- 紫苑 -
- Episode 3 -「ラブレターとサッカーボール」
好きだ。その一言を書くために、
机に突っ伏した龍之助は、校庭側の窓に顔を向ける。傾きかけた陽が眩しく、龍之助は眼を細めた。放課後の教室は、薄いオレンジ色に染められている。いつもは賑やかで騒がしい二年生の教室も、今は二名の男子、龍之助と
「今日は諦めて、こっちで観戦しようぜ、な?」
窓際で正人が手招きし、龍之助は憮然とした表情で立ち上がった。歩きながら眼鏡を外し、眼鏡拭きでレンズを磨く。やがて、龍之助が隣に並ぶと、正人は率直な感想を洩らした。
「でもな、龍之助。手紙の一枚ぐらい、スパッと書けって。一応、男なんだからさ」
龍之助は眼鏡をかけ直し、正人をぎこちなく睨んだ。
「一応は余計。それに、勧めたのは正人じゃないか」
「相談を持ちかけたのはお前だぜ? 感謝こそされ、非難される覚えはないね」
龍之助には、返す言葉もない。全くもって、正人の言う通りだったからだ。龍之助が悩みに悩んだ挙句の果てに、相談を持ちかけた相手が正人だったことには、それなりの理由がある。
正人こと菅原正人は、成績優秀かつスポーツ万能、明るく気さくな性格で、すらっと伸びた長身に短髪が良く似合う、周囲が認める好男子である。当然、女の子からの人気は高い。
一方、龍之助こと
図書館でその姿が目撃されていることも、イメージに拍車をかけた。学校にある図書館は慣習のようなもので、実益には乏しい。図書館に納められた蔵書の情報量は、携帯端末の足下にも及ばない。それでも、世の中には紙の本の愛好家がおり、龍之助もその一人であった。
眼鏡と本。この二つによって、龍之助という存在は他者から既定されていた。小柄な体躯や優しい顔立ちなどは、二の次である。こうした状況で明るさと社交性を見出すことは難しく、実際の龍之助もまた、良く言えば静かで落ち着いた、悪く言えば暗く内向的な性格であった。
本来、正人と龍之助ほど接点が乏しい組み合わせもない。だが、二人の関係は親友と言って良かった。だからこそ、龍之助は正人に相談を持ちかけることができたのである。おそらく、
「でもなぁ、ちっとばかし、龍之助にはハードルが高かったか……」
正人は髪を掻き乱した。申し訳なさそうな様子に、龍之助は自分をより惨めに感じていた。
「ま、でも微妙な距離感だよな、幼馴染ってやつは」
「……うん」
龍之助はうな垂れたまま答える。本当に厄介なものだと、龍之助は実感していた。
「ずっと一緒だったんだろ?」
「うん」
「お風呂なんかも、一緒に入っちゃったり?」
「うん……って、正人!」
頷いた後、龍之助はすぐに顔を上げた。正人のにやにや笑いに、龍之助の頬が熱くなる。
「裸の付き合いまでしてるんだ、告白なんて、本当に今更って感じだよなぁ」
「む、昔の話だよ! そう、う~んと、子供の頃のっ!」
「それでも、一緒に入ってたって事実は変わらないだろ?」
「そ、そう? そりゃ、そうか……いや、でも、とにかくね、そんな深い意味はなくて……」
「おっ! 龍之助、見てみろよ! 神崎さんにボールが渡ったぞっ!」
正人は窓から身を乗りだし、眼下の校庭を指差す。龍之助は金魚のように口をぱくぱくとさせていたが、憤りを表情に反映させる間もなく、促されるまま視線を移した。
校庭では、女子サッカー部による他校との練習試合が行なわれていた。部員の数が足りないため、日頃はロボットを相手に練習を繰り返す部員にとって、生身の人間と試合ができる機会は貴重である。それは相手チームも同じで、多くの生徒が応援に駆けつけていた。とはいえ、こちらはホームである。応援席の観客の大半が、ブレザー姿の晴嵐生で占められていた。近年の女子サッカーブームも手伝って、練習試合とは思えない熱狂振りである。
