ロリループギャラクシー

@ni-pyo

第1話

 空から降りてくる雪が、冷たい。

 雪は風に乗って吹き荒れる猛威ではなく、重たく濁った曇り空からぽつぽつと投下され、やがて進のいる地上へ落ちてくる。

 そして頬や鼻の頭に当たると、雪が溶けて雫になった。

 鼻や頬の赤いしもやけが、ピリリと痛む。

 進は動かない(動けない)状態で、ただ空を見上げるしかない。

 夏が終わった頃からだろうか。この頃、妙に季節が移り変わるのを早く感じる。夏が終わってほしくないという願いも虚しく、気づけば季節も徐々に力を失い始め、雪降る季節となった。

 寒い。顔だけが一段と寒い。進の頭上に異様に大きく広がる空が、乾燥した凍てつく空気を常に漂わせる。そんな寒空の中で小さく震える進だが、空を見上げていると、世界が大きく感じられた。

 進はこの十二年間で世界のどれくらいを知ったのだろう。

 手の内に握れるくらいしか知らないはずである。

 そんな進をよそに、世界は日々力ある者達によって広げられていく。それが、進の生まれた時代だった。

 だからこそ、対比して進自身がとてつもなく小さく無力に思える。 

 そんなことを思いながら、進は頭に降り注ぐを受けながら手に持ったゲーム機に集中していた。

「そっち行ったぞ! あともうちょっとだー」

「任せろ! 新しい武器を手に入れたんだ! 倒してやる!」

「ぐはっ! やられたー。あともう少しだったのに!」

「バン! バン! どうだ! これで終わりだっ!」

 進が、熱中してゲームのボタンを弾く。敵であるドラゴンの動きを判断し、攻撃をかわしながら遠距離攻撃を続けていけば確実に倒すことができる。だが、皆のプレイは武器やステータス任せにして闇雲に突っ込んでいくだけだから、すぐにやられるのだ。

 進の攻撃で皆で攻撃していたドラゴンの敵が、画面上で倒れた。

 みんなが、進を称える歓声を上げるのだ。それが嬉しかった。

「すげー。進のおかげじゃん! 強えー」

「銃の武器使うのうめーよ! かっこいいなー」

「そんな、かっこいいだなんて。相手に直接斬りかかるより、遠くから攻撃した方が安全なだけだから」

 進がゲームクリアの要となっただけあって、進は皆の中心となる。

 それが進にとって、嬉しくてたまらない。

 そして皆で集まって体をくっつけていたら、暖かくて寒さをしのぐことができた。皆と一緒にいて、心通わせることこそが今の進にとって最大の幸せだった。もし、この場から仲間はずれにされ、雪降る中でただひとりだとどうなるだろう。

 心も体も寒さで凍てついて、進の心が死んでしまうに違いない。

 実際、そうなりそうな状況に落ちていたため、今この瞬間の立場にただ感謝するしかなかった。

 皆でわいわいがやがや集まっていた場所は、大きな公園だった。

 総勢七名ほど。もちろんクラスでの友達同士である。

 時期は十一月のある日。夏休みが終わって秋になった頃から、頻繁にこうして集まって遊ぶようになった。

 進は、我ら六年一組を構成する皆のバランスの良さや、性格の相性の良さを奇跡だと思っている。五年生からの二年間。大きな決裂もなく、笑ったり喜んだり、時にはそれぞれが立ち入れない孤独を抱えて悲しみもした。一人一人が「個人」として、支え合ってきたのだ。運動会だろうが合唱コンクールだろうが、皆で協力して成し遂げたのだ。自慢だが、そんな我が六年一組は仲が良い。

 頻繁に皆で固まって遊び、仲間はずれは一人もいないくらいだ。

 そして男女の間で距離は測りつつ、適度に互いの仲を噂しながら、頬を紅くしたりして互いに意識しあったりもする。

 そんな積み重ねてきた大切な仲間達が、ばらばらになる。

 その瞬間が迫ると同時に日の輝きが弱くなり、こうして雪降る季節となった。皆、別れたくないのである。

 この奇跡的集団を引き離す世の中とは、何と残酷なのだろう。

 皆上着を着ていても寒いらしく、固まってわいわいする。

 進が動けずに、雪を見上げる理由がこれだった。

 進はもうひとつクエストを皆で攻略して、モンスター退治をするかと思ったが、集団の中心となっている子が言うのだ。

「うー。さみー。ななっ! そろそろあったかいところいかね? こんなところでゲームしてたら凍え死ぬだろ」

「さんせー。デパート行こうぜ!」

 皆そう言うと、ゲームをバッグの中に入れて動き出す。

 進は何も言わずに集団の中へ溶け込んで、行動を共にした。

 雪は弱まることも強まることもなく、依然として降り続けた。

 その静寂な雪の降り方が、妙に寂しく感じる。

 だって進と皆が歩く、広い大通りが沈んだ色合いを出すのだから。

 この集団のうち、何人かが固まってわいわい話している。

「ななっ! 進には宇宙中学校の案内来てるか?」

 進は友達から、そう問われる。

 あまり答えたくない話題だが、それでも進は答えるのだ。

「来てるっていうより、もうぼくが行くことを決められて迷惑してるよ」

「すっげー。さすが船長の息子! うらやましいぜ!」

 そんな進から見て遠くの方に、街頭オーロラビジョンが何かの宣伝映像を流していた。

 写っていたのは、髭のおっさんだった。それを見て進は嫌悪する。

「さあ夢見る少年少女達よ! 君たちは本当に幸運な時代に生まれたな! 何せ世は宇宙世紀! 夢と冒険心に満ちた君たちを広大な宇宙が待っているんだからな! さあどんどん勉強したまえ、どんどん強くなりたまえ、今の先行投資が明日への希望だ! そんな君達を我が宇宙船団は待っている!」

 進は共にそんな期待をされても嬉しくない。

 だが、その心情を察してくれる友達がフォローに回るのだ。

「やめろって。誰でも宇宙に行くことが幸せとは限らないだろ? 押し付けられて迷惑する奴もいるんだ」

「宇宙学校で勉強して宇宙に出れば、金持ちになれるんだぜ? 女にもモテモテだぜ? それを嫌がるなんて勿体ねー」

「分かるよその意見。今の時代、それが一番の幸せだもんね。それを受け入れないぼくがこどもなんだよ。だから、受け入れないと」

 髭のおっさんが画面出たと思ったら、次はハゲのおっさんが画面に出てまた同じように夢だの希望だの演説をする。



「このっ! でやっ! 食らえっ! 死ね! やたっ!」

「進すげー! めっちゃ強えーじゃん!」

 進はゲームセンターのガンシューティングゲームに熱中していた。

 こういうゲームは、嫌なことを溜め込んでいるほど強くなれる。

 進は優等生だ。誰にも反抗しない。だが、このようにゲームで暴力衝動を解消しなければならないくらい、抑えられないものがある。

 時が過ぎて卒業が迫まっていること。

 そして、家にいるあの人のことも。

 だからこうやって皆で遊んで輪の中に入ってる時こそ、自分が一人じゃないと感じられて救いになることこの上ない。

 嫌なことを忘れ、楽しいことで心が満たされるのだ。

 進はひたすらグリップを握り、トリガーを引き続ける。

 画面の中でゾンビが撃たれ、次々に倒れていく。

(こどもだってね、嫌なことばっかりだよ!)

 ゲームに漫画にアニメ漬けの日々。そうなるのは、進この世界を嫌いだからである。嫌いだから遊びに空想の世界にのめり込むのだ。 

 それは集団に溶け込む理由でもあった。

 大人達は皆進の気持ちを無視して宇宙に行けという。

 まだこどもだから。若いから。これから可能性があるから。

 そんな理由で押し付けられるなんてたまったもんじゃない。

 だから遊ぶのだ。嫌なことだらけのこどもの世界には、楽しくて全てを忘れさせてくれるおもちゃがわんさか待っているのだ。

 今月は遊びにいくら使っただろうか。五千円くらいはいってるか。

 今のこども(特に男子)は、やたらとお金を欲する。物に飢える。

 物でなければ心を満たせず、狂うように遊び続けるのだ。

 進のように、友達と遊んで遊んで遊び続けて、心と心を溶け合わせなければ生きていけないとさえ思えてくる。

 仲間はずれにされては、心が否定され、死ぬのだから。

 だから進は、お金の価値も分からずにゲームに漫画に消えていく。

 けれど、いくら楽しんで消費しても、まだ遊び足りない。

 終わることのない消費は永遠と続き、何かを得れるようで何も得れない。何にもならない。所詮は遊びだ。現実世界に干渉して、何かを動かすわけではない。そうだと知っていてもはまり続け……。

 精神的荒廃を抱えながら、抜け出せないあり地獄と化すのだ。

 本当なら、大人が提示する道を拒絶して、己の道を歩むべくあれやこれやと努めるべきだ。ましてやもう卒業も迫っている。

 なのに進の頭にあるのは、ゲームの攻略法に漫画の必殺技の名前に深夜アニメの新作情報。成績も悪くなく秀才であるはずなのに、これでは完全にあほの子ではないか。

「すげー。やっぱ進は天才だぜ!」

 ゲームプレイが終わって興奮状態の進を、友達がばっと飛びついてくる。進はそれを嫌がりもせず受け止めた。嬉しいのだ。

 周りにたくさんの友達がいて笑ってくれる。

 一緒にゲームで遊んでいれば、心溶け合わせることができる。

 しかし。皆が優しく笑いかけてくれても、皆、進の抱えている苦しみは、知らない。そして進は皆の抱えている苦しみを、知らない。

 その上でこうやって、笑い合う。

 何も考えなくていいのだ。辛いことも悲しいことも忘れて、ただ遊んでいるだけでいい。そうするだけで、集団に許容される。

 その達成はこどもにとって死活問題である。

 だから進は、人と溶け合っていたいがためにこうして集団へ溶け込むことを選んでいた。

 進はこのデパートに入る前。おしくらまんじゅうのように友達とべたべた引っつきながら雪降る寒さに耐えていた時思い出していた。

 あれは、夏が終わった頃のことだったか。

 少し前から、クラスの友達と関係が悪くなった。

 ささいなことだ。ゲームごときで少し進がムキになってしまい、何人かの友達と意地の張り合いでけんかになったのである。

 この年頃は、勝ち負けひとつで関係が変わることがある。

 勝つと負けるという、加虐と被虐の精神。その上下関係によって、心同士のバランスが崩れることがあるのだ。普通ならそこに「ただのゲームだから」という意識によって衝突は起きず勝つも負けるも何の負担にもならないのだが。時にそれを超えてしまう場合がある。

