(3)

「あたしもさ。こんなばばあになってから。いろいろ考えちまうようになったんだよ」

「いろいろ、ですか?」

「ああ。主人はあたしを好いて女房にしたはずなのに、子供が出来ないと分かった途端に手のひらぁ返した。冷たかった。夫婦なんて形だけさ。それなのに、勝手にやっちゃんを養子にして、その世話をあたしに押し付けた」

「ええ」

「カネのやり繰りの苦労も育児の苦労も何も知らずにさ、あたしを独りにして放り出した。やっちゃんはいいさ。帰れる家があるんだから。でも、あたしはそうは行かないよ」

「離婚は考えなかったんですか?」

「今みたいに、気軽に別れる、切れるって言える時代じゃないよ。あたしの手に職があるわけじゃないしね」


 そうか。確かにな。


「だからあたしはね、死んだ主人の墓に入るつもりなんかないんだ。もちろん、ろくでなしのやっちゃんにカネを残すつもりもない。あたしのカネは、誰にも残さないで、誰にも使えないようにして、この世に全部捨ててくつもりさ」

「ほう」

「やっちゃんは、あたしのそういう決心を嗅ぎ付けてるみたいでね。ここに来て、あたしの目の黒いうちにむしれるものがないかを嗅ぎ回ってるんだよ」

「なるほどね。それで、金目のものが入ってると思って、あの壷をこっそり持ち出した、と」

「ああ。そんな、すぐ目に付くところにゼニなんて置いとくかいな。バカが!」


 ばあちゃんの雰囲気が、最初に来た時のようにきんきんに角の立ったものに変わった。


「あんなもなあ、売ったって一銭にもならないよ。だけど、あれはあたしにとっては大事なものなんだ。どうしても取り戻したい」

「分かりました」


 俺がすぱっと返事したことに驚いたんだろう。


「え!?」


 ばあちゃんが、きょとんとする。


「ええとね、梅坂さんがお探しのものは、すぐに出てくるか、永遠に出てこないか、どちらか一つだと思います」


 ぽかんと口を開けて、俺の顔を凝視するばあちゃん。


「そのやっちゃんて人の住んでるとこは、ここから遠いんですか?」

「電車で三十分くらいだね」

「車はお持ちなんですか?」

「前に派手な事故起こして、免許取り消されてる。乗れないはずだよ」


 やっぱね。典型的なドラ息子か。暴力的ではないにせよ、親離れ出来てない甘ちゃんで、社会性もうんと低いんだろう。もういいトシだろうに。グレてないってことは、そんなに気が強いわけでもなさそうだな。ばあちゃん締め上げてカネ搾り取るガッツはなくて、ちょろちょろ付きまとっては小遣いを無心してきたって感じなんだろうな。それで、自分の母親宅を訪ねるふりをして室内を物色した。近所の人に怪しまれないよう、ばあちゃんが蓄財活動のために家を空けてる昼間に来て、昼間に帰ったんだろう。


 ばあちゃんが、なぜ警察沙汰にしなかったか。さっきばあちゃん自身が言ったみたいに、茶壷にもその中身にも金銭的な価値がないからだろなあ。養子には何も残さないと言って、カネやモノには一切執着しないはずのばあちゃんが、強烈な蓄財に励みつつ何の価値もない壷に拘わること。それが何を意味するか。


