- Episode 5 -「暴漢」
小虎に急き立てられ、龍之助が選んだのは、店内の奥まったところにある一席だった。
「まあ、龍兄ぃらしいチョイスですこと」
小虎はそう言い残すと、踵を返してキッチンへと向かう。一人残された龍之助は、釈然としないまま鞄をテーブルに置き、木製の椅子に腰を下ろした。
龍之助が何気なく目を向けた先では、ドールスタッフが丁寧にテーブルを磨いていた。その視線に気付いたかのように、ドールスタッフが振り返る。日本人離れした顔立ち。おとぎの国から抜け出してきたような、幻想的な美しさ。龍之助が青い瞳に見入っていると、ドールスタッフは完璧な微笑を返した。龍之助も釣られて笑顔となる。
「なーににやにやしてるの? 気持ち悪い」
小虎は水と氷が注がれたグラスをテーブルに置くと、龍之助の視線を追った。
「ふぅん、サラかぁ。やっぱ、ああいう美人さんが好みなんだねぇ……」
銀のお盆を胸に抱き、小虎はしみじみと頷く。龍之助は誤魔化すように、水を口に含んだ。
「龍兄ぃ、紫苑姉ぇに相手にされなくなっても、サラに手を出しちゃ駄目だからね?」
「ぶっ……そんな、こと……」
「もーっ! 何やってんのよー!」
豪快に水が零れ、小虎は頭を抱える。近寄るサラを片手で制し、小虎はエプロンのポケットから布巾を取り出すと、テーブルを拭き始めた。その合間に、ハンカチを龍之助に投げる。
「ほら、自分の服ぐらい、自分で拭く!」
「なになに、何の騒ぎ?」
店の奥から、支度を終えた紫苑が駆け寄ってきた。ロングドレスでありながら、内に秘められた躍動感は損なわれることはない。さすがに、この格好でサッカーは難しいであろうが。
「だいじょーぶ、いつも通り、龍兄ぃがどんくさかっただけだから……まったく」
額を拭い、掃除の完了を告げる小虎の隣で、龍之助は遠慮がちにハンカチを動かしている。紫苑はくすりと笑うと、一仕事終えた小虎に声をかけた。
「小虎ちゃん、あとは私がやっておくから、早めに上がったら?」
「えっ、でも、まだ時間はあるし……」
「遠慮しないの。ずっと楽しみにしてたライブなんだから、遅れたら大変でしょ?」
小虎は紫苑と時計を何度も見比べたが、やがて決心したように頷いた。
「じゃあ、お言葉に甘えちゃう! 本当は気になって、仕事どころじゃなかったんだよね~」
小虎は照れ臭そうに頭を掻く。紫苑が頷くと、小虎はスタッフルームへと走り去った。龍之助は首を伸ばし、その後ろ姿を見送る。ドールスタッフ達も、何事かと注意を向けていた。
「……我が妹ながら、現金な奴だなぁ」
「素直で可愛いじゃない?」
笑顔で応える紫苑に、龍之助は苦々しく呟く。
「でも、シフトを替えてまでも行くもんかな? ……えーっと、アブラーだっけ?」
「アクターよ、アクター。龍之助はもうちょっと世間に関心を向けるべきね」
アクターとは俳優を指す言葉だが、近年は別の意味として浸透しつつあった。アンドロイド操縦者としての。アクターである。小虎は。大人気アクターのリデルにご執心であった。
アクターが操縦する半自律型アンドロイドは、簡単に言えば精密な操り人形であり、操縦者の腕前によって立ち振る舞いが大きく左右される。リデルが操る相棒のアリスは、人間以上に人間らしいとの評判で、アイドロイド……アンドロイドのアイドル……として、若者から絶大な支持を受けていた。リデル自身、アイドルに値する容貌と声を持っていたが、あくまでアリスを立てようとする奥ゆかしさが、小虎などに言わせれば堪らなく「萌える」のだという。
