第8話 駿太郎 (三)
各週末に降っていた雨が、今日は週末関係なく降っている。八月九日、原爆記念の日。
こんな日に雨が降ると、涙雨の存在を思ってしまう。長崎では、あの日晴れていたそうだが、あの悪魔の黒い卵が落とされたあと、市内各地で雨が降ったと言う。広島では市内全域で名高い「黒い雨」が降り続いたらしい。数十万人の夢と希望と恨みが、涙をも黒く染めたのだろうか。そんな事をついつい思ってしまうのだ。
電子カルテの電源を落とし、帰る支度を始める。クリニックは六時までなのだが、まだまだ若い駿太郎は、院長が帰ってから一時間ほど残業と称して勉強して帰る事にしているのだ。この毎日の研鑽こそが、自分の寄って立つ土台を高くしてくれると信じている。
傘をさしてバス停へと向かう。その間も、今日診た患者や、院長の診断したカルテへの意見などが頭を巡る。
バスに乗り、途中で野茂岬行きに乗り換えて三つ目の成瀬町バス停で降りる。自宅はバス停から歩いて二、三分の所にある。
クリニックから帰るのに三十分ほどかかる。車で通勤すれば職場まで十数分なのだが、駐車場代と、朝の通勤ラッシュ、そして何よりバスの中の思索の時間を失うのが勿体ない気がして、結局バス通勤を辞めらずにいた。
自宅に着くと、妹が、台所で立ったまま缶ビールを飲んでいた。彼女も今帰ったばかりのようだ。ただいまおかえりと挨拶をして、食卓の椅子に腰掛けた。
「今帰ったのか? 夏休みなのに遅かったな」
「いやだ、今日は平和祈念日よ。登校日だから、そのあと部活やったらこの時間になるよ」
長崎では、ほとんどの小中学校が毎年八月九日は登校日になっている。生徒はみんな学校に出てきて、校長先生のお話を聞き、平和学習をして、十一時二分から一分間の黙祷をする。担任から連絡事項などの言い渡しがあって下校、と言う手順だ。
東京の大学に出ていった友人のひとりがが言っていた。長崎から東京に出た時、一番驚いた事が三つあるらしい。ひとつはくんちも精霊流しもやってないのに、道路が人で満員になっている事。ひとつはバスには前から乗り、初めに料金を払う事。そしてもうひとつは、八月九日が登校日ではない事だと。
長崎に住んでる子だって、夏休みの登校日に学校に出て、そこまで真剣に平和学習に取り組んでいる訳ではないだろう。駿太郎も小中時代はかったるいとか、面倒臭いとか思っていた口だ。しかし、幼少期に、かったるくても戦争や被曝の体験談を聞き、面倒臭くても空襲の怖さや、原子爆弾の恐ろしさに思いを致すことは、致さなかった人と比べると、決定的に何かが違うと思っている。
「お疲れさん。おれにもビールくれるか」
そう言い終わる前に、既にあずさはビールを取ってテーブルに置いていた。
「今日は疲れたのよ。ちょっと色々あってね」
「何があった」
そう言うと、ビールを一口煽りながらあずさが口を開くのを待った。
ビールをチビっと飲み、何から話そうかと考えているのが駿太郎にもわかった。
「あのね、今日、黙祷が終わって、宿題の提出日とか、PTAからのプリントなんかを配ってたの」
話し始めると、長い話になると判断したのか、自分も椅子に座った。
「その時に、生徒がちょっと煩かったのよ。あ、こないだも話したでしょ。佑ちゃんに感じが似てる子がいるって」
駿太郎もその話は覚えていた。佑樹にそっくりな男子の話。
「その子がさ、その終わりの会の時にね、拳で机をコツコツって叩くのよ」
コツコツコツコツ。
机を叩く音が教室内に響く。他に声を出すものはいない。普段はよくお喋りをする井川義人と村井凛太郎も、黙って状況を見守っている。
「澤口くん。やめなさい」
あずさがもう一度、強めに注意する。しかし、机を叩く音はやまない。澤口陸は焦点をあずさに合わせたまま、淡々と叩き続ける。
始まりはいつだったか。