 そういうことが起きるのは、進くらいの年齢までだ。それ以降の年齢になると、理性的になって調和を重んじ、そういうことは起きなくなる。進は、その時負けることによって疎外されたくなかった。 

 なのに友達が、グルになってきゃきゃっと進を笑ったのだ。

 進は、その馬鹿にされた態度に腹が立った。

 そこで、進はゲームであるということを忘れ、友達につっかかってしまったのだ。今では本当に己を恥じ、心痛めている。

 その時。進の心はどれだけ冷え込んで疎外感を味わったことだろう。だって見放されたのかもしれないのだ。嫌われたのかもしれないのだ。進の存在が否定される。そして否定されて透明になる進をよそに、友達はきゃきゃっとゲームして遊ぶだろう。

 進は心の叫びを上げる。見捨てないで。ぼくを一人にしないでと。

 だから、今ここにいて集団の中に溶け込んでいるのだ。

 本当なら、悪くなった仲を良くするために心を砕かなければならない。それは辛いことだろう。だって真正面から相手の心と向き合って、心を砕いたとしても相手が許してくれたり自分の気持ちを分かってくれるかどうかも分からないのだ。

 互いの気持ちが分からず、関係が破綻してしまうことだってある。

 だが、その問題に向き合って天秤かけられることもない。

 なぜなら、こうして仲良く遊んで楽しい思いをしていれば全ての問題事もなかったことになるのだから。

 進は友達と笑い合いながら、前方に仲の悪かった友達がいた。

 そこに怒りも不仲もない。あの事もなかったことになっている。

 ほら、何もせず遊んでいるだけで解決したではないか。

 解決すべき心の問題も、怒りも、時間と共に流れていき……。

 遊んで楽しくなっていたら、忘れた。

 もう互いに掴み合った頬の痛みだってどこにもない。だが、進は嬉しくて楽しい傍ら心のどこかに穴が開くような空虚感を感じる。

 ゲームや漫画漬けで楽しい思いをしていても、本当にこの溶け込んだ集団の中に進の存在があるのかを疑うのだ。

 ゲームでナイスプレイをしても、友達と仲良くおしゃべりをしても、そこに誇るべき何かがあるようには思えない。

 どこか、うそで塗り固められた空虚感を感じる。

 そして、確実に進にとって必要な何かが奪われていく気がする。

 そんな時だった。進のいる集団がある一団を目撃するのだ。

「おっ。ガールズじゃん!」

 遠くの方で、クラスの女の子達が進達と同じように楽しくやっていた。冬の女の子達はおしゃれな冬着を着て、寒さによってかすかに紅くなった頬が妙にかわいく感じる。

 皆、姿はこどもじみていない。妙にすらっと身長が高く見え、その様はもう中学生だ。それは進のいる男の子集団も同じだった。

 進のいる集団は無理に女の子達と接触したりしない。

 高嶺の花を、皆で遠くから見るだけだ。

「へへっ。かわいーな!」

「何だよ。お前あいつのこと好きなのかよ!」

「そんなんじゃねーよ! お前こそどうなんだよ!」

 などと、皆笑いながらふざけ合うだけだ。そこにある目線は様々だった。尊敬の目もあれば、かわいいものを見る目もある。

 弱弱しさを突いてみたいという目もある。

 それは女の子達も同じだ。両者とも全く接近しないが、まるで鏡合わせのように同じ反応をする。

 進の場合はどうだろう。向けていた目は、どこか冷めた劣等感ある目だった。彼女等には敵わない。進は大人な彼女達と比べて、ゲームに漫画にしか熱中しないガキである。

 そんな愚かで小さな己が、妙に大人っぽく見える彼女達からどう見られているのか。それを考えると辛くなる。

 偉大で大きな存在が、小さな愚か者を見る。

 その絶対的に開いた差に進は己を恥じるなら、今宇宙中学校に入るためにあれやこれやと努めるべきである。

 だが、そうしたくても進にはそれができない。 

 できない理由があるのだ。

「そこの姉ちゃん! 俺達と一緒にデートしようぜー」

 などと一人が冷やかしたが、笑いながら女の子達は去ってゆく。

 進も見ていたが、ぐいっと引っ張られ、肩に腕を回される。

「お前も好きな子とかいるんだろ? なっ、もうすぐ俺達卒業で離れ離れなんだぜ? 今のうちに思い出作りしとけよ」

 進は、笑いながら答える。

「好きな子はいないよ。でも、興味はあるんだ。キスってどんな味なんだろうとか、あの子のおっぱいはどのくらいの大きさなんだろう。服の上からじゃ見えないなーとか」

「おおっ! 見た目に反してすけべー」

 恥ずかしげもなく言う進を、皆が称えてくれた。

 そして進は、去ってゆくガールズ達の後姿を見るのだ。

 遠い。小さな背中が、更に小さくなって消えていこうとしている。

 進が手を伸ばしても、届かずに消えていく気がした。



「じゃあなー。またいつか遊ぼうぜー」

 最後の最後までそれかい。

 進は手を振りながら、友の背中を見送った。

 背を向ける彼らの背中が、小さくなってゆく。

 進は寂しさに駆られ、彼等の背を追いたくなった。

 後ろからばっと掴まえて引き止めたい。

 距離が離れてゆき、暗闇の中へ消えていこうとしているのだ。

(待って! ぼくを独りにしないでよ! もっと遊ぼうよ!)

 冷たい風が、鈍くゆっくりと横から吹き付ける。

 だが、それそれはできない。進は心締め付けられ、ぐっとがまんした。進は、薄暗くてにぎやかな音に乏しい冬景色を独りで歩く。

 人の中に溶け込んでばかりいると、孤独に弱くなる。

 周りのぽつぽつと灯る光が、遠い幻想のように思えた。

 そして進を照らす光はない。ただ、孤独な進を凍らせるように、白い雪が彼の肩や頭に降り注がれて白く染めてゆく。

 進は心に孤独を抱えたまま、仕方なく歩き出す。

 いずれこの瞬間が来る。これだけは避けられない。それは皆も同じだろう。今日の集まりは、この瞬間からの逃避だった。

 本当は家に帰りたくない。願わくば夕暮れを越えて夜も遊んでいたいのだ。だが、今の進の年齢と金銭状況ではそれは叶わない。

 夜も遊び続けるなどの背徳的行為に、未熟な精神は耐えられないだろう。そして、遊び続けられるほどのお金も持っていない。

 進は上着に身を沈め、寒さを凌ぎながらぼんやりと考えた。

 手を伸ばしても届かない、女の子達の背中だ。

 女の子でなく、男の子でもいい。誰か心と心を溶け合わせてくれ。

 そんな進の心に飢えがよぎる。なぜ、求めても願い叶わずに皆の背中が小さくなって消えていくのか。

 そこに、どうやって生まれたのか、いつから生まれたのかも進には分からない、心の壁というものがあった。

 進は今、心の壁に苦しめられ、孤独に立たされているのだ。

 逆に進は問う。どこかに、心の壁を持たない女の子はいないのか。

 進よりも精神が大人びているから、進が高低差を感じて手が出せないのである。だったら逆に、進よりも精神的に幼い子がいないものか。六歳とか八歳とかだとあまりにも幼いから、十歳とか十一歳とかぐらいがちょうどいい。

 そう考えると、進の心の闇がぶわっと溢れ出し、欲求に満ちる。

 自分よりも幼い子を支配してしまいたい。

 なあに、簡単だ。精神的に進が上なら、簡単に精神的に幼い子を支配できるのだから。そしたらその子は、進のものだ。

 表向きは、仲のいい擬似的な兄妹関係。何も怪しまれない。

 できれば、学校と縁の無い所でそんな関係を築きたいものだ。

 学校の学年が関わってくると、それだけで下の学年と遊んでいる上級生というおかしな構図が生まれてくる。

 などと考えているうちに、自宅のマンションまでたどりつく。

 必ず進が向き合わなければならない現実が、そこにあった。

 進はエレベーターで上がり、自宅のドアを、開けた。

 その瞬間、凍てつく寒さが遮断された。暖かい空気が何だか進を安心させる。ここに帰ってくれば、もう雪に打たれることもない。

 進は玄関で雪を払い、靴を靴箱に入れると家に入る。

 進は、リビングへ伸びる廊下を歩く。途中にある自室への扉を開けて、部屋に閉じこもろうかと思った。だが、それはできない。

 食事を取らなければならないし、何よりもリビングに行かなければ奴が機嫌を損ねるだろう。だから進は、リビングに向かった。

 そのとたん、酒とつまみの臭いが鼻を刺激する。

 右を向けば、毎度お馴染みの後姿がテレビを前にソファに座っていた。そしてその背中が立ち上がり。こちらを向いて、笑った。

「おっかえりー。偉大なる父の元へよくぞ帰ってきた! 非行もせずに俺を慕い続けるとは親子の絆も固いもんだ! がっはは」

「帰ってきたんじゃないよ。帰ってこないといけないだけだよ」

 進は肩にかけたバッグを外し、テーブルに置く。

 冷蔵庫へ向かい、コップにお茶を注いで少量飲んだ。

 奴は、ふらふらとついて後ろに回る。不愉快だ。

 仕事がうまくいったのだろう。酒に酔ってふらふらしながら、奴は進の肩にポンと手を置く。酒の臭いが迫り、進は嫌がった。

「進。お前も最高の親に恵まれたな。こどもは生まれてくる親を選べないっつーが、お前はスーパウルトララッキーだ! 見ろこのキレイな家を! うまい飯は毎日食える! お前は好きなゲームにアニメに漫画に囲まれて楽しく遊べる! それもこれも俺のおかげだ! そして、何よりもお前が一番恵まれているのは!」

 やめろ。進は奴を突き放したくなった。だが、言われてることに間違いはない。豊かなこの生活も、楽しく遊んで日々を送れることにも感謝してる。大人になって恩だって返したい。

 だが、ひとつだけ許せないことがあるのだ。

 そして、酔った奴はとどめの一言を言うのだ。

「父であるこの俺が宇宙船団の船長であることだ! お前は船長の息子として、宇宙冒険に出るのだぁぁぁぁっ!」

 そこに、昼間のテレビ演説で出ていた宇宙船団船長。博史の姿があった。



 進は、来年中学生にもなる十二歳だ。理性的で感情に流されることもなく、精神的な面ではもう一人の大人である。

 わがままを言うこともない。集団秩序を第一に重んじ、皆の仲を保つためなら己を押し殺すことも構わない。

 全ては、皆と仲良くしたいためだ。

 だが、そんな大人な進にも、心のどこかで幼さを残していた。

 進の心の中には、遠い日に去っていった(なぜ?)母の姿がある。

 だから、今はいない母から与えられなかったものを求め、人に飢えるのだ。そして飢えている以上、望むがままに誰かを掴む時がこなければ、進は救われないだろう。

 もし、それができれば博史から離れた大人になれる気がする。

 中学生になったらそれができるだろうか。

 気づけば、そればかり追いかけ続けるようになっていたのだ。

 そんな進にも楽しいの日々は訪れる。そう、短いが冬休みだ。

 冬休みのある日、友達からすぐに「皆で遊ぶから進もこないか?」と誘いを受けた。もう、皆で遊べる時間も少なくなってきた。

 年明けてからでは遅いのだ。一月に入ると皆忙しくなり、気づけばあっという間に卒業だ。何もできやしない。

 皆から嫌われることもない、穏やかな性格の良さが救いとなる。

「待ってて! すぐに行くよ!」

 進は喜んで、大規模プロジェクトとかくだらない理由で家を博史に何日も空けられた怒りから、すっとんで出ていく。

 この心凍る真冬に、一人取り残されることもないのだ。

 雪の降り積もった外は、足元が重たくて動き辛く、寒いことこの上ない。進はめずらしく、雪を蹴っ飛ばす勢いで進むのだ。

 雪は進の心情を反映してか、派手に飛散してゆく。

 いくら理性的で感情に流されない進といえども、抑えられない感情や思いというものがあった。このまま突き進んで思いっきり友達と馴れ合って、どこか知らない場所へ連れていってもらいたい。

 小六という限られた枠組みが何だ。来年になって数ヶ月経てばもう中学生ではないか。そしたら進が思いっきり不良になってしまうかもしれない。そして博史を傷つけて迷惑かけてやる。

 進は心に獰猛なものを抱えながら、約束の場所へ着いた。

 そこは友達の住む中規模マンションの、共用部分だった。

 そこに我が心を慰めてくれる、唯一の救済たる友がいるではないか。進は自然と歩が早くなり、心が依存を欲する。

 男の子でもいい。思いっきり抱きしめてもらいたい。

「よおっ! いいところに来たじゃん!」

 集まっていたのは五人ほどだ。しかしそのうちの一人の様子がおかしい。見るとFMDと呼ばれる通信端末を装着していた。

 FMDそれは、最近流行の高度な通信端末である。

 ヘッドホンの形をした本体を頭に装着し、目の前を覆う形でバイザー状のディスプレイが着いている。

 つまり使用者の目の前に情報が表示されるわけだ。

 そして最大の特徴は、脳波をFMDが読み取ることにより、使用者同士の頭にある心や感情や精神的なものをやりとりすることができるのだ(専用のソフトが必要)。その他、FMDを特定の機械に接続すれば、脳波をFMDが読み取って、頭で考えたことを機械が実行することも可能だ。つまり脳そのものがコントローラーになるわけで、これによりパソコンだろうとクレーン重機だろうと、FMDを装着すれば頭で念じるだけで操作可能になる。

 そしてこどもにとっては、貴重な万能おもちゃだ。

 FMDひとつでネットから常時あらゆる情報を得ることができるのだから……。掲示板にアクセスして流行のアニメやゲームの情報を早くキャッチすることはもちろんのこと、親のかけたアクセスフィルターをかいくぐり、エロ画像を入手することも可能だ。

 友達のうちの数人が、FMDを装着して誰かと通信していた。

「ぶぶぶっ! ぶひぃ!」

 彼はそう叫び声を上げながら、体を小刻みに震わせる。

 やたらと嬉しそうな顔をして、通信が終わるとFMDを外すのだ。

「やべっ。俺ちょっとズボン換えてくるわ」

 そう言って、そそくさと彼はその場を去る。

 彼は何の通信をしたのだろう。

「ねっ。何してたの? ぼくもFMD持ってるんだ……。だから教えてよ」

 すると、友は妙にニヤニヤとすけべな笑みを浮かべる。

 そして進の肩に腕を回して、集団の内側にぐいっと引き込むのだ。

 それが、進にとってたまらなく嬉しかった。何をしているのかも教えてもらえず、雪降る後ろの光景に放り出されたら絶望していた。

 だが、違うのだ。皆進を内輪に引き込んで共有してくれるのだ。

「進。お前女に興味あるんだろ? だったらコレだよコレ! これで女の心の中に入ろうぜ」

 そう言って、友達がとあるバーチャルソフトを取り出した。

 進はどういうことなのかを知る。ネットを通してどこの誰かも分からない女の子の心を共有しようとしているのだ。

 そして、相手の心に入り込むということは、進自身も心を相手に対して開くということである。進の中で、ぶわっと何かが炙られるような熱さが込み上げてきた。

 その瞬間。フラストレーションに駆られ、抱えている全てを投げ出したくなった。進の心が空白に満ちるのだ。何もかもどうだっていい。投げやりになるからこそ、猛烈な欲求がこみ上げてくる。

(ぼくの心を分かってくれる……。ぼくの心に誰かが入ってくる……。ぼくは、独りじゃなくなるんだ……)

「でも、誰かも分からない人の心に入り込むの?」

 抵抗感のある進に対し、同級生が徹底的な一言を言うのだ。

「ちげーよ。学校のネットコミュニティに俺達六年一組のカテゴリーがあるだろ? そこでクラスの女が毎日おしゃべりしてるんだ。そこを狙って入ろうぜ。現実世界で会ったら気まずくならないように、女に偽装すればバレないって」

「やるっ! 絶対やるよ! ぼくのFMDにすぐそのソフトインストールして! みんなでやろっ!」

「おおっ! 進がやる気になった! そうとなりゃ話ははえー。お前ら、今日はとことんやるぞ!」

 その決意と共に、飢えた男共は歓声を上げる。進は上げないが。

 そこに、心の問題の解決の糸口があったのかもしれない。

 だって心と心を溶け合わせることができるのだから。進の孤独を分かってくれる人がいる。進が誰かの心を分かってあげられる。

 これほどの幸せがあるだろうか。

 だって、独りからみんなのいる世界へ行くことができるのだから。

 進はソフトをインストールしてもらい、FMDを装着した。

 進はすぐにソフトを開き、操作を確認する。

 このソフトは脳波通信を利用して、直接使用者の頭にある心や記憶をデータとして扱い他者とやりとりできる。

 そして相手との通信で繋がり合う心の部分を選択できるようだ。

 それができないと、個人情報が相手に筒抜けになってしまう。

 相手と通信する心の部分の選択が出てくるが、「記憶」「感情」「心情」のうち、「感情」と「心情」を選んだ。

 これだけなら個人情報が流出する必要はないだろうし、何よりも一番進が癒してもらいたい箇所だ。そして進は六年一組ネットコミュニティにアクセスしようとしたが。

 その直前で、もう一度相手と通信する心の部分を選択し直す。

 そして、「心のある部分」も相手と通信するように選択するが。

(恥ずかしいな……。本当に選んでいいのかな……)

 進は背徳感を感じながらも、欲に負けてある部分を選択した。

 そしてFMDを装着した進の意識は、重たくて嫌なことだらけの現実世界を離れてゆく。分からず屋で己の妄執を押し付けてくる博史が、遠くに消えてゆく気がした。博史が作ったとも言うべきしょうもない世界から、足が離れて浮かんでいく。

 そして何からも解放された進は、自由だ。心が軽くなり、嫌なことだらけだったのが何からも解き放たれる。何も考える必要はない。何も背負い込む必要はない。だって解放の先に待つものがあるのだ。

(着いた! 六年一組ネットコミュニティだ!)

 進は学校のネットワークにアクセスし、その中の六年一組ネットコミュニティに入る。同じく、女の子に偽装した(以外にノリノリでよくできてる)友達も六年一組ネットコミュニティに到着する。 

 そして中には、クラスの女の子がきゃきゃっとおしゃべりしたりゲームで遊んでいたりでにぎやかだ。

 そして女の子同士が、他者からでは覗けない暗号化された通信を行っている。女の子に偽装すればばれないという友達の助言からすると、女の子同士はどちらかが進の友達なのかもしれないし、本当にクラスの女の子同士なのかもしれないし、あるいはどちらも進の友達なのかもしれない。ネットワークにアクセスし自身の存在を秘匿化した時点で、誰が誰だか分からなくなるのだ。

 その事実を知った時。進の心の闇がぶわっと溢れ出し、広がった。

(ぼくは、したいことを好きなだけできるんだ……)

 何せ匿名化した時点で、現実世界では隣でプレイしている友達も、ここでは分からない。正に暗室状態である。だったら現実世界に何の影響も無い以上、体面にも関わらない以上、何だってやっていいのだ。思いっきり欲望を吐き散らしていいのだ。

 だからこそ、言われた通り女の子のフリをして、言うのだ。

「あのっ! 私の心に誰か入ってちょうだい! 私、さびしくてたまらないの」

 なるべくか弱くて無力な女の子をアピールするため、両手を胸の中心に添えると内股でもじもじする。

 現実世界ではぼくなのに、おれでもなく私だなんて。妙なその変身っぷりが、何をも逸脱した感があってたまらなく気持ちよかった。

 すると誰なのかも分からない女の子が心打たれたらしく言うのだ。

「あなた? 苦しいことや悲しいことがあってここに来たんでしょ? かわいそうな子。でも大丈夫よ。ここに来れば、みんながあなたを抱きしめて慰めるから。さあ、心を楽にして……」

 進は、言われるがままに無力になる。心を、開いてみせた。

(もうなんだっていいんだ。ぼくを、めちゃめちゃにして……)

 そう言われると。虚無に満ちて心が擬似的な死を迎えた進の中に、女の子が入ってきた。

 心が覗かれて、恥ずかしい所も何もかも見られている。相手の心と自分の心が融合している時点で気持ちよさがたまらない。

 進は今、独りではないのだ。

 そして遂に、相手が進の感情へと進入してきた。

 進の一番分かってもらいたい悲しみや苦しみの感情を覗かれたとたん。相手が急に優しく慰めてくれるのだ。

「悲しい。悲しすぎるわ……。涙が出ちゃいそう。でも安心して。私が癒してあげるから……」

 その瞬間。進が最後に選んだある心の部分に相手が侵入してきた。

「ぶっ! ぶひっ! ぶひゃあっ!」

 言葉にならない喘ぎが進から発せられる。

 そこに、進の求めていた心同士の交流があった。心同士の壁が存在しないことが、これほどまでに幸せだとは。だって現実的ハードルを超えずとも、相手が全て進の心を分かってくれるのだから。

