王の片恋 (3)

 雄日子は膝を立てて、立ちあがるようなそぶりをした。


「まだここにいたいなら、好きに使いなさい。あなたがここにいることは、外の者に伝えておく。僕はセイレンに会いたくなったから、話しにいってくる」


 石媛を見下ろす笑顔は、もとの淡々とした微笑に戻っていた。


 でも石媛は、もうその笑顔をみることができなかった。ついさっきまではそばにいるだけで息もできないくらいだったのに、雄日子の目と目が合うのが怖かった。


 身にまとう袴や帯がこすれる音が、雄日子の身動きに合わせてさらさらと鳴る。ささやかな衣擦れの音も、雄日子の足が一歩動くたびに軋む木の床の響きも、やたら遠い場所から届く音にきこえた。


 さっき、藍十という青年につれられて雄日子の姿を見つける前に戻ったように、音も景色も人も、ありとあらゆるものから取り残されて、とても広い世界にたった一人でぽつんと立っているような気がした。



 怖い。寂しい。お願いです。私を一人にしないでください――。



 目の前を通り過ぎていく足に手を伸ばして、泣きつきたい気分だった。


 でも、身動きを追った瞳はふるえたけれど、手も足も、指先すら、わずかたりとも動かない。


 雄日子も、石媛を気づかうことはなかった。振り返ることもなく、立ち上がってから戸口へ着くまでずっと同じ速さで歩いて、外へ出た。


 とん、とん……と、きざはしを下りていく足音が遠のいていく。それも、とても遠い場所で鳴った音にきこえた。


 遠のいていく、静かになっていく――と、自分以外の人の音や気配が薄れていくのは、とても怖かった。


 庭に下りたようで、雄日子の足音がさらに遠ざかっていくと、館の中はしんと静かになる。その静けさが恐ろしくて、ついに耐えられなくなって、石媛はぽろぽろと涙をこぼした。


 ひくっと喉がふるえて身体が跳ねた拍子に、うつむいた。目にうつったのは、腿の上でふるえる自分の拳だった。


 手は、ふるえていた。ふるえた手を見下ろしていると、どうしよう、どうしよう……と同じ言葉ばかりが込み上げて、ぐるぐると回った。


 間違ったことは、しなかったはずだ。


 幼い頃から、母や祖母に教えられたとおりのことをした――いや、教わったよりも丁寧にした。でも、うまくいかなかった。


 こんなふうに自分の思いどおりにいかないことは、石媛にはほとんどなかった。


 土雲媛になるためにと厳しくしつけられたけれど、厳しいことが当たり前だと思っていたから、きくつ叱られようがかまわなかった。


 思いどおりにいかない――と苦しい思いをしたのは、大地の神という青年に嫁ぐようにいわれた時くらいだ。


 あの時も、石媛はとても怖かった。けれど、いまほどではなかった。


「あ――」


 理由に気づいた気がして、ぽつんと前を見る。


 いま、この館には誰もいない。


 木の壁を飾る金色の武具や、壁掛けや、床に敷かれた飾り布や、雄日子が座っていた場所に置かれたままの脇息や、調度類の数々――。ここには、色鮮やかで、飾りも形もすぐれた豪奢なものがふんだんにあった。そこに、石媛は一人でいたが、それがとても怖かった。


 大地の神という見知らぬ青年に嫁げといわれた時は、青年のそばにいることを求められた。「ここにいろ、役に立て」と。


 でも、いまは、「あなたは要らない、欲しくない」といわれて、置いていかれた。


 独りだ――と思うなりびくりと身体が跳ねて、自分の身体を自分で抱き寄せた。


 目の中に蘇った記憶があった。目をみひらいて自分を見つめた祖母や母の顔、幼い頃から世話をしてくれた侍女や、里の人たちや、幼馴染――。その人たちに向けて、〈雲神様の箱〉を口に当てて、吹いた。


 誰か人に向けてその仕草をする場合、それは「これ以上やるなら容赦はしない。おまえを殺してやる」という威嚇の意味をもつ。


 あの時の石媛は、〈箱〉に息を吹きこむのになんの疑問ももたなかった。


 いとしい青年に向かって、祖母も母も、里者たちも、あろうことか悪態をついて、武具を向けたからだ。それはいけない。罰されなくてはならないと思った。


 石媛は、セイレンが呻く顔も思い出した。自分にそっくりな顔をした双子の妹は、叫びたいのをこらえているようだった。



 石媛、あんた――いま、なにをしたの?

