第二十四章 旗

(1)

「ぷうっ」


 顔を洗って。泣き腫らした目蓋に保冷ジェルを当てて冷やす。さっき買い物に出た時には空腹が限界に来てて、自分がどんな顔してるのかなんて考えなかったけど。ひどかっただろうなあ。でも、メンタル最悪だったところにお姉ちゃんと水沢さんからの思わぬ援護射撃があって。気分はどん底から大幅に浮上した。まさに地獄からの帰還だ。ありがたや、ありがたや。


 まだまだ怪我の制限は多いけど、回復まで何か月もかかるわけじゃないし。怪我は近々完治するという前提で、次の職を探していかないとならない。


「次はどうすっかなあ」


 時期外れの求職になるし、そんな大手の条件のいいところなんか入れるはずないよね。高野森製菓みたいなこぢんまりした会社で、女子社員を使い捨て扱いしないところがいいんだけどなあ。

 でも、そういうのって賭けみたいなもんだよね。今回だってそうだったけど、入社してみないと分からないことがいっぱいあるもの。そんな、夢みたいに条件のいい職場なんかあるはずないよ。わたしがもっともっとタフになって行かないとなー。こんなところで、一人で膝抱えてべそべそ泣いてるばやいではないよね。


 ノートパソコンでネットの求人情報とかをちらちら流し見してたら、またぞろスマホがぶるった。


「おやー? 今日はずいぶん電話が多いなー。誰だー?」


 何の気なしにスマホを見て。心臓が止まるかと思った。


「し、白田さんっ!」


 あれからずーっと電話もメールもなかったから、寂しいけど、わたしはもう高野森製菓にとって過去の人になっちゃったんだろうなって思ってた。今頃、なんだろ?


「はい、何野です」

「あ、ようちゃん。ごめんね」


 いきなり謝られて、不覚にも涙が零れそうになった。


「う……」

「あのね、あの後猛烈にばたばたして、ようちゃんに落ち着いて連絡出来る状況じゃなかったの。ごめんね」


 ざあああっ。血の気が引いた。何か……何かあったんだろうか?


「社長に何かあったんですか?」

「あった。ようちゃんが病院に担ぎ込まれた次の日」

「はい」

「社長が、突然社屋と工場の移転を決めたの!」


 ぎょええええっ! のけぞって、真後ろにぶっ倒れそうになった。


「う、うっそおおおっ!」

「社長は、ようちゃんの爆撃が本当に堪えたみたいよ。御影不動産の紐付きが嫌なら、逃げてる場合じゃない。正面突破するしかないって」

「はい!」

「社長は一晩で覚悟を固めたの。恩を仇で返すつもりはないけど、御影不動産との関係は中立に戻したいって。向こうの担当の人と膝詰めで話し会って、社長がそう宣言したの」

「あの……穂蓉堂さんは?」

「社長はご両親を連れてきて、三人でわたしたちに謝った。わたしや黒坂さんにまで家族のごたごたを持ち込んでしまって、本当に申し訳ないって」


 うわ。社長の行動は本当に早かったんだな。


「わたしたちに謝罪した後、その足で御影不動産の本社に乗り込んで穂蓉堂の移転交渉をしたの」

「そっちも即日ですか!」

「そう。短期間に全部けりをつけて行かないと、うちみたいな零細は保たないからね」


 ごくっ。


「でも、なんで本社移転なんて」

「当たり前よ。これまでの場所は御影不動産から破格値で借りてるんだもの」

「あ!」


 そうだった! 杉浦さんが言ってた通りだ。


「わたしたちの人数には見合わない大きな建物。たった四、五人の社員に、あんな大きな社屋は要らないわ」

「はい!」

「事務室だけならアパートの一室くらいで充分よ。それなら賃貸料や光熱費をもっとけちれる」


 だよなあ。そのアンバランスもおかしいなと思ってたんだよね。


「御影不動産の紐付きがどうこうっていう以前に、売り上げに対して運営コストがかかり過ぎてるってところから見直さないと。うちは、そういうコスト計算が全然甘かったってことね。出納を管理してるわたしが、そういうのを社長にもっと厳しく言わなきゃならなかったんだよね……」


 白田さんは、大失敗したっていう口調。そうか。御影不動産のバックアップを知らなかった白田さんは、資金繰りへの不安感が社長よりずっと強かったんだろう。こんなどんぶり勘定で本当に大丈夫なのかしらって。

 社長は逆。スポンサーが付いちゃったから、社長の意識の中で売り上げや利益に対するコストの概念がものっそ甘くなっていたんだ。テレルームの鍵を電子錠にしたり、携帯や回線をぽんと増やしたり。あれは、社長個人の私費と社の公費との区別が曖昧になっていたことの象徴。


 もし白田さんがうんとこさ厳しければ、社長をぎっちり締め上げたに違いない。社長、なんですかこの訳の分からない出費はって。でもお互いに遠慮しちゃったから、相互チェックが機能しなかったんだ。社長が機敏にコストカットに動いたってことは、白田さんが決戦の直後に社長にでっかい雷を落としたんだろう。


 わたしが辞める時には、ばらばらのパーツの単なる寄せ集めに過ぎなかった社内。それが、きちんと組み立てられてきてる。ぞくぞくした。


「でもぉ、事務所はともかく、費用かけてまで工場を移す必要があったんですか?」

「もちろんよ」


 んー。どうしてだろう?


「社長には、どうしてもきっかけが必要だったの」

「なんのですか?」

「出木さんを切るきっかけ」

「あっ!」

「ようちゃんがぼろっくそに言ってたけどさ。確かにその通りなんだよね」


 ふうっと、白田さんの大きな溜息の音が漏れてきた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る