第14話
古来より獣とヒトとの違いは何かという論争は、何かにつけ繰り広げられ、議論されてきた。
ヒトと遺伝子がほとんど同一といわれていた猿の一種――現在我々が暮らすこの世界では森林地の減少と共に滅びてしまった類人猿には、それぞれ好みとなる音やリズムというものがあり、例えば一定の間隔で木や石を打ち鳴らしていると、それに合わせて体を揺らしたりという行動をとるといった報告があった。
彼らが音楽というものをどの程度理解し、活用していたのかは、今となっては検証のしようもないが、少なくとも私自身は、それこそが我々が時折感じる感性の原点ではないだろうかと考える。石や木を打ち鳴らす演奏方法は、おそらく楽器の発生順で考察するにもっとも古い部類と考えて間違いないだろう。
そこから時を経て時代を下るにあたり、人類は実に多種多様の楽器を製作してきた。
骨に穴を開けて笛を作り、木や木の実などを繰り抜き空洞にしたものを叩き、やがてそれはより効果的な音を出すために大きさを変えたり、皮を張ってみたりという工夫をこらし……という具合に、楽器もまた常にヒトと共に変化と進化を遂げてきたのだ。
その中でも、弦楽器はかなり特殊な部類に入ると言っても過言ではない。
狩猟を主にしていたものたちは、弓に張った弦が楽器になることに気付いた。おそらく最初は指で弾くだけの単調なものだったはずだが、次にそれを擦ることで違う音を発生させられることに最初に気付いた者がいた。
更に、弦を差し渡す弓の長さや太さから、太鼓状のものを組み合わせてみようなどと考え付いた者がいた。
様々な工夫をこらし、複雑な演奏法を要求される楽器は、奏者に要求される技術もより高度なものとなり、そうすることで音楽はより一層特別な意味合いをもつものと変化した。
今日のように皆が普通に楽曲を気軽に楽しむようなものとは別に、神や、自分たちが畏怖する対象へと捧げるものへと変貌を遂げたものが生れたのだ。
私は、人類がわざわざ道具を用いて音楽などというものを作り出した意味を、かねてより探求してきた。
西から東へ、北から南へと、少なかったはずの人類が彼らの文化や技術の粋を詰め込んだ楽器を携え、世界中へと散ったその先で何を思い、何を演奏したのだろう。
そこに込められた想いは何だったのか。争いの歴史や時の支配者を讃える叙事詩などの下敷きにあるもの、根底にあるものは、そうまでして演奏をしたいという衝動は、どこからやって来るのか。
この時の出来事を一瞬たりとも逃すことのないよう、私はこの
ニューランがさっきから何事かをテレプシコーラに向かって長々と呟いていたが、その作業もようやく区切りがついたようだ。
俺へと向けるその顔は、晴れ晴れとしていた。
「それじゃ、行こうか」
「ああ」
俺は頷き、ニューランと共に宿を出る。
宿の前の広場には、いつの間にか簡素な舞台が作られていて、すでに何人かの村人がその周辺に腰を下ろし、古唄が披露されるのを待っていた。
まだ陽は完全に沈んではいないが、夜の帳が降りはじめ、地平の彼方と山にかかる空ははいつものように赤く滲んでいる。
広場と舞台を囲むように置かれた篝火に火が灯され、ぱちぱちと爆ぜる薪の音が、集まった人々とともに開演を待ち侘びる。
以前は礼拝の場で行われていた催しものだと聞くが、生憎と今現在の村人全員を収容するには礼拝所は狭すぎた。最初にこの地に定住し、村を興した者達は、小規模な集団だったのだろう。
それからわずか数十年、村の人口はかなり膨れたわけだが、それ以上に命を落とす者も多かったに違いない。
礼拝所の裏手に物言わぬ墓標が立ち並ぶさまを思い出しながら、広場に集う村人たちの顔ぶれを眺めていた俺は、ふと視線を上げて、ザフラーとラナーがやってくるのを見つけた。