 こたえてくれ、ちゃんと答えろ――!



 その時からいままで、石媛は、なにをそんなに怖い顔をするのか――とふしぎに思っていた。


 「なにをしたの?」ときかれたところで、心が求めるままに正しいことをしただけだったし、「いとしい青年のために力をつくしただけだ」と答えるしかなかった。石媛は満足していた。


 でも、その青年は石媛のもとを去ってしまった。「ありがとう」といってくれたが、「わかった、あなたのそばにいよう」とはいってくれなかった。


 唇がわなないて、腕にも脚にも鳥肌が立って、全身がふるえた。手も指もふるえがとまらず、自分の身体をにぎりしめてもまだふるえるので、座っているのもつらくなる。身体中に恐怖があふれて、おびえるしかできなくなった。



 どうしよう、私は、恐ろしいことをした。

 なにも生まないことをした。とんでもない罪を犯した――。



 「ああ、う……」と、鳥の声のような悲鳴が出た。もう人の声すら失った――そう感じた。




  ◆  ◇    ◆  ◇ 




「セイレーン、どこだ。おうい……」


 何度か、藍十の声をきく。


 そのたびにセイレンは、幹の裏に隠れて小さくなった。藍十が自分を探す理由に気づいたからだ。


(一人で平気だよ。おまえが心配するほど悲しんではいないし、つらくもないから。ここで暮らしたいっていう気持ちも揺らいでないし、雄日子に腹が立ってもいないから)


 だったら、幹の裏から姿をあらわして「ここだよ」と声を出せばいいのだ。


 さあ立て、声を出して居場所を教えてやれよ――とは思ったけれど、セイレンは立てなかったし、声も出せなかった。


 藍十の声が遠くなったり近づいたりして、ああ、歩きまわっているんだろうなあ、ごめんね――と思うけれど、藍十の気配が遠ざかるまで幹の裏に隠れていられると、見つからなかった……とほっとする。


 何度か同じことをくり返して、その都度ほっとしているうちに、藤の花の色をしていたはずの空が暗くなっていた。


 暗くなっても、空の澄み具合はかわらない。


 大木の下から見上げると、闇に染まった枝葉は漆黒の影になっていたので、夜空のほうがずっと明るく見えた。空も闇の色をしていたけれど、澄みきった夜空はまぶしいと感じるほどだ。


(夜だ……いかなきゃ)


 こんなところでなにをしているんだろう――と、責め文句ばかりが胸に浮かぶ。


(戻らないと――そういえば、今日の寝ずの番は誰がするのかな。わたしだったらどうしよう。引き受けられるところにいられなかった。まずい……)


 こんなふうに一人で持ち場を離れたり、居場所を知らせずに宿を出たりしたのは、雄日子の守り人になってからはじめてのことだった。


 今日がはじめてかと思うと、すこし心が弛んだ。一応はわたしも、今日のことを悲しんでいるんだ。そう思うと、ほっとした。


 唇の端に力がかよって、すこし上にあがる。たぶん泣き笑いに近いだろうけれど、笑えた。笑えたと思うとほっとして、膝が動いた。立ち上がった。


 真上に見上げた夜空は明るかったけれど、立ちあがった時に目の前にひろがった夜空も澄んでいた。


 夜の影を帯びた林の木々が、真っ黒い柱が並ぶようにぽつぽつと立っている。その向こうに、高島の宮をつつみこんで広がる美しい夜空があった。


 澄みきった夜天のもとで、館の大屋根が漆黒の影になっている。一番大きな影をつくっている館は雄日子の居場所だ。ほかにも、あの影は高島王の館で、あの影は武人の館で――と、セイレンはどの影が誰の居場所かを覚えていた。


