河岸の月

朝陽遥

第1話

 いつになく雨のない日の続いたある午後、コダは河辺で一人の子供を拾った。

 夕暮れが迫ってもなお太陽は容赦のない陽射しを地上へと投げかけ、乾ききってひび割れた風が、飛沫しぶきを上げる水面をわたってようやくひと息をついたというように、わずかばかりの涼気をまとって吹きつけていた。その風の溜まる場所、折れた木の枝だの水草だのが吹き寄せられて集まったあたりに、その子供は落ちていた。

 子供といっても、彼自身とさして変わらない年頃の少年だったのだが、コダがそうと気づくには、少しばかりの日にちが要った。何故というならその行き倒れは、あまりに長いことまともな食べ物を口にしていなかったがために、痩せさらばえて骨と皮しかなかったばかりか、背丈もひどく小さかったからだ。

 とはいえコダがこの少年を拾ったのは、何もその姿を哀れに思ったためではなかった。彼はヨキヌの里の首長ウートラの息子だ。彼の祖父の祖父のそのまた祖父が生きていた時代、このあたりの地方が遠い都におわす王様の領土と定まったときから、ウートラは税吏も兼ねるようになったから、里の人々は誰もこれに頭が上がらない。その息子に対する態度も似たようなもので、表立ってコダにたてつく者は、大人も子供もいなかった。それだからコダは当然のこととして、我がままで気まぐれな乱暴者に育った。気にいらないことがあれば、ほんの小さなわらしでも容赦なく小突きまわす。それでいて取り入る者を可愛がってみせるほどの知恵もないものだから、しぜん誰からも嫌われる。嫌われていることが判らないほどには愚鈍でもないから、腹を立ててよけいに他人を虐める。

 そういう性分しょうぶんの少年だったから、行き倒れを見かけたところで、そうそう拾って助けてやったりするものではない。むしろ追い打ちとばかりに踏みつけて、侮辱ぶじょくの言葉のひとつくらいは投げかけてもおかしくなかった。コダがそうせずに少年を拾って家に連れ帰ったのは、この子供が行き倒れていた場所が、アッロス河のほとりだったからだ。

 これは遥かな北の高地から脈々と流れ下る豊かな河で、いくら獲っても獲りつくせぬほどの魚をようするうえに、ここいら一帯の田畑をうるおしてもくれる、まさしく恵みの水だ。だがひとつ難があって、何かの拍子に雨が続くと、見る間にはんらんする。河辺の漁師小屋が流されるくらいのことはしょっちゅうで、悪くすれば里じゅうがすっかり水に浸かる。そんなときには収穫を目の前にした作物を、きれいに舐めて総ざらいにしてしまう。

 そうした土地だから、里の人々は古くからこの大河に棲まう水神をおそれ、その怒りを買うことに怯えながら暮らしてきた。コダの祖母はわけても信心深い一人で、そのため彼は赤ん坊の頃から、水神にまつわる昔語りを繰り返し聞かされて育った。そうしたわけで、自己本位で人の話になど耳を貸さないこの少年にも、ひとつ美徳があった。人を人とも思わぬ所業をするが、神はおそれる。

 晴れ続きで水嵩みずかさの減ったアッロス河のほとりで、流れに顔を半分突っ込むようにして行き倒れている小汚い少年を見かけたとき、コダはまず、このままにしておいては水神さまの怒りを買うのではないかと、そのことを考えたのだった。

 コダは行き倒れのそばに駆け寄って、ものも言わずにその襟首えりくびをひっつかむと、そのまま流れから離れたところに少年の体を放り投げた。その手ごたえのあまりの軽さに、コダは憐れみよりも、むしろ薄気味の悪さを覚えて顔をしかめた。

 だが次の瞬間、彼は息をのんで目をみはった。

 なすすべもなく転がされた少年が、そのとき初めて身をよじり、閉じていたまぶたをわずかばかり持ちあげた。そこからのぞいた瞳は、澄んだ、あざやかな緑色をしていた。

 それは森の奥にひっそりと横たわるふちの色、木漏れ日を受けてきらめく、木陰を映しこんだ水面の色だった。瞼はすぐに再びおりて、瞳はその下に隠れたが、コダはいっとき息を詰めたまま、身動きもとれずに立ちすくんだ。

