格標本に肩をぶつけてしまう。
どうしてこんな時、世の中の時間はゆっくりと流れるのだろう。骨格標本が倒れていく様が、華子の目にはスローモーションに映っていた。
ひょっとして私ってば
そんなわけない。もしもそうなら、ゆっくりと流れていく時間の中で、自分だけは普段と変わらずに動けるはず。そして骨格標本を支えてトラブル回避できる。
でも無理。だってこれは現実。
床に倒れた骨格標本は、取り外しが可能な関節部分からバラバラになっていた。
「ヤバい、早く片付けなきゃ」
一番近くに落ちていた右大腿部の骨を拾い上げる。
「ん……?」
華子の目が留まった箇所には落書きがあった。骨格標本が壁際に展示されている状態なら隠れて見えない頭蓋骨の後部、つまり後頭部に文字が書き込まれていた。
いつからその落書きがあったのかは分からないが、理科の授業で骨格標本と人体模型が実際に使われる機会は少ない。本当は一年前だとか、はたまた三年前だとか、場合によっては十年以上前からあったのかもしれない。
「何もないところからファの音が聞こえる……って、どういう意味だろう」
書かれていた文字を読み上げて、頭を捻る。
しかし落書きに意味があるかどうかを考えること自体、すでに意味がない。公園や駅の公衆トイレの壁、さびれた商店街のシャッター、街中で見かける落書きの大半は意味のないものだ。
「もしかして、こっちにも?」
華子が倒してしまった骨格標本と、まるで漫才の相方のように配置されていた人体模型に目を向ける。人体模型の背中側は、解剖されたような表側とは違って、普通の肌をしている。だから落書きは容易だ。
「え……何コレ?」
華子が疑った通り、人体模型の背中にも落書きがあった。しかし、その異様さに華子は血の気が引いた。漢字と平仮名を織り交ぜて、無数に『うつ』と『鬱』が書き込まれていたのだ。
―――――――――――――――
何もないところから
ファの音が聞こえる
うつ鬱鬱鬱鬱鬱うつう
鬱つうつうつうつうつ
う鬱つうつ鬱鬱鬱鬱鬱
うつうつうつ鬱うつう
つうつ鬱うつうつうつ
う鬱つ鬱うつう鬱鬱鬱
鬱鬱つうつう鬱つうつ
鬱うつうつう鬱つうつ
―――――――――――――――
「まさかこの二体の模型は、実は本物の死体。リアル学校の七不思議? そして落書きと思わしき文字は、ミステリー小説における重要アイテム、ダイイングメッセージ。しかし私は騙されないぞ。これが死の間際に書かれた物だとすると、どちらか一方の文字は、後から死んだ方のメッセージだということになる。しかし、もう一方はどうやって書き残したのか? 例えば骨格標本が先に死んで、人体模型が、その頭蓋骨にメッセージを残したとする。その場合、人体模型の背中にメッセージを書き込んだのは誰だという話だ。つまりコレはダイイングメッセージに見せかけた、ただの落書きに違いない。どうだ、私の見事な推理!」
一人でつらつらと語る華子。しかし推理以前に、骨格標本の骨を拾い上げさえすれば、それがプラスチックで作られた模型だとすぐに分かる。
「そんなことより、早く片付けなきゃ。片付け、片付け」
落書きを見つける前の状態に戻り、そそくさと骨を拾い集める。
ただ『骨を拾う』とは本来、他人の後始末を請け負うという意味の慣用句。しかしここで言う『骨を拾う』は、華子自身の後始末。日本語は難しい。
あらかたの骨を拾い集めたところで、はたと華子は気がついた。
「いや……もしかして、暗号?」
華子が相手を理科室に呼び出すカードを配ったのは今朝。そして今は昼休み。十分に時間はあった。
呼び出した相手が、ここに来られない事情があって、予め華子にメッセージを残しておいたのかもしれない。なにせ最初から暗号を用いたラブレターを送ってきた相手だ。華子に気持ちを伝えるだけで十分満足し、このまま姿を見せるつもりはないのかもしれない。
「だとしたら、どうやって解けば……」
ここに安吾はいない。『十三番目の猫』も、『たいとう84』も安吾のガイドラインがあってこその解読。八坂が持ち込んだ『いろはメール』にいたっては、横で見ていただけである。
