- 久遠 -
- Episode 8 -「日常」
紫苑の復帰から三日。歓迎ムードも落ち着き、紫苑の周囲には平穏が訪れていた。
マヌカンでの事件は、地元の晴嵐生にとって身近な事件であり、衝撃的だったことは間違いない。紫苑を良く知る生徒だけでなく、その名を聞いたこともなかった生徒までもが、まるで自分が事件の当事者であるかのように、紫苑の身を案じていたのだ。
ところが、いざ紫苑が戻ってくると、聊か拍子抜けの感は否めなかったであろう。なぜなら、紫苑は事件前と何ら変わるところがなかったのである。傷跡はもちろん後遺症もなく、体力や知力、精神力の衰えも感じさせない。紫苑は紫苑のままであった。
そのため、紫苑の身に降りかかった災厄は、多くの生徒にとって、早々に過去のものとなった。まだ犯人が逮捕されておらず、真の解決には至っていないのだが、変わらぬ笑顔を振りまく紫苑の姿が、そうした事実で曇ることはなかった。
十月に入ってからというもの、昼休みを屋上で過ごそうとする生徒の数は、日に日に少なくなっていった。いくら日差しが強かろうと、外気の冷えっぷりの前では無力である。
それでも、物好きはいるもので、今も二名が春夏と変わらず屋上で昼食をとっていた。この様子では、冬でも防寒着姿で居座りそうな勢いである。その二名は、龍之助と正人だった。
屋上へと続く扉を抜けると、左手側に壁面がある。龍之助はその前で胡坐をかいて座り、背を丸めて弁当箱をつついている。正人はその右隣に立ち、サンドイッチを頬張っていた。
龍之助の小さな弁当箱には、色取り取りのおかずと、母の愛情が詰まっている。一方の正人が手にしているのは、学校近くのパン屋「ムギ」で購入したものであった。
「龍之助、あれは書けたのか?」
厚切りハムサンドを片手に、正人が訪ねる。和風ハンバーグで頬を膨らませた龍之助は、口を動かしながら小首を傾げた。よく咀嚼してから飲み込み、口内を空にしてから返答する。
「……あれって?」
「惚けるなって。ラブレターだよ、ラブレター」
正人の言葉に、龍之助はようやく思い至った。そんなこともあったんだっけ……龍之助はそれが遠い過去の出来事であるかのように、青空を見上げた。白く薄い雲が流れている。
僕は一体何を悩んでいたのだろう? 恥かしい? 答えを知るのが不安? ……まったく幸せだったと龍之助は自嘲する。想いを伝える、その本当の意味を、僕は知らなかっただけだ。
「おい、龍之助?」
正人が怪訝そうな表情を浮かべる。龍之助はうっすらと笑みを浮かべたまま、頭を振った。
「もう、いいんだ」
「……何だって?」
「必要なくなったんだよ。僕の想いはもう……」
「何がいいんだよ!」
正人の鋭い声が、龍之助の言葉を遮った。龍之助が顔を向けると、正人がいつになく真剣な眼差しで龍之助を見下ろしている。龍之助が初めて見る、正人の表情であった。
「お前が神埼さんに気持ちを伝えたいって、俺に頼みに来たんだろ? だから俺は……」
「それは……悪かったよ、ごめん」
龍之助は素直に謝罪を述べたが、正人が追及の手を休めることはなかった。
「俺のことはどうでもいい。要は、お前が神崎さんにちゃんと伝えることが重要なんだ」
正人は怒っていた。だが、その怒りの原因が何なのか、龍之助には分からなかった。龍之助は堪らず視線を逸らし、ふてくされたように頬を膨らませる。
「……何でそんな風に言うんだよ、僕が何をしたっていうんだ?」
「何もしてないから、言ってんだよっ!」
正人は荒々しく言い放つ。そして返事がないことを知ると、舌打ちをして黙り込んだ。潰れかけた厚切りハムサンドを一気に頬張り、不機嫌そうに噛み砕く。龍之助は人参のグラッセを箸先で突付き回していたが、正人の様子を横目で窺うと、ぼそっと呟いた。
「……そんなに言うなら、正人が出せばいいだろ?」
正人は喉を詰まらせた。口内の許容量を越えた食物が、飲み込まれる段階になって反乱を起こしたのである。胸元を連打する正人の姿に、龍之助は腰を浮かしかけたが、正人が片手を出してそれを制する。やがて、正人は何とか反乱分子を胃に追いやり、ほっと息をついた。
「出せるもんならな……」
「えっ?」
龍之助は眼を瞬かせる。すると、正人は首を振り、笑みを浮かべた。
「なんでもないって。それより、それ、一杯くれないか?」
正人は地面に置かれた水筒を指差し、龍之助は二つ返事でそれに応じる。昼休みが終わり、次の授業が始まるまでには、まだしばらくの時間が残されていた。
昼休みの教室は、授業中の静けさから一転、談笑の絶えない華やいだ雰囲気である。生徒達は思い思いの場所で、思い思いの食事を取り、思い思いの過ごし方をしていた。
二年生の教室は、女子生徒に占拠されていると言っても過言ではない。決まりごとがあるわけでも、申し合わせたわけでもないのだが、春から夏、そして秋へと季節が移ろう中で、男子生徒は食堂や中庭、屋外へと駆逐されていった。それが、自然の摂理であるかのように。
「ごちそうさま……うぅ~っ、もう、限界だってのっ!」
窓際の座席で、テーブル代わりの机を囲む三人組。その中の一人、奈津子がお腹を擦りながら呻いた。それもそのはずで、机の上に広げられた弁当箱は「運動会なので張り切って作ってみました」的な大きさでありながら、今やご飯粒一つ残されていないのである。
「……見事な食べっぷりですわね」
奈津子の左斜め前で、深雪は感心したように頷く。深雪の弁当箱は奈津子のものとは対照的に「昔話なら善良な翁が選ぶであろう」的な大きさだ。だが、蒔絵が施された漆塗りの弁当箱は高級感に溢れ、その中身は一流料亭の料理人が裸足で逃げ出すほどの品々で彩られている。
「それだけ食べてもそのプロポーションを保ってるのですから、羨ましい限りですわ……」
深雪は実感を篭めて溜め息をつく。深雪が羨望の眼差しを向ける奈津子の体は、モデル並に均整がとれていた。実際、ファッション雑誌のモデルを務めたこともある。もっとも、奈津子は女の子らしいファッションには興味が薄く、モデルも友人の頼みでやむなく、といったものであった。そんな奈津子がもっぱら興味を持っているのは、演劇の舞台衣装である。しかし、回ってくるのは男役ばかりで、いつかは綺麗なドレスを着てみたいと願う奈津子であった。
「劇部の練習はハードだかんね。その上で太るっても、なかなか難しいもんさ」
「いいですわねぇ……私なんて、気をつけないとすぐにぷるぷるしてしまって……」
深雪が頬に指先を押し当てると、弾力のある肌がへこむ。だが、本人が言うほどに、深雪はふくよかなわけではなかった。どちらかといえば、奈津子の身体つきが女性にしてはシャープなので、その分、深雪の女性的な柔らかさが強調されてしまう……といったところであろう。
「深雪は茶道とか華道とか、カロリー消費が少なそうなことばっかりやってるもんね」
「そうなんです。でも、お茶請けはしっかり頂いてしまうので……」
「でもさ、和菓子で良かったよね。ショートケーキとかだったら、まさに地獄よ……」
「ええ、本当に……」
奈津子と深雪は両手を合わせて顔を寄せ合うと、しみじみと頷きを交わした。以前、三人組で足繁く通っていた、ケーキバイキングのことを思い出したに違いない。おいしいのに安いと調子に乗っていたつけは、奈津子ですら眉をひそめるような結果を招いた。深雪に至っては、体重計の上で立ちくらみを覚えたほどである。それ以来、ケーキバイキングは禁句となった。
「ケーキはともかく、当面の問題はこの弁当だな」
奈津子は深雪から手を離しつつ、その視線を右斜め前に向ける。
「……紫苑、ちゃんと聞いておくように。私が太ったら、あんたの責任なんだからね?」
「私?」
二人のやり取りを見守っていた紫苑は、急に話題を振られてきょとんとした。
「親父の奴、明らかに紫苑の分まで用意してるからね。あんたも食べてくれないと困るのよ」
「それじゃ、私がいつも奈津子からおかずを貰っている、食いしん坊みたいじゃないの!」
紫苑がさも心外だと言わんばかりに主張すると、奈津子は指先でこめかみを押さえた。
「……まさにそうなんだけど。まったく、紫苑がおいしいとか余計なこというからさ」
「だって、本当においしかったんだもん!」
「まぁ、しがない専業主夫だから。料理の腕ぐらいはね」
奈津子はまんざらでもなさそうに頷き、はっとしたように頭を振った。
「と、ともかく、紫苑は私のカロリーメーターなんだから、早く業務に復帰してよね」
「う~ん……善処します」
紫苑は腕を組んで唸り、ぺこりと頭を下げた。すると、深雪は思いついたように口を開く。
「そういえば、私のお弁当には手を出されませんが、お口に合いませんでしたか?」
深雪の素朴な問い掛けに、紫苑は困ったような表情を浮かべた。
「ううん、そんなことないよ。でも、その、ちょっと私には高級過ぎるというか……」
紫苑は深雪の弁当箱に視線を落とす。炊き込みご飯の中で輝くものは、よもやしめじやえのきではなく、薫り高い秋の味覚の王様であった。それも、国産品であろう。
「そんな、ご遠慮なさらなくていいのに。もう一つ用意するよう、爺やに……」
「そ、それはいいから!」
紫苑は両手を振って拒否したが、深雪にはそれが遠慮だとしか思えないのであった。
「まぁ、お嬢様の考えることは一般人には理解しがたく、その逆も然りってね」
奈津子がまとめると、紫苑は苦笑し、深雪は小首を傾げる。そして、深雪は紫苑の姿をまじまじと見直すと、嬉しそうに語りかけた。
「でも、良かったですわ。紫苑ちゃんがすっかり元気になって」
「お陰様で。色々と心配をかけちゃったけど、もう大丈夫っ!」
紫苑は二の腕を曲げたり伸ばしたり、元気の良さをアピールする。
「紫苑ちゃんが戻ってくるまで、大変だったんですから。なっちゃんが泣いて泣いて……」
「うるさいっ! いつまで同じことを言うつもりだ、あんたはっ!」
奈津子は頬を朱に染め、深雪の白い頬をぎゅっとつまみあげる。
「ふぉう、照ふぇ屋さんなんふぁから……」
深雪は平然と言葉を続ける。奈津子は諦めたように手を離すと、ぶっきらぼうに答えた。
「ま、私に言わせたら、紫苑はまだ完全復活とはいえないけどね」
「その心は?」
深雪が赤味を増した頬をさすりながら訪ねと、奈津子は表情を引き締めて答えた。
「そりゃ、鋼鉄の胃袋を持つと噂される紫苑に食欲がないんだ、これが正常なわけある?」
「……確かに、言われてみればその通りですわね」
「そこで同意しないでよ!」
紫苑の突っ込みにも、二人は動じることがなかった。それどころか、二人揃って遠慮の無い視線を紫苑に注ぎ続けている。紫苑は何だか居心地の悪さを感じ、両手でお腹を押さえた。
「もう、随分と食べてないですわよね?」
深雪に問われ、紫苑は躊躇いがちに頷いた。
「よくそれで平気だよね。昼休みの第一声が『お腹すいた~!』の紫苑とは思えないよ」
紫苑に睨まれても、奈津子は涼しい顔である。紫苑は頭を振って溜め息をついた。
「……しょうがないよ、食欲もなければ、お腹も空かないんだから」
紫苑が表情を曇らせたので、奈津子と深雪は顔を見合わせた。深雪は奈津子の口ぱくと身振り手振りに応じて頷くと、紫苑の手に自らの手を重ねる。
「気にする必要はないですわ。きっと、何らかの障害が脳に残っているだけ……」
「このすかたんっ!」
奈津子は深雪の頭を叩いた。恨めしそうな視線を向ける深雪に、奈津子は顔を寄せる。
「言い回しってもんがあるでしょうが! 何の為に和歌とか習ってるのよ、あんたは!」
「叩くなんて酷いですわ! 私は口下手なっちゃんのために、良かれと思って……」
「いくら私でも、もうちっとましなことが言えるわい!」
「そう、そうですわよね~、いつも演劇で、恥かしい台詞を大声で仰っていますものね~」
「は、恥かしいとかいうな!」
「あははははっ!」
突然の笑い声に、奈津子と深雪は同時に振り向いた。紫苑は口元を押さえていたが、ばつが悪そうに後ろ髪を撫でると、呼吸を整えてから言葉を繋いだ。
「……ごめんごめん! 奈津子、深雪、二人とも、ありがとう、気を遣ってくれて。でも、もう大丈夫だから。そりゃ、お腹が空かないのは気になるけど、それ以外はばっちりだしね!」
紫苑の言葉に促され、奈津子と深雪は目配せを交わし、頷き合った。
「……ま、本人が大丈夫っていうならね」
「そうですわね。人間、水分と塩分があれば、相当生き延びれるって話も聞きますし……」
「ん、水分は大事だよ。紫苑、食べれなくてもしっかり飲んでおきなよ?」
奈津子の言葉に、紫苑は眼を泳がせた。乾いた笑みを浮かべたまま、人差指で頬を撫でる。その仕種に不審を覚えた奈津子が、眉間に皺を寄せて尋ねた。
「……まさか、水も飲んでないの?」
「うん、まぁ……飲んでない……かな?」
紫苑は歯切れ悪く答える。紫苑自身もさすがに不安を感じているのか、余りその点については考えたくない、という素振りが見えた。奈津子は腕組みすると、深刻そうな顔で口を開く。
「いまいち心配だね。多少無理してでも、水分は摂った方がいいよ?」
「うん、そうなんだけど……」
沈黙。奈津子は髪の毛をかき回し、深雪はその身を労わるように紫苑へと語りかけた。
「……大事をとって、復帰戦は延期した方がいいんじゃないかしら?」
「そうね。紫苑、今日の試合、本当出るつもりなの?」
奈津子に問われ、紫苑は頷きを返した。先程とは打って変わり、笑顔が弾けている。
「もっちろん! 私のために試合を用意してくれたんだもん、それに応えない手はないわ!」
紫苑は拳を固めて、来るべき戦いに想いを馳せた。その瞳は熱く燃えている。
「龍之助の許可もとったし、あぁ、放課後が待ち遠しいなぁ~!」
嬉しそうな紫苑とは対照的に、奈津子の表情が強張った。発する声にも棘が目立つ。
「……なんでそこで守屋が出てくるかねぇ?」
「まぁまぁ、なっちゃん、細かいことは気にしない方が身のためですわよ?」
「どういう意味よっ!」
不機嫌さを隠そうともしない奈津子を前に、深雪はわざとらしく時計に目をやった。
「あら、もうすぐお昼休みが終わりますわよ?」
「そんなことで誤魔化されると……って、ちっ、本当だったか」
奈津子も時計をあらため、渋々といった感じで弁当箱を片付け始める。深雪もその横で片付けを進める。紫苑だけは手持ち無沙汰で、二人のお片づけを見守っていた。三人の周囲でも、授業の準備が慌しく進んでいる。弁当箱を鞄に詰め込むと、奈津子は席を立った。
「……次は介護実習か。苦手なんだよね、爺さん婆さんの相手は」
「そんなこと言って、奈津子は評判良いじゃない?」
紫苑に褒められ、奈津子は照れ臭そうにそっぽを向く。続いて深雪が立ち上がる。
「移動の時間を考慮しても……うん、まだお手洗いにいく時間はありますわね」
「じゃ、私は先に実習室に行くね、また後で!」
最後に立ち上がった紫苑は、軽く手を振って歩き出す。その背中に奈津子は声をかけた。
「紫苑は……」
「ん?」
「あ、やっぱ何でもない」
振り向いた紫苑に、奈津子は手を振って答える。紫苑は小首を傾げたが、前に向き直ると、軽快な足取りで歩き出した。じっと紫苑の後ろ姿を見送る奈津子を、深雪が袖を引いて促す。
「ほら、なっちゃん、早くいかないと、時間がなくなっちゃいますわよ?」
「あ、うん」
深雪の背中を追いながら、奈津子は一人ごちる。
「……ま、飲まず食わずじゃね」
放課後。晴嵐高校の校庭では、晴嵐高校女子サッカー部と
後半、ロスタイム突入直後のスコアは9対2。晴嵐9得点の明星2得点であった。サッカーの試合とは思えないスコアだが、さらに珍しいことに、その9得点全てを一人の選手が叩き出していたのである。その選手こそ紫苑であり、紫苑は自らの足で復帰戦を飾ることとなった。