 俺には、答えが一つしか浮かんでこなかった。あとはそれを確かめるだけだな。


「梅坂さん。もし見つかるケースであれば、今日中に取り戻せます」

「え? そうかい?」


 拍子抜けしたように、ばあちゃんが声を裏返らせた。


「それをこれから確かめに行きますので、ご自宅で私からの電話を待っててくださいますか?」


 じっと俺の顔を見ていたばあちゃんが、こくりと頷いた。それから、汚い財布からしわくちゃの諭吉さんを四枚出して俺に手渡した。


「頼むね」

「はい。承りました」


◇ ◇ ◇


 ばあちゃんが俺の事務所を出たあとで、正平さんに声を掛けた。


「正平さーん」

「おお、中村さん。ばあさん、どうだったい?」

「噂通り、めちゃめちゃ強烈な方で」

「だろう? とっても頼みなんざ受けられねえだろ?」

「いえ、きちんと依頼していただきましたよ」

「おわっ!?」


 腰が抜けるんじゃないかってくらいに、正平さんがびっくりしてる。


「なんでまた」

「そうですねえ……」


 俺は、正平さんに修理を依頼してある座卓を指差した。


「正平さん。あれは、私にとっては単なる古いおんぼろの座卓で、ものすごい愛着があるってわけでもないんですよ」

「ほう?」

「でもね、家内があの座卓にものすごい執着してるんです」

「あんたの奥さんはいいとこの人だろ? 珍しいね」

「あれは……」

「おう」

「私と暮らしはじめる時に、私が唯一おんぼろアパートから家内のマンションに持ち込んだもの。あれだけが私の財産なんです。嫁入り道具ですね」


 笑うかと思った正平さんが、じっと口を結んだまま座卓を凝視する。


「なるほどな」

「そんな風に、何かに拘わるってのはどこかに背景があるんです。そして、私にはあのばあちゃんの背景が透けて見えました。だから受けたんですよ」

「そうか……」


◇ ◇ ◇


 ばあちゃんのドラ息子。こすっからいが、気は小さい。金目のものが隠してあると思って、ばあちゃんの家から壷を盗み出したものの、中身を見て慌てたんじゃないだろうか。もともと無価値のものだ。確かめた後でゴミ箱に放り込んでしまえばそれまでだけど、中に入っていたブツがブツだっただけに捨てられなくて、移動中にどこかに置き去りにしたんじゃないかと、俺はそう踏んだ。


 ドラ息子が使いそうな電鉄会社とJRの遺失物係に、そういう茶壷の遺失物がないかどうかを照会した。私鉄のA社の遺失物係から、よく似た形状の茶壷が遺失物として保管されていると聞き、早速照合に出向いた。


 係員が白手袋をはめてプラ籠に入れて持ってきた小さな茶壷。それはばあちゃんから預かった写真のそれと、特徴がぴったり一致していた。中身がアレなんで、本来なら俺が受け出せるようなものではないんだけど、だからと言ってばあちゃんにも自分の所有物だと証明出来るものじゃない。でも、預かっている向こうが始末に困るブツだ。俺は適当に作り話をでっち上げて、茶壷を受け出してきた。


 そう。それに入っているのは……かわいがっていたペットの遺骨だと言い逃れて。


◇ ◇ ◇


 ばあちゃんの依頼を受けた翌日。依頼解決の報告と、概算払いの精算のためにばあちゃんに来てもらう。


 ばあちゃんは俺が手渡した壷を受け取るやいなや、生き別れの姉妹にでも再会したかのように胸のところに抱え込み、涙を見せた。


「おかえり、秋子」


 目尻の涙を手で拭ったばあちゃんは、俺が返そうと用意していた日当と交通費の余剰分を受け取らなかった。


「それは謝金だよ。あたしゃ覚悟してたんだ。この子が戻ってこないってね。でも、あんたがちゃんと見つけてくれた。さすが正平が自慢するだけある。すごいね」


 いや、遺失物係に受け取りに行っただけなんだが……。でもくれるというものは、ありがたく頂戴しよう。


「中身を見たんかい?」

「いえ。でも探すには、中に入っているもののあたりを付けないといけないので。昨日お話を伺った時に見当はついてました」

「そうかい」

「梅坂さんの息子さんか、娘さんの。それもまだうんと小さい赤ちゃんの遺骨じゃないんですか? 死産されたのかなと思ったんですが……」

「ああ。さすが探偵さんだね」


 ばあちゃんが、これまでずっとまとっていた厳しい空気を緩めた。


「あたしゃね、最初から子供が出来なかったわけじゃない。結婚した翌年に授かってたんだよ。だけど、その子は早産で死産だった」

「やっぱり、ですか……」


 ばあちゃんが窓の外に目を向けて、そのもっと奥に視線をさまよわせた。


「死んだ主人が、子供なんかまた出来る、くよくよするなって言ってくれりゃあ、あたしも踏ん切りが付いたんだ。でも主人はあたしを責め立てた。この役立たずが、子供一人まともに産めねえのかってね」

