第106話「おまわりさんこっちです」
花園中学は、頭がお花畑の人間が通う中学ではない。花園という地域に存在している、まともな中学校だ。その花園中の文芸部には、犯罪臭漂う者たちが集まっている。そして日々、愚劣なことをたくらんでいる。
かくいう僕も、そういったアンダーグラウンドな世界の住人だ。名前は榊祐介。学年は二年生で、厨二病まっさかりのお年頃。そんな僕が、部室でいそしんでいるのは、備品のパソコンでネットを巡回して、何の役にも立たないネットスラングを調べて喜ぶことだ。
そんな、マフィア真っ青な面々の文芸部にも、法の番人のような人が一人だけいます。禁酒法時代の酒場に、時代を超えて迷い込んだ女刑事。それが、僕が愛してやまない、三年生の雪村楓先輩です。楓先輩は、三つ編み姿で眼鏡をかけている文学少女。家にはテレビもなく、活字だけを食べて育ったという、純粋培養の美少女さんです。
「サカキく~ん。ネット詳しいわよね。教えて欲しいことがあるの~」
間延びしたような声が聞こえて、僕は顔を上げた。急いでブラウザを閉じて、素早く笑顔を作る。楓先輩は、ととととと、と歩いてきて、僕の横に座る。危ない、危ない。危険な画像を閲覧していた。僕は焦りでドキドキしながら、先輩に声を返す。
「どうしたのですか、先輩。ネットで、初めての言い回しに出会ったのですか?」
「そうなの。サカキくんは、ネットの玄人よね?」
「ええ。暗黒街の顔役アル・カポネのように、ネットの世界に長けています」
「そのサカキくんに、聞きたいことがあるの」
「何でしょうか?」
先輩は、最近ノートパソコンをお父さんに買ってもらった。文芸部の原稿を、家でもこつこつと書くためだ。先輩は、そのパソコンをネットに繋いだ。そこで情報のお宝の山を発見した。そのせいでネット初心者の楓先輩は、ずぶずぶとネットの罠にはまりつつあるのだ。
「おまわりさんこっちです、って何?」
う、うん。基本的にはそのまんまの意味なのだけど、あまりにも気軽に使われるから、何か特殊な意味があると勘ぐってしまっているのだろう。少し特殊な掛け合いになる時もあるけれど、説明にはそれほど苦労はない。そう考えながら、僕は口を開こうとした。
その時である。突如部室の一角から声が聞こえてきた。
「サカキ先輩は、おまわりさんこっちです、と言われたことがあります」
「ギョッ、ギョッ、ギョッ?」
まるで、電撃戦隊チェンジマンに出てくるギョダーイのような言葉を発しながら、僕は戸惑う。いったい僕がいつどこで、そんな台詞を言われたというのだ? 振り向いて台詞の主を確認すると、そこには僕の苦手な相手、一年生の氷室瑠璃子ちゃんが座っていた。
瑠璃子ちゃんは、その名の通り、僕に対して氷のように冷たい女の子だ。だが、瑠璃子ちゃんの特徴は、それだけではない。どう見ても、小学校低学年にしか見えない外見。そして人形のように整った顔。その姿と、目付きと、きつい性格のせいで、「幼女強い」という謎の陰口を叩かれている女の子だ。
その瑠璃子ちゃんは、なぜか僕に厳しい。「注意力散漫なのには、何か秘訣があるのですか」とか、「勉強ができないのは、何か欠陥があってのことでしょうか」とか、「怠惰に暮らすのは、何かそうせざるを得ない理由があるのでしょうか」とか、世話焼き女房のように、いつも小言を言ってくる。僕のガラスのハートは、そのたびに粉々に砕けそうになる。瑠璃子ちゃんの言葉の暴力に、僕はいつも打ちのめされているのだ。
そういった感じで、僕にとって天敵である瑠璃子ちゃんが、「サカキ先輩は、おまわりさんこっちです、と言われたことがあります」と言ったのだ。
僕は、首を傾げながら、瑠璃子ちゃんの顔を見る。瑠璃子ちゃんは、あきれるような顔をして、僕のことを眺めている。いったいなぜだろう。僕は拙い記憶をたどる。そういえば、小学校時代に、そういった事件があった。僕はそのことを思い出す。
あれは、小学六年生の時である。僕は、最高学年に達し、小学校という閉鎖社会のヒエラルキーの頂点にいたり、その権力を満喫していた。わが世の春という奴だろう。平家にあらずんば人にあらず。六年生にあらずんば人にあらず。僕は、それがいずれ消え失せ、盛者必衰の理をあらわすことを知っている。それにもかかわらず、今の世をうたかたの夢として味わい楽しんでいた。