華子は少ないながらも、これまでの暗号の解き方を参考にして、目の前の暗号に取り組もうとした。
「考えるのよ、華子」
腕組みをした華子は、人体模型と頭蓋骨を睨みつけ、その周りをグルグルと歩いて回る。
「そうか、今までと同じだ」
華子は閃いた。
参考になったのは『いろはメール』。八坂は安吾に相談した時、携帯電話に届いたメールを見せていた。だったら華子も同じことをすれば良い。
華子が閃いたのは、読解方法ではない。この場にいない安吾に暗号を解かせる方法だった。
思いつくや否や、自分の携帯電話で二枚の写真を撮り、安吾に送信する。
「ふふふ、もしかして私ってば天才」
片手に携帯電話、もう片手を腰に当てて勝ち誇る華子。
するとメールの着信。
「早ッ」
あまりの早い返信に驚いた。しかもその内容にも驚かされる。
『何を勝ち誇ってやがる。腰に手を当てて威張ってんじゃねえよ』
メールを読んで、反射的に周囲を見回す華子。
「見られてる? どこかから見張られている?」
しかし人の気配はない。そこに再び着信。
『バーカ。探しても無駄だ』
「は? どこですか、安吾先輩」
さらに探すが見つからない。またしても着信。
『しつこい。そこにいなくても、ハナの行動はお見通しだ。何もないゼロの状態からでも全部分かる』
華子は脱力感に包まれた。安吾の掌の上で転がされている。ゴロゴロと、お爺さんが山で転がしたオムスビよりも勢いよく回転する。
「それで、肝心の解き方は? メールの続きは?」
携帯電話をいくら振りかざしても、新たなメールは受信しない。
「ああ、もうッ。なにが『何もないゼロの状態からでも全部分かる』ってのよ。こっちは分からないから頼っているのに。……ん、何もない? 何もない」
その言葉に引っ掛かって、華子は暗号らしき言葉に注意を戻す。
「何もないところからファの音が聞こえる。何もないゼロの状態」
暗号とメールを口に出して読み上げた。
今まで散々、暗号解読のために文字を数字に変換したり、数字から文字に変換したりしてきた。『何もない』が仮に『
「ファと言えば、ドレミファソラシド」
こちらは単純だ。『ファ』は4番目の音。すなわち『4』を示していると、華子は推測した。
「つまり『0から4』。多分これは、次の本文を読み解くヒントだから、ここから連想される物を考えるのよ」
これまで『13番目の猫』から『干支』を、『たいとう84』から『画数』を引き出したように、『0から4』を発展させる。
「たとえばアメフトなら12分間の
想像すると該当しそうな物が多すぎる。特にスポーツにおける『0から4』は、かなりメジャーな基準かもしれない。
その時、また華子の携帯電話がメールを受信した。
『
「絶対に応援なんかしていないクセに」
メールを送ってきた安吾に、華子はそう疑った。しかしそうだとすれば、これはヒントだ。ファイト。ドはドーナツのド。ファはファイトのファ。
「
華子は文字の書かれていた頭蓋骨を見ながら考える。頭蓋骨のFIGHT。FIGHTの頭蓋骨。
華子の頭の中で、ガイコツが頑張って踊り始めそうになったところで、一つの答えが出た。
「FIGHTの頭文字『F』。あ、そうか。ドレミをアルファベットに変換すれば、ファは『F』だった。だから『0からF』。そして『0からF』は『十六進法』よ」
楽器を演奏する人には『ドレミ』よりもアルファベット表記の『CDEFGAB』のほうが馴染みがあるかもしれない。
そして普段、数を数える時に使う十進法では『0から9』までいくと、その次は二桁の『10』になる。しかし16進法では『9』の次は『A』で、その後に『B・C・D・E・F』ときて、ようやく二桁の『10』となる。『19』の次は『1A』。簡単にまとめると、数が16個進むと、二桁目の数字が1個進むということ。
―――――――――――――――
ドレミファソラシド
CDEFGAB
十六進法
0123456789ABCDEF