晴嵐高校の校章をあしらった、空色のユニフォームを身に着けた選手達。その中でも、一際目立つ女の子がいた。黒髪の尻尾が風に舞い踊る。ドリブルで相手チームのディフェンダーをかわし、そのままシュート。だが、惜しくもボールはゴールの脇に逸れた。残念そうな歓声が響く。シュートを放った選手は頭を抱えてしゃがんだものの、頭を振って再び走り出す。
「……いや~、惜しかったなぁ!」
「……うん」
「凄いな、神崎さんは。お前にはもったいないぐらいだ」
「そう……だよね」
龍之助は溜め息交じりで答える。自分では釣り合わないことぐらい、百も承知であったが、改めて考えてみればみるほど、その傾きに眩暈を覚える龍之助であった。
「でもな、お前はそんな神崎さんの傍に最も近く、最も長くいる男なんだぞ?」
「そりゃまぁ、幼馴染だから……」
龍之助は眼を細めて試合の風景を眺めながら、生返事を返す。正人の表情が険しくなった。
「龍之助、お前ほど自分の幸運に無自覚な男を、俺は他に知らないぜ?」
「そうかなぁ……」
「そうなんだよっ!」
正人は龍之助の肩に腕を回すと、そのまま引き寄せて首を絞めにかかる。ただの悪ふざけだとは分かっていても、苦しいものは苦しい。龍之助は身を捩りながら情けない声を上げた。
「や、やめろって!」
「口で言っても分からん奴にはな、昔から実力行使って相場が決まってるんだよ!」
「わ、分かったからっ! くるし……」
正人が腕を解くと、龍之助は両膝に手をついて咳き込んだ。恨めしそうに正人を見上げる。正人は涼しい顔をして、携帯を校庭に向けていた。シャッターが立て続けに鳴り響く。龍之助は身を起こすと、呼吸を整えてから疑問を口にした。
「いつから、そんなにサッカー好きに?」
正人は悪戯っぽい笑みを浮かべると、携帯を差し出した。龍之助は怪訝そうに正人の表情を窺いながらも、携帯を受け取る。画面を覗き込むと、龍之助の顔が一瞬で赤く染まった。
画面に映し出されていたのは女子サッカー部員の活躍……ではなく、身体だった。それも、お尻とか胸とか、局地的なショットである。撮影者の煩悩を反映したのか、本来の健康美がやけに生々しい。画面を切り替える度に、胸、お尻、太股、お尻のオンパレードである。
「何を撮ってるんだよっ!」
「龍之助。俺はな、常々自分の欲求には正直でいようと思っているんだ」
「……正直すぎるのも、考え物だと思うよ」
「とか言って、熱心に見てるじゃないか、ん?」
指摘され、龍之助はあたふたと取り乱した。だが、その視線は画面から離れない。
「ち、違うって! 僕はね……あ、やっぱりそうだ!」
正人が首を傾げると、龍之助は画面を指差して声を上げた。
「これ、全部、
龍之助の言葉に、正人は眼を丸くして驚いた。
「……お前、よく分かったな」
龍之助は改めて携帯の画面を見る。ゆっくりと画像を切り替える。胸、おしり、胸、胸。
「紫苑でしょ、これ?」
「だから、何で顔も見ないで分かるんだよ?」
龍之助の指先が止まる。確かに、どの写真も顔は映されていなかった。
「……いや、さすがだよ、うんうん。一緒にお風呂に入っていた仲だけのことはある」
龍之助は顔を赤くしたまま、携帯の画面に眼を落とした。いくら画像を切り替えても、幼馴染の体しか出てこない。……一体、何枚撮ってるんだよ! ……龍之助は苛立ちを感じながらも、ボタンを押し続ける。すると、不意に見慣れた表情が飛び込んできた。
画面一杯に、太陽のような笑顔。高い鼻、桜色の唇。髪は前髪と後れ毛しか映っていない。吊り目がちの瞳は勝ち気だが、その鋭さを屈託のない笑みが柔らかく包み込んでいる。
「……これは、隠し撮り?」
「失礼な奴だな。これはな、頼まれたから撮ったんだよ」
「紫苑に?」