八月九日、原爆記念日。朝からクラスで平和学習として「原爆投下時の長崎」と言うビデオを診た。それが終わると、例年なら校庭に集まるのだが、今日はあいにくの雨模様なので、全学年が体育館に集まり、校長先生のお話と、被爆体験者のお話を聞いた。その後、教室に戻ってきて・・・・・・。
コツコツコツコツ。
今、教室は完全に一対一の構図になっていた。生徒たちも、はじめは一緒になってコツコツするものもいたが、一度注意したあともコツコツをやめず、挑発するように担任を直視する澤口に、全員引いてしまったらしい。
「澤口くん。聞こえないの? やめなさい」
何度目かの注意も当該男子には届かないようだ。右手で頬杖をつき、左手を拳のように握り、リズミカルに机を叩いている。
一瞬、何かのサプライズでもあるのではないかと誤解するほど、その口には微笑みが湛えられている。しかし、目は笑っていない。明らかに挑発行為だ。
振り返れば、この一学期は長かった。この二年四組には、当初、問題児はひとりもいないと思われていた。いや、問題児は本当にいなかったのかも知らない。
その中で、江島莉子という生徒は虐待を疑われていた。小学校時代からある種の虐待の可能性を疑われていたらしいが、中学に入ってからは、体育の授業は休むし、夏でも長袖を着て過ごしていた。極端に内向的で、授業にもついてこれない状況だったらしい。あずさもまずはコミュニケーションを取ろうと、何かと話しかけるのだが、全く反応がない生徒だった。
しかし、中間テストが終わった頃に江島の父親が入院し、それからはどんどん明るくなって行った。実は校長先生と学年主任、それと担任のあずさだけしか知らないのだが、父親は急性痴呆症にかかったのだと言う。その影響かどうかはさて置き、江島莉子はみるみる前向きな生徒に変わり、あずさはひと安心していた。
もうひとり、中ノ瀬隼人くん。こちらは野球部に所属していて、エースで四番というチームの中心的選手らしい。成績は中くらいだが、早速市内の高校から特待生として引き抜きの声が上がっている。
しかし、夏休みに入ってから、野球部の監督から、中ノ瀬が部活に熱が入らない、クラスで何かあったのかと質問が来た。二日も練習に来ていないと。
あずさには全く心当たりがなかった。少なくとも終業式までは、野球だけには真剣に向かっていた印象だ。何かあったとしたら休み期間中なのだろうが、会っていない時期の事はわからないとしか言えない。
しかし、その中ノ瀬も八月になる頃、監督からもう心配いらないと連絡が来た。今日も晴れ晴れとした爽やかな顔になっていて、あずさも安心したところだった。
他には井川や村井など、手がかかるが基本的に聞き分けのいい子や、澤口のように手はかからないが何を考えているのかわからない子など、様々いるが何とかやってきた。
しかし、今日の澤口のこの行動は藪から棒の印象で、どう対処して良いのかわからない。
あずさは無言で澤口と対峙した。心の中で数を数える。十まで数えて、もう一度言う。
「澤口くん。机を叩くのをやめなさい」
それでも澤口はやめない。
あずさは恐ろしくなってきた。
確かに澤口陸は不気味な生徒ではあるが、こんなことをする生徒ではない。ほとんど無駄話はせず、授業態度も真面目だ。このところ少し成績不振だったが、とは言え、成績はクラスで五番に入る好成績だ。
「何か言いたい事があるのなら言いなさい。だけど、そのコツコツはやめて」
強い口調だが、一応お願いする形式にした。
コツコツコツコツコツコツコツコツ。
それでも音はやまない。
本当にこの子はどうしたんだろうと、あずさは心配になってきて、澤口陸の側まで近づいた。大人が無言で近づく事で、いたずらをやめてしまう生徒もいるのだ。
頬杖ついた澤口は、あずさが接近すると、机を叩く音をさらに大きくして、リズムも速くなった。そのリズムにつれて、自分の鼓動も速くなるような気がした。
暗いトンネルに響くヒールの音のように、眠れない夜に反響する壁掛け時計の秒針のように、教室を単調で騒がしい音が支配していた。