 こんな色の瞳をした人間を、コダは見たことがなかった。そのため彼は、もしやこの少年が水神さまの化身けしんか、あるいはつかいのたぐいではないかと考えた。もちろんその思いつきは単なる空想にすぎず、コダ自身にもそうとは判っていて、けして確信というようなものではなかった。だが、もしやという思いは、信心深い少年の体をすくませた。

 そうしたわけで、コダは行き倒れを背負い、彼の屋敷へと連れて帰った。

 水神さまの話に詳しかった祖母はとうに老いて死んでいたが、ともかく家に戻れば、誰かもう少しこの子供の正体に察しをつけきれるものがあるだろう。そう考えたコダが、枯れ枝のような腕をつかんで自分の肩に回させると、垢にまみれた少年の体は、えたいやなにおいを立てた。

 少年はかすかにみじろぎをしたが、はっきりとした意識を取り戻す気配はなかった。河に浸かって冷やされていたはずの体は、気味の悪いほど熱くしめっていた。一歩を歩くごとにごつごつと尖った骨が背中に当たって、コダは臭いとその痛みとにひどく閉口した。



 コダの母親のエレテは、息子の背負ってきた行き倒れの姿をひとめ見るなり、悲鳴をあげて激しく手のひらを振った。そんな汚いものを家に入れるなというわけだった。仕方なくコダは家の前で痩せた浮浪者の体を下ろし、井戸の水を女中に運ばせた。少年の体を洗い、そのついでに自分も頭から水を被ると、体からはじきに湯気が上がった。

 夕陽の沈もうとする中、女中に手伝わせてよく洗ってみると、少年はすっかり見違えた。緑の瞳は開かれなかったが、それでもそばにいた女中たちはどの娘もかすかに息を呑んで手をとめ、その姿に見とれた。癖のある黒髪は痩せていかにもみすぼらしく額に張り付いていたし、体じゅうどこもかしこも肉が落ち、頬はこけて頬骨が尖っていたが、それでもなおその異相いそうは、女たちの眼を捉えて離さなかった。

 すっかり臭いがしなくなると、エレテはようやく少年を家の中に入れて介抱することを許した。そうしてようやく客用の寝台に横たえられた少年の姿を間近に見たとき、彼女もまた呆気にとられたように口を開いて、ものも言わずに見入った。

 そんな母親をよそに、コダは少年の濡れた髪を念入りに拭いてやり、そんなふうに他人の世話を焼く彼の姿など目にしたことのなかった家人らをひどく驚かせた。

 この少年を背負って運ぶ間じゅう、コダが感じとっていたとおり、少年は熱を出していた。だがコダは、この子供が死んでしまうかもしれないとは端から思いもしなかった。今にも死にゆこうという者の手がこんなに熱いわけがないと、彼にはそんなふうに思えたのだった。

 それは人の体の仕組みなど知りもしない子供の浅はかな思いこみにすぎなかったが、結果的に少年は回復した。一晩じゅう高熱を出して苦しげに身をよじった挙句、夜明け前になってようやく穏やかな寝息を立て、翌朝の日が昇るのに合わせたように、その緑の目を開いたのだった。

 その直前になって数日ぶりの雨が降り始めて、少年の目覚めが雨を呼んだのだという錯覚をコダにもたらした。

 普段の傍若無人ぼうじゃくぶじんぶりをどこかに追いやって、コダは一晩じゅう、甲斐甲斐しく少年の世話を焼いていた。女中に教わったとおりに、濡れた布で少年の唇を湿し、不器用な手つきで汗を拭いてやった。

 そうしてようやく目覚めたというのに、少年の深緑の瞳は茫洋ぼうようと宙をさまようばかりで、ちっともコダをとらえようとはしなかった。そこには安堵あんどもなければ驚きもなく、怪訝けげんなようすも、戸惑いや警戒の色さえ、かけらも浮かばなかった。