「ああ。この携帯は画質が売りだろ? だから、じゃあ撮って、となったわけだ。俺は慎ましく撮ろうとしたんだが、シャッターを押す直前、神崎さんが飛び込んできてな」
「何やってんだか……じゃあ、それって最近のこと? どうも、記憶にないんだけど……」
「二週間ぐらい前だな。その時はお前、図書館に行ってたんだよ」
「あーっ……あの時か……」
龍之助は頭をかいた。二週間前の図書館。そこで全ては始まったのである。
「そこで龍之助は幸運を手にし、俺はささやかなお零れに預かったわけだ」
「幸運、なのかなぁ?」
「……また首を絞められたいか?」
龍之助は慌てて手を振った。確かに、男の子が女の子から好意を伝えられることは、不幸に属する類のことではないだろう。だが、それも相手によるものだということを、龍之助は身にしみて感じていた。それは、相手に非があるということではなく、あえて言うならば、神様の悪戯……そうだとしか思うことができない、龍之助であった。
「それ、望遠にすれば神崎さんもはっきり見えるぜ? ……ほら、もうロスタイムだぞ」
正人は龍之助から携帯を取り上げると、設定を切り替えて再び手渡す。龍之助は画面を見て嘆息した。二階から見ているとは思えないほど、画像は鮮明に映し出されている。
めまぐるしく動き回る選手を、一つの画面に捉えることは至難の業だった。違う選手の姿が映ることもあったが、龍之助は脇目も振らない。その熱意が実り、やがて龍之助は紫苑の顔を捉えることに成功した。真剣な表情でありながら、必死さよりも楽しさが滲み出ている。
額の汗すらも映し出す映像に、龍之助の携帯を握る手に力が篭る。次の瞬間、紫苑が画面に視線を向けた。龍之助は内心どきりとしたが、それは数ある偶然の一瞬に過ぎないと、我が身を落ち着かせる。だが、次の瞬間、龍之助はそれが思い違いであったことを知る。紫苑が不適な笑みを浮かべたのだ。龍之助は思わず画面から顔を離した。
「何か面白いものでも見えたのか?」
正人のからかうような口調に、龍之助は大きく頭を振った。正人は校庭に視線を戻す。
「二対0。あと一点で、ハットトリックだったんだがなぁ」
「……いや、まだ諦めてないよ」
龍之助の予言に、正人は首を傾げた。……点数は勝っている。後はホイッスルを待つばかりの状況で、ゴールを狙う必要は……そんな正人の考えを、紫苑はあっけなく打ち破った。
センターラインまで下がっていた紫苑が、ボールを受け取るや否や、相手ゴールに向かって猛然と走り出したのだ。相手チームのディフェンダーを抜き去った紫苑は、やや強引にロングシュートを放つ。際どい軌跡であった。ボールはゴールポストに直撃したが、その角度が内側だったことが幸いし、ゴールネットに向かって跳ね返る。それが、三点目となった。そして、試合終了のホイッスルが鳴り響く。大歓声が沸き起こり、紫苑はチームメイトからもみくちゃにされた。その大騒ぎを見下ろしながら、龍之助は止めていた息を吐き出す。携帯を持つ手が汗ばんでいた。正人も溜め息をつき、勝者へと賞賛の拍手を送る。
「まいったな」
正人は小さく呟いた。龍之助は携帯を閉じると、礼を言って正人に差し出す。携帯を返却すると、龍之助は校庭に眼を転じた。ぼやけた視界の先で、試合後の礼を終えた紫苑が、チームメイトに囲まれながら応援席へと歩いている。だが突然立ち止まると、振り返って顔を上げ、大きく手を振り出した。すると、周囲の視線が一斉に校舎へと向けられる。正人は笑顔で手を振り返す余裕があったが、一方の龍之助はたじろぎ、後退った。
「龍之助、答えてやれよ。神崎さん、ずっと手を振ってるぞ?」
「そ、そんなこと、できるわけないじゃないか!」
龍之助が振り返って窓際から離れると、その背中に大きく鋭い声が投げかけられた。