 そして、相手のことを何だって分かる。何でも見れる。

 だが現実世界では違うのだ。女の子の水着への着替えを、更衣室のカーテンをばっと開いて見ることなど許されない。悪徳行為として罰される。だが、この世界は違うのだ。

 だって心の壁が存在しない究極の自由があるのだから。

 そして、今度は相手の要求が来る。

「ずるーい。私の中にも入ってよぉ!」

「分かったわ。私もがんばるっ!」

 進は相手の心の中に進入する。進は、絶対に入ることもできなければ入ることを許されもしない聖域に踏み込んでゆくのだ。

 進の心に女の子が入ってくる。進が女の子の中に入ってゆく。

 互いに溶け合い、ひとつになりることが、たまらなくうれしい。

 そして進と女の子が心と心を溶け合わせ、自己の存在さえあいまいになる中で。遂に、女の子の聖域へと足を踏み入れてしまった。

「ぶひゃぁぁぁぁっ!」

 反射的に進は、ログアウトしてしまうのだ。

 皆が注目する中で、進は息も絶え絶えに目を見開くしかない。

 反射的に、FMDのスイッチを切ってしまったのである。

 先ほどの男の子が、この場を退散した理由を知った。

 進の中で、何かが歪み狂ってゆく。



 進は尚も停滞し続ける。ネットを通して皆と心溶け合わせることが楽しくて気持ちよくても、何かを経験し得ているわけではない。

 そこに何も無いことぐらい、進も皆も知っているのだ。

 けれど、投げ出すことはできない。正にあり地獄状態だった。

 こんなことを長々と書くこの小説は、本当に腐っている。

 バーチャル依存の都会っ子の実体を書くといえども、これはない。

 世界地図の下書きは汚れた欲望とも縁の無い、純粋で健気なこども達を書いていたのに。それに比べてこの小説のゲスさは何だ。

 だいたい、こどもの純粋さを汚しかねないこどもの欲望など書いてはならないのだ。日本には未来少年コナンを始祖とする、欲求皆無の純粋無垢な少年像があり、皆そのお決まりを守ってるというのに本当に不謹慎かつ非常識極まりない。朝井リョウを見習え。

 そして進がある朝。ぬくぬくとヒーターで温まっていた時のことだった。テレビをつけると、髭を生やした博史の顔がでかく映る。

「だっははは! 見てるか進よ! 見てるかネットかぶれの少年少女達よ! 我々は今、広大な宇宙空間にいるんだぞー。進! 父ちゃんはお前がヒーターでぬくぬくしている間にこんな所まで来ちゃった! どうだうらやましいかー。だーって見渡す限りの天の川全てが父ちゃんのものだかんなー。だっははは!」

 進は、テレビを即刻消したくなった。

 だって画面に映っているのは、宇宙進出事業に奮闘する父、博史の姿だったのだから。進が心を閉ざし、現実世界に背いてネットにのめりこむ原因はこれだった。

 中継しているナレーターが、現在の状況を解説する。

「我々宇宙船団は、博史船長の「宇宙の果ての果てに何があるんだ! 行って確かめよう!」という発言の元。宇宙の果ての果てを目指す旅に出ました。途中で宇宙怪獣や宇宙盗賊の襲撃に遭いながらも、我々はついにどの船団も到達していない領域に辿りつこうとしているのです! ここから人類の宇宙開拓史に新たな一ページが刻まれるでしょう! 皆さん、その瞬間を見逃さないでください!」

 というアナウンスが流れた後。番組はコマーシャルに入る。

 進は、心空っぽに呆然とするしかない。

 父の博史は誰も追いつけないスピードで、宇宙を飛翔していた。

 世は宇宙開拓時代。父博史は、その中でも有数の船団を所有する船長だ。誰も博史に追いつけない。進にも追いつけない。

 博史はこの瞬間も、無数に星々煌く大宇宙を飛んでいるのだ。

 勿論、この空白と化した形だけの家を抜け出して。

 進にとって、画面に映ること全てが遠い空絵事のように見えた。

 そして空絵事の中に、我が父が写るのだ。

 残酷にも世界は進を置いてゆき、日々進歩を続ける。

「この小惑星は私のものよ! 私が女王様になってやる!」

「見てみてお父さん! ぼくが捕まえた新種の宇宙生物だよ!」

 画面の向こうで、宇宙冒険に目を輝かせる少年少女が写る。

 進は唇を噛む。そこまでして彼等を動かしているものは何だ。

 なぜ皆、進と同じくらいの歳でも世界に干渉して何かを動かすことができる。それに対し、なぜ進は何もできない。

 進が何もできないのは、進を引き止めて離さないものがあるからだ。「進! 愛してるぜ!」「私達と一緒に遊びましょ!」大好きな六年一組の皆が一緒にいてくれるのだ。彼等が現実世界でも、ネットでも、絶えず呼んでいる。進は結果的に引きずり込まれ、心を奪われ、何もできなくなる。けど、確実に博史も世界も、進を置いていくだろう。このままだとこの家に取り残されて、確実に進は独りになるに違いない。その絶望が、目の前に迫っているのだ。

 置いていかれたくない。博史は偉大な男だから、きっと宇宙の果てまで飛び去り、いつしか二度と帰ってこなくなるだろう。

 空のそのまた向こうの向こうに博史はいるのだ。

 追いつけるわけなどないのに、それでも手を伸ばし後を追わねば、もう二度と、この手は父と繋がれないのだ。

(ぼくは、お父さんに愛されていないんだ。だって父さんは、いつも星の海しか見てないんだもん……)

 そこに、家を出て行った母の悲しみがあった。

 呪いは母から子へと受け継がれ、悲劇はまた繰り返されようとしている。そんな絶望感に支配されていると、コマーシャルが終わる。

 終わった瞬間映ったのは、無惨にも船頭部分がバコっと平らにへこんだ映像だった。それも母船だけでなく、並走していた船全てがだ。突然の事態に、進は目を見開く。

 まさか何者かに襲撃され、父が殺されたりしてないだろうか。

 そしてどういう状況でこうなったのか、アナウンスが流れた。

「異常事態です。三十秒のコマーシャル中に、走行していた宇宙船が突然船頭部分からへこみました! しかし我々は宇宙怪獣にも宇宙盗賊にも遭遇していません!」

 どういうことなのか、わらわらと混乱した乗組員が宇宙服を装着して船から出てくる。しかし、数歩歩いた瞬間。

 ガン。と頭をぶつけたように、見えない何かに衝突するのだ。

「痛てっ!」

 もしかして。と思ったのか、乗組員の一人が拳を前方に振ってみる。すると、その拳が、止った。

 そして信じられないような顔をして。乗組員が、言うのだ。

「壁です。透明ではなく、黒い壁に遮られています!」

「壁で通れないだと? スコップ貸せ。俺が砕いてやる!」

 この程度の障害、船団は数え切れないくらい経験してきただろう。

 大方目の前に広がっているのは壁などではなく、ちょっと力を込めて砕けばすぐに通行可能になる岩か何かに違いない。博史が言う。

 破壊してしまえば、その先に未知の空間が広がっているはずだ。

 そう思ったらしく、博史はスコップを力の限り、振る。

 ガキーン。鈍い音を立てて、スコップは先端から砕け散った。

 強烈な振動がスコップから博史へと伝わり、博史は痺れてそのまま動けなくなる。しかし、それでも博史は諦めないのだ。

「ちくしょー。壁が何だ! こうなったら主砲用意! 最大火力でぶっぱなして何が何でも通るぞ!」

「了解!」

 その、こどもじみた大人達をテレビ画面を通して進は見る。

(僕は、何でこんな大人のこどもなんだろう……)

 それは、宇宙史を揺るがす衝撃的な事実だった。

 宇宙空間の黒は、実は黒い壁だったのである。

 球体状に広がる、卵型の黒い壁の中に銀河系は存在していた。

 つまり、果ての果てに辿り着くと待っていたのは壁で、その先には行けないことが判明したのだ。



 それから七日間も、進は家に取り残された。

 さすがにそれは、精神的にキツい。四日を過ぎた辺りから精神的に不安になってしまう。もしかすると、このまま博史は二度とこの家に帰ってこないのだろうか……と。

 危険な宇宙を旅しているのだ。もし死んで帰ってこなくなれば、博史は何も無い宇宙に、消える。進が手を伸ばしても届くことなく、姿を見ることもできず、二度と会えなくなるのだ。

 まだ口喧嘩のひとつもしていないのに、心に抱いたものが何にもならずに、無へと消えていく。

 心が殺されるのだ。そして心が死んだ進に、生きていく術はない。

 この家を、生活を、全て没収され、孤児院に連れていかれるだろう。進は、博史がいなければ生きていけないのだ。

 どんなに冷静で大人びていても、幼く博史を求めるしかない無力なこどもである。

 しかし、分からず屋の大人はある日突然帰ってくる。

 宇宙まんじゅうの土産を携えて。

「たっだいまー。いい子にしてたかー。俺がいない間もキレーに掃除までして、お前は偉い子だなー」

 本当は思いっきり殴りたかったし、泣きもしたかったがこらえた。

 いつものことだからでもあるが、弱い姿を見せたくない。

「たっだいまー。じゃないでしょ。ぼく、七日間も独りでとっても寂しかったんだからね。お父さんが宇宙から二度と帰ってこれなくなって、このまま独りでここに取り残されたらどうしようって思ってたんだから」

