第十一話 赤髪盗賊団
『ジョアンはエデンの園にいるんだ』
五番街の豪奢な通りを歩きながら考えていた。母親に会いたいかと問われたとき、即答出来なかった。さまざまな感情が頭の中を駆け巡り、随分後になってから「わからない」という言葉だけが口から突いて出た。
思えば、母さんが生きていることは必然的だったのだ。どうしてすぐに気がつかなかったのだろう? と、同時に突如としてあるひとつの疑問が頭の中に沸き起こり、ふいに歩みを止めてその場に立ち止まった。
オレの父親は誰なんだ――?
記憶を取り戻して母さんのことを思い出しはしたが、父さんについては全く覚えていなかった。オレは急いでじいちゃんの日記帳を開き、つい先程『魔女の家』で知った出来事が記されているページに目を走らせた。それによれば、母さんは魔法陣の一件の後、すぐに『エデンの園』へと送られている。だが、日記はそこで途絶えていた。
「どうした? 急に立ち止まったりして」
振り返ったラルフ君が心配そうに顔を覗き込んできた。
「ラルフ君は、オレの父さんが誰だか知ってる?」
単刀直入に尋ねると、彼は口にするべき言葉を探しながら辺りに視線を彷徨わせた。
「お願いだよ、本当のことを教えて欲しいんだ」
真剣な眼差しを受けて、ラルフ君の鳶色の瞳は困ったように伏せられた。
「……おまえの父親のことは、俺は何も知らない」
そう言ってから、彼はすぐに言葉を付け足した。「いや、正確に言うと、リーブルもレイも、ハリエットのばばあも……ジョアンの相手が誰だったのか、誰ひとりとして知らないんだ」
「それは一体どういうこと?」
ラルフ君が再び口を開きかけたとき、突然ガラスの割れる音が辺りに響き渡った。弓状の窓が粉々に砕け散り、破片が通りに散乱している。マーラ・セ・ゼラの宝石店だ。
オレたちは互いに顔を見合わせ、すぐさま店へと駆けつけた。群がる野次馬たちを掻き分けて中に入ろうとしたのだが、警備の雇われ魔法使いに阻まれた。一体何があったのだろう? 赤髪盗賊団が予告どおり盗みに現れたのだろうか?
扉付近で雇われ魔法使いに事の成り行きを尋ねていると、店の奥にいたセ・ゼラ家の次女であるレディ・ローズがオレの姿に気がついた。「あなたは確か、リーブルさんのお弟子さんでしたわね」
彼女の後ろからほかの三人の姉妹もやって来た。皆揃いに揃って真っ青な顔をしている。
「たった今、赤髪盗賊団から脅迫状が届いたのです」
長女のレディ・アイリスが、震える手つきで一枚の手紙を差し出してきた。オレはそれを受け取り、紙面に視線を落として息をのんだ。
『マーラ・セ・ゼラを返して欲しければ、彼の一番大切な場所に聖エセルバートの杖を持ってくるのだ』
なんということだろう。マーラさんは盗賊団にさらわれてしまったのだ!
心臓が早鐘のように脈を打ち始める。でも、聖エセルバートの杖って……まさか……。
古い文献を捲りながら、レディたちがおろおろとした様子で話し合う。
「うちは宝石店なのよ? なぜ聖人の杖など所望されるのか理由がさっぱりわからないわ」
「杖に使われている石が当店にあると思われたのではなくて?」
「聖人の杖だなんて、そもそも本当に存在するのかしら……」
もし、もしもだ。仮にオレの杖が本当に聖エセルバートの杖だったとしたら……。いや、たとえそうではなくとも、捕らわれのマーラさんを助けるのにうまく利用することが出来ないだろうか――?
