(5)

 チャンスとピンチは背中合わせ。社長には、それがよく分かってなかったんだろう。社長が幸運だと思った諸々の条件は、不幸の詰め合わせでもあったんだ。だって、全部の条件を満たせば出てくる最適解っていうのは、条件が一つでも欠ければ出てこなくなるんだもの。それだけじゃなく、負の結果が出てしまう危険を孕んでる。そして、実際にそうなりつつあった。


 御影不動産の焦りとは裏腹に、父親の姿勢が情勢によってふらふら変化して、立ち退きになかなか踏ん切りが付かない。穂蓉堂立ち退きの具体的なスケジュールが動き出さないと、御影不動産の助力を得てる社長は針のむしろの上に座らされることになる。そして社長は家族と距離を置いちゃったから、父親には社長の追い詰められている心境が分からない。


 もしご両親のバックアップだけが目的なら、社長はそれをご両親にストレートに言えたかもしれない。でも、夢はもうご両親のことから離れていた。社長は親から自立しようと、必死にもがいていたんだ。そうしたら、社長には寄る辺がなくなる。経験もなく。頼れる相談相手もなく。助力者にいつも引け目を感じて、遠慮して。何をあてにして、どこを突破口にすればいいのか。それが……見えなくなる。


 自分が未熟で力不足なのに、社が順調に動いている恐怖。誰が僕の代わりにこの社を動かしてるの? もしかして、僕は要らないんじゃないの? どす黒い疑念が思考を蝕むようになる。おかしいおかしいと思いながら、それを誰にも指摘出来ない。周囲の善意を信用出来なくなる。でも、そんなねじ曲がった考え方はしたくない。自分の力を信じて、これまで通りに邁進したい。


 『油がさされてなくて軋んでる』


 ああ、ぎしぎし軋んでいたのは社長の心だったんだ。あれは……あの時のセリフは、社長の悲鳴だったんだろう。そして、とうとう社長は窒息してしまったんだ。誰とも関わらない時間と空間が、どうしても欲しい。何もかも忘れて、ゆっくり心と体を解放したい。でも、いきなり行方不明になったら、もう二度と現実には戻れなくなる。だから、わたしという不在票を貼っ付けておくことにした。


 『社長は、しばらく不在です』


 『解析せよ』の中身。クレーム受付用回線に集中するであろう、あちこちからの苦情を重要度別に分け、社長御自らお出ましにならないと収拾が付かないものだけ報告してくれ。それ以外はクレ担のわたしがノイズとしてさばいてってことだ。うん。そう考えると、白田さんがわたしを秘書と見なしたのは実情にかなり合っていたことになる。


 わたしに『自力でこなせ』って言ったわけ。息抜きしたい。理屈はなんでもいいから、適当に言い訳しといてって。そんな情けないことを、社長がわたしにつらっと命じられるわけないじゃん。だから意図をぼやかして、あんな言い方にした。

 社長が、情報統制のわけをわたしにきちんと説明しなかったのも同じだ。僕に繋ぐな。放っておいてくれ。それが真意なんだもん。わたしに理由を説明出来るわけなんかない。だから、曖昧な表現にならざるを得ない。そしてそれが、全てをこじらせる原因になっちゃったんだ。


 わたしの最後のど突き。社長なんだからちゃんと覚悟を決めて、社員としっかりコミュニケーションを取り、リーダーシップを発揮すべき。あれは意味がないね。だって社長もまた、わたしと同じでぴよぴよのひよっこだったんだもん。要塞化のもっと前、テレルームの設置を社長が画策した時点で、社長の様子がおかしいってことに誰かが気付いてあげなきゃならなかったんだ。でも……それは全て結果論だよね。


「ふう」


 今、社長がどういう状態でいるのか。前進したのか、後退したのか、それともスタックしたままなのか。それはすっごい気になる。でも社の部外者になってしまったわたしには、もう確かめる手段がない。わたしは、お父さんに慎重に探りを入れてみた。


「移転した後、穂蓉堂さんの経営には社長も参加されるんですか?」

「いや、あの店は俺の店だ。コウが今の社を辞めない限り、二股はさせん」


 親父さんは、きっぱりそう言い切った。


「あっちもこっちもは出来ねえよ」

「そうですよね」

「一国一城の主になるには、覚悟が要るよ」


 親父さんは、どすっと椅子に座り直した。


「あいつにも、今そういう時期が来てるってことだ。俺らは見守るしかねえ」


 うん。そういう時期が来てる、か。お父さんも、社長が自立を目指してあがいてたことにちゃんと気付いてたんだ。


 ねえ、社長。とってもいいお父さんじゃないの。頑固だけど、自分のことだけじゃなくて、ちゃんと社長のことを見て、考えてくれてる。心配してくれてる。しかも、過剰に干渉しようとしてない。社長が、ご両親に恩返ししたいって考えるのはよーく分かる。わたしゃ、あの自己中のくそったれお見合いババアと取り替えたいわ。


 でもさ。社長のことをあれこれ考える前に、まず自分なんだよね。わたしは、偉そうに社長が自立してないなんて言えないよ。わたし自身、まだ泥沼の中でばたばたもがいてる。今回きちんと反撃出来たってことは、大学の時よりはいくらかマシになったんだと思う。でも、それをちっとも自分の推進力に出来てない。あーだったこーだったって言って、ぶちぶちぶーたれてるだけだ。それじゃあ……なあ。


 わたしは椅子に座り直して、ぐんと背筋を伸ばした。


「穂蓉堂さん。わたしはもう高野森製菓を退社しています。社員ではありません」

「ああ」

「社員でない以上、勤めていた間に何があっても一切蒸し返すつもりはありません。それはそれ、です。全部終わったことですから」


 ご両親が、ほっとした表情を見せた。


「社長にも、わたしのことはもう気にしないで社の運営に専念するようにとお伝えください」

「すまねえ。伝えとく」

「お願いします」


 どんなどろどろのバトルになるのかと、ぴんぴんに張り詰めて訪ねてきたご両親は、わたしがさくっと穏便に落としたことに安心したようだった。てかさ。わたしは、元々ゆるキャラなんだって。額に青筋立てて、つば飛ばしまくって怒鳴り合うなんていうシチュエーションは絶対に避けたいの。へらへら笑って、スルーする。感情的に人とぶつかるのがいやだから、ずーっとそうやってきたんだもん。今だってそうなの。


 そのわたしが、自爆して骨折しちゃうくらい激しくぶち切れたってこと。わたしにとって、感情を爆発させなきゃならないことがどんなに強烈なストレスだったか。社長。わたしは、そっちを分かって欲しいんだけどな。


「じゃあ、これで」

「失礼いたします」

「お疲れ様ですー」


 社長のご両親は、わたしに何度も頭を下げながら先にカフェを後にした。ふうっ。


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