(2)
カレンダーを睨んだまま冴えないことをつらつら考えているうちに、いつの間にか日が落ちて暗くなっていた。
「さて、今日はこのくらいにして帰るか」
事務所の電気代は、アパートのより高いんだ。照明にかかる分をけちらなあかんからな。俺が回転椅子の上でのあぐらを解いて、痺れた両足を床に下ろした途端に、机の上の電話が鳴った。
「ん?」
番号非表示ではなく、発信番号が表示されてる。携帯からか。だが、見覚えのない番号だ。依頼かな?
「はい、中村探偵事務所ですが」
「所長の中村……さんでしょうか?」
抑揚のない、淡々とした女性の声。
「はい、そうです」
「わたしは、
「調査依頼でしょうか?」
「はい」
「詳しくお話を伺いたいので、ご足労ですが、事務所までお越しいただけますか?」
「あの……」
「はい?」
「これからでも……よろしいでしょうか?」
「構いませんよ。事務所の場所は分かりますか?」
「いいえ。タウンページの住所だけで辿り着けるでしょうか?」
ふむ。電話帳から……か。珍しいな。
「そうですね。私の事務所は、通りから少し引っ込んだところにあるので、暗くなると分かりにくいかもしれません。私が迎えに行きますので、横田3の2のプレストっていうコンビニまでお越しくださいますか? 角にある結構大きなコンビニなので、すぐ見つかるはずです」
「分かりました」
「コンビニに着いたらもう一度お電話をください。事務所にではなく、私の携帯にお願いします。携帯からかけ直しますので、電話を切ってお待ちください」
「はい」
事務所の電話を切って、俺の携帯から依頼人にかける。
「光岡さんですか?」
「はい」
「中村です。コンビニに着いたら、この携帯の方にかけてくださいね」
「はい。分かりました」
ぴ。
ふむ。声から判断する限り、若い女性だ。ダンナやカレシの浮気の調査かな? でも、それならもっと信用のおける大手に頼んだ方が安心だと思うんだけど……。依頼が入りそうで嬉しいという気持ちより、なぜ俺のところなんだという気持ち悪さが先に立って。俺は、厄介な自分自身の性格に苦笑いしていた。
「これじゃあ、絶対に儲かるはずなんかないよなー」
◇ ◇ ◇
電話があってから三十分くらいして、机の上に置いてあった携帯が鳴った。着いたか。
「はい、中村です」
「今、コンビニに着きました」
「すぐ迎えに行きますので、店の中に入らずにそのまま入り口の近くでお待ちください」
「分かりました」
うーん。特別緊張しているとか、怒りで震えてるとか、がっくり落ち込んでるとか、そういう感情の露出が電話から全く聞こえて来ない。どうにも薄気味悪いな。まあ、いい。続きは、ご本人をここに呼んでからだ。俺は財布と携帯だけを尻ポケットにねじ込んで、事務所を出た。
コンビニまでは、ゆっくり歩いても五分とかからない。コンビニに直行せず、少し離れたところから依頼人であろう若い女性の行動を監視した。
俺の予想通り、若い。二十代前半だろう。それにハイレベルの美人さんだ。スタイルもいい。ただ、そういう見栄えとは裏腹にどうにも覇気が感じられない。落ち込んでるとか何かに悩んでいるという以前に、年齢相応の生気が感じられない。時間を気にして時計を確認するとか、周囲の視線や気配を気にするとか、そういう感情が現れる行動が全くない。意識がどこかにぶっ飛んでて、ぼーっとしているんだよな。そのぼーっとしている様子が、どうにも見かけの年齢にそぐわないんだ。
本当に落ち着き払っている精神どっしり安定型の人なら、そもそも俺に何かを依頼するなんてことはないだろう。自力で解を探るだろうからね。その手の人は、調査を俺らに依頼しなければならないとしても、金銭の問題よりちゃんと解決出来るかどうかを重視するはずなんだ。電話で話してたみたいに、電話帳から適当に引っ張るっていう決定手法がそもそもおかしい。
「ちぇー。まあた訳ありかよう」
思わず、ぶつくさ言って。言った自分自身に思い切りツッコミを入れた。
「俺が承ける依頼に、まともなものなんて最初からあり得なかったっけ」
はははのは。
名刺を用意してから、ゆっくりと依頼人に近付く。
「わざわざお越しいただき、申し訳ありません。中村です」
「光岡です。どうぞよろしくお願いいたします」
ぺこり。
うーん……。俺を見ても、表情を変えない。淡々としている。まるで……沖竹所長が女装して目の前にいるみたいだ。
