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 昼休みの後、テレルームに戻って。わたしはデスクの引き出しからもう一冊、新品の大学ノートを出した。三冊目のノート。


 一冊目は業務上のクレーム記録用。二冊目は社長への報告用。そして三冊目は、わたしのプライベートな思考、感情の整理用だ。一、二冊目はオフィシャルだけど、三冊目はわたし個人にしか意味のないもの。本当は、それを分けて考えないといけないのかも知れない。でも、わたしの中でははっきりとした予感があった。その三つは、きっと不可分。切り分けられないって。


 社長が言った『こなせ』という言葉。それは、お仕着せのマニュアル対応ではこなせない厄介な難題を、わたしが自力でクリアしろという命令だ。今のわたしにこなせないならば、スキルを鍛えてこなせるようにしないとお給料をもらえない。そういうことなんだろう。だから三冊目のノートは、社には何の意味がなくてもわたしにはとても重要になる。


 真新しいノートを開く前に、そこにありったけの念慮をなすり付けておく。一、二冊めのノートに書き残されるものは、情報のダイジェストに過ぎない。でも三冊目は違う。そこにだけ、ありったけの『わたし』がぶちこまれることになる。それは、自我を削り続けて消失寸前のわたしが、やっと息を吹き返すってこと。味気ない『記録』という形であっても、それがわたしの手に今唯一残されている有効ツールなんだ。


 大大大っ嫌いな横暴クソハゲ教授。そいつが偉そうに振り回していた処世訓は、どれもみんなまやかしの役立たず。そりゃそうでしょ。自分で全く実行出来てないんだから。わたしはそれを片っ端からゴミ箱に放り込んで、何一つ自分の中に残さなかった。でも、ただ一つわたしに残ったものがある。


『書き取れ! 記録を残せ!』


 それは、教授の言ったことがもっともだと思ったからじゃない。教授の暴風雨を避けるには、どうしても必要だったからだ。バカのふりをしたわたし。教授はわたしに偉そうに実験方法を指導したけど、二度は教えてくれなかった。それだけは……バカのふりでは回避出来なかったんだ。書き取ってあれば、バカでも分かる。それが教授の持論である限り、わたしは完璧に書き残すしかない。データの管理もそう。横暴教授にちゃんとやりましたと言うために、記録作業の手抜きは絶対に出来なかった。だから、記録を取る重要性だけはわたしの体に叩き込まれているし、それが手際よく出来ることがわたしの数少ない財産になってる。

 事実を書き取るだけじゃない。アイデアや推論、作業仮説。頭の中に置いておくだけだとすぐに忘れてしまうこと。それがどんなつまらないことに思えても、書き留めておく。捨てることはいつでも出来るの。でも、ない材料は組み立てられないからね。


 三冊目のノートの表紙をめくる。何も書かれていない真っ白な紙面。でも、それはすぐに真っ黒になっていくだろう。事実って言っても、それは全体の一部しか見えないんだ。そこから解を引っ張り出そうとするなら、出来る限りたくさんの情報を書き留めておく必要がある。手抜きは出来ない。


「さて……と」


 シャーペンを握りしめ、今朝から昼までにあったことを必死に思い返す。今朝社長から言い渡された命令は抽象的なことばかりで、わたしにはさっぱり訳が分からない。その解析は後回しにして、まず昼のことから記録しよう。


 今日の昼の女子会。わたしが覚えた強い違和感は、社長の個別面談後の白田さんの微妙な変化と、バイトのくせして妙に態度のでかい御影さん、だ。


 まず。外メシ自体が、入社以来初めてのことだった。白田さんは食べるの大好きのプチグルメで、おいしいお店の情報をいっぱい持って、わたしに教えてくれる。でもそれは会話上のお勧め情報であり、実際に一緒に外メシに行ったことはなかった。てか、うちの社では懇親会とか歓迎会とか、その手のが今まで一度もないんだ。


 それは、ぎりぎりの小人数で必死に仕事をこなしてて、宴会なんかする余裕がないからって思ってた。大学でのダメージを引きずってるわたしは、心底宴会を楽しむ心境じゃなかったから、それを冷たいなあと思うことはなかったし、不満とかを口にしたこともなかった。だから、今日の白田さんの外メシの誘いが、ものっそ唐突に感じたんだ。今までは茶飲み話のレベルでしかわたしにアプローチしてこなかった白田さんが、わざわざ外メシの機会を作ってまでわたしを引っ張り出した。……そういうことなんだろう。


 なんでそんなことを企てたか。もし昼に社長や黒坂さんが事務室に帰ってきたら、その時に間違っても聞かれたくない話。それを『わたし』とだけしたいってこと。白田さんが聞き出したいことのキーになるのは、社長だ。わたしの個人的な事情を聞くと言うより、社長がわたしに何を命じたのかを探りに来たっていうことだと思う。しかも、それを同席させる必要のない御影さんのいる状況でやった。


 白田さんは御影さんに同席してもらいたかったんじゃない。本当は遠ざけたかったけど、出来なかったんじゃないかな? 外メシ自体が、御影さんの企てだった可能性もある。つまり御影さんの上司であるはずの白田さんより、御影さんの立場の方が強いってことが透けて見える。だから、行き先の意向を社員のわたしより先に聞いたし、支払いもさせなかった。わたしと白田さんだけなら同じ給料取り同士だもん、きっと割り勘になっただろう。


 白田さんは、わたしには姉御風を吹かすけど、御影さんには微妙に気を遣っている。そして気を遣っているということを、わたしには覚られまいとしてる。それは、ものっそ奇妙だ。白田さんがわたしに確かめようとしていたこと。それは白田さん自身の興味じゃなくて、御影さんの探りじゃないだろうか? わたしを介して、社長の意図を探りに来ているようにも思える。


 御影さんは、なぜ白田さんにわたしのガサ入れを任せないのか? 白田さんに御影さんの支配が及んでいるのなら、御影さんの不在下では、わたしからの情報を意図的に隠したり、歪めたりするかもしれない。御影さんが白田さんの情報操作を警戒している。そう考えるとしっくり来る。御影さんは、白田さんを全面的に信頼しているわけではないんだろう。あくまでパワーバランス上の関係っていう感じか。


 変な話だけど、今日はわたしも白田さんに対する対応を微妙に変えた。社長の奇妙な示唆が、がっつり引っかかっていたから。これまでのわたしだったら、社長面談でのやり取りを何から何までべらべら白田さんにしゃべっただろう。でも白田さんの態度の変化と、付き合いのない御影さんの同席がブレーキになって、面談のほんの一部しか二人に明かさなかったんだ。


 わたしがこれから多忙になること。あの部屋に缶詰になること。その二点だけ。


 分からないのは、それを聞いた白田さんと御影さんのリアクションの違いだ。わたしがテレルームから出られないことを聞いて、白田さんは黙った。御影さんは笑った。どちらも、これから起きることが何かをある程度知っていて、その影響が二人にとって違うという風に、わたしには思える。


 白田さんはともかく、わたしはどうもあの御影って人が好きになれない。何か良からぬことを企んでいそうな感じ。でも、御影さんはほんとに臨時雇いのバイトで、ほとんど社屋にはいないんだよね。うーん……。


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