魔法使いの嫁
@classic
一、
第1話『嫁、自称将来の夫に出会う』
001
あ、まただ──。
チリンチリンと鳴るドアベルの軽やかな音に、伏せていた顔を持ち上げ、店の入口を
そこに立っていたのは、わたしの予想通り、"カイゼル
背は高く、すらっとしている。しかし、彼がカウンターに近付いて来ると、その体付きが意外とがっしりしていることが良く分かる。
身に着けているのは決まって、肌触りの良さそうな、
年齢は、どれくらいだろう。青年よりは、
さもすれば、対照的な瞳と唇の存在が、ちぐはぐな印象を人に与えかねないと言うのに、彼の場合、まるでその対照さすらも正義と言わんばかりに、人の目──少なくとも、わたしの目には美しく見えるのだから、一般的に彼は美男の部類に入るのだろう。
しかし、今までにあげて来た特徴など
綺麗に整えられた、逆への字型の髭。
いわゆるカイゼル髭と呼ばれるその存在が、わたしが名も知らない彼を心の中で"カイゼル髭の君"と呼ぶ理由だった。
その"カイゼル髭の君"が、わたしのアルバイト先であるこのケーキ屋に初めてやって来たのは、わたしがここでアルバイトを初めて間もない、三月の終わりのことだった。
高校を卒業し、春から通う大学の入学手続きも、両親とすったもんだしながら何とか終え、
「大学が忙しくなったら、好きな時に辞めてくれて大丈夫だからね」
祖父母はそう優しく言ってくれたけれど、ケーキ屋が家からも大学からも程近い場所にあることもあって、大学に通い始めた今も、週に一、二度くらいの
"カイゼル髭の君"は、わたしが大学に入学する前、アルバイトを始めたばかりで、箱にケーキを詰めたり、レジ打ちをしたりする手元に
客数がそう多いとは言えない、祖父母がほとんど趣味で開いている小さなケーキ屋だ。客の大部分が近所の主婦や子どもたちで、ただでさえ男性客は少なくて目立つと言うのに、特徴的なカイゼル髭を
「何か、お
注文の品を告げられるならまだしも、まさかお薦めの品を教えてくれと要求されるとは思っていなかったから、わたしは目に見えて動揺してしまった。
一瞬、奥の調理場に引っ込んでいる祖父母のもとへ聞きに行きたい衝動に駆られるも、
その間も、"カイゼル髭の君"の瞳は、じっとわたしを見つめていた。ショーケースの中のケーキを物色してくれていたら良かったのに、わたしの答えが待ち遠しくて仕方ないのか、その切れ長の目はわたしを捉えて離さない。
焦った
「えと、あの、わたしは──わたしはっ、
わたしの声の大きさにか、それとも、その発言自体に驚いたのか、細い目を押し広げ、パチパチと
(って、お薦めを聞かれてるのに、わたしの好きな物を答えてどうするの!)
声なきツッコミを心の中で盛大に爆発させながら、わたしは真っ赤になった顔を伏せて
それからちょっともしない内に、くすくすと、
今度はわたしがパチパチと瞬きをしながら、未だ真っ赤に染まったままの顔を持ち上げる。
"カイゼル髭の君"は、彼には似合わない、子どもっぽい──それでも何故か様になっている笑みを浮かべて、笑っていた。
ぽかんとするわたしを差し置いて、ひとしきり楽しそうに笑った後、彼はどうにかこうにか笑い声を引っ込め、
「それでは、その苺のタルトを一つ、
隠し切れない笑みとともに、そう言った。
それから、気が付けば一週間に一、二度──わたしのアルバイトと重なる形で、"カイゼル髭の君"はこの店に姿を見せるようになった。まあもしかすると、わたしがアルバイトに来ていない時のことを祖父母に聞いてみれば、実はもっとまめに来ているのかもしれないけれど。
決まって高級そうなスーツを身に纏い、特徴的なカイゼル髭をピンと逆立て、そして注文するのは、苺のタルト一つ。まるで出会った時のことを
"カイゼル髭の君"にはそういう苦い思い出があるのだけれど、それでも、その特徴的な姿を見る度、わたしの胸がときめくのもまた、事実だった。
高級そうなスーツと香水の香り、そして何より、紳士的な
どういう所で働いているんだろう、とか、普段はどういう生活をしているんだろう、とか。大変な仕事をしているから、定期的な甘い物の摂取が欠かせないのかな、とか。
わたしには分からない、大人の世界のこと。
"カイゼル髭の君"について勝手に想像を巡らせるのは、楽しかった。
平凡な人生を送るわたしにとって、"カイゼル髭の君"は、非日常への唯一の入口だったのだ。
「──苺のタルトを一つ」
"カイゼル髭の君"の低い声に、わたしは思い出の中から現実世界へと戻って来た。下らない想像を頭の中から慌てて追い出すと、
「かしこまりました」
と笑顔を作りながら、手慣れた動作で持ち帰り用の箱を組み立てる。
すると、"カイゼル髭の君"が言った。
「今日はこちらで食べて行こうと思っているのだが」
箱を組み立てていた手を止め、カウンター越しに"カイゼル髭の君"を見上げる。"カイゼル髭の君"は、相変わらず、余裕のある穏やかな笑みを浮かべていた。
祖父母のケーキ屋には、窓の側に
果たして、"カイゼル髭の君"がどう思っているのかは分からない。しかし、"カイゼル髭の君"もまた、今まで店内で食事をして行くことは一度もなかった。だから、今回もてっきり、お持ち帰りかと思って、自然に箱を用意してしまったのだけれど、どうやら
作りかけの箱を脇に押し遣り、代わりにトレイを用意して、その上に皿とタルトを乗せる。その間に、カルトンにはきっちりと、苺のタルト一つ分のお金が乗っていた。
「失礼
言いながら、笑みを浮かべる。「ごゆっくりどうぞ」
ケーキの箱詰めやレジ打ちは、以前に比べると少しは上達したけれど、自然な笑顔作りだけはどうにも
タルトが乗ったトレイを
(今日は、そういう気分だったのかな?)
いつもは苺のタルトが入った箱を手に、颯爽と姿を消してしまう"カイゼル髭の君"が、今日はまだ店内に居る。
不思議な気持ちになりながら、それでも、たったそれだけのことが、わたしの心臓をどきどきと波立たせる。
(何だか今日は、いつもと違う一日になりそう!)
嬉しい予感に、わたしは瞬きを一つ
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