思い出症候群

@sky-moon6240

第1話 思い出には色が

思い出には色がある。


私はずっと、そう思っていた。


どこでなにをしていたかなどという確かなことはぼんやりとしか覚えていなくても、その時見ていた風景や、吹いていた風、聴こえていた音などが、色づいて心の奥底に残る。そしてそれらは、いつもは静かに眠っていて、日常の一瞬にふと目を覚ましては、私たちの意識を遠い記憶のかなたへといざなうのだ。


幼い頃よく食べた、お母さん特製のフレンチトーストの匂い。よく遊んだ公園の、古びた小さなブランコの音。お父さんと手をつないで歩いた夕方の家路。それらすべてが、淡く色づいて心に溶ける。私はその感覚がとても好きだった。


思い出の色はひとを救うのだと思っていた。思い出の色は、どれもとても暖かくて、思い出しては懐かしさで胸がぎゅーっとなるものだと思っていた。


あれから少し大人になった私はぼんやりと空を眺める。あの日と同じような、広くて、両手を広げても包みこめないくらいの空を。

そしてひとりごちる。


「思い出に色なんてなかった」




*********************




私は来月、17歳になる。 

本当は、高校に通い、所謂女子高生として青春とやらを謳歌しているはずの年頃なのだが、私は学校に行っていない。そのことを心配してくれる友達もいないし、とやかく言う親もいない。

私が住んでいるのは、名字が違う遠い親戚の家で、いつも食事を出してくれるおばさんの名前を私はまだ読んだことがない。たまにしか顔を合わせないおじさんの名前なんて、思い出すことすら危うい。ふたりとも悪いひとではなく、いやむしろ、いくら遠い親戚とはいえこんな面倒なみなしごを引き取って面倒を見てくれているのだから、とても優しいひとたちなのだ、と思う。

それでも私は、決して彼らに心を開かなかった。話しかけられれば答えるし、出された食事は残さず食べるよう心がけた。最低限の家事の手伝いはしたし、頼まれればおつかいにも行った。けれど、それ以上はなにも望まなかった。私には、ここで溶け込む理由がなかった。

夜中に目が覚めると、居間からふたりの話し声が聞こえてくることがあった。少し聞き耳を立てると、それが私の心の問題の話だということはなんとなくわかった。


『あの子、いつになったら学校に行ってくれるのかしら』

『無理強いはしないほうがいいって、医者に言われたじゃないか。放っておくのが一番だ』

『そうなのかしらね……でも仕方ないのかもしれないわね、あんなことがあったんだから』

『可哀想な子だ』


だいたい、可哀想、という言葉が出ると、話は終わる。私は自室に戻り、眠れない目を閉じてその言葉を反芻する。私は可哀想な子。ふたりが優しいのは、私が可哀想だから。そう思いながらゆっくりと眠りに落ちる。

朝なんてもう来ない、と思って眠るのに、相変わらず懲りずに朝はやってくる。どれだけ私が呪っても、憎んでも、布団の中で涙を流しても、当たり前のように空は明るく街を照らしだす。私はそれが嫌だった。

学校に行かない私は、ふたりが仕事に出掛けると、誰もいない家の縁側に腰掛け、ずっと空を眺めていた。空はいつも嫌になるほど綺麗で、私は大嫌いだった。それでも、なぜか見上げずにはいられなかった。


「苦しいことがあったら、空をみてごらん。どんな悩みも、ちっぽけに思えてくるよ」


私が通っている精神科の先生が言った言葉を思い出して、私はふっと苦笑にも似た声を漏らす。


「ばからしい」


どんなに空が広くても、私の苦しみを抱えてくれるわけじゃない。結局、苦しみは自分で抱えるしかないのだから、ちっぽけな私にとってそれは潰れそうなほど大きなものなのに。


夕方になると、私はふらりと外に出る。向かう場所はいつも決まっていた。昔よく行った、小さな寂れた公園だ。

そこは家から歩いて十分くらいのところにある。土地開発に置いていかれたような、静かな商店街を歩き、賑やかな大通りから隠れるようにぽつんと存在している。遊具はどれも古く、めったにひとは来ない。たまに、老人が散歩に来てベンチで休んでいるのを見かけるが、だいたいは誰もいなかった。

私はその公園のジャングルジムに登り、てっぺんから夕焼けに染まる空を眺める。はっとするようなオレンジ色から、ゆっくりと淡い紫色にグラデーションがかかっていく空を見ていれば、懐かしい思い出の中に帰れる気がして。その時間は、私が私を保っていられるための、大切な時間だった。

一番星が輝き出したら、私はジャングルジムから降りて家に帰る。おじさんとおばさんが仕事から帰ってくる前に家に帰り、一日中家にいたように振る舞うのだ。

なんの意味も成さない会話をしながら夕飯を食べ、私はおばさんから渡される薬を飲む。病院から処方されたものだが、私はそれを飲む意味がわからなかった。けれど、私はどうやらそれを飲まなければいけない「病気」らしい。いつかの診察で、医者からなにやら難しい病名を言われた気がするが、忘れてしまった。確か、「心が不安定」な状態だから、薬を飲んでゆっくり治していこう、と言われた気がする。


けれど私は、自分の病名をわかっていた。誰にも言っていないけれど、どんな本にも載っていないだろうけれど。

それは薬なんかで治るものではない。治るものなのかもわからない。


私の病名は、「思い出症候群」だ。










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