龍之助が紫苑からレクチャーを受けていると、小虎がスタッフルームから飛び出してきた。大きめのパーカーにジーンズ。大きな鞄を肩に下げ、旅行にでも行くかのような装いだ。
「じゃ、いってくるね~! 紫苑姉っ、本当にありがとう!」
「気をつけていってらっしゃい! ライブの感想、聞かせてね!」
「もっちろん! あ、龍兄ぃ、紫苑姉ぇに迷惑をかけないように!」
「あんまり遅くなるなよな、母さんが心配するから……」
「ちゃんと連絡入れるからだいじょぶだいじょぶ、じゃね!」
小虎は扉を引き開け、勢い良く滑り出す。騒がしさと共に扉が閉まると、ほどなくして店内に静けさが戻ってきた。まるで思い出したかのように、クラシック音楽が流れ始める。
「さてと……では、ただいま唯一のお客様、ご注文をどうぞ!」
龍之助は、紫苑から手渡されたメニューを広げるだけ広げ、注文を口にする。
「じゃ、珈琲で……」
「あとは?」
「あとはって、いいよ、珈琲があれば」
「だ~め! 遠慮しなくていいから、何かデザートも選んでよ!」
龍之助は首を捻る。甘いものが嫌いというわけではないが、飛びぬけて好きというわけでもない龍之助にとって、数々のデザートから一品を選び出すことは、困難を極めた。絶対に頼みたくないものとして、マヌカン特製パフェを挙げることはできるのだが……。
「決められないなら、私が選んであげよう!」
紫苑は龍之助の隣に腰掛け、メニューを横から覗き込む。微かな石鹸の香り。龍之助が顔を向けると、間近に紫苑の横顔があった。真剣な眼差し。龍之助が見惚れていると、不意に紫苑が振り向いたので、間近で見詰め合う格好となった。龍之助の心臓が高鳴る。
「ね、これにしよっ?」
龍之助はどぎまぎして、メニューを見ぬまま頷く。紫苑はメニューを閉じて立ち上がった。
「よーし! マヌ特パフェ、作っちゃうぞ!」
「ん? ちょ、ちょっと待って!」
龍之助がメニューを開くと、紫苑が口にしたデザートの写真が目に飛び込んできた。龍之助が一目で避けた魅惑の一品。大きなグラスにこれでもかと言わんばかりにアイスクリームや果物、生クリーム、シリアル、ナッツ、チョコレート、ゼリーなどが搭載されている。これは、作るのも運ぶのも一苦労であろう。龍之助の目には質の悪い冗談にしか見えない代物だが、これでも女性客には一番人気だというのだから、世の中はわからない。
「これは止めとこうよ、値段も高いしさ……」
「大丈夫! 来週はお給料日だし、お詫びの品にこれ以上相応しいものはないわ!」
紫苑のやる気に反比例して、龍之助の食欲や熱意が減衰する。龍之助が真意を気取られないよう、弱々しく拒否を続けていると、紫苑は腰に手を当て前傾し、龍之助に迫った。
「……私の作ったパフェが、食べられないっていうの?」
そう言われては、「お願いします」と頭を下げるしかない龍之助であった。
紫苑が厨房へと向かい、一人残された龍之助は、文庫本を開いてみたがどうも集中できず、テーブルに頬杖を突いていた。未だ新たな来客もなく、清掃を終えた三名のドールスタッフがそれぞれの待機エリアで佇んでいる姿は、龍之介の目には寂しげに映った。
龍之助は何気なく鞄をまさぐり、手に触れたものを取り出す。それは、書くに書けない手紙であった。さらに探ると、手紙を入れる為に用意した封筒も出てくる。手紙の色は薄い緑色で、封筒の色は抹茶色である。白い手紙と茶封筒では事務的だし、かといって白い封筒ではいかにもという感じで、色々と考えた挙句、辿りついたのが目に優しい組み合わせだった。
龍之助は何度も開いては畳むを繰り返してよれてきた手紙を、テーブルの上で押し伸ばす。そこには、本来記されるべき言葉は一つも無い。龍之助は筆箱から鉛筆を取り出した。
ここに一言書くだけ。ただそれだけが、何で僕にはできないんだろう? ……そう思いながら便箋を眺めていると、龍之助はむかむかと腹が立ってきた。簡単なことじゃないか。自分の気持ちを伝える……そこに、躊躇う理由などない。結果がどうなろうが、自分の想いが変わるわけでもない。ただ、正直に書くだけでいいのだ。飾る必要もない。ただ素直に。
「紫苑、僕は君の事が好きだ」
そう、これだけ書けばいいのだ。龍之助は手紙に記された文字を眺め、うんうんと頷いた。簡単なことじゃないか……そこまで考えたとき、龍之助は我が眼を疑った。何度も眼を擦り、手紙を凝視する。そこには、ずっと書きたかった言葉が記されていた。いとも簡単に、あっさりと。自分でも拍子抜けするぐらい、その文字はしっかりと綴られていた。
「何書いてるの?」
「うわぁああー!」
「きゃっ! ちょ、と、なっ!」
龍之助は全身を使って叫びながらも、素早く手紙を折り畳み、封筒に納めた。その間、バランスを崩しかけた紫苑は、お盆の上のパフェを崩さないようにと、ダンスを踊っていた。絶妙なバランス感覚の賜物か、滅多に積まれた食材がこぼれることなく、龍之助の前に置かれる。
本物だけが持つ、圧倒的な存在感。写真ではバニラアイスに隠れていたプリンが、思わぬ伏兵としてそこに存在していた。だがそれすらも、今の龍之助には些細なことであった。パフェに気を取られた風を装いながら、その手に握ったものを、確実に鞄の中へと近づけていく。
「もう、いきなり大声上げないでよ!」
「いや、ごめんごめん。いやー、それにしても、おいしそうだねぇ!」
「……龍之助」
名を呼ばれ、龍之助が引きつった笑顔で振り返ると、紫苑の黒い瞳が据わっていた。
「誤魔化そうとしても、そうはいきませんよ?」
龍之助の手が止まる。紫苑は笑みを浮かべると、眼を細めて覗き込む。
「……ほほ~、お手紙ですかぁ?」
龍之助の頬を汗が伝う。まさに、蛇に睨まれたカエルの心境であった。
「それってラブレターでしょ? いやぁ、本当に好きな人がいたんだねぇ~!」
「ち、違うって!」
「まぁ、とりあえず……」
紫苑は居住まいを正すと、カチューシャにも手をそえて形を整える。そして、軽く咳払いをすると、仰々しく両手を差出す。綺麗な手の平を、龍之助は疑わしそうに見詰めた。
「見せて?」
「やだっ!」
「添削してあげるって言ってるの! 大丈夫、誰にも言わないから、ねっ?」
内容が際ど過ぎる。龍之助は必死に抵抗を見せたが、そのことが逆に紫苑のハートに火をつけてしまったようだ。じーっと龍之助が握り締めている手紙を見つめたあと、実力行使と手を伸ばす。龍之助は寸でのところで紫苑の手を逃れたが、追跡の手は第二、第三と迫ってくる。
遠慮のない紫苑に対し、龍之助の抵抗はぎこちない。ふとした拍子に触れてしまった肌の柔らかさは龍之助の動きを止め、その隙に紫苑は龍之助の手から封筒を奪い取るのだった。
その瞬間、龍之助はこの世の終わりを体現したような、絶望的な表情を浮かべた。結局は紫苑に見せるために書いたのだが、こんな形で目にして貰いたいわけではなかった。
「さて、どんなことが書いてあるのやら……」
紫苑は封筒を傾け、その中身を取り出そうとしている。龍之助はその光景を直視できず、逃げる様に俯いた。期待と不安。ここまできたら、あとはどうとでもなれ! ……そんな、諦めの境地。だが、いつまでたっても、その手紙が起こしうる全ての可能性が、現実になることはなかった。不審に思った龍之介が顔を上げると、紫苑が神妙な面持ちで手紙を差出していた。
