第10話

「ジウ、遅いよー」

 綿菓子頭ことニューランがむくれている。

 ラナーの家に着いた俺を出迎えてくれたのは、すっかり待ちくたびれたという体のニューランと、見知らぬ若い娘だった。

「あなたがジウさんね? はじめまして、私はラナーおばあちゃんの孫の、ザフラー。お話はニューランさんから聞いたわ。糸紡ぎ機の調子をみてくれてありがとう」

 少し照れたようにはにかみながら、ザフラーと呼ばれた彼女が俺に会釈をする。彼女もまた、一足先に村へと帰ってきたクチなのだろう。背中に乳飲み子を背負っている。

 家の中には旦那の姿どころか気配もないので、まだ向こうで働いているのかもしれない。

 ニューランは市場で買出しを済ませたあと、帰宅する途中のラナーと会い、そのまま一緒について来たらしい。

 市場で手にいれたばかりの花の香りのするお茶をいただきながら、皆で俺が来るのを待っていたようだ。

「あら、ジウさん。来てくれたのね。待っていたわよ」

 奥の作業場から、ラナーがひょっこりと顔を覗かせる。

「じゃぁ、これから仕上げに入るわね。ザフラー、帰ってきたばかりで悪いけど、手伝ってくれるかしら?」

「いいわよ。任せて、おばあちゃん」

「皆さんも、こちらにいらっしゃいな」

 言われるまま、俺とニューランは作業場へと入る。

 作業台の上には、先日作った弦の素と、この間の修理時に見たものとは違う糸車とが用意されていた。

 ラナーが普段使うのは、地面に垂直に垂らした独楽状の紡錘スピンドルに、細く撚った羊の毛を巻き付けるだけなのだが、これは横向きに紡錘をセットするタイプだ。そしてそこには、弦を撚るときに使用した台座に似たものが据えられていた。

 ラナーが、小さく巻いた弦のひと束を俺に差し出した。

「今朝、軽く磨いておいたんだけど……どうかしら?」

 乾燥して水分の抜けたそれは、半透明で黄色味を帯びたものに変わっていた。繊維の紐よりはやや固めだが、かといって折れてしまうようなことはなさそうだった。

 研磨したという表面を指で挟んで撫でると、撚った際に出来たはずの凸凹がほとんど消えて、均一な手触りになっていた。

 俺は次に、端を両手に持って引っ張ってみた。適度な抵抗力と張力とが帰ってくる。

 俺の握力と腕力では大したことはないだろうが、万一倍以上の負荷がかかったとしても、簡単に切れてしまうということはなさそうだ。

 ニューランにも渡し、念のためチェックしてもらう。

「申し分ない出来だよ。ラナーはすごいね!」

「お褒めにあずかり光栄よ」

 手作りの天然弦を前にして、ニューランは早くもこいつの音を聞いてみたいとうずうずしだした。しかし待て、お前の気持ちもわかるが、これは楽器に使うものじゃない。

「さぁて、気に入ってもらったところで、最後の仕上げをしましょうかね。ザフラー、こっちに来て」

「はぁい、おばあちゃん」

 祖母に呼ばれたザフラーが、いそいそと作業台に向かい、なにやら準備をはじめる。

 俺にはこのままでも十分完成しているように見えるのだが、まだひと手間かけるというのか。

 作業台につきながら、ラナーが話し出す。

「私ね、昨夜ゆうべ思い出したのよ。以前、ケマルに頼まれていたの。巻弦を作ってほしいって、言われていたのよね」

「巻弦?」

 首を傾げる俺に、珍しく真顔のニューランが説明をしてくれた。

「芯となる弦の上に、細い繊維を巻き付けるんだよ。強度も上がるし、振動も安定して、いい音が出せる。それに、乾燥も防げる」

 弦の振動が安定するのなら、天星石にとっても良いことだ。星型構造分子は、その実、分子間の接着力が弱いせいで脆く、崩壊しやすい。振動や圧力でかかる負荷を極力一定にすることができれば、崩壊率も減らせる――つまり、長持ちさせることができるはずだ。ひとまず、理論上は。

 考える俺の目の前で、準備は着々と進む。

「この糸車は、いつもはザフラーが使うのよ。私は、自分の手で紡ぐのが好きだから、あんまり触らないんだけど、織物用に沢山毛糸を作るときには、大活躍してくれるのよ」

 作業台に横付けされた大きな糸車ホイールには、先日俺が修理した自動回転装置が付けられている。出力が弱いので早くは回せないが、ゆっくり丁寧に紡ぐためにはこのくらいの速度が丁度いいのだと、ラナーが説明してくれた。

