魔法使いの嫁

@classic

一、

第1話『嫁、自称将来の夫に出会う』

001

 あ、まただ──。

 チリンチリンと鳴るドアベルの軽やかな音に、伏せていた顔を持ち上げ、店の入口を見遣みやる。

 そこに立っていたのは、わたしの予想通り、"カイゼルひげの君"だった。

 背は高く、すらっとしている。しかし、彼がカウンターに近付いて来ると、その体付きが意外とがっしりしていることが良く分かる。

 身に着けているのは決まって、肌触りの良さそうな、素人しろうと目で見てもその高級さが分かるスーツだ。ゆったりし過ぎでも窮屈きゅうくつそうでもない、分厚い体躯たいくにぴったりとした着こなしが、スーツの高級感と彼のセンスの良さをひそりと強調する。香水でも使っているのか、近付くといつも、下品でない良い匂いがふわりとかすかに鼻をくすぐった。

 年齢は、どれくらいだろう。青年よりは、すでにおじさんと呼ばれる年齢に差し掛かっているだろう。切れ長の目は、決して大きいと言えない。けれど、黒々とした瞳の内側には、わたしやわたしと同年代の子たちにはない色気と余裕があった。その瞳から少し離れた場所に絶妙なバランスで存在するのが、きゅっと軽く引き結ばれた薄い唇だ。余裕をたたえた穏やかな瞳とは対照的に、そこからは頑固そうな意志の強さが感じられる。

 さもすれば、対照的な瞳と唇の存在が、ちぐはぐな印象を人に与えかねないと言うのに、彼の場合、まるでその対照さすらも正義と言わんばかりに、人の目──少なくとも、わたしの目には美しく見えるのだから、一般的に彼は美男の部類に入るのだろう。

 しかし、今までにあげて来た特徴などかすんでしまうくらいの強烈な存在が、彼の唇の上にはあった。

 綺麗に整えられた、逆への字型の髭。几帳面きちょうめんに毎日整えているのか、彼の髭が力なく垂れている所をわたしは今まで見たことがない。

 いわゆるカイゼル髭と呼ばれるその存在が、わたしが名も知らない彼を心の中で"カイゼル髭の君"と呼ぶ理由だった。

 その"カイゼル髭の君"が、わたしのアルバイト先であるこのケーキ屋に初めてやって来たのは、わたしがここでアルバイトを初めて間もない、三月の終わりのことだった。

 高校を卒業し、春から通う大学の入学手続きも、両親とすったもんだしながら何とか終え、ようやく一息つけるようになった春休み。暇をもてあそぶくらいならと、祖父母が経営する小さなケーキ屋を手伝うことにした。余所よそでアルバイトをするよりは低賃金かもしれないけれど、働いた分はきちんとアルバイト代として出してくれると言うし、それに、わたしも高校生の間は学内のイベントや受験勉強に手一杯で、アルバイトをするのはこれが初めてだったから、身内の所で働ける方が気が楽だったのだ。

「大学が忙しくなったら、好きな時に辞めてくれて大丈夫だからね」

 祖父母はそう優しく言ってくれたけれど、ケーキ屋が家からも大学からも程近い場所にあることもあって、大学に通い始めた今も、週に一、二度くらいの頻度ひんどで手伝いを続けている、という訳だ。

 "カイゼル髭の君"は、わたしが大学に入学する前、アルバイトを始めたばかりで、箱にケーキを詰めたり、レジ打ちをしたりする手元にいま覚束おぼつかなさが残る時、初めてこの店にやって来た。

 客数がそう多いとは言えない、祖父母がほとんど趣味で開いている小さなケーキ屋だ。客の大部分が近所の主婦や子どもたちで、ただでさえ男性客は少なくて目立つと言うのに、特徴的なカイゼル髭をたくわえ、高級そうなスーツを身にまとって現れた彼は、一度見ただけでその存在を覚えてしまうくらいには印象的だった。

 爪先つまさきとがったデザインの革靴をコツコツと鳴らし、わたしが控えるカウンターの向かい側にやって来た"カイゼル髭の君"は、想像よりもほんの少しだけ高い──それでも男の人らしい低い声で言った。

「何か、おすすめの品はあるだろうか?」

 注文の品を告げられるならまだしも、まさかお薦めの品を教えてくれと要求されるとは思っていなかったから、わたしは目に見えて動揺してしまった。

 一瞬、奥の調理場に引っ込んでいる祖父母のもとへ聞きに行きたい衝動に駆られるも、流石さすがに客の前から姿を消すのはどうかと思い、ぐっと足に力を込めて思い直す。

 その間も、"カイゼル髭の君"の瞳は、じっとわたしを見つめていた。ショーケースの中のケーキを物色してくれていたら良かったのに、わたしの答えが待ち遠しくて仕方ないのか、その切れ長の目はわたしを捉えて離さない。

 焦った挙句あげく、わたしが放った答えは、素っ頓狂とんきょうな物だった。

「えと、あの、わたしは──わたしはっ、いちごのタルトが好きです!」

 わたしの声の大きさにか、それとも、その発言自体に驚いたのか、細い目を押し広げ、パチパチとまたたきをする"カイゼル髭の君"。その顔を見上げた途端とたん、わたしの顔は、ボッと音を立てて赤く染まった。

(って、お薦めを聞かれてるのに、わたしの好きな物を答えてどうするの!)