「……ごめん。ちょっとからかい過ぎた」
龍之助は呆然としたまま、手紙を受け取った。嬉しいような、悲しいような。龍之助は複雑な気持ちを抱えたまま、手に戻った手紙をじっと見詰めていた。紫苑は何食わぬ顔をして立ち上がると、封筒を傾けようとする龍之助に声をかける。
「珈琲を入れてくるから、先にパフェを食べちゃってて!」
「あ、うん」
龍之助は手を止め、一向に食欲の湧かないデザートにぼんやりとした視線を向けた。紫苑が立ち去ると、龍之助は深々と溜め息をつき、手紙を鞄の中へしまった。
気分を変えてパフェと対峙した龍之助は、一口、二口と食べてはみたものの、すぐにスプーンを器に戻した。氷だけが残るグラスを恨めしそうに眺めつつ、珈琲の到着を待つ。
やがて、紫苑が戻ってきた。ソーサーに乗ったカップがテーブルに置かれる間際、小さな音と共に珈琲が波立ち、熱い滴が僅かに飛び散った。紫苑の指先が、わずかに震えている。
「紫苑、大丈夫? 火傷とかしなかった?」
「う、うん、ご、ごめんね、ちょっと、うっかりしてた」
龍之助は珈琲を口に含む。いつもは砂糖とミルクを入れているが、今はブラックの苦味がありがたい。息をつく龍之助を、紫苑はお盆を抱き締めたまま、じっと見下ろしていた。龍之助が顔を上げると、すぐに顔を背ける。どこか余所余所しい態度に、龍之助は疑問を感じた。
「紫苑、疲れてるんじゃない?」
「え、そ、そんなことないよ?」
「そう? 何か様子が……」
「変わってなんかないって! いつも通りよ、うん」
なおも疑問を抱きながらも、パフェをもう一口食べよういう気になった龍之助は、スプーンでプリンをすくう。だが、プリンを口に運んだとき、気紛れは後悔へと変わった。
「……龍之助が悪いんだからね!」
龍之助はスプーンを咥えたまま、きょとんと眼を丸くした。紫苑はしまったと後悔を表情に滲ませたが、龍之助は首を傾げるばかりである。やがて紫苑は、決心したように口を開いた。
「だいたい、龍之助があんな……」
その時、来客を告げるチャイムが鳴った。入って来たのは、黒いコートを羽織った、肩幅の広い長身の男だった。入り口で待機していたドールスタッフのマリアが、深々と頭を下げる。
「いらっしゃいませ」
そして、顔を上げたマリアに黒い影が迫る。それは、男が繰り出した拳だった。
思わず耳を塞ぎたくなるような騒音。実際、龍之助は耳を塞ぎ、紫苑は素早く駆け出した。音源を確かめようとしたのである。そして、惨状を目の当たりにすることになった。
木製のカウンターが無残に崩れ、その上にドールスタッフが一名、横たわっていた。いや、投げ出されていた、と言った方が正しい。折れ曲がった頚椎が、衝撃を物語る。その傍らで、背の高い男が佇んでいた。虚ろな視線は、足元のドールスタッフに向けられている。
龍之助はもちろん、紫苑すら声もなく、身動き一つできなかった。沈黙の中、男がゆっくりと動き出す。その前に恭しく立ち塞がったのは、新たなドールスタッフ……エミリーだった。
「お客様、そのような行為は……」
「だめっ!」
紫苑は思わず叫んだ。だが、悲痛な叫びを嘲笑うかのように、男の腕が動いた。拳が唸りを上げ、ドールスタッフに襲い掛かる。枯れ葉のように舞った体が、広場に面したガラス張りの壁を突き破った。ガラスが細やかな雪のように舞い散り、屋外からの悲鳴を呼び込む。
「な、何なんだよ、これ……」