 紡錘をセットする箇所にすえつけられた台座には、芯材となる弦が張られている。ただし、今回はこれ以上撚る必要はないから、固定してあったフックは回転するようになっていた。そこに、糸車から渡してあるベルトがかけてある。

 その反対側に差し渡してある弦の端に、ザフラーが何かを結びつけた。

「それは?」

「天然の絹糸シルクよ。おばあちゃんが、大事にとっておいたものなの」

 聞いた途端、みぞおちのあたりが音を立てて縮むような気がした。

 蚕という虫から生産された絹糸は、かつてこの一帯で広く扱われていたと聞く。

 しかし、気候の変動と温度管理が出来なくなったこの時代、そのようなマニュファクチュア形態を維持するのは難しい。古来から珍重され、高級な品として長く取引されてきた天然資源は、現在はより一層貴重なものとなっている。

 白く輝く極細の繊維は、すでにそれ自体が何本も寄り合わされた糸となっていた。それでさえ髪の毛よりも細いのだが、それがたっぷりと巻き取られた糸巻きひとつだけで、一体どれだけのクレジットが飛んでいくのか。

 聞くんじゃなかったと俺は後悔するが、もう遅い。

 そんなとてつもないものを、ザフラーは惜しげもなく手繰り、作業を進めてゆく。

 ラナーが脇のスイッチを押すと、微かに軋む音をたてて、糸車が回転を始めた。

 ベルトから伝わる動力によってフックがゆっくり回転すると、それにあわせ、まっすぐに張られた弦も回りだす。

 ザフラーは弦に対して垂直になるように糸巻を掲げ、もう片方の手は弦に結んだ絹糸に添えた。

 俺とニューランが息をつめて見守る中、彼女は器用に指を使い、均一に力がかかるように調整をしながら、弦に絹糸を巻きつけてゆく。

 音もなく、とまではいかずとも、あれよという間に艶のある白い衣をまとった弦は、それまでの乾いた薄黄色から、独特の光沢を放つものへと姿を変えた。

「こんな細かい手仕事、私にはもう難しくてねぇ。でも、ちょうどザフラーが帰ってきてくれて、助かったわぁ」

 ラナはー節くれだった小さな手をさすり、目をしょぼつかせるが、孫の仕事の具合には満足気だった。

「どうかしら? 久しぶりにやったから、ちょっと手が震えちゃったんだけど……」

 言いながら、ザフラーが出来上がったばかりの巻弦を俺たちに差し出す。

 ニューランはそれを手にとり、天窓からの明かりに翳して、惚れ惚れとした溜息をつく。

「いいなぁ……美しいなぁ……」

 研磨をしただけのときとは比べ物にならない手触りに、俺もいろんな意味で震えた。

 そうして仕上がった巻弦を眺めていると、ラナーがふと呟いた。

「私、これを作ってくれってケマル言われたとき、不思議に思っていたのよねぇ。一体何に使うのかしら、って……」

 そういえば、アーダムのものだというケマル氏お手製のラバーブには、巻弦は使われていなかった。試作品の義手に使われいるのも、普通の弦だ。

 製作してまだ二年ほどということで、まだ乾燥による劣化は見受けられなかったが、あのまま放置なり使用し続けていれば、油分も水分も抜けきった弦はいずれ切れてしまっていただろう。

 絹糸の保湿がどれほど効果を発揮するのかは、実際に使ってみなければわからない。しかし、義手は単純に音を鳴らすだけの楽器とは違う。張り《テンション》の具合によっていは、想定以上の負荷がかかることもあるかもしれない。

 金属弦が容易に手に入れば、もちろんそれを使っただろう。しかし、手入れのしづらい深部で錆びてしまったら?

 骨を芯材にしていても、関節の隙間に錆が入り込んでしまったら?

 細やかな動きを要求される指の関節が、動かなくなってしまったら?

「……やっとわかったわ。あの子、きっと、このために作って欲しかったのね」

 しみじみとラナーは呟いた。

「ジウ」

 ニューランが俺を呼び、出来たばかりの弦を俺に差し出す。

 受け取ったそれは、小さく、細く、とても軽かったが、そこに込められた想いは大きく、太く、そして重かった。


 ラナーの家から戻った俺達を出迎えたのは、大勢の商人たちでごった返す宿の賑わいだった。

 隊商に加わっている商人のほとんどは、移動式の天幕を持っている。街からの街への道中はそれを広げて寝泊りをするのだが、やはりきちんと設えた部屋で眠りたいと考える者も少なくないようだ。

 隔週に一度の恒例行事とはいえ、俺とニューランしかいなかった宿は、いきなり客の数が膨れ上がり、マーリカはとても忙しそうだった。

 アリーがいればまだ少しはましな状況だったのかもしれない、と考えるとますます申し訳なくなってくる。俺はナジや老人達にいろいろと教えてもらいながら、極力彼女を手伝うように心がけた。本心は、ラナーとザフラーから託された弦を使って、可動部の組立に入りたかったのだが仕方ない。

 ニューランもまた、昼に約束した通りにジョサイアが会いに来たため、その相手をするので手一杯のようだった。

 ついこの間顔を合わせていたとはいえ、積もる話は山程ある。時折混ざる、俺にはわからない言葉での会話の内容が気にはなったが、俺との付き合い以上に長い時間を旅してきた彼らのことだ。俺が立ち入るべきではない部分もあるだろう。

 そうこうしているうち、徐々に夜は更けてゆく。

 大勢の客の対応で疲れたのか、ナジが眠そうな顔でぼんやりしはじめたので、俺は早めに寝るようにと促した。

 ナジ自身はラバーブの練習をしてからにしたかったようだが、どのみち、この状況ではとても練習どろこではない。

「早起きすればいいだろう? また明日な」

 俺がそう諭すと、ナジは渋々といった具合で、しかしやはり少しふらつきながら寝室へと下がっていった。

 老人達も、今晩は早めに帰っていった。出稼ぎに行っていた家族が戻ってきているのだ。ラナーはもちろん、ハサンもナーセルも、久しぶりの団欒を楽しんだことだろう。

 隔週に一度のお楽しみとも相まって、村へと訪れた束の間の熱気はなかなか冷めそうになかった。

 そのせいもあってだろうか、その晩の俺は、素直に寝付くとこができずにいた。満足げな寝顔を晒して熟睡しているニューランとは大違いだ。

 昼間の疲労はあるものの、目を閉じても、いろんなことが頭の中で浮んでは消えてゆく。

 何度も寝返りをうっているだけで、いたずらに時間が過ぎるばかり。一向に訪れそうにない眠気に業を煮やし、俺は寝るのを諦めた。

 ランタンを手に部屋を抜け出し、納戸へ向かう。その途中だった。

 小さな足音に、はっとして振り返る。

 廊下には誰の姿もなかったが、皆が寝静まっているはずの深夜に、階下へと降りて行く者がいる。

 考えるよりも先に、体の方が動いていた。

 足音の主は階下の厨房を抜け、裏の勝手口から宿を出て行ったようだった。

 俺は気付かれないように慎重に扉までたどり着くと、締まりかけていたその隙間から外の様子を窺った。

 裏庭を突っ切り、柵を越えようとしていた人物は――

「マーリカさん?」

 小さな青白い灯に照らされた顔を、身間違えるはずがない。

 俺が驚いて固まっている間にも、彼女は裏庭の柵を越えて外に出てってしまった。

 暗くてよくは見えないが、大きな籠のようなものを携えているようだった。 向かう先は、アーダムの家の方向だ。

 どうしようかと、一瞬迷う。

 しかし、やはり気付いたら追っていた。

 久方ぶりの雨に勢いを取り戻した草地は固く、厚く、何度も足を取られて転びそうになる。月も、水気を含んだ雲に遮られ、時折顔を覗かせるだけだ。そんな中でも、マーリカの足は速かった。

 俺は彼女を見失わないように必死で付いていく。

 やがて、マーリカは目的の場所に辿り着いたようだった。ランタンの灯が一箇所に留まり、揺れている。暫くすると、もう一つの灯が現れた。アーダムだ。

 俺は一旦足を止めた。後先考えずに付いてきてしまったが、もう少しここで様子をみるべきか、それとも黙って引き返すべきか。

 だが、そんな逡巡は、風にのって運ばれてくる言い争いの声に消し飛んだ。

「マーリカまで! いい加減にしてくれ!!」

「でも、アーダム――きゃぁっ!?」

 突き飛ばされて大きくよろける体を、俺は間一髪で抱きとめた。

「ジウさん!?」

 マーリカもアーダムも、突然現れた俺に驚いていた。俺自身も驚いていたが、この際そんなことはどうでもいい。

 数日振りにみるアーダムの顔は、ランタンの灯の色のせいもあるが、随分と顔色が悪く見えた。

 あれからもずっと部屋にこもりきりでいたせいだろう。食事も、ちゃんと摂っているとは思えない。やつれた顔の中から俺達に向けらる双眸は、一層険しいものとなっていた。

「ねえ、アーダム、考え直してちょうだい」

 俺の支えを借りながら、マーリカは体勢を立て直すと、目の前の青年にすがった。

「村を出て行くだなんて、そんなこと言わないで」

 何だって? 今、何と言った?

