(3)
お母さんがこっそり付けてくることも想定して、人の出入りが確認できる明るいオープンカフェに陣取った。でも、お母さんは縁談に絡まない話に口を突っ込むつもりはないんだろう。付けてきた気配はなかった。そのえげつないくらいの割り切りよう。いいんだか悪いんだか。まったく!
さっさと済ませたくて、わたしの方から話の口火を切った。
「穂蓉堂さん。こんなところで油を売ってる場合じゃないでしょう? 今日は営業日ですよね? お店はどうしたんですか?」
「あすこは畳んだ」
親父さんの最初の一言。それは、わたしにとってとんでもなく衝撃的だった。
「た、畳んだ……って」
「あそこじゃ商売になんねえ。それはもう分かってた」
そうか。親父さんは腹をくくったんだろう。その口調には怒りも嘆きも混じっていなかった。淡々と、そう言った。
「廃業ですか? 移転ですか?」
「店舗の建物ごと移築してるとこだ」
「えっ? マンションの下のテナントに入るんじゃ……」
「無理だ。それじゃみそもくそも一緒になる」
親父さんが最初からこんな風に考えられるなら、馬鹿げた騒動は起こらなかったはず。ということは……。
「社長の説得を受け入れたんですね?」
むすっと黙り込んでいた親父さんは、しばらくして重い口を開いた。
「あんたが息子ンとこを辞めた日。あいつぁべろんべろんに酔っ払ってうちに来たんだよ。頬のところにべったり血糊の手形を付けたまま、な」
「ひ……」
顔、洗わなかったのか。
「俺も女房も慌てたさ。誰かに殴られたのかって聞いたら、殴られるようなことを僕がしたって。あの絶対に人と喧嘩しねえ穏やかなやつが。大荒れだった。泣いて泣いて自分を責めて。あんななあ初めてだ」
ふう。
「それでも。お酒の力を借りないと言えなかったんですね」
それが堪えたのか、じっと黙り込んだ親父さんが、しばらくして小声で弁解した。
「あいつは飲めねえんだ。酒に手を出したことがねえ。それだけ、追い詰められてたんだろ」
親父さんは、寂しそうに背を丸めた。
「あんたはもう知ってると思うが、あいつは俺らの子じゃねえ」
「はい」
「子供がいねえ俺らが、里親としてあいつを引き受けたんだ」
なるほど。
「家庭に問題のある子なら、どこかにその歪みが出るんだろう。だけど、
「あたしたちに変に遠慮しちゃったのかねえ」
「さあな。それは分からん」
親父さんは、丸めていた背中をすうっと伸ばした。
「こう言っちゃなんだが、俺の店は代々続いたとか、そんなんじゃねえよ。一代限りの店だ。コウに無理に継がそうと思ったことはねえ」
「!」
社長の話と違う!
「あいつには、自分がやりたいことをやれって言って、大学も自分で選ばせた。でも、あいつは自分の思うようにし切れなかったんだろう。大学を出てから、跡を継ぐって言い出した。菓子作りの基本から。ゼロからな」
「そうか。でも、その序盤戦であのマンションが」
「そう。計画が狂っちまったんだ」
親父さんは吐き捨てるように言った。
「俺がっ! 下らんプライドにしがみつかなきゃ、こんなバカな……バカなことには……ならんかったっ!」
両手をぐっと握りしめ、ごっつい親父さんがぼろぼろと涙をこぼした。
「コウは、俺が徹底抗戦することは分かってたんだ。でも、それで潰れるのは向こうじゃねえ。俺だ。コウはそれを心配したんだよ」
「それで、お父さんの代わりに御影不動産と交渉したんですね?」
「そうだ」
やっぱりか。
「好立地を手放すことを心配したのは俺じゃねえ。コウの方だ。あの土地売って他に店ぇ出しても、その費用は売り上げで回収出来ねえかもしれねえのさ。それは俺だけじゃねえ。後継ぐって言ったあいつにもかぶっちまうんだよ」
うん。見えて……きた。社長は、それまでずっとご両親の今後をベースに考えを組み立ててきた。でも移転話を御影不動産と交渉している間に、意識がはっきり自分自身のことに移った。普通の人よりもずーっと遅く、自立が始まったんだ。自分を削るんじゃなく、自分を作ることで未来を考える。わたしと同じか。
「それで、コウが会社を立てるって言い出したんだ」
「お父さんは、反対されなかったんですか?」
「もちろん、そんななあ認めたくなかったさ。後継ぐって言ったのを引っくり返しやがって! でも、しゃあねえだろ。食ってくのが先だ」
合同説明会の時の社長の説明。その中には、相当ウソが混じってる。
わたしの予想通りで、社長はお父さんと衝突したから高野森製菓を立てたわけじゃなかった。穂蓉堂の移転話が出た時に、社長が利用しうる全ての材料を最適化した解。それが、新しい受け皿としての高野森製菓の設立だったんだ。父親の商売とは、同業でありながら被らない。何かあっても、どちらかでリカバリー出来る。御影不動産のバックアップが、人材と資金両面で期待できる。自己負担がうんと小さい。マンション一階のテナントを優先的に利用出来る。そして、お父さんもそれに乗り気だ。
これまでは、育ててくれたご両親の幸福を第一に考えて自分を削ってきた社長が、好条件が揃ったことで初めて自分の努力を自分自身に使う気になったんだ。ああ、ウソっていうのはちょっと違うね。それは地味ではあったけど、社長の訣別宣言だったんだろう。僕は、これから自分の力は自分自身に真っ先に使うよ。無条件に人に譲るのはもうやらない。その相手がたとえ養親であっても……って。
穏やかで人と争うことが嫌いな社長が、それでも一歩を踏み出すことを決意した。それが、あの言い方だった。あえて自分を敵役に追い込まないと、足が出なかった。動けなかったってことか。
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