―――――――――――――――
「ふふふ、これで分かった。今度こそ間違いない。キーワードは『十六進法』。謎だった『うつ』の文字は一列十文字。つまり十進法から十六進法に変換。16個の文字で改行すれば良いのよ」
―――――――――――――――
【10文字改行】
うつ鬱鬱鬱鬱鬱うつう
鬱つうつうつうつうつ
う鬱つうつ鬱鬱鬱鬱鬱
うつうつうつ鬱うつう
つうつ鬱うつうつうつ
う鬱つ鬱うつう鬱鬱鬱
鬱鬱つうつう鬱つうつ
鬱うつうつう鬱つうつ
【16文字改行】
うつ鬱鬱鬱鬱鬱うつう鬱つうつうつ
うつうつう鬱つうつ鬱鬱鬱鬱鬱うつ
うつうつ鬱うつうつうつ鬱うつうつ
うつう鬱つ鬱うつう鬱鬱鬱鬱鬱つう
つう鬱つうつ鬱うつうつう鬱つうつ
―――――――――――――――
華子は理科室の黒板を使って、『うつ』の文章を書き出した。
そこには『スキ』と浮かび上がる。おそらくは『好き』。これが華子の相手が残した暗号なのか、それとも全く無関係な別人が、ずっと以前に残したメッセージなのかは分からない。
第一、どうしてそんな所に『好き』なんて言葉が隠されていたのか不思議だ。偶然にも華子がミスを犯さなければ見つからなかったのだから。そう考えれば、今回の一件とは無関係だという可能性のほうが高い。
暗号を解き終えた華子は一息。
その時、理科室前の廊下を歩く音が聞こえた。
カツカツカツ。 ついに呼び出した相手が現れたのか。安吾の予測では華子に近しい人物。カツカツカツ。
クラスメイト? 他の風紀委員メンバー?
誰が現れるのか、心臓が高鳴る。この先に他の部屋はない。すなわち足音の目的先は、華子の待つ理科室。
華子は扉を注視し、唾を飲み込んだ。
ガラッ。
部屋の扉が開くと、見知らぬ女子生徒が立っていた。
「え、女の子?」
記憶を辿っても、華子は彼女を知らない。近しい者が差出人の正体だという安吾の推測はハズれたらしい。
本当に彼女が『十三番目の猫』の差出人なのか。華子が問いただそうと思った瞬間、先に質問したのは彼女のほうだった。
「アナタは誰ですか?」
「へ?」
驚きの一言 華子はどこから話が食い違っているのか整理しようとした。
相手を男子生徒に限定するのは間違っているという安吾の話はまだ受け入れられる。しかし差出人が華子のことを知らないというのは、どう考えてもおかしい。
「スキ……ですか?」
女子生徒は黒板に書かれた華子の文字列を読んだ。
「違うのよ、これは」
慌てて文字列を消す華子。
直後、廊下から別の足音が聞こえてきた。急いでいるような駆け足。
「スミマセン、遅れましたッ」
旧校舎の校長室で会った男子生徒だった。
「……たしか中等部の八坂くんの友人」
だが、息を切らせている彼の視線は、華子ではなく、もう一人の女子生徒に向けられていた。
「そうか、手紙をくれたのは
言われた彼女はコクリとうなずく。
「ごめんね、
どうやら二人は互いに見知った仲らしい。しばらくの間、彼らは無言で目を合わせていたが、どちらからともなく恥ずかしそうにして顔を逸らした。二人の頬が赤く染まる。
下鴨という女子生徒は、華子が配布した『たいとう84』のメッセージを見て、理科室に現れた。しかし石清水はどうして、この時間、理科室に現れたのか。
ああ、そうか……そうだったのか。ようやく華子は真実に辿り着いた。
干支の暗号カードを安吾に持ち込み、解読依頼を出したのは中等部の彼、石清水。そして安吾は、それを再利用して華子の下駄箱にカードを入れた。
おそらく華子が大事に持っているのは複製で、オリジナルはちゃんと石清水が保管しているのだろう。
早い話、華子は安吾に無料奉仕させられたのだ。
上手く掌に乗せられてコロコロと転がされた華子は、お爺さんのオムスビ同様、穴ボコに落ちたらしい。
華子は大きく息を吸い込んだ。そして……、
「ダマされたぁぁッッッ」
理科室に華子の絶叫がこだました。
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