 声なきツッコミを心の中で盛大に爆発させながら、わたしは真っ赤になった顔を伏せてもだえる。

 それからちょっともしない内に、くすくすと、可愛かわいらしい笑い声が降って来た。

 今度はわたしがパチパチと瞬きをしながら、未だ真っ赤に染まったままの顔を持ち上げる。

 "カイゼル髭の君"は、彼には似合わない、子どもっぽい──それでも何故か様になっている笑みを浮かべて、笑っていた。

 ぽかんとするわたしを差し置いて、ひとしきり楽しそうに笑った後、彼はどうにかこうにか笑い声を引っ込め、

「それでは、その苺のタルトを一つ、もらって行こう」

 隠し切れない笑みとともに、そう言った。

 それから、気が付けば一週間に一、二度──わたしのアルバイトと重なる形で、"カイゼル髭の君"はこの店に姿を見せるようになった。まあもしかすると、わたしがアルバイトに来ていない時のことを祖父母に聞いてみれば、実はもっとまめに来ているのかもしれないけれど。

 決まって高級そうなスーツを身に纏い、特徴的なカイゼル髭をピンと逆立て、そして注文するのは、苺のタルト一つ。まるで出会った時のことを揶揄やゆされているようで、その低い声音こわねで「苺のタルト」という単語を聞くたび、わたしの体は小さく縮こまるのだけれど、"カイゼル髭の君"はもちろんそんなわたしに気付いていない。すずし気な表情一つ変えず、品の良い香りを振りいて、颯爽さっそうと去って行く。

 "カイゼル髭の君"にはそういう苦い思い出があるのだけれど、それでも、その特徴的な姿を見る度、わたしの胸がときめくのもまた、事実だった。

 高級そうなスーツと香水の香り、そして何より、紳士的なたたずまいと優し気な微笑み──。わたしやわたしの周りにはなかなかない、大人の色気という物がそこから強く感じられて、わたしは名も知らない彼について色々な想像を巡らせてしまうのだ。

 どういう所で働いているんだろう、とか、普段はどういう生活をしているんだろう、とか。大変な仕事をしているから、定期的な甘い物の摂取が欠かせないのかな、とか。

 わたしには分からない、大人の世界のこと。

 "カイゼル髭の君"について勝手に想像を巡らせるのは、楽しかった。

 平凡な人生を送るわたしにとって、"カイゼル髭の君"は、非日常への唯一の入口だったのだ。

「──苺のタルトを一つ」

 "カイゼル髭の君"の低い声に、わたしは思い出の中から現実世界へと戻って来た。下らない想像を頭の中から慌てて追い出すと、

「かしこまりました」

 と笑顔を作りながら、手慣れた動作で持ち帰り用の箱を組み立てる。

 すると、"カイゼル髭の君"が言った。

「今日はこちらで食べて行こうと思っているのだが」

 箱を組み立てていた手を止め、カウンター越しに"カイゼル髭の君"を見上げる。"カイゼル髭の君"は、相変わらず、余裕のある穏やかな笑みを浮かべていた。

 祖父母のケーキ屋には、窓の側にふたテーブル分、その場で注文したケーキを食べることが出来る席が用意されている。けれど、窓の外から食べている姿が丸見えなことが災いしてか、ケーキを買って持ち帰る客が大半で、それらは空席になっていることがほとんどだ。特に男の人は、甘い物を食べている所を人に見られるのが嫌なのかもしれない。わたしがアルバイトを始めてから、店内で男の人が食事して行く場面に出くわしたことは、一度もない。それは、前述の通り、元々圧倒的に男性客が少ないことが影響しているのかもしれないけれど。

 果たして、"カイゼル髭の君"がどう思っているのかは分からない。しかし、"カイゼル髭の君"もまた、今まで店内で食事をして行くことは一度もなかった。だから、今回もてっきり、お持ち帰りかと思って、自然に箱を用意してしまったのだけれど、どうやら早計そうけいだったようだ。

 作りかけの箱を脇に押し遣り、代わりにトレイを用意して、その上に皿とタルトを乗せる。その間に、カルトンにはきっちりと、苺のタルト一つ分のお金が乗っていた。

「失礼いたしました。こちらが苺のタルトになります」

 言いながら、笑みを浮かべる。「ごゆっくりどうぞ」

 ケーキの箱詰めやレジ打ちは、以前に比べると少しは上達したけれど、自然な笑顔作りだけはどうにも上手うまくいかない。それでも、わたしが浮かべたぎこちないはにかみ笑いに、こちらは見事な柔らかい微笑みを返してくれる、"カイゼル髭の君"。

 タルトが乗ったトレイをうやうやしく持ち、何一つ無駄のない動きで席に向かう"カイゼル髭の君"の背中を見つめる。

(今日は、そういう気分だったのかな?)

 いつもは苺のタルトが入った箱を手に、颯爽と姿を消してしまう"カイゼル髭の君"が、今日はまだ店内に居る。

 不思議な気持ちになりながら、それでも、たったそれだけのことが、わたしの心臓をどきどきと波立たせる。

(何だか今日は、いつもと違う一日になりそう!)

 嬉しい予感に、わたしは瞬きを一つこぼした。

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