彼女らはどこに座ろうかと考えていたようだったが、手を挙げて招く俺に気付き、側へとやってきた。
「いよいよね。楽しみだわぁ」
俺の隣に腰を下ろしたラナーは、手を胸の前で合わせ、若い娘のようにはしゃぐ。
しかし、ザフラーは頬に指をあてて、少し不安そうに舞台を見つめた。
「でも、大丈夫かしら。あの子、こんなに大勢の前で、ちゃんと弾けるかしら」
もっとも、そう思っているのはザフラーだけではない。はっきりと口に出す者はいないが、俺の目から見ても、村人の顔には一様に複雑な表情が浮んでいるのがわかる。
古唄の唄い手であるカリムはすでに死んでいる。その後継者アーダムについても、楽器を弾けない状態にあることも周知の事実だ。
だから、皆はこうして集まりながらも、疑問に思っているのだ――今夜は一体誰が古唄を唄うのだろう、と。
もちろん、ハサンたちがナジと共にラバーブの稽古をしていることを知っている者はいる。しかし、本当に彼が古唄を披露できるのかとなると、甚だ疑問なのだ。
そんな期待と不安が入り混じった妙な空気に囲まれていると、俺まで落ち着かなくなってくる。そわそわとしていると、ニューランが欠伸まじりに呟いた。
「トイレなら今のうちだよ」
「そうじゃねぇだろ」
反射的に返事をしてから、俺はニューランの冗談の意味に気付いた。
俺の隣で大切そうにテレプシコーラを抱える友は、そんな俺の視線に微笑み返す。
「やれるだけのことはやったんだし、何とかなるさ。信じてあげようよ、ね?」
そして、インシャッラーと、ハサンたちがよく口にする言葉を呟く。
ニューランの手が、つい、と動いて舞台の影を指す。その方向を見遣ると、小さな人影と、それに寄り添うように立つ黒い姿があるのに気付いた。ナジとマーリカだ。
二人とも、落ち着かない様子でしきりに周囲を見回している。アーダムを探しているのだ。
俺も首をめぐらせて、後ろを見てみたが、それらしき姿は見当たらない。
一体何をしているんだ、いっそ小屋まで迎えに走ろうかとも思ったが、尽くせるだけの手は尽くしたのだから、今更俺が気を揉んでも仕方がなかった。ニューランが言うように、後は信じて待つしかない。
インシャッラー。
知らず、俺も口中でその言葉を呟く。
と、そのとき、広場の一角から声があがった。ハサンが楽器を手にして舞台上に現れたのだ。――いや、ハサンだけではない。ナーセルもマウリーシも、それぞれの楽器を携えて後に続く。
いつもなら唄い手一人だけのはずなのに、一体どうしたことだと皆が訝しげにしているところへ、ナジが壇上に昇った。その胸には、ケマルの形見であるラバーブがしっかりと抱かれている。
ざわめきが、どよめきに変わった。
無理もない。まさかあの大人しい小さな子が、本当に今夜の唄い手を勤めるだなんて、事情を知る者以外に誰が想像しただろう。おまけに、その左腕には見慣れない奇妙なものがくっついている。
装着部分である上腕から肘にかけては、衣服の袖に覆われているが、袖先から覗くそのの様相に、皆の目は釘付けになっていた。
ナーセルが腕によりをかけて外装を拵えてくれたとはいえ、細い指だけは骨格がむき出しのままだった。肌とは明らかに色の違うそれは、初めて見る者にとっては、さぞかし異様に映ったことだろう。
ナジのような幼い子供が、しかも生まれつき片手の無かった者が、義手を着けて多少稽古したくらいで、唄い手が勤まるのだろうか。
その視線に、空気に、ナジが怯むのが舞台下からでも見て取れた。
ナジの顔は不安そうに強張っていた。薄暗くなりつつある空を背に、篝火の下に映るその顔は、心なしか青ざめているようにも見えた。