「ひどい……ですね」

「まあね。でも、それだって時代さ。女房は子供産んで一人前。それが世間の風だった。主人だけが特別冷たかったわけじゃない」


 自分に言い聞かせるように、ばあちゃんが言葉をさらりと流す。


「だけどね、あたしゃそれで信じられるものが何もなくなったんだよ」

「ええ……」

「主人の子供を産むのがいやんなっちまったあたしは、もう二度と孕むことはなくなった。それがあたしの意地だったのか、どっか身体に問題があったんか、それは知らないけどさ。でも……別れる元気もなく、一緒に暮らす意味も分かんない。懐かない養子の世話にただ明け暮れて。ああ、この子が生きて産まれてくれてりゃなあって」


 ばあちゃんが、茶壷を見つめてそっと撫でた。


「主人にとっては、死んで産まれて来た子なんか何も興味がなかったんだろ。供養もせず、墓も立てずだよ。辛気くせえからだめだって、骨壷一つ買ってもらえなかった」


 そうだったのか。だから……茶壷だったのか。


「あたしは……」


 ばあちゃんが背を丸めて、茶壷を抱え込んだ。


「あの人と同じ墓には絶対に入らない。絶対にごめんだ。あたしがこの子に何も出来なかった罪滅ぼしに、この子と一緒にあの世で暮らしたい」

「じゃあ、お金を貯めてらっしゃるのは」

「ああ、この子と入るあたしの墓を立てるためさ。そこでやっと」


 ばあちゃんが、顔を上げてゆっくりと微笑んだ。


「あたしは、この子と暮らせる。水入らずでね」


◇ ◇ ◇


 ばあちゃんの件が解決した翌日。正平さんに頼んであった座卓の修理が終わった。それを持ってマンションに帰る。ちょうどひろも帰ってきたから、お披露目にする。


「うわ、すっごぉい!」

「うん、正平さん、いい腕だわ。全く錆びてないね」


 ひろが両腕を広げて、愛おしそうに座卓を抱え、頬を付ける。


「良かったねー、こんなに上手に直してもらえてー」


 うん。きれいに、じゃない。上手に、なんだ。ばあちゃんの依頼を受ける時に、俺は正平さんに拘わりの話をした。正平さんは俺が言ったことを聞き流さないで、しっかり考えてくれたんだろう。


 ひろは、新しい座卓が欲しいわけじゃない。座卓は、俺がひろと対当な立場であることの象徴だ。どんなにおんぼろでも座卓は俺の生活を支えてきた存在であり、その座卓が今ひろの精神を支えている。座卓で顔突き合わせてメシを食う時間は、俺とひろの間のあらゆるアンバランスを帳消しにするんだ。だからこそ、ひろはあの座卓にうんとこさ拘わる。


 俺がひろを支配するでもなく。ひろが俺を支配するでもない。見かけのバランスがどんなに悪くても、俺もひろも一個の人間として相手の人格や考え方を尊重すること。あの汚い座卓は、その重要性をいつも俺らに意識させてくれる。正平さんは、俺らの背景をきちんと見てくれていたんだ。傷んでいた足は新品に付け替えられていたが、天板の古さから足だけが浮かないように、古材を利用して見事に整えられていた。


 正平さんのそういう目の良さは、みんなが梅坂ばあちゃんを徹底して遠ざけている中、ただ一人だけばあちゃんが抱えている危うさを見抜いたことにも発揮されている。正平さんの細やかな気遣いが、ほとんど落ちかけていたばあちゃんと現実との間の橋を辛うじてつなぎ止めたんだろう。


 なあ、ばあちゃん。あの世にしか自分の置き場を作んないのは、寂しいぜ。

 せめて正平さんとの間だけでいいから、まともな会話が出来るようになってくれれば。そう祈りながら、火柱の上がっているどでかいホッケを座卓の真ん中にどかんと置いた。


「羅臼の縞ホッケ、特大だ。めっちゃ油が乗ってる。さあ、メシにしようぜ」

「わあい!」



【第四話 茶壺 了】

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