 女中を呼びつけて、少年に飲ませる水を持ってくるように言いつけると、コダはそのまま枕元に残った。そのまま視線を落として、自分の手元ばかりを見た。意識を取り戻した少年の目をまっすぐに見ることには、気遅れがしていた。柔らかく窓を叩く雨の音が、ますますその畏怖いふを大きくした。

 少年は横たわったまま、ふっと目を伏せた。コダにも自分がいま置かれている状況にも、なんの興味もないというふうだった。

 それでコダはようやく、再び少年の姿を直視できるようになった。そうしてみれば、見慣れぬ異相の容貌をしてはいても、ただそれだけの、ただの子供ではないかという気がしてきた。そうすると今度は、自分よりもずっと体の小さな少年ひとりを畏れていたのだという考えが、にわかに羞恥しゅうちを呼び起こした。それでコダは無理にぞんざいな口調を作って、

「お前、どっから来たんだ」

 そう訊いた。だが少年は返事をしなかった。それどころか、視線を上げることもなく、身じろぎのひとつさえもしなかった。

「名前は?」

 重ねて訊いたところで、少年はやはり、何の反応も見せなかった。それでコダはようやく、この少年は耳が聞こえていないのではないかという可能性に思いいたった。

 その思いつきを確かめるために、コダがさらに何か話しかけようとしたとき、足音が近づいてきた。

 水を持った女中とともに、エレテが客間に入ってきた。

「目を覚ましたのですって?」

 まさか助かるとは思わなかったという口ぶりで、エレテはいった。だからといって、少年の回復を喜ぶというふうでもなかった。彼女は少年に近寄ろうとせず、遠巻きに少年を見遣った。その母親に向かって、コダは訊いた。

「こいつ、うちに置いてもいいだろ」

 エレテはうなずかなかった。戸惑ったように目をしばたいてから、

「さあ、どうかしら。お父様に訊いてみないことにはね」

 そういって、落ち着かないふうに小さく肩をゆすった。

 彼女の夫でありコダの父親であるウートラは、漁についてのとりきめを交わすべく、川下にある隣の里に出向いているところだった。

 留守のあいだによそものを家に上げたことについて、夫が怒るのではないかと、彼女は考えたのだった。ウートラは吝嗇家りんしょくかで、わずかといえど彼の金を使って、浮浪者などにほどこしをしたと知れば、少なくとも不機嫌になることは間違いなかった。

 コダにとってもそうしたウートラの性格は承知のことで、父親が無駄飯ぐらいを増やすような真似を許すとは、とうてい思えなかった。可能性があるとすれば、少年が給金のいらぬ小間使いとして、家のことなりウートラの仕事を手伝う道だったが、耳が聞こえず口もきけないとなれば、それも難しいだろう。

 だが意外にも、宵の口に帰宅したウートラは、少年を家に置くことを認めた。

 帰ってきて、妻の口からことの顛末てんまつを聴くと、はじめ彼は家人の予想どおり、機嫌を損ねて眉間にしわを寄せた。だが、実際に客間に寝かされてぼんやりと天井を見つめる少年の姿を目にするなり、ころりと態度を変えた。目に見えて上機嫌になり、口には珍しく笑みさえ浮かべて、「まあ、いいだろう」と言った。

 父親の心中に何が起きたのか、コダには計りかねた。それはエレテにとっても同じことだった。自分の得にならないことのためには指一本動かすことさえ嫌がるこの男の性分しょうぶんを、二人とも知りぬいていた。

 だがウートラは心境の変化について家族に説明しようとはしなかった。ただ客間ではなく、コダの部屋に少年を移すように言いつけた。彼の客間は、首府から役人がやってきた場合に供えて、辺境のひなびた里には不似合いにすぎるほど、調度ちょうどに金をかけてあった。どこの馬の骨ともしれぬ子供を泊めるのに、この客間を使わせるものがあるかというので、彼は妻を叱りつけたが、小言はそれきりだった。

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