 影になった高島の宮殿を眺めて、恍惚とした。


(わたしは、とても遠いところに来てしまった――)


 〈待っている山〉を下りたセイレンがつれてこられた場所は、ここだった。


 はじめに会ったのは雄日子と角鹿つぬがで、その後に牙王がおうと会い、セイレンはそこで雄日子と血の契りを交わした。血の契りというのは、雄日子と主従の縛りをつける邪術で、命令にそむけば身体の半分が失われるはずだった。


 でもいま、その邪術は解かれていたし、呪いの力を借りなくても雄日子のことを主だと思っている。


 こんなところは嫌だ、雄日子なんか主じゃない、さっさと故郷の山に帰りたいと暴れていた頃もあったけれど、いまはここにいたいと思っているし、帰ろうとしたところで故郷の里はすでにない。土雲の里は真っ黒に焼け焦げているはずで、一族の連中も息絶えている。


 その頃といまではいろんなことが変わっていたし、もう戻りようがないこともよくわかった。


(ほんとうに、遠いところにきた――) 


 まだ、唇の端は小さくあがっていた。


 笑っていると思うとほっとして、足に力を込めた。戻らなくちゃと思った。


 まずは藍十を探して、心配をかけたねって謝ろう。


 たぶん藍十は、心配してくれたことを隠して「もう平気か?」って笑ってくるだろうから、「平気だ。ありがとう」って笑い返すんだ。


 藍十は、つらい時にはつらい顔を見せずに、代わりに笑う男だ。


 わたしも、あいつみたいにしたい。あいつみたいになりたい――そう思うと、唇の端がもうすこしあがった。


 黒い柱のように順々に立つ木々のあいだを、一歩一歩進んでいく。木々が、建物の柱のように規則正しい隙間をとって並んでいるのは、この林が人の手でつくられたものだからだ。木の種類も一つだけで、桃の木ばかり。


 ここは故郷の山ではない。山道ではない平坦な地面を、この足は歩いているんだ――。そういうことを、胸に刻みつけたかった。喉にまるい石が詰まったようで息苦しいけれど、これでいいような気もする。だから、息を邪魔する石などは、無理やり飲み込んでしまうべきだった。


 もうまもなく林を抜けきるという頃、行く手の暗がりに、白い衣を身にまとった人影を見つけた。


 影の形が目に入るなり、凝視した。その影の背格好は、目が覚えていたからだ。


 林の外へ出ていこうとするセイレンをその影も見つけたようで、影のままこちらを向いた。


 思わず、瞳を動かしてまわりの影をたしかめた。


 その影は雄日子のものだ。雄日子の影はセイレンを見つけると笑って、こちらへ歩いてくるように見える。まわりには誰もおらず、一人だった。


 雄日子が近づいてきても、セイレンは雄日子が来た方向や奥にある闇を目で探した。


 林のそばにある大庭の向こうには、館がいくつか影になっている。でも、いくら目を凝らしても、闇のなかにこちらの様子を窺う目はなかった。


「一人なの? 角鹿つぬが赤大あかおおは?」


「置いてきた」


「置いてきたって――あなたはそんなことをできる身分じゃないだろ」


 いぶかしんでそういっても、雄日子は笑っている。


「すっかり守り人だな。頼もしい」


 茶化すようないい方をされるので、しかめっ面をした。


「わたしをあなたの守り人にさせたのはあなただろう?」


「それはそうだ。でも、ここは高島で僕の宮だから。番兵も多いし、妙な気配があれば自分でもわかるし、離宮や仮の宿ほど守ってもらわなくてもどうにかなるよ」


「そうだろうけど……」


 雄日子の言い分もわかる。でも、なぜこの男が、日が落ちた後の暗がりを一人でふらふらとしているのかは、納得がいかなかった。



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