あずさは澤口陸の手首を握り叫んだ。
「やめなさい、澤口くん! 一体どうしちゃったの?」
今まで続いていた音が突然途切れた。生徒の目が自分に注がれているのがわかった。あずさは荒い鼻息を漏らした。クラスに緊張が走る。
掴んだ手に力と思いを込めて、あずさは澤口陸を見つめた。
「ごめんなさい。ちょっと思うところがありまして。先生のお話の邪魔をしちゃいましたね」
澤口がそう言って頭を下げた。あずさは拍子抜けしてしまった。
クラスに張り詰めていた糸がパラッと切れた。
「なんだよー、陸。どうかしちゃったかと思ったぜぇ」と井川が言えば、
「ホントだよ。おれは陸が切れちゃったと思ったね」と村井が続ける。
一気にいつものクラスに戻り、澤口も全員に笑顔を向けていた。
あずさだけが、振り上げた拳をどう収めていいかわからない、そんな状態だった。
それでも、
「まぁ、いいわ。今回だけにしてよ。先生はいいけど、みんなが迷惑するから」
「はい、すみません」
澤口陸は殊勝に言い、もう一度頭を下げて椅子に座った。
あずさは、震える足を何とかバレないようにしながら教卓へと戻った。また始まるのでは、と言う恐怖はあったが、それっきり何事もなく登校日は終了し、生徒全員が下校の途に就いた。
あずさの回想を聞いた駿太郎は、言いようのない不気味さを感じて、深いため息をついた。
おそらく、その生徒の自己顕示欲が暴走したものだろう。普段大人しい生徒が、先生か他の生徒かに自分の存在をアピールしたくて、そのような脈絡のない行動に出た。
または、本当は普段から大人しくはなく、あずさや先生たちの目のない所では問題行動の多い生徒だったならば、教師や学校への反発が考えられる。
「その生徒は成績はいいんだよな?」
「うん。期末ではちょっと下がっていたけど、今のところはトップクラスだと思う」
「そう考えると、学業不振から来るのかなぁ。それとも家庭環境に問題でもあるのかな」
答えはもちろん出ない。そう簡単に断定できるものでもないし、出すべきではない。駿太郎は仕事の関係上、ついつい考えすぎてしまうのだ。
するとあずさも、
「お兄ちゃん、こんな時は『そかそか、大変だったね』って言って、頭ナデナデするのが正解なのよ。女性は共感が欲しいんだから」と諭された。
両親がいないのも同然のふたりは、お互いがお互いの父であり母であり友だちでもある。なんでも話したし、なんでも言い合った。
それでも、年齢的に駿太郎が父親の役を演じる事が圧倒的に多かった。特にあの件以来、父親のいない子になってしまってからは、母も実家に帰ったっきりいないため、当たり前のように父親役を押し付けられてきた。その娘から、今では女性の扱い方を諭されている。駿太郎はある意味、本当に父親とはこういうものなんだろうとおかしくもあった。
「さてと、わたしはちょっと熱っぽいから、お風呂に入って早めに寝るねー。明日はバドミントンの試合だしね」
残りのビールをひと息に飲み干し、水の入ったペットボトルと、自分のカバンを持って部屋へと下がるあずさに、駿太郎は頷いて、
「あ、そう言えば、お前の部屋の空いたペットボトル、ちゃんと片付けとけよ」
「はーい」
言われる途中で気づいたのか、肩をすぼめ小走りする形で、おどけながら言って走り去るあずさは、まだまだ手の焼ける妹だった。
次の日は土曜日だったため、駿太郎は少し遅寝して、それでも八時には目を覚ました。昨日の雨は嘘だったように爽やかに晴れていた。既に太陽は猛威を振るい始め、雲は力強く湧き上がっていた。
目を擦りながら台所へと向かう。
「おはようございます」
いつもの通り、柔らかな挨拶をくれるのは、手伝いに来てくれている木下さんだ。彼女は駿太郎が物心つく前から時津家で働いている。物静かで物腰も柔らかい。あまり口出しをせず、頼まれた事はきちんとこなしてくれる。六十才は過ぎているであろう彼女を、駿太郎は密かに本当のおばあちゃんだと思っている