「こらーっ! りゅーのすけーっ! 無視するんじゃなーいっ!」
龍之助は思わず転倒しかけたが、机に手をかけて何とか踏み止まった。龍之助がよろめきながら身を起こす間にも、校庭から紫苑の声が響いている。
龍之助はゆっくりと拳を握り締めると、回れ右して窓際につかつかと歩み寄る。窓枠を両手で掴んで身を乗り出し、眼下に向かって声を張り上げた。
「大声で呼ぶんじゃないっ!」
一瞬の静けさを挟んで、反論が響き渡った。
「りゅーのすけが、無視するからでしょっ!」
紫苑は両手でメガホンを作り、二階の龍之助に向かって叫び続ける。周囲を取り囲むチームメイトや応援席の面々は、呆気にとられた様子で声もなく成り行きを見守っていた。
「別に無視したわけじゃ……」
「じゃあ、なんだっていうのよーっ?」
注目を集めることが苦手だとか、単に恥かしかっただけとか、こういうニュアンスを紫苑に伝える為にはどうすればいいのか……龍之介には検討もつかなかった。
「こらっ! りゅーのすけっ! はっきりと言いなさい! 男の子でしょっ!」
売り言葉に買い言葉。龍之助は反射的に言葉を返す。
「う、うるさいな! 紫苑には関係ないだろ、ほっといてくれ!」
「何をーっ! 関係ないとはなによ、関係ないとはっ!」
「関係ないから、関係ないっていったんだよ、この馬鹿っ!」
「どっちが馬鹿よっ! 馬鹿っ! 馬鹿っ! 馬鹿っ! 馬鹿―っ!」
かくして、語彙の貧相な舌戦が幕を開けた。そんな二人の攻防を、校庭に設けられた応援席から眺めている二人の女子生徒がいた。一人は長身でショートカットの女の子。もう一人は、上品な黒髪を長く伸ばした女の子である。紫苑の親友、
「何、この茶番は?」
奈津子は両腕を組んで立ち尽くし、うんざりとした表情で感想を口にした。その傍らでは、パイプ椅子に腰掛けた深雪が白い手を頬に添え、うっとりとした表情を浮かべている。
「二人とも、とっても楽しそう……」
そんな深雪を横目に、奈津子は俯いて溜め息をつく。
「……深雪、あんたね、何であの状況を見てそういうことが言えるの?」
奈津子が指差す先では、龍之助と紫苑が「馬鹿」の応酬を繰り広げている。
「ああやって、お互いの気持ちを素直にぶつけ合える関係は、素晴らしいと思いません?」
「あんたってば、ほんとーにプラス思考よね」
奈津子はそう答えると、改めて二人の様子を眺める。言われてみれば、スポーツの真剣勝負に見えないこともない。……それにしても不器用な話だと、奈津子は思った。
「まぁ、痴話喧嘩はチワワも食べないっていうしね」
なおも口論は続く。仏頂面の奈津子と、笑顔で見守る深雪。やがて、深雪は優しく囁いた。
「なっちゃん、今のは駄洒落?」
「……そこは流してよ、頼むから」
奈津子が少し恥かしい思いをしている間に、龍之助と紫苑の言い争いは佳境を迎えていた。
「さぁ、りゅーのすけっ! そろそろ観念しなさいっ! これは最後通牒よっ!」
紫苑はきっぱりと言い放つと、チームメイトが小脇に抱えていたサッカーボールを拝借し、軽快にリフティングを始めた。息も絶え絶えの龍之助は、背筋に嫌な予感を覚える。
「あと三秒だけ時間をあげるっ! それまでに謝らなければ……実力行使あるのみ!」
「きょ、脅迫するなんて、ずるいぞっ!」
「さーんっ!」
「ど、どうしよう? 正人~っ?」
「にーっ!」
「……知るか。もう、勝手にやってくれ」
「いーちっ!」
「そ、そんなぁ……紫苑っ! わかったから、落ち着い……」
「ぜーろ!っ!」
そう言うが早いか、紫苑は一際高く上げたボールの落下にあわせ、強烈なキックを放った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます