(7)

 いかにマタニティブルーだと言っても、絶対に言ってはいけないことがある。


 性格や態度をあげつらうのはまだいいんだ。おまえの性格は歪んでると罵られても、反論することは出来るし、それを受けて修正することも出来るから。だが過去だけは誰にも消せないし、直せない。自力ではどうにもならなかったことは特に。

 ばあちゃんが産めなかった娘さん。それは、ばあちゃんがあの茶壷に異様にこだわるほど、深い傷になってばあちゃんの中に横たわったままだ。それを知っていながらああいう風に言うのは……おまえなんか死んでしまえって言うのと変わらない。最悪なんだよ。


 ひろの暴言にかっとなって思わず引っ叩いてしまったが、やっぱり俺がばあちゃんの過去を知りながら無神経に依頼してしまったのが良くなかったんだろう。

 俺は……どっぷり自己嫌悪に陥ってしまった。


 ひろに手をあげてしまったことをしっかり謝らないとならないけど、とりあえず先にばあちゃんに謝罪してこよう。


 俺はひろにメッセージを書いて、鍵をかけてこもっている寝室の扉の下からそれを差し込んだ。


『ひろへ


 殴って済まなかった。だけど、俺はどんなわけがあってもひろにあんな酷いことを言って欲しくなかったんだ。それだけは分かってくれ。


 もし俺たちの子が流産しておまえがショックを受けている時に誰かにそう言われたら。おまえのショックは十倍、百倍になるだろ? 耐えられないだろ?


 頼む。お願いだ。少しでいい、想像力を働かしてくれ。調子が悪くていらいらしているのは分かる。でも、子供が生まれてから、何も出来ないやらないじゃすぐに破綻する。だらしない姉貴のことなんか、何も言えなくなる。俺は、おまえが家事をやれって言うつもりはない。おまえ『も』やってほしい。手伝って欲しい。それだけなんだよ。


 もう一つ。俺はひろの飼い犬じゃない。俺はひろが好きだから一緒に住んでるだけで、ひろの給料がなくても別に暮らしていける。さっき梅坂さんが言った通りなんだ。もしひろに、わたしがいないと暮らしていけないくせにと思ってる気持ちがかけらでもあるのなら。それは今のうちに捨てといて欲しい。


 もう一度言う。俺は、ひろの飼い犬じゃない』


 俺がメッセージを置いてリビングに戻ってきたら、姉貴がソファーに座ってぼんやり床を見下ろしていた。


「姉貴。休まなくていいのか?」

「うん……みさちゃん。ごめんね」


 うあ!? 姉貴の口からそんな殊勝なセリフが出てくるなんて、思ってもみなかった。


「ど、どした?」

「いや……」


 姉貴がぐじぐじと泣き出した。


「せっかく仲良くしてたみさちゃんとこに、わたしが入り込んじゃったから……がちゃがちゃにして……ごめん」


 ふう……。姉貴にも、まだ一応は人並みの感覚が残っていたということか……。


「そう思ってくれるならよ」

「……」

「頼むから、もっとまじめに暮らすってことに向き合ってくれよ」

「……うん」

「姉貴のことがあってもなくても、いずれ俺とひろはぶつかってた。いろんなところで、俺たちはバランスが悪いんだよ」

「え? そうなの?」

「見かけ、俺はヒモだからな」

「……」

「だが、俺はひろに養ってもらってるつもりはない。俺には俺の商売があって、どんなに貧乏でもそれでメシを食ってるつもりでいる。そして、それがひろには分かってなかった。そこんとこが……まだズレたままなんだ」


 俺は姉貴の隣に腰を下ろした。


「子供のことがなけりゃ、別にそれでもいいかなと思ってたんだけどな。今後はそうはいかない」

「あのさ」


 姉貴が、聞いてもいいもんかって感じでおずおずと俺に問いかけた。


「みさちゃん……なんで、家事してあげてるの? それが奥さんの誤解の原因になってるんじゃないの?」


 何もしない姉貴がそれを言うなよな。ったく!