 困惑する俺の前で、しかし彼らの話は止まらない。

 義姉にどれだけ懇願されようが、しかしアーダムの決意は固いようだった。すがりつくマーリカから身をよじって逃れ、扉を閉めようとする。

「アーダム、お願いよ、皆あなたのことを心配しているわ」

「嘘だ!!」

 突然の大声に、マーリカはもちろん俺まで飛び上がるほど驚いた。

「嘘だ!」

 アーダムは再び叫んだ。その声には痛みが混じっていた。

 あの整った美しい顔はすっかり歪み、ぎらぎらとした良くない光が目に浮んでいた。

「皆はこう思ってるさ! どうしてケマルが死んじまったんだ、って! 何で俺の方が死ななかったんだ、って!!」

 ひゅ、と息を呑む音がして、マーリカがその身を硬直させるのがわかった。

「口にして言わないけど、目を見ればわかる! アリーも! ワリードもハサンも、皆そうだ!  羊の世話もろくにできない! 外で働くことだってできない! ケマルみたいに頭が良いわけじゃないし、こんな手じゃラバーブだって弾けない――、こんな役立たず、一体何の価値があるっていうんだ!!」

「アーダム!」

 ぱちん、と大きく弾ける音がしてアーダムがよろめく。

 マーリカがアーダムを平手打ちしたのだ。

 彼女は肩を震わせて、荒い息を繰り返している。後ろから見ている俺には、彼女がどんな顔をしているのかはわからなかったが、おそらく、泣いていたのだろう。

 ぶたれた側のアーダムも、よほど驚いたとみえる。大きく目を見開いて、マーリカを凝視していたが、数秒の空白の後、その目にはまた暗さが戻った。

「……とにかく、もう、本当に、構わないでくれ」

 アーダムは俯き、搾り出すように一言一言を紡ぐ。

「俺は村を出る。ナジにもそう伝えてくれ……もう二度と、皆には面倒はかけないから」

 そして、マーリカを推し戻し、扉を閉めようとする。

「待って、アーダム! 違うの! お願い、話を聞いて――」

 咄嗟に、俺は駆け寄った。

 マーリカの脇から手を伸ばし、今にも閉じられそうになった扉に手をかける。そして、そのまま足をねじ込んでアーダムの動きを阻止した。

「村を出ていくというのは、本当か?」 

 闖入者の俺の行動に、アーダムがびくりとするのがわかった。

「よ、他所者には関係――」

「あるね」

 ない、と言いかけるアーダムを遮って、俺は力任せに扉を開け放った。

 はじめて目にする小屋の中は、やけに綺麗に整えられていた。――否、整っているのではない。片付けられていたのだ。

 アーダムの背後には簡素なテーブルと椅子とがあったが、その上には、大きな荷袋が乗っていた。まだ荷造りをしている途中のようで、開いた口からは幾つもの用具が顔を覗かせている。

 おそらく、ちょうど今来ている隊商の誰かと交渉をして、荷にまぎれて村を出るつもりでいたのだろう。

 マーリカの足元には、ひっくり返った籠が落ちていた。そこからこぼれているのは、夕餉時に客へとふるまった料理を、パンで挟んだものだった。他にも茶葉や保存のきく食料をつめた容器などが、湿った土の上に転がっている。今までは数日おきにナジに持たせていたものだろうが、アーダムがもう来るなと言ったため、渡せずにいたのだ。そして、そのことを彼女はずっと心配していたのだ。

 隊商の本来の目的は、街での行商であり、この村はただの中継点でしかない。天候などの都合があっても、大抵は二日いるかどうかだし、長くても三日といったところだろう。

 気の早い商人などは、もう今夜のうちに出立の準備を済ませているはず。もし今夜、マーリカがここを訪れなかったら、アーダムは誰にも気付かれないうちに村を出ていたかもしれない。