「おはよう、木下さん。今日も暑かった?」
「ええ、暑うございましたよ。さ、パンを焼きますから、お顔を洗って来てくださいな」
いつも通りの朝の会話を交わし、駿太郎は洗面所に行く。顔を洗い、さっぱりしたら、頭も機能してくる感じがした。
食卓に戻ると、サラダとスープがひとり分用意されていた。
「あずさはもう行ったのかな? 今日はバドミントンの試合があるっていってたっけ。木下さんが来た頃にはもういなかった?」
「おやおや、わたくしは朝からお会いしておりませんよ。ですから、まだお部屋にいらっしゃるかと」
あずさは基本的に休みの日でもいつも通りに起きるタイプだ。仕事の日にはうるさくしてくれて、目が覚めて逆にありがたい。しかし、休みの日には、寝ている側からガーガー掃除機をかけるは、ダンスはするは、全くはた迷惑な事この上ない。
そんなあずさがこの時間まで寝ているなんて。それに確かに今日はバドミントンの試合があると言っていたはず。
木下さんが焼けたパンをお皿に載せて持ってきた。駿太郎はふと思い立って窓から外を見てみた。その窓からは駿太郎の普通車とあずさの軽自動車が停めてあるのが見えるのだが、あずさはどこに行くのも車を使う。学校も車で通勤している。バドミントンの会場にもよるが、とうもおかしい。
「あずさ、いるみたいだね。試合は昼からかなぁ。ちょっと様子見てにてもらえる?」
「はい、承知しました」
そう言うと、キッチンにいた木下さんは、エプロンで手を拭って二階へと行ってくれた。駿太郎は焼いてもらったパンを口にくわえ、テーブルに置いてあった新聞を開いた。
そこへ木下さんが慌てた様子で戻ってきた。
「休んでいらっしゃいましたが、起こしても全く返事がありません。こんなこと、中学生以来です」
聞きながら駿太郎は、背中に冷水を浴びた気がした。いっぺんに目が覚めた。
彼は即座に立ち上がり、驚いている木下さんを横目に、無言で二階にあるあずさの部屋へと走った。部屋に近づく毎に心拍数は上がっていった。部屋の前につき、ドアをノックしたが返事はない。
「あずさ、入るぞ」
駿太郎は断ってから部屋へと入った。クーラーの冷気に少しヒヤッとした。遮光カーテンでほとんど光が入らない中、右手奥のベッドへと向かう。そこには、泳いだばかりかというほど汗をかいたあずさが、終わらない悪夢に苦しんでいるかのようにうなされていた。
駿太郎はすぐに掌をおでこに当てた。熱い。物凄い熱を放出している。
脈を診る。打ってはいるが速い。ちょっと弱いような気もする。
木下さんを呼び、あずさにも呼びかける。
「あずさの身体を拭いてください。ぼくは救急に連絡して、着替えてきます」
そう言い置いて自室に戻る。部屋に入ると一一九に電話を入れる。住所、名前、現在の症状などを説明しながら、手際よく着替えを済ます。深呼吸をして自分を落ち着かせる。心臓の鼓動は収まったが、嫌な想像だけは消せない。
中学生になりたての頃、あずさは同じように意識不明になった。しかし、今回とは微妙に違う。あの時は熱は出ていなかった。あの時は下界との接触を絶とうとしていたが、今回は苦しんでうなされている。
駿太郎は頭を振って、余計な事を考えるのはやめようと思った。今はとりあえず病院に連れていくこと、それだけに集中しようと。
「木下さん、あずさの着替えを用意してください。それから保険証も」
そう指示を出しながら、自分は学校に電話をかけようと思った。バドミントンの試合には行けない事や、監督の代行を頼める人がいないか確かめる事、他には・・・・・・。
脳のある一面を麻痺させたまま、目まぐるしく今必要な事を考えた。
まるで、常に泳いでいなければ死んでしまう回遊魚のように、最悪の事態を考えないように、駿太郎は考え続けた。
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