「まあ、そうなんだけどさ」


 はあ……。


「姉貴。ひろの年で部長ってのは伊達じゃねえんだ。あいつの仕事は本当に激務なんだよ。あいつはあいつ俺は俺で完全に生活を分けちまうと、いずれあいつは潰れる。ひろは突っ走るだけでブレーキが効かないからな」

「……」

「俺が家事をするのは、俺が家事が出来るからじゃない。あいつが心配だからなんだよ」

「そう……か」

「誰かがやらなくちゃならない……じゃなくてさ。生活を守るなら、元気で前向きに生きて行こうとするなら、家事をきちんとこなすってことを避けて通れないんだよ。だから俺は家事の手を抜きたくない。それだけさ」

「うん……」


 姉貴。他人事じゃないんだよ。分かってんのか?


「姉貴だってそうだよ」

「どういう……こと?」

「どんなに部屋をがちゃがちゃにしていても、姉貴がそれで快適だと思えば家事なんて要らないよ」

「……」

「でも、あの部屋に居ることがストレスになってしまえば、姉貴は破綻する。分かるだろ?」

「……うん」

「だからこそのSOSだったんだからさ」

「そうだね。ありがと……」

「その気持ちがあるんなら、言葉じゃなくて、行動で見せてくれ。暮らすってことに、もっと前向きに真剣に取り組んでくれよ」


 俺は車の鍵をジャケットから出して、それを握った。


「梅坂さんのところに行って謝ってくる。ひろの様子を見てやって欲しい」

「うん。分かった」


 俺がリビングを出ようとしたら。扉の下に、紙が一枚挟まっていた。


『ごめんね。ごめんなさい』


 俺と姉貴の話を立ち聞きしてたのかな?


「……」


 まだ扉の向こうに気配がある。


「ひろ。済まん。謝るのは俺の方だ。おまえは何も悪いことはしてない。ただ……梅坂さんにだけはきちんと謝ってくれ」


 ひろが、そっと立ち去る足音がした。ふう……。


◇ ◇ ◇


 車から降りて、ばあちゃんの家の前に立つ。


 ばあちゃんとこは、一見姉貴の部屋のことなんか言えないゴミ屋敷のようだが、よくよく見るとそうでないことが分かる。


 いわゆる捨てられない系の人のそれと違い、家の外にところ狭しと置かれているものは、ちゃんと入れ替わっていくんだ。俺は茶壺の依頼の時に、ばあちゃんちにこっそり何度か偵察に来てそれが分かった。つまりそこはゴミの集積場ではなく、商品倉庫になっているということ。積まれている物が不良在庫にならず、ちゃんと回転しているということを示している。


 そして、家の窓から垣間見える室内は、きちんと整えられている。確かに物は多いが、ばあちゃんの世代の人たちには珍しくないことだし、姉貴んとこみたいな破滅的な乱雑感はない。一見強欲で血も涙もないように見えるばあちゃんが、実は筋を通す律儀な人で、きちんとした暮らしをしてるってことが分かる。