喘ぐように呟いた龍之助は、腕を強く引かれて我に返る。紫苑の顔が間近に迫っていた。
「龍之助、早く逃げて、裏口から!」
逃げる? 何から? 龍之助は呆然としながらも、緊迫した表情の紫苑に頷きを返した。だが、腕を引かれたその先で、紫苑に出口へと背中を押されると、龍之助は慌てて踏み止まる。
「ちょ、ちょっと、何やってるんだよ、紫苑も一緒に……」
「私は店員、龍之助はお客様っ!」
「馬鹿っ! 幼馴染だろっ!」
龍之助の言葉がその場において適切であったかは不明であるが、紫苑を一瞬驚かせ、次いで笑みを浮かべさせるだけの効果はあった。だが、それも長くは続かない。店内から再び鈍い音が響き、紫苑は素早く振り返った。龍之助の鼻先を、紫苑の後ろ髪がかすめる。
「サラっ!」
紫苑は店の奥へと駆け出した。龍之助もその後を追う。サラという名のドールスタッフは、床で仰向けに倒れていたが、他の二人の凄惨さを思えば、まず軽症といってよかった。だが、それでは不服なのか、男はサラに向かってゆっくりと歩みを進めていた。
男の顔は彫りが深く、日系のそれではない。ハリウッド発のB級アクションスターといった顔立ちだが、その瞳はどこまでも無機質で暗い。表情というものとは無縁であるようだ。
紫苑は手近にあった椅子の背もたれに手をかけると、男を見据えて引きずり始める。
「……マリア、エミリー」
紫苑が呟いたのはドールスタッフの名前だった。マリアは崩れたカウンターの上で仰け反り、エミリーは風穴の空いた壁から半身を乗り出している。
紫苑は怒っていた。紫苑にとって、今の状況は至極単純なものであった。すなわち、仲間が暴力に晒された、という事実だけで充分なのである。龍之助は紫苑の気持ちを察しながらも、その行為を見過ごすわけにはいかなかった。もちろん、紫苑の身を案じてのことである。
龍之助は紫苑の肩に手を伸ばしたが、一瞬の差で遅れた。紫苑は椅子を引きずりながら駆け足で男に近づき、勢いを殺すことなく椅子を振り上げ、大きな弧を描いた。
椅子は男の体に当り、わずかにその身を揺らしたが、成果はそれだけだった。衝撃は反動となって紫苑の手を襲う。紫苑が手を離したことで椅子は大きく跳ね返り、テーブルの上に落下して乱暴な音を響かせた。紫苑は手を痛めたのか、両手を広げて覗き込む。だが、その視線がより高いところへと移る。男が紫苑を見下ろしていた。男の濃い影が紫苑に重なる。男の腕が高々と上がった。紫苑は膝を曲げて床を蹴り、その場から逃れようと身を投げ出す。
ごりっ。鈍い音がした。背筋に悪寒が走るような不吉な旋律。紫苑の体が文字通り飛んだ。その先には龍之助がいたが、とっさに手を広げることも、足を踏ん張ることもできず、豪快に尻餅を突く。龍之助が身を起こそうとすると、紫苑は崩れるように床の上で転がった。
「紫苑、大丈夫?」
龍之助の呼びかけに、返事はなかった。ぎこちなく抱き起こしても、紫苑の身体は力が抜け切り、見た目からは想像もできないほどの重みがあった。執拗にうな垂れる頭を起こそうと、龍之助が手を伸ばす。ぬるり。熱い、嫌な感触がした。震えが龍之助の全身を支配し、息苦しさに喘ぐ。龍之助は乾ききった唇を、途方もない努力の末に動かした。
「……紫苑……紫苑?」
呟くように、囁くように、龍之助は声をかけ続ける。その一方で、男はサラに馬乗りとなり、握り合わせた拳を振り下ろし続けていた。サラの顔がひしゃげられていく。
「あ~あ、派手にやってくれちゃってぇ……」