「マーラさんの一番大切な場所って、どこなんですか?」
オレの問いかけに、セ・ゼラ家の姉妹たちは申し合わせたように首を横に振った。
「お恥ずかしながら、皆目検討もつきません。あの子は昔からわたくしたちの前ではあまり自分の感情を表に出さない子だったので、あの子のことはこれっぽっちもわからないのです」
レディ・ダリアが涙ながらに、隣に立っていたラルフ君の手を強く握り締めた。
「ああ、お願いです。どうかリーブルさんにこの状況をお伝え下さい。マーラが唯一心を開いていたリーブルさんにご助力頂ければ、あの子の囚われている場所だけでもわかるかもしれません」
オレたちは急いで十一番街にあるラルフ君の家まで戻った。
玄関を入って居間に駆け込むと、一睡もしていなかったリーブル先生は日当たりのよいソファで横になって眠っていた。ルリアは床に座ったまま、いつの間にやら眠ってしまったというところだろうか。ソファに寄り掛かるようにして先生の隣で健やかな寝息をたてていた。だが、彼女はすぐにオレたちの気配に気がついて目を覚ました。
「メグ、今までどこに行ってたの?」
「後でゆっくり話すよ」
低血圧のリーブル先生を起こすのは至難の業だ。少しでも機嫌を損ねれば魔法で何をされるかわかったものじゃない。だが、今はそんなことを言っている場合ではなかった。
「リーブル先生、起きて! 大変なんだ!」
体を揺すりながら大声で呼びかけると、先生は寝言みたいな呻き声を上げた。だが、寝返りを打っただけで一向に目を覚ましそうな気配はない。昨夜は寝てないだけに一筋縄ではいかなそうだ。
肩を落として溜息をつくオレの横で、ラルフ君は対照的に大きく息を吸い込んだ。そして、ありったけの大声で先生に向かって罵詈雑言を吐き捨てる。
「このわがままクソ魔法使い! 根性悪! 悪魔! 変態! ロリコン野郎!」
すっきりとした表情を浮かべ、ラルフ君は満足そうに微笑んだ。「おまえらも常日頃思ってることを吐き出すなら今のうちだぞ。こんなチャンスはなかなか無いだろうからな」
そのとき、ぶつぶつと低い声が辺りに響き始め、オレとルリアはわずかながらに後ずさった。リーブル先生が魔法の呪文を唱えているのだ。
ポンッと空気が弾けたような音がすると、一陣の煙とともにラルフ君の体は瞬く間にピンク色の豚に変身してしまった。
寝癖のついたオレンジ色の髪を掻き上げながら、先生はゆっくりとソファから身体を起こし、心底不機嫌そうに「インチキ科学者」と呟いた。オレはすぐさま目を覚ました先生に飛びついた。
「大変だよ、リーブル先生! マーラさんが赤髪盗賊団にさらわれたんだ!」
ぼうっとしていた先生は、しばらくしてから「……なんだって?」と返事をした。まだ思考回路が上手く回っていないらしい。オレはもどかしさと焦りに追い立てられるようにして、レディ・アイリスから預かってきた脅迫状を先生の目の前で広げて見せた。手紙を覗き込んできたルリアが声に出して内容を読み上げる。
「マーラ・セ・ゼラを返して欲しければ、彼の一番大切な場所に聖エセルバートの杖を持ってくるのだ……」
先生の透き通った瞳に、何がしかの心の動きが広がっていったのが見て取れた。
「ねえ、先生……聖エセルバートの杖って、もしかして……」
リーブル先生は言わんとしていることに気がついて、オレが右手で握り締めていた魔法の杖に視線を向けた。彼は何かを考えている様子で暫し沈黙していたが、やがて小さな溜息をひとつつくとこう言った。「メグ、悪いけどその杖を少しのあいだだけ貸してもらえるかな?」
オレは黙って魔法の杖を手渡した。
先生は杖を受け取り、「必ず返すよ」とベルトの杖掛けに差し込んだ。そして、ソファの上で掛け布団代わりに使っていたローブを羽織ると、ここに来るときに乗ってきた箒を掴んで颯爽と玄関から外に出た。
「待ってよ先生! まさかひとりで盗賊団と張り合う気?」
オレの叫び声が届かぬうちに、箒に跨るリーブル先生はあっという間に空高く舞い上がり、風に煽られたような激しい飛び方で十一番街を突き抜けた。オレとルリアは走って後を追いかけたが、箒の影は見る見るうちに遠ざかってゆく。
息をきらせるオレたちの前に豚の姿をしたラルフ君が躍り出て、何やらブーブーと騒ぎ始めた。
「もしかして、乗れって言ってるの?」
ラルフ君は頷くようにいななくと、オレとルリアを乗せて大通りを疾走した。
先生の乗った箒は滑り込むようにして一番街に入り込んだ。だが、ひしめくカレッジの尖塔に阻まれて、すぐに姿を見失ってしまった。先生は一体どこへ行くつもりなのだろう? マーラさんの大切な場所――彼の捕らわれている場所がわかったのだろうか?