一月ひとつき後、師匠の喪明けと犠牲祭があるんだろう?」

 言いながら、俺が視線をアーダムに戻すと、アーダムは再び怯んだ。

 さっきは勢いで関係あると言ったものの、正直なところ迷っていた。俺が口を挟むことではないのかもしれない、と。

 けれども、この様子を目にしたら、言わずにはいられなくなった。

「古唄の唄い手は、ナジがやることになった」

 アーダムが小さく息を呑み、目を見張る。

 一体どうやって、と聞きたそうにしている顔に、俺は続けて言った。

「俺がナジのために義手を作る。ナジはそれをつけて、ラバーブを弾く……そうさ、この間、あんたから貰ったやつだ」

 背後ではマーリカが俺達のやりとりをじっと窺っているのを感じる。何か言いたそうにしている彼女に向かって、俺は片手を挙げて制し、更に続けた。

「俺にはあんたを止める権利はないけど、村を出て行くのはもう少しだけ待ってくれ。せめて、ナジのウタを聴いてからにしてやってくれないか? あの子は今、昔あんたが弾いてくれたウタを、一生懸命練習してるよ」

 アーダムは硬直したまま、何も言わなかった。

 だが、返事を待つ必要はなかった。

 俺は戸口から体を離し、扉を閉めた。振り返ると、マーリカと目が合った。彼女も何も言わなかった。その目からは、大粒の涙が零れ落ちていた。

 俺は足元に落ちているものを拾って土を払い、籠へとおさめた。

 土で汚れたパンは捨てるしかなさそうだが、ビンにつめたものは大丈夫だろうと思い、俺は籠を戸口の前に置き直す。それをどうするかは、アーダムが決めればいい。

「……戻りましょうか」

 俺が促すと、マーリカは小さく頷いた。

 水気を含んだ草で足元を濡らしながら、俺達は来た道を引き返す。

 二人とも、言葉はなかった。ただ草を踏む音だけが周囲に響いている。

 山からやってくる風は肌寒く、否が応でも季節の変化を意識させられた。旅立つならば、確かに今のうちだ。

 半分ほどの距離を進んだとき、ようやくマーリカが口を開いた。

「ジウさん、ごめんなさいね。見苦しい姿をお見せして」

「そんなことは」

 俺は慌てて首を振った。

「俺のほうこそ、あの、すみません。後をつけたり、勝手に話を聞いたり、その、余計なことまでして」

「いいえ、気になさらないで。いいの、いいのよ」

 昏い夜道、ランタンの灯りに照らされた彼女は、疲れたように微笑んだ。豊かな睫毛に縁取られた大きな目の縁には、涙の跡が残っている。

「アーダムってば、昔はあんなふうじゃなかったのよ」

 マーリカは立ち止まり、空を仰ぐ。彼女の視線の先にあるのは、雲の切れ目から顔を覗かせる月だ。

 創世の頃からその身で数々の小惑星群を受け止めてきたというそれは、くだんの大崩壊時代にも役目をきちんと果たそうとしてくれた。

 現在はその身を大きく削った歪な姿で、辛うじて地球の軌道上を巡っている。

 永遠に満ちることのない月は、あと数世紀もしたら完全に地球の軌道上から消えるかもしれない。その頃までに人類がまだ生き残っているかどうか、その光景を見ることができるかどうかまでは、俺にはわからないが。

「子供の頃から、私とケマルとアーダムは、いつも一緒にいたわ。何をするにも三人だったから、何も言わなくてもお互いが何を考えているのかわかるくらい、仲が良かったの。アーダムはケマルに比べたら、小さくて力も弱かったし、大人しくて引っ込み思案だったけど、ケマルがいたから、あの人がいてくれたから、皆ともうまくやっていけた――」

 マーリカの口からは、堰を切ったようにとめどなく言葉がこぼれる。普段は胸の奥に仕舞っていたであろう想いが、先ほどの出来事のせいで溢れて仕方ないのだろう。

「ケマルは村の皆に好かれていたわ。賢くて、優しくて、お日様みたいで、すごく頼りになる人だった」

 マーリカはぐすりと鼻を鳴らして、大きな溜息をついた。

「アーダムも、ケマルのことが大好きだったのよ。たった二人の兄弟なんですもの、当然でしょう? ケマルも、アーダムのことを自慢の弟だってよく言っていたわ。だから、あのラバーブを贈ったのよ。村の皆も、あの子の演奏が素晴らしいのはわかっていたけど、きっと、一番理解していたのはケマルだったと思うの。自分がどれほど愛されていたのか、自分自身がよく知っているはずよ。だから――」

 マーリカは喉を詰まらせ、瞼をきつく閉じた。

「――だからアーダムは、そんな兄を死なせてしまった自分が許せないのよ。あの子が皆の目を通して見ているのは、自分自身の心なのよ」

 零れ落ちた雫は、足元の露に混じって地面へと消えていった。

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