 博史は反省の色も見られず、宇宙まんじゅうを置いて言う。

「あー悪い悪い。お礼と言っちゃなんだが、父ちゃんが体験した未知との遭遇を聞かせてやろう。聞いてぶったまげるなよー」

「もう、自分のことばっかり。けどいいよ、お父さんは長旅で疲れてるから、今日はぼくが夜ご飯の用意してあげる」

「おおっ! 頼もしいなー。さすが母さんの子!」

 父の口から軽々しく、出してはいけないワードが出てきたため、進の表情が怒りを含んだものになる。

 進は博史のわがままで、だいぶ肩身の狭い思いをしている身だ。

 非がある故、それに何よりも機嫌を損ねては夕食を作ってくれなくなるかもしれないので、慌てて博史は口を塞ぐ。

 それから進は冷蔵庫にある物でカレーライスを作る。

 レトルトではない。ルーを鍋に入れて煮て、肉も野菜も入れるまともなカレーライスだ。家に独りで取り残されたら、僅かな料理と家事くらいはできるようになった。

 一方博史は仕事しか能の無い男なので、家事の一切をしない。

 そんな日常に時間を取られている暇があったら、早く宇宙に出て非日常の世界を羽ばたいた方がマシだ。と言う。

 もし、進が家事をしなかったら、この家は酒とつまみの空だらけの悪臭漂う地獄と化していただろう。

「父ちゃんはな、宇宙で黒い壁にぶち当たったその時に考えたんだ。もしかしたら、壁の向こうに誰かいるかなー。もしいれば、どうにかして話を聞けないかなーって。そしてどうしたと思う?」

 宇宙での自慢話ばかり。進は飽き飽きしているが、問いに対して答えなければならない。

「どうしたって……。宇宙通信用のアンテナで電波通信を試みて、返信が来るかどうかを調べたんでしょ? 同じ文明レベルの宇宙人が黒い壁の外にいるなら、返信があるはずだしね。そうやって宇宙中に電波を飛ばすことで地球人以外の人類がいないって証明されたんだから」

 答えは違った。博史はお茶を注いだコップをぐいっと飲み、コトンと置いて言うのだ。

「残念! 正解はコップだ! 宇宙の壁にコップの淵を当て、向こうからの声が聞こえないかと試してみたのだ! すると……」

 気分良く、宇宙冒険譚を語る博史だったが。

 語りを中断してしまう。だって、全く進が乗ってこないのだから。

 これ以上話し続けても、進はまともに博史と向き合わないだろう。

 そう思ったのか、少し声のトーンを落として話題を切り替える。

「なあ進。お前も来年の春には中学生だ。そろそろ自分の将来のことを考えて、宇宙に出る道を歩かないか? いつまでもゲームにネットかぶれっていうわけにはいかんだろ?」

 宇宙の事よりも、博史の宇宙冒険譚よりも、進の事を話してくれた。博史は宇宙に行ってる間も、進のことを考えてくれていた。

 それだけで、今の進にとってどれほどの救いになることだろうか。

「分かってるよ。けど、ぼくは宇宙は行けないよ。スポーツはへただし、何よりも死ぬかもしれない危険な場所になんて無理だよ」

「そんなことはない! やってみなきゃ分からないだろう? そう思ってな。ほら、こんなものを用意したんだが」

 博史が差し出したのは、博史が所属する宇宙旅団運営の宇宙開拓人員育成を目的とした中学校の入学案内だった。

 簡単には入れない、出世へとそのまま繋がる高度な学校だ。

 かつては博史も、その学校を経て宇宙事業へと飛び出した。

 入るには高度な試験とか、過酷な競争を潜り抜けなければならない。だが、博史が出したのは団長直々の推薦状だった。

 これなら試験を必要としない。だが、進は微妙な気分になる。

 人が苦労して入る関門を、何の苦労もせずに親の力で突破するのだ。なんだか進が無力な気がして、博史の手の内で踊らされているような気もして、嫌になる。きっとそんなチートを使い入学しても、あっという間に学業から取り残されて浮くだろう。

 そんな進を、博史が背中を押す。

「宇宙に出られるのは逞しい奴だけじゃない! 優秀な頭脳を持った奴もだ! なっ、頼むよ。三年経てばお前を船団のエンジニアとしてスカウトする! 俺の頭脳となってくれ! そしたらお前の人生は勝ち組だろう? 頭もよくて仕事もできて、女にももてて、その上金持ちにもなれる! それがたったの十五歳から始まるなんて、お前は恵まれすぎのエリートだ! それもこれも、全ては俺のおかげだ、がっはは!」

 それは誰もが羨み、手にすることのできない待遇だった。

 この時代、誰もが宇宙を夢見ているのだ。

 宇宙は人類にとって、ビックビジネスの場である。

 宇宙資源を採取して帰還すればそれは高価に取引されるエネルギーとなり、めずらしいものなら大勢の人がお金を出して求める。

 そして宇宙空間に存在する、小惑星を発見者が領地にすることだって可能だ。自分の世界を作れるのである。

 そして、宇宙に出ることに年齢性別は関係ない。

 だから、進と同じ歳のこどもでも、宇宙に出て大儲けしているのだ。一方地球に留まる人々は、窮屈な思いをしていた。

 人は増える一方であり、FMDを使った万能のネットワークなど、人の心のスキを埋め人を惑わすまがいものが進化を続けるのだ。

 するとどうなるだろう。社会は画一的な機械化を遂げ、何だって得れる万能のおもちゃが溢れ返り人はそれによって心の何かが解決し満たされると信じて惑わされ続けるのだ。

 実際進のように、何を得ても何も解決しないわけだが。

 かくして物に溢れた便利すぎる世の中によって、人々は行き詰まり息苦しい思いを続けるのだ。

 しかし。息苦しい人々にとって、希望に満ちた広大な世界がある。

 それが、宇宙なのだ。世界には天井があり、飽和状態を迎えていた人類は解放を求めて一斉に飛び立つ。宇宙には限りも天井もないのだ(実際は宇宙に天井があり、進めないと分かった人類は失望したが)。だから、宇宙への道が確保されているということは、この上なく恵まれているのである。

 しかし、そんな恵まれた道を提示れて直、進の心は動かなかった。

「ぼくは行かないよ。だってお父さん、自分が偉大だからこどもに同じ道を歩ませて一子相伝の英雄譚に酔いたいだけだもん。「偉大な我が冒険者魂が、息子へと受け継がれる! これぞ継承、俺ってパパスみてぇ!」ってね。それに、お父さんの言うように全てそのままうまくいくと思う? いくわけないよね。お父さんが学校も仕事も全部ぼくに与えて、ぼくはいつまでもお父さんからおもちゃを買ってもらうようなこどものままでいるの?」

 もぐもぐ。表情を曇らせることなく、カレーライスを食べ終えて言う。そして。全て食べ終えると、笑顔で言うのだ。

「結局、自分が可愛いだけなんだよ」



 進が現実に失望し足を止めて尚、その傍らで世界は動き続ける。

 勿論、世界を動かすのはいつも博史だ。

 この日はテレビ特集で、博史のことが報道されていた。

「いやーぶったまげた。宇宙の果てでぶち当たった行き止まりの壁にコップ当てたら本当に声が聞こえるなんてな!」

 博史は会見にてそう軽々しく言うのだが、彼の体験は常軌を逸脱したものだった。

 宇宙を突き進む旅団が遭遇した、黒い壁。

 その黒い壁は紛れもなく宇宙の行き止まりであり、それ以上先に進めないのかと誰もが失望していたが。

 博史船長がその壁にコップの淵を当てると、どうやら壁の向こうに広い空間が存在すると言うのだ。

 それだけでも驚きなのに、更には博史がコップの振動を通して問うた言葉に、返答の声が返ってきた。

 どうやら壁の向こうに人がいて、博史と同じくコップの淵を壁に当てて振動を通してこちらの声を聞いているらしい。

 その声は、ひどく人間らしさのない正体不明の声だった。

「ようこそ宇宙の果てへ。あなた達は己の生まれた銀河系が、球体状の壁に包囲されていると気づきました。まるで卵の中にいるようですね」

「卵の中にいるようって、人類は出産前の赤ちゃんか! あー。だったら出る方法を教えてくれんかね。こっちも宇宙が出れない壁で覆われてるなんて知ったら狭苦しくて窒息死するんだ。ここで壁に阻まれて帰るなんて絶望だ! 今こうして俺の目の前に超広大な宇宙が広がっているのに、ここから引き返して地球に戻って、日本に戻って、北海道の帯広に戻って、苦しい家庭に戻れってか? なぜスケールダウンせにゃならん! 絶望だ! 頼むからここを開けてくれ!」

 すると、壁の向こうにいる人は「いいですよ」とか言ってパカリとドアのように壁の一部分を開けてくれるはずもなく、それどころかある提案をしてくるのだ。

「だからといって、簡単にあなた方をこちら側に通すわけにはいきません。簡単に通してしまっては、あなた方になんの成長もありませんので。でしたらひとつ。私から提案があります」

「提案か……。なんだか面白くなってきたぜ!」

 打ち出された提案。それは後に壮大な計画へと発展する。

「一人の幼いこどもに、この場所へ到達するまでの旅をさせましょう。大人の助力は一回だけにします。旅が成功すれば、私が壁を開いてあなた方を歓迎します。提案はこれのみです。それでは」

「俺じゃないのかよ! 俺に何の不足があるってんだ!」

 そう言って、壁の向こうからの返答は途絶えた。

 博史が地球に帰還後、すぐに多額の予算を注ぎ込んだ計画が立てられる。まずはこどもをどういう乗り物と手段で旅をさせるかだ。

 宇宙船が妥当かもしれないが、それだとこの広大な宇宙を旅させるのは不可能だ。危険すぎて途中で宇宙の塵と化すに違いない。

 走行ルートが決められてなければだめだ。

 それも、レーダーで誘導するのではなく、右にも左にも進めない、目標に向かって直進するだけの乗り物でなければ。

 その条件となれば、おのずと決まる。

「こどもが宇宙を旅するといったら、銀河鉄道だぁぁぁっ! ラブォーエバーケンジ先生! アイラブレイシ先生! 広大な銀河を背後に少年を乗せた宇宙列車が走る! この上なく絵になるじゃないか! そうと決まれば、さっそく銀河美少年を探すぞ!」

 一人で独走して、何でも決めてしまうのが博史である。

 だから進に嫌われるのだ。

 未来を担い、宇宙を駆ける銀河美少年探しは、直接博史によって全宇宙に中継される。

「ごきげんよう。全宇宙に散らばる少年少女諸君! 心して聞きたまえ! 人類は拡大するネットワークと、テクノロジーの進化によって慢性的なマンネリと行き詰まりを迎えた! 正直人類の存在が宇宙では収まりきれない程に膨張しすぎたのだ! だがしかし、そんな人類を導く英雄たる存在が……」

 ピッ。進は嫌になって、FMDでの通信中にテレビチャンネルを興味本位で開いていたものの、すぐ嫌になって消した。全くテレビで報道されている博史関連のことも、情報として頭に入れていない。

「ブヒッ! ブヒヒッ! たまんないっ!」

「でしょでしょ? 楽しませてあげるわ」

 今進は、FMDで六年一組の友達と心を溶け合わせていた。

 本当は明日の授業に向けて勉強しようとしていたのに。

 FMDによる通信で誘いがあったために、気づけばこうして友達と楽しく心を溶け合わせている進がいる。

 それが楽しくて、しなければいけなこともやらず終いだ。

 こうしていれば、嫌なことを全て忘れられる。

 こどものことを何も分かっていない大人達のことも。傲慢に宇宙だの未来だの広大な世界だの、冒険者魂を押し付けてそのくせ大人を気取っていながら、こどもじみてることこの上ない父のことも、何も考えなくていいのだ。こうやって友達と全てを共有し合っている時が、抱えている孤独を忘れられた。

 しかし。代わりに無力になる。何もできなくなる。

 博史は何かの宇宙冒険企画で、優秀な少年少女を選出するのに大忙しだ。進が家に帰ってくると、リビングで進と同じ歳くらいの少年少女の履歴書を並べ、にやにやしている。

 もちろん進は博史に一番近いこどもなのに、見向きもされない。それを進は、無能だから見捨てられていると解釈した(実際は違う。危険な目に遭わせたくないからであり、進を宇宙に出すなら博史は己の元で手厚く育てる)。

 そんな時だった。六年一組の他の子達からも通信が入る。

「ねねっ。私達も心を開くわ! 融合しましょ!」

「いいよ。みんなで遊んだ方が楽しいわ。ブヒッ!」

 一度誘いに乗ると、後は皆で心溶け合わせるのみだ。

 どうして皆、現実世界よりネットにアクセスしてFMDの通信による心の共有を選ぶのか。

 それは、ここに来る誰もが現実世界と対峙する、心を持った一人の人間だからである。

 そこに、こどもと大人の違いがあった。

 こどもは、世界と己の対立構造を持たない。

 世界に対する認識を持たず、ただ自己の欲求を満たすだけである。

 小学校一年のこどもが、目の前にある世界の中に自分がいることを知り、何か行動を起こさないとまずいと思うだろうか。

 何の行動も起こさなくても、何も悪くはならないのだ。

 たとえ自身の周りに悪いことが起きても、知らぬ顔をして遊んでいれば大人達が解決してくれる。

 だが大人は違う。世界を知って行動を起こさなければ、世界に殺されてしまうのである。悪いことが起きてしまえば、早く自体を解決しないと悪いことは更に悪くなって、己の身を滅ぼす。

 進の年齢なんて特にそう。学校や家庭や友達間で求められるものをこなさなければ、存在が抹消される。心が殺される。

 誰もが透明人間になることを恐れて、日々修練に励むのである。  

 だからこどもは忙しい。

 だが、こどもは絶え間なく続く現実との抗争に耐えられるほど強くはない。むしろ途中で心が折れ、現実に存在が殺される場合が多いいのだ。では、存在が殺されたこどもはどこに向かうのだろう。

 進を始めとするこども達の向かった先が、ネットの世界だった。

 そして、心を溶け合わせ皆で精神融合するのだ。

 それが少人数の状態から徐々に人数を増やし。

 今では、クラス全員の精神が融合状態と化した。

 進がネットにアクセスした時。「それ」はひとつの塊として、ひとつの結果として、進の目の前に浮かんでいる。

「ぶひゃっ! もっと深い所へ! 私の中に入り込んで!」

「いいわいいわ! 私が楽しませてあげる!」

 六年一組の皆が、暗室状態で心と心を融合し続けた結果。

 誰が誰だか分からない、一個の生命体と化していた。

 進はそれを目の前にした時。どうしてこうなってしまったのかと絶望的な気持ちになる。だがそれと同時に、心が沸騰するように欲求が込み上げてくるのだ。

 進は、何もかも捨てて両手を広げるように、心を解放させる。

 すると、ひとつの塊と化した皆が進を受け入れて、引き込んでくれるのだ。皆に抱きしめられ、皆の中にドロドロと溶けてゆく。

 進!進!進!皆からそう叫ばれ、進も精一杯抱きしめるように皆の名を叫ぶのだ。進の世界が肯定され尽くされる。それを幸せと言わずして何と言う。

(きもちいい……。ぼくは、一人じゃないんだ。みんなと一緒にいられる。みんながぼくを受け入れてくれる……)

 どこからどこまでが進で、どこからどこまでが友達なのか境界線が危うい。だって、進の心の中に友達の存在が入り込んでくるのだから。そして進の心が、友達の心の中に入り込む。

 最初は一対一の心の融合から始まった。だが一度心溶け合わせると、個人の境界線があいまいになり、ひとつの生き物と化すのだ。

 それが同時進行で行われると、今度は融合によって生まれた塊同士でさらに融合する。結果的に、三十人全ての心が溶けに溶けてひとつの異様な生き物が誕生するのである。皆の心がドロドロに溶け合ってできたそれは、さながら半固形状の海のようである。

 その中に、進もいた。みんなの中にいることが幸せで気持ちよくてたまらない。そんな進は、辛うじて「進」であるということを保ち(どうやって? なぜ保つ必要がある)ながら、皆が融合する海の表面を、漂う。

(星が、遠くに見える……)

 存在が危うくなり、ドロドロに溶けていく気持ちよさに意志も思考も奪われていく中で、進は見上げた。

 進の見上げた先に。星の海が光り、あまねくのだ。

 その星の海へ向かい、大勢の何かが飛翔していた。

 それらは群集として飛びながらも、ひとつひとつが独立した動きを見せる。それぞれが星の海を背後に、違う輝きを見せるのだ。

 その群集。それは進と同じくらいの少年少女達だった。

 彼らはただひたすら空だけを見て、己のエンジンを燃やすと、広く広大な宇宙へ飛ぶのだ。

 進が友との融合を果たし、全てが奪われる中で。

 人も、世界も確実に動いてゆく。進は取り残される。

 進は悲しくなった。とてつもなく己を愚かに思うのだ。

 ああやって宇宙へ旅立つ少年少女達は、己の存在を確立し力強く現実に挑んでいる。だが進は違う。十二年も生きてきたのに、自ら存在を否定し、集合体の一部と化している。

 透明で、何もなくて、無力に衰えていくしかない進と、己の存在を確立し力強く生きていく少年少女達。

 天と地の差を見せつけられて、進は膝を折るしかない。

 だって宇宙へと旅立つ少年少女と時を同じくして、進はFMDで精神をネットに繋ぎ無限の幻想に支配されるのだから。

 もちろん、その間は現実世界での進は全く動かない。

 FMDを頭に装着してよだれをたらしながら笑ったり、ブヒブヒ気持ちよくなったりするだけだ。愚かで幼稚なことこの上ない。

 それでも抜け出せない。気持ち良すぎてここから出られない。

(お父さん……)

 進は己と他者の境界線が曖昧になる中で、なぜだか嫌悪感に満ちた博史の存在を強く求めた。今の進にとって博史こそが嫌悪と怒りの対象でも、なぜだか進が進である存在意義を握っているのだ。

 逆に進の心から博史の存在が消えると、進は進でなくなる。

 だが進はなぜだか消えたくなかった。

 博史の存在を強く求め、FMDのテレビチャンネルを開く。

 すると、進には何だか分からないが、博史が何かの会見で見知らぬ少年と固い握手を交わしていた。

「おめでとう。君が全宇宙から選ばれた銀河美少年だ! これからの壮大な計画を君に任せたぞ! わっははは」

 カメラのフラッシュがバチバチと光り、博史と銀河美少年などとふざけた名をつけられた少年が照らされる。

「もちろんです。この計画を、必ずや僕が遂行させ、人類を新しい世界に導いてみせましょう!」

 その少年は、白い歯をキラーン。と見せると、カメラに向かって清清しい笑顔を見せる。それは未来に向かい出発する若人の笑顔だ。

 進は博史とその少年のよさげな仲を見ているうちに、なんだか現実に引き戻されていく。

 血の気が引くような寒気と、頭をガンと殴られたような衝撃を受け、それと同時にぱっと己の醜態を知ることとなるのだ。

 進が己の存在をドロドロに溶かし、他人との精神的融合によってこの上ないくらいの気持ちよさに浸ってる間に。

 父が、自分と歳の変わらない子を選び出し、仲良くしていたのだ。

 しかもその少年は、頭脳明晰成績優秀にして容姿端麗な美少年ときた。父がそんな子と仲良くしているとなると、たまったものじゃない。怒りすらこみ上げてくる。

 だが、そうなったのは進が己の存在を自ら否定したからだ。

「いない」存在に博史は見向きもしない。

 進の心に悲しみが込み上げてくる。進は進を殺したのだ。

 十二年も生きてきたのに。たくさんのことを積み重ね、人には得れないものを得てきたのに。それは今では何だ。こうして友達と心同士を溶け合わせ、個人であることを否定した。

 そして、カメラが宇宙空間上に設置された宇宙電車のレールと、 

駅らしき場所に停車する宇宙電車を映し出す。

 レールは、宇宙を貫くような真っ直ぐとした直線を描いて、見渡す限り続いているのだ。そしてそのレールを走ると思われる宇宙電車は、鋼鉄の装甲を無駄なく纏い、直線的な銀の輝きを、放つ。

 進はようやく知った。何の目的かは分からないが、博史が銀河美少年なる少年を全宇宙から選び出し、彼が宇宙電車に乗ってどこか遠い場所へ飛び立とうとしているのだ。

 もしかしたら、博史も彼と共に行くのか?