オレはマーラさんの大切な場所について考えを巡らせた。そして、ふと彼がエデンの大学を案内してくれたときに言っていた言葉を思い出した。
『この場所は私にとって一番大切な思い出の場所なんです』
「わかった! ソーサリエ・カレッジの図書館だ!」
オレの叫び声とほとんど同時に、ラルフ君は図書館へ向かって走り出した。
夕暮れの図書館には人影が見当たらなかった。昨日あれほどまでに溢れ返っていた学生たちは、一体どこへ消えてしまったのだろう。
「大学は休暇に入ったみたいだよ」
ルリアの声が誰もいない館内に響き渡った。彼女は掲示板に張られてあった張り紙を見てから、オレとラルフ君の方へ慌てた様子で戻ってきた。人のいない古めかしい図書館はなんとなく薄気味悪かった。
昔の魔法使いの彫像が建ち並ぶ薄暗いエントランスを抜けると、高い天井の大聖堂へと繋がった。ステンドグラスは夕暮れの陽を受けて、なんだか昨日よりもほんのりと赤く輝いて見える。まるでこの世のものではないような、幻想的な雰囲気をより一層醸し出していた。炎に包まれた魔女の絵がニヤリと笑ったような気がして、オレは思わずその場に立ち止まった。
「メグ」
ルリアが手を引き、オレたちは再び歩みを進めた。
マーラさんが捕らわれているのは、きっとあそこに違いない。エデンの庭師が住んでいた黄色い屋根の家のステンドグラスがある場所だ。リーブル先生と大学時代の大半を過ごした、彼にとってかけがえのない大切な思い出の場所……。
しばらく歩き続けると、オレたちは茜さす書架の向こうにリーブル先生の姿を見つけた。
「先生!」
リーブル先生は驚きと同時に、後をついてきたオレたちに対して困ったような顔を向けた。
「メグ、ルリア……」
二番弟子が買ってもらったばかりの自分の杖を握り締めながら、気色ばんだ口調で言う。
「先生ひとりで盗賊団に立ち向かうなんて無謀だよ!」
うっすらとした微笑を浮かべながらも、先生の表情はわずかながらに翳ったように見えた。「赤髪盗賊団は……ここには現れないよ」
オレとルリアは互いに顔を見合わせた。先生は再び歩みを進め始め、オレたちは黙ってその後を追いかけた。
リーブル先生は階段を上ると、ふいに踊り場で足を止め、眩しそうに掌を翳して前方を見上げた。マーラさんと先生がよく勉強していたという三階のテーブル席。黄色い屋根の家のステンドグラスの前に、ひとりの男が佇んでいる。万華鏡のような色とりどりの光を受けてそこに立っていたのは、なんとマーラさんだった。
「マーラさん! 無事だったんだね!」
彼の元へ駆け寄ろうとしたオレの手を、リーブル先生がぎゅっと掴んだ。
「……先生?」
オレはわけが分からず困惑した面持ちで師匠の顔を見つめた。彼の視線は真っ直ぐに親友の元へと向けられている。
歪な笑みを浮かべたマーラさんは、涼やかな声でこう言った。
「待っていたよ、リーブル。君はきっと来てくれると思ってた」
先生は薄い笑みを返し、マーラさんに向かって魔法の杖を差し掲げた。
「御所望どおり、聖エセルバートの杖とやらを持ってきたよ。悪ふざけはやめにして屋敷に戻ろう、マーラ」
先生のその一言により、木槌で叩かれたようなショックが全身を襲った。
「そんな……マーラさんが赤髪盗賊団のふりをしていたの……? 一体どうして……?」
愕然と尋ねるオレに、マーラさんは虚無的な視線を傾けた。「驚きましたか? メグさん」
豚の姿をしたラルフ君が、彼に向かって威嚇するような声を上げる。
頭ががんがんして、うまく働いてくれそうになかった。オレは再び馬鹿みたいに、「どうして?」という言葉を繰り返し口から漏らした。
「……私はね、ただ、姉さんたちを困らせたかっただけなんです。私をこんな風にしてしまった、憎むべき姉たちをね」
マーラさんは書架から古びた本を一冊手に取ると、気の無い素振りで開いたページに視線を落とした。
「セ・ゼラ家の執事はね、私の言うことを何だって聞いてくれるんです。彼の仕事は主人である私のご機嫌取りなんですよ。我々は赤髪盗賊団を装い、店に予告状を送ったり、石つぶを投げつけたりしました。姉さんたちは恐がって、うろたえて……それを見ているだけで楽しかった」
マーラさんはクスクスと笑った。
「私が女性恐怖症になったのは、姉さんたちが原因だと言ったでしょう?」
オレは黙って頷いた。
「あの人たちは悪魔なんです。私が女性に触れられないことを知っていながら、跡継ぎが必要だとか何とか言って、勝手にどこかの令嬢と結婚させようとしていたのです。全く笑い話ですよ。女性恐怖症の私が結婚ですよ? ……ましてや、子供を作るなんて、この私に出来るはずがないじゃありませんか!」
マーラさんは皮肉な笑みを湛えながら、声を上げて大笑いした。そして、ひとしきり笑い終えると、手にしていた本を勢いよく閉じた。