その日僕は、校庭の端で、ホースを持って水をまいていた。時は盛夏である。にぎにぎしく降り注ぐ夏の日差しを浴びながら、僕は運動場の砂に、涼やかな水の跡を付けていた。
傍目には打ち水に見えるだろう。しかし、僕には違う意図があった。この場所は小学校である。小学校には小学生がいるものだ。同じ小学生の僕の目から見ても、彼らは無邪気で陽気である。そして、水遊びが好きである。
こうやって水をまいていれば、いずれ幼き女人が現れ、天女が沐浴するように、水とたわむれるのではないか。僕は、そういった隠された意図を持ち、運動場の乾いた土を、慈雨のような水の滴りで潤していたのである。
「サカキ先輩。いったい何をやっているのですか?」
怪訝な声が聞こえて、僕は顔を向けた。そこには一学年下の瑠璃子ちゃんが立っていた。瑠璃子ちゃんは、初めて出会った時からほとんど容姿が変わっていない。その姿で、僕に声をかけてきた。
「ああ、瑠璃子ちゃんかい。僕は、運動場に水をまいているんだ」
「運動場の端っこにですか?」
「そうだよ。ホースの長さには限りがあるからね。僕の力では、運動場の端しか濡らせない。僕の力は微々たるものだ。この弱い力では、世界を変えることはできない。そういった世界の真理を、水まきという奴は、僕に教えてくれるんだ」
僕は、人生を憂う老紳士のような口調で、瑠璃子ちゃんに告げた。瑠璃子ちゃんは、僕の顔をじっと見たあと、おもむろに口を開いた。
「手伝いましょうか?」
「それには、およばないよ」
僕は、幼い美少女の申し出を断った。なぜならば、僕の目的は、この水に誘われた少女たちが、仮初めの快楽を得るために水浴びすることだからである。そうやって水に濡れて体に張り付いた服を、僕は見たいと思っている。もっと言うと、その結果として、服が透けることも考慮に入れた、深遠なる策謀を僕は胸に抱えている。
瑠璃子ちゃんは、どうしたものかといった表情で、周囲を見渡した。その視線に合わせて、僕も運動場を見渡す。多くの少女が遊んでいる。そのいずれもが、運動場の真ん中の方で体を動かしていた。
僕の作戦に瑕疵があるとすれば、水道がある場所の近くには、人が集まっていないことである。夏であるから水飲み場に集まるのではないか。それは僕の浅はかな読みだったようだ。
「サカキ先輩。もしかして、水遊びをするつもりだったのですか?」
「まあね。そういったことも試みるべきだと考えていたよ」
本当は、僕以外の少女が水とたわむれることを希望していたのだけど、仕方なくそう答える。
「このあと、授業があるから、ずぶ濡れは困るのではないですか?」
僕はその言葉を、衝撃を持って受け止めた。言われてみればそうだ。今の時間はまだ昼休みである。僕は功を焦り、しかるべき時期というものを見失っていた。
「浅はかだった」
僕は失望とともにつぶやく。
「私とサカキ先輩とで遊びましょうか?」
瑠璃子ちゃんは、恥ずかしそうに提案してきた。
「いいんだ。すべてはついえた。僕は、敗北を素直に受け入れる美徳を持っているんだ」
諦念とともに、僕は言葉を漏らす。その時である。瑠璃子ちゃんが、僕の前に飛び出した。そして、水を浴びて遊びだしたのだ。その様子は水辺で嬌声を上げる妖精のようだった。夏のまぶしい光の中、僕はその光景を好ましいものとして享受した。
ひとしきり遊んだあと、瑠璃子ちゃんはびしょ濡れの姿で息をついた。瑠璃子ちゃんは頭から足先まで水びたしだ。いくら夏とはいえ、このままでは風邪を引いてしまうのではないか。そう、僕は危惧した。
「服を脱いだ方がいいよ」
「じゃあ、先輩、絞ってください」
「うん。それは僕の役目だろうね」
瑠璃子ちゃんは肌をあらわにした。僕は、瑠璃子ちゃんの服の水を絞り、大空に向けてはためかせた。夏の空は青かった。雲は天を突くようにそびえていた。水しぶきを顔に浴びながら、僕は恍惚の表情を浮かべた。
「きゃーっ!」