「皆、聞いてくれ」
ハサンが手を挙げて、村の皆を静める。
「出稼ぎから戻ってきたばかり、まだ道中の疲れも残っておるだろううちからの支度、大変じゃったろうが、皆よく集まってくれた。感謝する」
ハサンは軽く一礼をした。そして、広場に集う者たちの顔を一人一人確認するように眺めながら、言葉を続けた。
「今宵は年に一度の祭と、カリムの喪明けが重なった。そう、つまり、今まで唄を披露してくれた者がおらんということじゃ。冠婚葬祭、儂らは生まれた時から死ぬまでカリムの唄とともにあった……そうじゃろう?」
ハサンの言に、村人たちはしみじみと頷いている。
「……じゃからな、今度は、儂らがカリム送り出してやろうと思ってな」
そう言って壇上に居並ぶ面々に向き直ると、ナジの側へと歩み寄り、その肩に手を置いた。
「この子はまだ小さいが、唄を子守に育ってきた。儂らよりもずっと物覚えも良い。皆もいろいろと思うことはあるじゃろうが、ともかく今宵はこの子の勇気に免じて、まずは何も言わずに見守って欲しい。そして、カリムと、過ぎ去って行った者たちへの祈りを捧げてくれ」
壇上で一層身を固くするナジは、今にも倒れてしまうのではないかと心配になるほど真っ白な顔をしていた。ラバーブを抱く両腕にも、力が入っているのがわかる。
ナジの目は忙しなく動いていた。観衆の視線も怖いが、アーダムの姿を見付けられず、不安でたまらないのだろう。
広場に集まっている者は、互いの顔を見はするものの、声を上げる者はいなかった。皆一様に、言いたいこと、思っていることは同じだった。しん、とした広場に、ぱちぱちと爆ぜる篝火の音が響いている。
と、不意にニューランがすっと右手を挙げた。
「ナジ!」
名を呼ばれて驚いたナジが、こちらに目を向ける。
ナジだけではなく、周囲の者はもちろん、俺も驚いたのだが、そんなことは全くお構いなしだ。
ニューランは挙げた右手を降ろすと、トントンと軽く己の左腕を叩いた。そして、
「大丈夫」
そう言って、自分の胸に拳を当てる。
壇上で固まっていたナジが、はっとしたように目を見開いた。その目がついと動き、ニューランの隣にいる俺を見る。
ああ、そうだ――ふと、俺の胸が熱くなる。
こいつはいつもそうだ。俺が義手を作るとき、ちゃんと出来上がるかどうか自信が持てなくて迷っていたところを、背中を押してくれたのもニューランだった。誰かが困っているとき、ニューランはいつもこうやって道を示してくれるのだ。
「そうだ、大丈夫だとも! 心配するな!」
俺もナジに向かってそう言うと、自分の左腕を叩いてみせた。そうとも、心配なんていらない。たとえこの場にアーダムの姿が見えなくとも、お前には俺たち皆で作り上げた義手がついているんだから。
震えていたナジがぎゅっと口を引き結び、小さく頷いた。蒼白だった顔に、ほんの少しだが血の気が戻る。
ナジはラバーブを抱きしめていた両腕を緩めると、傍らに立つハサンの顔を見上げた。
ハサンもまた、ナジを見つめ返し、大きく頷く。
ナジはぎこちなく舞台の中央へと進むと、そこに設えてあった小さな椅子に腰を下ろした。ニューランとみっちり練習し、覚えた通りの動作でラバーブを膝に載せ、調弦をはじめる。その滑らかな指裁きに、観客の中から感心の声があがった。
その様子に安心したのか、マウリーシとナーセルは互いの顔を見合わせて微笑んだ。そして、ナジの後ろの座に就く。
ハサンもナジの隣に座り、舞台の下で待つ俺たちに向き直った。
「では、はじめよう」
その一言を合図に、再び周囲は静まり返る。
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