チャイムが鳴り、店内に新たな人影が加わった。風通しのよい店内を歩くのは、身体に密着した黒いボディスーツの上に、黒いジャケットを羽織った女性である。背は高く、足も長い。ウルフカットにした栗色の髪を掻き揚げる手には、グローブがはめられている。瞳は丸みを帯びた黒いサングラスで隠されていたが、露出した鼻や唇は整っていた。
女性はサングラスに指をそえ、店内を見渡した。痙攣するドールスタッフに目を止めると、桜色の唇が歪む。男はゆっくり立ち上がり、女性を虚ろな瞳で見据えた。女性は軽く肩を回したり、手首を曲げたりと、まるでプールに入る前の準備運動のような仕種を見せる。そして、伸ばした手を腰の後ろに回し、前傾姿勢となった。
「ぶッ潰す」
言うが早いか、腕を広げた女性の両手には、黒い棒が延びていた。一瞬、腕が伸びたような錯覚すら覚える。女性は握りのついた棒……トンファーの握りを逆手に持っていたのだ。
女性は駆け出すと、踏み込みながら右手を突き出す。男との距離は棒が埋めた。男はそれを左腕で払おうとしたが、間に合わない。棒は男の鎖骨に当たる部分を強かに打った。女性が握りから手を離しても、棒の先は男に突き刺さったままである。女性は首を傾げた。
「……鈍いなぁ、君、素人でしょ? それじゃぁ、弱いものいじめしかできないねぇ」
女性は左手に残った棒を軽やかに回しながら、感想を述べる。男は反論するでもなく、悔しがるでもなく、表情は無色であった。男は棒を右手で掴むと、無造作に引き抜く。その途端、男は手にした棒を女性に向けて投げつけた。だが、これは予想の範疇だったのか、女性は片足を上げてかわす。しかし、次なる男の行動に、女性は眉根を寄せた。男は方向転換すると、ガラスの壁に向かって走り出したのだ。耳障りな音と共に、ガラスが砕け散る。複数の悲鳴が店内に飛び込んできた。ここは二階である。何事かと集まっていた野次馬達の頭上に、ガラスの破片がばら撒かれたのだ。地上に飛び降りた男は、野次馬を押し退けて走り続ける。
「逃がさないわよぉ」
女性はトンファーを腰に納めると、男を追って駆け出した。
「待ってください!」
突然の声に女性はたたらを踏み、無理な姿勢で振り向く。
「ごめんねぇ、サインならまた今度……」
女性の言葉が止まった。声の主……龍之助が差出した両手は、赤黒く染まっていた。
「紫苑を、紫苑を助けてください! お願いします! 僕、僕は、どうしたらいいか……」
「しおん?」
悲痛な叫びに対する答えとしては、間が抜けていた。だが、龍之助が必死に指し示す、床に横たわった女の子……紫苑の姿を認めると、一瞬で状況を飲み込んだ。龍之助を突き飛ばして紫苑に駆け寄ると、膝を曲げて様子を窺う。肌の色がどこまでも青ざめていた。首も不自然に曲がっている。女性は紫苑の口に手をかざし、続いて首筋に指先を当てた。冷めた感触。
「紫苑、紫苑、紫苑……」
床の上に這いつくばり、ひたすら名前を呼び続ける龍之助。その横顔を一瞥し、女性は立ち上がった。ジャケットの内側から携帯端末を取り出し、耳に当てる。
「……救急車を手配して……んにゃ、私じゃない。でね、怪我してる子、紫苑って言うのよ。……そう、その紫苑かもしれない。だから、照合を急いで。至急よ、至急、大至急ぅ」
女性は携帯端末を閉じた。その足元で繰り返される、龍之助の声。紫苑、紫苑、紫苑……。
「……まさか、ね」
女性はサングラスを外した。紫苑は眼を閉ざし、何も語らず、ただあるがままそこにいた。
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