「ふうううっ……」


 ばあちゃんちを見回していた俺は、一つ深呼吸をして敷地に入ると戸外の雑物の壁をくぐり抜け、玄関のガラス戸を叩いた。


「梅坂さん、梅坂さん!」

「なんだい。うるさいねえ」


 ばあちゃんがのっそりと出てきて、ガラス戸の鍵を外した。ばあちゃんが引き戸を開けたところで、深く腰を折って謝る。


「すいません……家内がとんでもないことを言って。本当に申し訳ありません」

「まあ、入んなよ」

「あ、はい」


 俺が抱えていた菓子折りをさっとかっさらったばあちゃんは、俺のと変わらないくらい年期の入った座卓の前に、俺を座らせた。


 ばあちゃんは、座卓を挟んで俺の真向かいに座ると、いきなり小言を言い始めた。


「中村さん。約束が違う。あたしがあんたの依頼を引き受ける時、あたしは条件を付けたはずだよ。女同士の話に、男がちゃちゃを入れるんじゃないって」

「……はい」

「あんたは、その約束を破ったね」

「済みません」


 ばあちゃんの言う通りだ。返す言葉もない。ばあちゃんが、ぎっちり俺を睨み付ける。


「あんたは、あたしに鬼婆の役をさせようとした。計画したのはあんた自身なんだよ。それをあんたがぶっ壊してどうするんだい!」

「……はい。済みません……」


 ふう……。ばあちゃんが、しょうがないねって風にそっぽを向いた。それから、小言を続けた。


「中村さん。あんたね、まじめすぎるんだよ」

「……」

「あんたは苦労してる、だから、自分が緩まないようにってがりがり生きてる。それは悪いこっちゃないさ。でもね……」


 ばあちゃんが、しかめ面で俺に指を突き付けた。


「そいつを人に押し付けちゃだめだ。生き方ってのは一種類じゃないんだ」

「う……」

「お客さんなら、しょせん他人だ。あんたは、自分のまじめさを相手にぶつけない。でもね、奥さんやお姉さんへの態度がきつ過ぎる」

「……」

「人一倍気を遣うあんたが、気心の知れた身内にはどこまでもからくなっちまってる。そんなんじゃ、あんたのせっかくの気遣いが全部裏目に出るよ。もったいないじゃないか!」

「はい」


 ぐうの音も出ない。その……通りだ。


「それでもね……」


 ずっと厳しい表情だったばあちゃんが、ふっとそれを緩めた。


「あたしゃね。本当に嬉しかったよ。あんたが、心底あたしの気持ちを考えてくれてたってことがね」


 ぐっ。思わず涙腺が緩んだ。


「あんたも奥さんも、根は優しい。あんたの姉さんだって、悪い人じゃないよ。追い込まれた経験がないだけさ。腹が出てくりゃ、いやでも明日のことを考える。心配ないよ」

「……はい」

「後はね」

「はい」

「親にきちんと筋を通しておくんだね」

「……」

「あんたも奥さんも、親にはいい感情を持ってない。そうさ。確かに今さら親の性格は変えられないよ。あたしがずっと因業なのと同じだ」

「う……」

「ただね、それならあんた方が大人になんないとだめだ。ただぶん投げるんじゃなく、ちゃんと筋を通してどやす。そうしないとお互いに示しが付かない」


 うん。確かにそうだ。それは……俺がこれまでどうしても踏み込みたくなかったこと。親が構ってくれなきゃ、俺は俺で勝手にやる。ガキの頃からの俺の発想が、そこからちっとも進歩してない。姉貴が自分のだらしなさを諦めているように、俺も親を親だとは思いたくないっていう拗ねから抜け出せていない。


 親として何かしてくれっていう期待は最初からしてない。それでも、俺は俺の親よりはまともな態度を見せないとけじめが付かないんだ。

 けじめ。誰に対して? 俺自身じゃない。ひろに対してでもない。俺やひろの親に対してでもない。生まれてくる俺の子に対してだ。ひろをどやす前に、俺に親としての本当の心構えが出来ていなかったことを猛省しないといけない。


 俺が握りしめた拳に血管を浮き上がらせてじっと黙り込んだのを見て、ばあちゃんがひそっと笑った。


「はっはあ。あんた、ほんとにまじめだねえ。自分に腹立てたんだろさ」

「……」


 ばあちゃんは、ふっと一息ついた。


「あたしのはね。全部自分の後悔さ。子供を産めなかったってだけじゃないよ。やっちゃんを上手に躾けられなくて、旦那は不貞腐れ、浩次さんとこに迷惑をかけた。あたしも傷付いたけど……やっちゃんを曲げちまった」

「……」

「そんな思いは……誰にもして欲しくないのさ」

「はい」

「だから、あたしは鬼婆になれるんだよ。誰に何と言われようとね」


 ばあちゃんは、最初の厳しい表情に戻った。


「さあ、行こうか。あんたとの契約は残ってる」


 え!?


「鉄は熱い内に打たないと。冷めて固まっちまったら、いくらあたしでも手が付けらんなくなるからね」


 俺の肩をどんと突いて、ばあちゃんが俺を急かした。


「さあさあ!」



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