「事務所はすぐ近くなので、付いてきてくださいますか?」
「はい」
俺の後を、気後れもせず、周囲を気にすることもなく、澄ました顔ですたすた付いてくる。なんとも……奇妙だ。
事務所の渋い引き戸をぎゃるぎゃる言わせながら引き開けた俺は、室内灯を点けて入室を促した。
「どうぞお入りください」
「はい」
ほとんどの依頼人は、このぼろっぼろの事務所を見て絶句する。そのおんぼろさは、昼でも夜でも変わらずにすぐに分かるはずなんだ。だが……。光岡さんは、一切そういう反応を示さなかった。天然という言い方があるとすれば、間違いなくウルトラレベルの天然だ。でも、天然の人にありがちな、どこかすっとぼけてるとか天真爛漫な言動、行動とか、そういうものが全く見えてこない。むしろ尋常じゃない落ち着き方で、つんと取り澄ましているように感じられてしまう。ううーん。
おかしいと言えば、俺の渡した名刺を全く確認しないのもおかしい。こんな得体の知れないへっぽこ探偵、大丈夫なの? そういう俺の足元を見透かすようなアクションが、相手がどんなタイプの依頼人であっても出るものなんだ。それが……ない。一貫して、ぼーっとしたまま。本当に、薄気味悪い。
まあ、いい。俺の印象なんざ、いくら積み重ねたところで何の腹の足しにもならん。まず依頼内容を聞いて、引き受けられるかどうかの判断だ。
ゴールデンウイーク明け。春から少しずつ初夏へ切り替わっていく季節だが、日が沈むとまだまだ肌寒い。俺は電気ファンヒーターのスイッチを入れ、それをガラステーブルの横に引っ張り出した。そのあと来客用のソファーを勧めて光岡さんに座ってもらい、依頼内容を聞き出す。
「ええと。光岡さんのご相談内容は、どのようなものなんでしょうか?」
「はい。素行調査をお願いしたいんです」
うん。それは予想通りだ。
「お付き合いされている彼氏さんの、でしょうか?」
光岡さんは年齢的にまだ未婚だろうと思った俺は、無難にそう聞いてみた。ところが。彼女の口から、とんでもない返事が飛び出した。
「いいえ。わたしの、です」
「+@*=%$#;%&¥!!!」
ずっどーん!!
力一杯のけぞった俺は、その勢いで、座っていた回転椅子ごと真後ろにひっくり返ってしまった。いでででで……。
床に打ち付けた背中をさすりながら、態勢を立て直す。
「ちょ、ちょっと待ってください。それに……なんの意味があるんでしょう?」
「……」
初めて、少しだけ感情が見えた。話したくない。そういう……拒絶の表情だ。
「それを……お話ししないと、だめでしょうか?」
「うーん。ちょっと、難しいです」
「どうしてですか?」
「私が余計なことをいろいろ勘繰らないといけなくなる。依頼の意図が明確でないと、あなたに、ではなく、私に厄介事が降りかかる恐れがあるので」
「そう……ですよね」
分かってんじゃん。
「例えばね」
「はい」
「もしあなたがストーカー被害に遭っていて、その相手が特定出来てなかったとします」
「はい」
「そのストーカーの正体を明かして欲しい。そういうことなら、問題なくお引き受け出来るんですよ。調査も短時間で終わりますし、特定された相手の情報を携えて警察に対応を相談することも出来ます」
「はい」
「調査の目的、目標がはっきりしているので、私の関与の範囲は自ずと限定されます。私は坦々と仕事に臨めます」
「ええ」
「でも、今の光岡さんのお話では、調査を依頼される目的が分かりません。私が行った素行調査の結果を、あなたがどう利用されるのかがちっとも分からないんです」
「ええ」
「あなたの素行を私に調査させるということは、私があなたに関わる人物を特定する、そういうアクションになるんです」
「そうですね」
「それがヤクザだったら? 武装した危険なストーカーだったら、別れたい嫌なオトコだったら?」
「……」
「あなたは、自分の素行を私に記録させることで、そういう連中からの縁切りを切り出すことが出来る。そして、私がその保証人になってしまう。だって、調査者である私しかあなたの素行を証言出来ませんから」
「はい」
「いわゆる『別れさせ屋』の手先として使われると、私にどんなとばっちりが及ぶか分かりません。それじゃあ……」
ふう……。光岡さんの口から小さな吐息が漏れた。
「そうですよね」
「違うんですか?」
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