高々とボールが上がり、その落下予測地点に走り込んだ紫苑は、振り向き様に地面を蹴って宙へと浮かび上がる。背中が地面と平行になった瞬間、紫苑の右足はボールを捉えた。非常に高い位置からオーバーヘッドで蹴り込まれたボールは、ゴールの左隅に突き刺さる。余りの速さに、明星の守護神は動くことも出来なかった。紫苑は体勢を崩すことなく着地し、振り返ってゴールを一瞥すると、天高く拳を突き上げた。十得点目。一瞬、時が止まったかのような沈黙が訪れたが、試合終了のホイッスルが鳴り響くと、一転して大歓声が巻き起こった。興奮の坩堝である晴嵐の応援席に対し、水を打ったように静まり返る明星の応援席。紫苑を囲んで盛り上がる晴嵐イレブンに対し、暗い表情で黙り込む明星イレブン。この明暗が極端なコントラストは、両チームが握手を交わして別れた後も続いた。
「……いやぁ、凄いもんだなぁ」
溜め息をつく正人。その視線の先には、仲間と喜びを分かち合う紫苑の姿があった。正人の隣では、龍之助も同じく紫苑に視線を向けている。二人は晴嵐の応援席近くの木陰から、遠目に試合を観戦していた。応援席が満席だったので、追いやられてしまったのである。
「……やり過ぎだよ」
龍之助はそう呟きながら、手にした手帳にボールペンを走らせた。正人が視線を向ける。
「今、何か言ったか?」
「別に、何も」
龍之助の答えはそっけなく、正人は鼻白む。
「お前なぁ、ここ最近、やけにカリカリしてないか?」
「そんなこと……ないけど?」
龍之助は手を止めると、手帳をブレザーの内側にしまった。そうした一連の動作を、正人はじっくりと眺める。龍之助は正人の視線に気付くと、顔を上げて眉根を寄せた。
「……何? そんなにじろじろと……」
「いや、何を熱心に何書いてるのかな~ってね」
龍之助はブレザー越しに手帳を押さえ、そそくさと身を引いた。
「別に、大したことじゃないよ」
「そりゃ、誰だってメモぐらい取るけどさ……手書きは珍しいと思っただけさ」
龍之助が反論しようとすると、その先を遮るように話し声が届いた。正人は遠くを見るように、龍之助は口を空けたまま、声のする方へと振り返る。
そこにいたのは、明星女子学園サッカー部の面々だった。勝者とは異なり、早々とピッチを後にしようとしている。オレンジ色のユニフォームは、どこか精彩さが欠けていた。
「何なのよ、一体!」「ねっ、おかしいよねっ、絶対っ!」「あれで退院したばかりですって?ありえないわ……」「最近、ニュースの捏造も多いしね」「連敗か……いい面の皮よね、私達」
声高に聞こえる会話のフレーズは、熱戦を終えたばかりの選手達とは思えないものだった。それは、話題の相手がいかに厄介な存在であったかを如実に物語っている。
明星の一行は龍之助と正人の脇を通り過ぎようとしていた。その間も選手達は口々に悪態や愚痴を洩らしており、それらは否が応にも龍之助の鼓膜を刺激した。
「中身はロボットなんじゃないの?」
それは、他愛もない冗談であった。理不尽な敗北を紛らわせようとする、防衛本能であったかもしれない。発言者自身、深い意味を込めた言葉ではなかったはずだ。しかし……。
「違うっ!」
大声だった。賑やかな校庭においても、遠くまで届いたに違いない。龍之助は駆け出すと、明星学園サッカー部員達の前に立ち塞がった。大きく、両手を広げて。
「紫苑は、紫苑は……」
不器用に繰り返す龍之助。突然現れた晴嵐生に、明星の一行は唖然として顔を見合わせる。やがて、そばかす顔の少女……キャプテンが、冷めた言葉を返した。
「あなた、何? 晴嵐の男子が、私達に何の用?」
その言葉に、龍之助は我に返った。周囲を見回すと、多くの視線が自分に集まっている。特に、眼前に立ち並ぶ一行の視線は鋭い。龍之助は二の句が継げなかった。
「し、失礼しました!」
そう言って頭を下げると、龍之助は素早くその場から離れた。
「……おい、龍之助、何やってるんだよ?」
駆け寄った正人が声をかけても、龍之助はしかめ面で黙り込んだままだった。
「龍之助ぇ~!」
よく通る声に続いて、周囲から拍手や歓声が起こる。声援に手を振って応じながら、黒髪をなびかせ駆け寄って来たのは、ユニフォーム姿の紫苑であった。
「神崎さん、お疲れ様! いや~凄かったね~! 感動しちゃったよ、俺は!」
正人は拍手で紫苑を称え、次いで目頭を押さえる。紫苑は正人に笑顔のVサインを返すと、龍之助に顔を向けた。龍之助の表情は硬く、紫苑に僅かな緊張が走る。
「……龍之助、こっちの方にいたんだね。探しちゃったよ」
「着替えてきなよ。校門で待ってるからさ」
龍之助は手早く用件を伝えると、方向転換をして歩き出そうとする。だが、紫苑が龍之助の手首を掴んで引き止める。龍之助が振り返ると、紫苑は手を離し、小さく両手を振った。
「ご、ごめんね、でもちょっと相談があるんだけど……」
紫苑はお伺いをたてるように、胸の前で両手を握り合わせた。龍之助が不機嫌そうな表情を崩そうとしないので、紫苑は見切り発車で言葉を繋ぐ。
「あのね、みんなが復帰のお祝いをしてくれるっていうの! だから、今日の診察はキャンセル……って……その、そういうのって、駄目……なのかな? やっぱり……?」
紫苑の言葉は、末尾に近づくほどに自信を失っていく。龍之助は溜め息をつくと、人差指を伸ばして紫苑の鼻先に突きつけた。そして、咎めるように言葉を放つ。
「……駄目に決まってるだろ? 本当は、サッカーなんかできる状態じゃないんだよ?」
龍之助の言葉に紫苑はしゅんとして俯いた。正人は二人を交互に見比べながら、髪の毛を掻き乱している。やがて顔を上げた紫苑の表情は、かろうじて笑顔に属するものであった。
「そう……だよね、ごめん、変なこと言っちゃって。……私、みんなに話してくるね!」
そう言い残すと、紫苑は軽快に走り去っていった。声をかける間もない。正人が紫苑の背中に伸ばした手が、空しく宙を掴む。龍之助も足先を校門の方角へと向けた。
「じゃあね、正人。また明日」
「お、おい、龍之助っ!」
龍之助が振り返る事はなかった。正人は龍之助の背中を見送り、両腕を組んで首を傾げる。
「……一体、何だってんだ?」
突然、観客席から笑い声が上がった。正人が顔を向けると、女子生徒の一団が、何やら顔を寄せ合って話している。興味本位な視線の先には、龍之介の姿があった。
「……ねっ、あの二人、やっぱ怪しいよねぇ~っ!」
「お嬢さん方、何が怪しいって?」
正人が会話に割り込むと、女子生徒は始めこそ表情を強張らせたが、すぐにほっとした様子で表情を緩めた。周りの女子生徒も、正人の出現でテンションが上昇。より騒がしくなる。
「正人君だって、ヘンだとだ思うでしょ?」
「今のやり取りも聞いたぁ? 完全に主導権が入れ替わっちゃってるもんねぇ!」
「そうそう、驚いちゃったぁ! あたし、ずっと守屋君が神崎さんに依存してるとばかり……」
「だよねぇ!」
そこでまた、ひとしきり笑い声が続いた。好きなことを口々に、止め処なく語り続ける女子高生の会話を、正人は的確に聞き分けていく。多くの繰り返しや極端な誇張、主観的な感想が入り混じる言葉の濁流の中で、正人が知り得た事情は次のようなものであった。
何でも、紫苑が三日前に復帰してからというもの、二人の関係は以前とは逆転してしまったのだという。以前は紫苑がぐいぐいと龍之助を引っ張っていたのに、今では紫苑が何をするにも龍之助にお伺いを立てている……といった具合なのだ。
百八十度回転した、二人の関係。その原因は何かと言えば、紫苑の入院生活であるという。事件以後、毎日のように病院へと通いつめる龍之介の姿が、多くの生徒に目撃されていた。
「……でもさぁ、いくら幼馴染だって言っても、守屋なんかのどこがいいんだろーね?」
「わかんな~い。でもぉ、芸能人のカップルもぉ、え~なんで~ってのがぁ、あるしぃ?」
「怪我の功名っていうか、やっぱり、不幸な事件が二人を強く結びつけたのよ!」
「肉体的に?」
「いやだぁ、何言ってるのぉ~!」
弾ける笑い声。正人は笑顔で女子生徒の話に相づちを打っていたが、見計らったように手を挙げて別れた。校門へと足を向けると、龍之助が熱心に手帳を見詰めている姿が目に入る。
「……何か、おもしろくねーな」
正人はそう呟くと、裏門へと踵を返した。
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