 そんなことをされたらおしまいだ。進は本当に独りになってしまう。だが、どうにかしたくても「進」は消えつつある。

 六年一組の皆とドロドロに心溶け合わせ、精神融合しているせいでどこからが「友達」でどこからが「進」なのか分からない。

 しかし、この想いがあれば「進」は「進」であることを保てるような気がするのだ。六年一組の皆が精神融合してできた塊から、ひとつの精神が形を取り戻そうとしている。

 意志を持って己を取り戻すのだ。

「進」とは何だ。「進」は何を想い何を願っていた。

 進は無意識に、心の底から叫びを上げた。

「だめっ! 行かないでお父さん!」

 博史が進を置いて、別の少年とどこかに行ってしまう気がした。

 何より、宇宙の果てまで飛び去っていく銀河美少年を、ドロドロに心溶けた状態で、停滞しながら見送るなど進は許さない。

 だから。精神が咆哮する。

「何よ。孤独に戻ったらさびしいじゃない。私が入ってあげる」

 個人であることを保とうとする進の心に、再び友達の心が入り込もうとするのだ。

「何個人を保ってんのよ。皆で心を融合してひとつになった方が気持ちよくて楽しいじゃない!」

 まずい。このまま再び心溶け合わせるのを許してしまえば、逆戻りだ。進は行かなければならない。

 そのためには決別しなければならないものもあるのだ。

「みんなごめん。ぼくはぼくだよ……。みんなと一緒にはなれない」

 ドロドロに溶けた皆の中精神融合体から、進は自分のパーツをかき集めて。進は「進」であることを、保ったのだ。

 そこに、人は侵入できない。そこに独りの人間がいるのだ。

「僕が行かなきゃ、置いていかれちゃう!」

 目を見開き、はっと覚醒した状態で進の精神は現実世界にいた。

 目の前にあるのは、夜の見慣れた自室である。

 無意識に、FMDのネットワーク通信を切っていた。



 進がドロドロと他人との精神的融合を果たし、あらゆるものを奪われていたその最中。時を同じくして「銀河美少年。青春列車の旅」と博史によって名付けられた計画は進行していた。

 宇宙の果てまで続くレールを敷き、高性能な宇宙電車を製造し、搭乗する銀河美少年も決まったのだ。

 出発を控え、全宇宙が人類を新たな世界へ導くかもしれない銀河美少年に注目を集める。

 そして出発式の当日。駅のホームは人で溢れ返っていた。

「キャー! 交(コウ)クン! こっち向いて!」

「交さん! 出発の前に一言お願いします!」

「ぜひ、うちの旅団に入ってください! 歓迎します!」

 駅のホームに、ひっきりなしに響き渡る喧騒が飛び交い、人々の興奮は最高潮に達する。カメラのフラッシュがバチバチと炸裂し、警備員が溢れ返る人々の動きを抑えようと必死だ。

 溢れ返る人々は、ホームの中央に伸びる警備員によって確保された通路を挟んでいた。

 その通路を歩くのが、博史と銀河美少年。交だ。

 交は満面の笑みを浮かべながら群集に向かって、手を振り続ける。

 そして、気を遣ったのか博史が問うのだ。

「どうだ。キンチョーするか? 心配するな。どんなビックプロジェクトでも君は君らしくやればいい。これから先に待ってるのは思ったよりも孤独な銀河の旅だ!」

「君は君らしく、ですか……。僕が僕を作ったわけじゃなく、世の中が僕を作ったのに。今更君らしく……なんて言われても。ぼくはテレビによって巨大化した虚像ですから」

 交じるは最近流行の宇宙少年だ。宇宙を飛び回って活動していたら、いつの間にか有名になってしまった。

 博史は、ポンと肩に手を置いて言う。

「何を気弱な! 君自身が望んだからここまで来れたんだろう?」

「僕ではなく、人が望んだんですよ。けど心配しないでください、人から望まれて、希望を託されるなら僕には責任があります。何があっても僕は成し遂げてみせます!」

 交は、きゅっと拳を握り決意していた。

 思ったよりも、その肩は小さく頼りないように見える。

 それでも、世界から作り出された存在は世界によって操られ、責任を遂行しなければならないのだ。

「任せたぞ! 君なら絶対に成し遂げられる!」

 そう会話をしているうちに、二人はホームの喧騒から離れ電車と駅を繋ぐ連絡通路を歩く。

 ここは駅と言っても、日常的に人々が使う駅ではなく、この計画のために作られた駅なので、駅というよりは宇宙船の発進する小型の空港のようなものか。

 博史と交は宇宙電車に搭乗するためのエレベーターのある連絡通路まで辿りつく。

「俺が付き添うのはここまでだ。このエレベーターに乗れば、君は宇宙の果てまで旅をすることになる。がんばれよ!」

「はい。ここまで僕を導いてくださってありがとうございます。感謝します!」

 二人は手を握ると、交が通路を進む。そして、エレベーターにたどり着くのだ。。

 自動ドア開けば、独りきりの空間が待ってるかと思いきや。

「やあ。銀河美少年クン。こんばんわ!」

 そこには宇宙服を装着した、交にとっての見知らぬ少年。 

 進がいたのだ。



 流石は訓練された、冷静沈着な銀河美少年。

「変な奴が乗ってるぞ! 誰か追い出してくれ!」と叫び、大人を呼んで現れた異物を排除してもらうこともしない。

「どうにかしてこの場に忍び込んだようだけど、君の抱えた荷物を見る限り、アグレッシブな行動を起こした君は勇敢だ。恐らく君は、生きてきた閉塞的な環境によって意志も自由も奪われていた。でも、君は存在意義を失わずに個人の力を爆発させてここにたどり着いた。何という力強さだ。僕には真似できないな。それで? 君は僕をこの場から追い出して宇宙電車を強奪するつもりかい?」

 進は強気であることを心がけていたが、心は痛む一方だった。

 非情に自分らしくない。己の存在意義を守ることに目覚めたとはいえ、これではただの悪党ではないか。

 進は清純でおとなしい子だったのに。

 自分で自分を破壊する悲しみが込み上げてくる。

 しかしこうでもしなければ、博史は交と一緒に進を置いて宇宙の彼方へ飛び去ってしまう気がした。

 その一方で進が、合いもしない宇宙中学校に入学していじめを受けながらたらたら勉強しようものなら、一生かけても追いつかない。

 博史の加護を受けて、博史から全てを与えられ、その決められた範囲内でおとなしくやっていくのか。

 それとも、たとえ世の中の敵になろうとも、非道な道を歩もうとも己の道を歩むのか。進は、選択を迫られ決意した。

「もちろん。だってこうでもしないと、お父さんはよくできた君を可愛がって宇宙の彼方に飛んでいっちゃうんだもん。君は、人と溶け合って愛されればそこに自分があると思う? 相手の言うことを聞いただけなのに? 自分で決めて何かをしたわけじゃないのに?」

「君は大人な子だな。僕は感心したよ。だが、僕と君は違う。僕の中に僕は存在しないからね。人の中に僕が在って、僕は大勢の人間や世の中によって作られるのだよ。それは重たい責任であって、幸せなことなんだ。だから僕は人々のために任務を遂行しなければならない。さあ、手荒なマネはしたくない。今なら大人達の前に突き出して罪を着せたりしない。だから、道を開けてくれ」

 冷静沈着な交に対し、進は身構えた。

 そしてばっと跳んで接近すると、顔を押すのだ。

 銀河美少年の顔が、ぶにっとへこんでぐいぐい押される。

「僕の中に僕が存在しないって! そんなのひどいじゃないか!チーズバーガー食べたいのにマックマフィン食べろって言われれば食べるの? 人に従い続けることが幸せなの?」

「マフィンは朝マックだ! チーズバーガーとの選択はできない!(ずれてる)人に従い続けることとは違う! 人と心を共有するだけだ!」

 二人は互いに、この場から相手を出そうと押し合いへしあいだ。

 取っ組み合った二人が力をぶつけあうことによってぐるぐる回り、どちらがこの狭い空間から追い出されるか分からない。

 交もムキになって、進の鼻を押してブヒブヒ言わせた。

 二人ともこどもじみた表情になり、一歩も引かない。

 そのはずだったが、事態が一変するのだ。

「おわっ! わちょちょっ!」

 進の力が勝ったわけではないが、交が後ろによろけたのだ。

 そのままバランスを保つか保たないかの狭間でよろよろすると。

 後ろにあるドアに背中が当たり、そのままエレベーターから出てしまった。その様を、嘲笑う様子もなく進が見て言う。

「さようなら、君が人から解放されるのを願っているよ」

 ドアを閉めると。進はエレベーターのスイッチを押す。

 エレベーターが上昇し、進はあらゆるものと接点を立った完全孤立の状態と化した。

 鈍い機械音を立てて上昇するエレベーターの窓から、お目当ての宇宙電車が見える。

 あれが何の目的で製造され、どこへ行くのか分からない。

 ただ、あれをものにして乗り回すことができれば、どこへだって行ける気がするのだ。

 博史の手から、逃れられる。そこから先は、進の自由だ。



 エレベーターが停止し、扉が開くと宇宙電車の中に入ることができる。宇宙電車の中は真っ暗で、何も見えなかった。

 まずい。進は突然飛び込んだ宇宙電車の構造など知りもしない。

 けど、何も見えない暗闇の中で早く決断しなければならないのだ。

 でなければ、大騒ぎした大人達がやってくる。

 大人の侵入をここに許してしまった時点で詰むだろう。

 だが、暗闇の中でも勝機はあった。ここは一直線の通路しかない宇宙電車だ。進は迷わず走り出す。とにかく、走ること以外は考えなくていい。直線だから迷うこともない。

 目指すは先頭車両だ。そこに、車掌室がある。

 そこに突っ込んで、何でもいいから電車を発車させよう。

 大人たちに乗られる前に発車すれば、進の勝ちだ。

 だが、暗闇を走ると精神的に負荷がかかる。

 今どこを走っているのか、分からないのだ。

 本当にこの先に車掌室はあるのか。あとどれくらいなのか。

 周りが真っ暗だと、宇宙電車の中を走っているのか分からなくなる。まるで、何も無い虚無の世界を走っているかのよう。

 生きた心地もしなかった。ただ恐慌して錯乱寸前に走るしかない。

 頭が真っ白になる。極度の緊張で呼吸をするのも苦しくなり、ばたばたとあわただしく走る中でぶっ倒れる気さえした。

 目の前が絶えず残像のようにぶれ続け、そして、進の精神を消耗する脅威がもうひとつ。

 大人達である。後ろから追ってくるかもしれないのだ。

 怖すぎて後ろを振り向けない、暗闇の中で、大人達の声や足音がいつ聞こえてくるかと恐怖すれば、更に足が速まるのだ。

 しかし、道は示されている。

 辛くても悲しくても、破滅と隣り合わせにただ走るしかないのだ。

 そんな時だ。がむしゃらに走っていると、ガンと何かにぶつかる。

(痛い! はっ。もしかしてこれって……)

 進ははっとした。そう、目の前に車掌室のドアがあったのだ。

 後ろを振り返る。大人数の大人達が迫る気配はない。

 もしかしたら勝ったのか。進はすぐにドアを開けて、運転席には座らず立ったままで操作系統を見る。

 進はそこに不安を抱いていたのだ。旅団の技術を結集させた宇宙電車なのだから、さぞ複雑な操作で無数にあるボタンやらメーターやらコンソールやら、全て把握してないと動かせないのだろう。

 銀河美少年は、複雑すぎる宇宙電車の操作を、寝る間も惜しんで勉強しているのだと思った。しかし……。

 運転席の前にあるのは、いくつかのボタンとレバーと、液晶画面だったのである。進は試しに液晶画面のスイッチを入れると、暗い運転席がぱっと明るくなった。

 画面に映ったのは、宇宙電車の稼動状況を操作するメニューと、発進に関してのメニューだ。

 進は、そのうちの電車の稼動状況を操作する画面を開いてみる。

 すると、列車は六両編成らしく、どの車両に電気をつけるのか、冷暖房の管理など、あらゆる稼動状況を操作できる画面が出てきた。

 ……。あまりにも操作が簡単すぎる。

 それはまるでこどもの玩具のようで、こんなもので大真面目にプロジェクトを運営しようとしていた大人達は、こどもを馬鹿にしているとさえ思えた。しかし、かといってあまりにも大人で機械だらけの操作系統だと操作できずにここで終わっていたことだろう。

 操作が分かった所で、早く出発しなければならない。

 まずは電気だ。電気を六両すべてつけると、真っ暗だった宇宙電車がぱっと明るくなる。それにより、見えなかったものが見えるようになって進の恐怖心も消えるのだ。

 進は壁にかけられていた鍵(予備)を取って差し電車を発進させる。

 いきなり猛スピードはおっかないから、低スピードで動かそう。

「おわっ!」

 すると、足元がガクンと動いて動力が作動し、車輪が回ってる気配がする。驚きはするが、いざ動かしてみるとこどもの玩具がモーターで動いてるような陳腐さで、そこにハイテクで高度なものを動かしているという気の重さはない。

 窓の外の宇宙空間も低スピードだが動き出し、進は今停滞せずに進み始めたのだと実感がわいた。

 が、しかし。動き出した彼に最大の関門が立ちはだかるのだ。

「しぃぃぃぃぃぃん!」

 軌道に乗って安心しきっていた進は、その大声でビクっとした。

 博史の声だ。その声は怒りに満ちた声ではなく、進の存在を求めて追いかける声だった。

 すかさず周囲を見渡す。しかし博史の姿はない。

 もしやと思って、ばっと車掌室から客席車両に出てみる。

 そこにも博史の姿はなかった。では、彼はどこにいる。

 しかし、この近くから響く声だ。

 と、周囲を警戒していたら。窓の外を博史が走っていた。

「ひいっ! 化け物だぁぁぁっ!」

 進はぶったまげて腰を抜かすしかない。

 だって博史は、線路の上を宇宙服と酸素マスク付きのフルフェイスヘルメット装着で走っていたのだから。

 その走る勢いは烈火の如く猛烈な勢いで、電車なんぞすぐに追いついてしまうくらいだ。

 猛烈な勢いで走る足が、高速で線路を打つ。

 やばい。宇宙電車を加速させて博史を引き離さねば。

 進は引き返し、車掌室に向かおうとしたが。

 背を向けることが、できなかった。窓の外を猛烈な勢いで走ってくる博史が、確実にここへ飛び込んでくる。間に合わない。

 その予測は外れなかった。

 超人的脚力で更に加速すると、両手を挙げて博史が、跳んだ。

 ガンと大きな音を立てて、博史が窓に張り付く。

 進はあまりの恐ろしさに腰を抜かしたまま、怖気ついて後退壁に背中を貼り付けるしかない。

 今この宇宙電車に、宇宙怪獣よりも恐ろしい化け物が取り付いている。奴に入られたら、何もかもおしまいだ。

 ここは宇宙空間上の線路を走る宇宙電車。逃げ場は無いのだ。

 などと考えているうちに、奴の手が窓を開く。

 そして博史が、窓から跳んで着地するのだ。

 青い顔をして進は考える。まずは博史から何時間も説教をくらってぼろぼろにされ、自立の意志も折られ、そしてよくても宇宙少年院でタチの悪い不良とご一緒にいじめられたりしながらドス黒く染まるだろう。更に悪くて宇宙刑務所行きだ。

 最悪の結末しか頭に浮かばない。

 船団の最高機密を強奪し、計画をかく乱させた。

 並みの大人にもできない凶悪犯罪だ。もちろんほめ言葉ではない。

 しかし。腰を抜かしたまま動けない進は、諦めきれなかった。

 ばたばたと背後にある窓へ手を伸ばす。

「待て! 話がある!」

 博史が叫んだのと同時に、進は窓に張り付いて外へ上半身を出す。屋根の上へ逃げよう。そんな所に出てもどうにかなるとは思えないが、できるだけ広い場所に出れば何とか逃れられる気がする。

 宇宙電車の周辺は酸素に覆われてるので、一定の範囲内だと酸素ボンベ無しに行動できる。

 外へ出るため、進は体をぐつと引き上げる。が、その途端がくっと進の体が揺れるのだ。そこに、最悪の結末が待っていた。

 振り返ると、博史が必死の形相で進を掴んでいるではないか。

 恐れ慄いた進が、わっと叫んだ。

「来ないでよ! 離してよ!」

「誰が離すか!」

 博史が脅迫する。がっちり力強く掴まれた足を、博史は離してくれない。まずい。このまま引っ張る博史の力が勝てば、進は博史の元へ引きずり込まれるだろう。

 自由を奪われるのだ。意志を殺されるのだ。全てが終わる。

 だから進は目の前に広がる宇宙へ手を伸ばし、飛び込むが如く。

 全身の力を込めて、引っ張られる力に抵抗するのだ。

 手ががっちりと窓を掴んで離さない。

 だが、がくっと進の体が下に下がった。

「がぐぎゃぎゃぎゃっ!」博史が、最早言葉にならない叫びを上げて、足を掴むどころか、腹にまで手を伸ばし全身の力を込めて進を引っ張るのだ。さすがは大人であり、宇宙船団団長。

 肩も足も腕も、力は半端ない。

 当然、進の体に限界が来る。もう窓を掴んでいる腕がもたない。

 ここで終わりなのか。諦めかけたその時。

 進は、反射的に足で博史を蹴った。

 しまった……。と絶望する。実の親に暴力を振ったのだから。

「がふっ!」

 蹴りは博史の顔に直撃し、ぱっとうそのように引っ張る力が消えて進が自由になる。そして進は博史の手から逃れ、宇宙電車の上に上るのだ。すぐに博史も追ってくるが。

 宇宙空間を背後にした、失踪する電車の上で二人は対峙する。

 博史は怒る様子もなく、手を広げて言うのだ。

「どーしてこんなことをするんだ? 父ちゃんはお前がこんな大罪を犯す不良少年になったことが悲しい! お前はこんな悪いことをする子じゃないだろう! いつも大人しく家でネットにゲームをしている子のはずだろう!」

 博史はそう言いながら、進を捕まえるべく歩を進める。

 進に逃げ場はない。もう捕まるのみなのか。

 そして、博史は続けるのだ。

「今なら間に合う。父ちゃんもお前を宇宙警察に突き出すようなこともしない。 なぁ、何が不満なんだ? 何か嫌なことがあるからこんなことをするんだろう? いや、いつまでもお前を咎めても仕方ない。それよりも、父ちゃんと一緒にお前の悪徳を更正して、こんな大罪を犯す行動力をいい方向に使わないか? お前なら大成できる! 父ちゃんの推薦でお前を名門宇宙中学へ入れてやろう! それに、お前の好きなゲームも漫画も何だって……」

「いいかげんにしてよ! お父さんなんて大嫌いって言ってるでしょ!」

 博史は何も分かってない。いつまでも自分が進にとっての光であり、憧れであり、追いかけるべき英雄であると思っている。

 博史はこれだけ優しくしているのに、嫌い嫌いと言われれば博史だって腹立つ。だから態度を変えて、少し怒り気味になるのだ。

「よーし。お前がそんなに悪い子であり続けるなら、父ちゃんだって厳しくしてやる。覚悟しろよ! お前なんてすぐにとっ捕まえて家に帰ったらゲームも漫画も禁止だ。二重三重の更正プログラムで性根を叩き直してやる!」

 やはり博史は進にとっての越えられない壁であり、大人だ。

 覚悟しろなんて言われただけで、怖気ついてしまう。

 そんな進に向かって、博史が飛び掛るのだ。

 博史の手ががっと進を捕まえる体勢になり、前のめりになる形で迫り来る。進は、もうだめだ……。と目を閉じて覚悟した。

 が、しかし……。

「がぶぼっ!」

 博史は、宇宙空間に漂流していたUFOに、衝突したのだ。

 衝突したが最後。電車は博史を置いて、尚も走り続ける。

 進と博史の距離が広がり。

 一瞬にして、ばっと博史の姿が宇宙の彼方に消える。

 その、猛烈な勢いが二人を別った瞬間。進は、見た。

 それでも博史が、手を伸ばし進を求めていたのを。

 突然の別れに、進は呆然とするしかない。

 進は勝ったのだ。宇宙電車を強奪し、博史の手からも逃れた。

 進はこれから自由だ。この宇宙電車に乗って、望むがままに旅ができる。進は己の存在が無いことに悲しみを抱き、存在意義を求めてここに来た。そして存在意義を確立すると、代償に独りになってしまったのだ。ここには博史も、六年一組の皆もいない。

 なのに、なぜだろう。涙が流れ続け、膝をついてしまう。

(ごめんなさい……。お父さん……)

 進は己の犯した過ちと愚かさに、ひたすら泣き続けるしかない。

 そんな傷心する進をよそに尚も宇宙電車は走り続けるが、進は背後にあるあるものを見た。

 そう、銀河だ。あまたの星々が無数に煌き、それが集合体となって黒い宇宙を煌びやかに照らすのだ。

 星の光のひとつひとつが、今この瞬間を肯定するように輝き続け、そして真の前に広がるのである。

 進は、煌く銀河を目の前にして世界の広さを知った。

 どこまでも世界が広がっている。

 どこにだって進は、この宇宙電車で行ける気がする。

 進は今、快楽の海に溺れて無力に停滞するしかなかった、あの時見上げていた銀河を目の前にしているのだ。

 停滞なんかしていない。無力にもなっていない。

 人と心を溶け合わせ、己の存在を保つことのできなかったあの時とは違うのだ。

 自分で考えて動き、危険と隣合わせになりながら、今この瞬間に、己の存在を立証し、地に足ついているではないか。

 ここから進の宇宙を巡る旅が、始まる。

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