その時、どこかで悲鳴が上がった。運動場の入り口近くで遊んでいた女の子が、こちらを向きながら顔を真っ赤に染めていた。
何があったのかな。僕は、爽やかな笑みを浮かべながら考える。彼女の近くには、たまたま通りがかった、おまわりさんが立っていた。変質者を取り締まるために、彼らが時折巡回することを、僕は知っている。何かそういった案件なのかもしれない。そう思っていると、入り口近くの女の子は、おまわりさんの手を引いて、僕たちの方へと歩いてきた。
「おまわりさんこっちです」
どうやら、変質者だと思われたのは、僕だったらしい。
そういったことが、小学六年生の夏にあったのである。
「ねえ、サカキくん。おまわりさんこっちです、って何?」
僕は現在に意識を戻す。楓先輩が、僕に質問をしている。少し離れた場所では、瑠璃子ちゃんが、僕のことを見つめている。
楓先輩の質問に、僕は答えるべきだろう。僕は過去の心の傷を乗り越えて、不死鳥のごとく心を高ぶらせる。いざ、説明に答えん。わが精神よ、大空へと舞い上がれ。
「お答えしましょう。おまわりさんこっちですは、ネットの掲示板で、主に変態的な、犯罪臭のする書き込みに対して使うフレーズです。
本物の犯罪的言動に対して使われることもあれば、ネタ的な書き込みに対する突っ込みとして使われることもあります。
また、この台詞を使われた人が、反応を返すこともあります。そういった反応がある時には、呼んできたおまわりさんも、実は変態だったというものが多いです。そういった際には、他のネタフレーズである「まったく、小学生は最高だぜ!!」を、おまわりさんがしゃべったりします。
この、おまわりさんこっちです、には、いくつか派生版も存在します。それらでは、おまわりさんではなく、自警団や、憲兵など、様々な相手が呼ばれます。そういったことからも分かるように、この言葉は、ネタ的要素がとても強いものです」
僕は説明を終えた。これで先輩は満足してくれるだろう。僕は責任を果たしたことを喜ぶ。これで、先輩の中で、僕の株は上がったはずだ。
「ねえ、サカキくん。それで、なぜサカキくんは、おまわりさんこっちですと言われたの?」
「ぐっ」
先輩の興味は、すでにそちらに移っていたらしい。しかし、小学六年生の時の出来事を素直に語るわけにはいかない。僕の行為は、はたから見れば、変態として映っても仕方がないものだからだ。
「サカキ先輩は、私をびしょ濡れにしたあと、私が脱いだ服とたわむれていました」
ノ~~~~~~~~~! な、何を言っているんだ、瑠璃子ちゃん。それでは、僕はただの変態じゃないですか!
……えー、瑠璃子ちゃん。あの時、一緒に遊んだ楽しい思い出は、どこにいったのですか?
僕は必死に瑠璃子ちゃんに目でサインを送る。しかし瑠璃子ちゃんは何食わぬ顔で言葉を続ける。
「そのあと、サカキ先輩は警察に連れていかれました」
ちょ、ちょっと待った! おまわりさんは確かに来て、僕を連れていったけど、瑠璃子ちゃんも一緒に連れていかれたじゃないか! そして瑠璃子ちゃんは、職員室で替えの服をもらった。そうだったじゃないか!
しかし瑠璃子ちゃんは、僕のアイコンタクトでの訴えを無視して、とどめの台詞を言った。
「サカキ先輩は、女の子が水に濡れた姿を見たかったようです」
うっ。……そこは事実だ。僕は反論の切っ掛けを失い、その場で口をつぐむ。楓先輩は僕のことを、残念なものを見るような目で眺めていた。
それから三日ほど、僕は自身の名誉を回復するために、多くの時を費やした。警察に逮捕されたわけでもなく、叱られたわけでもなく、一緒に職員室に連れていかれて、着替えを渡されただけだということを主張した。楓先輩は、なかなか納得してくれなかったが、三日後にようやく首を縦に振ってくれた。
「それで、女の子がびしょ濡れになった姿を見たかったというのは、本当なの?」
「うっ、うっ、うっ……本当です」
楓先輩は、大きなため息を吐いたあと、困った子を見るような目で僕を眺めた。
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