「私がそれを拒むと、姉さんたちは私のことを『エデンの園』へ連れて行きました。『エデンの園』と言っても、ここに描かれている妖精の楽園のことではありません。十三番街にある精神病院のことをそう呼んでいるんです。姉さんたちは……姉さんたちは、私をそこへ閉じ込めたんだ!」
リーブル先生がすぐにそれを否定した。
「レディ・セ・ゼラたちは君の事を心の底から心配していたんだよ」
先生の言葉に、マーラさんは憤怒で顔を真っ赤にさせた。
「私が『エデンの園』にいる間、誰ひとりとして私の元へはやって来なかった! みんな私のことなどどうでもよかったんだ! 幼い頃から人を玩具のように扱って、用が無くなればゴミのように捨ててしまう!……私は……私は姉さんたちから見捨てられ、結婚も出来ず……永遠にひとりきりなんだ!」
マーラさんは持っていた本を床に投げつけ、床の一点を見つめながら激しく肩で息をした。
リーブル先生はひどく悲しげな眼差しでマーラさんのことを見つめていた。
耳が痛くなるほどの静寂が辺りを包み込む。やがて、普段の落ち着いた口調を取り戻したマーラさんがおもむろに先生に尋ねた。
「君は……いつから私が盗賊団のふりをしていたことに気がついていたんです?」
「宝石店で予告状の話を聞いたときからさ。『赤髪盗賊団に狙われるような石を持っているのか』と尋ねたが、曖昧に話をはぐらかされた。それで、なんだかおかしいなと思ったんだ」
マーラさんは肩をすくめて見せた。先生は尚も言葉を続ける。
「レディたちを恐がらせようとして、盗賊団のふりをしているのだろうとすぐに気がついた。でも、僕に再会してしまったのは誤算だったね。赤髪盗賊団が聖エセルバートに纏わる物しか盗まないという話は、この辺りではあまり知られていないカストリアやフェストリアに古くから伝わる伝承で、それを君に教えたのは僕だ。学生時代に僕がここで話して聞かせたんだよ。君はもちろん、そのことを忘れていたわけじゃないだろう?」
先生の言葉に、マーラさんは救われたような笑みを向けた。
「忘れたりするものですか。……君との大学時代の思い出は、私にとって本当に大切な、心の拠り所だったのだから……」
オレはその言葉を聞いて、涙が溢れそうになった。
マーラさんはきっとリーブル先生に気がついて欲しかったのだ。だから、怪しまれるとわかっていながらも、再会した先生の前で盗賊団を演じ続けていたのだろう。深い孤独に蝕まれながらも、暗闇から必死に助けを求めていたんだ。幼いオレが夢の中の魔法陣から、誰かに助けを求めるように……。
「本当はね、リーブル。私は君に会いたくて、魔法祭のときに聖エセルバートの街へ行ったんだ。君の家がどこにあるのか知らなかったが、店を出していれば会えるかもしれないと思ってね」
マーラさんはゆっくりと階段を下りてくると、先生の肩に両腕を回して抱きしめた。
「今の君には愛すべき天使たちがそばにいる。それでも、最期に君が来てくれて、私はとても嬉しかった」
「……マーラ?」
「これでもう、思い残すことはありません」
マーラさんはそう言って微笑むと、オレたちの間をすり抜けるようにして階段を駆け下りて大聖堂を走り去った。
オレたちは急いで彼の後を追った。しかし、図書館から出るとすでにマーラさんの姿はどこにも見当たらなかった。
「手分けして捜すんだ!」
箒に跨ったリーブル先生は空へ飛び、オレとルリアとラルフ君は、それぞれカレッジ内の別の建物に分かれてマーラさんの姿を捜した。
学生のいないカレッジ内は蝋燭が灯らずひどく薄暗かった。沈みかけた夕暮れの残光だけを頼りに、オレは回廊を駆け抜けた。
「マーラさん!」
声に出してその名を呼んでみるが返事はない。それでも、教室から教室へ移動するたびに、オレは彼の名前を呼び続けた。別棟に渡り石造りの階段を駆け上ると、円筒状の踊り場に出た。息を切らせながらも必死で叫ぶ。
「マーラさんっ……どこにいるの……!?」
すると、背後から突然女の人の声がした。
「螺旋階段をお上がり」
オレは驚いて辺りを見回した。
「誰?」
踊り場には誰の姿も見当たらなかった。一枚のステンドグラスからわずかな夕陽が差し込んでいるだけだ。図書館には炎に包まれた魔女のステンドグラスがあったが、ここではその魔女が赤ん坊を抱いて揺り椅子に座っている絵が描かれていた。このステンドグラスもエデンの園に纏わる物語のひとつのようだ。
オレは動揺しつつも不思議な声に従って、踊り場の端にある螺旋階段を駆け上った。そこはカレッジ内の中央にそびえ立つ、一番背の高い時計塔だった。
葡萄色に染まり始めた夕暮れの空には、夕陽とともにうっすらと白い月が浮かんでいる。機械室を抜けた先で、文字盤下の窓から身を乗り出すようにしてマーラさんが沈む夕陽を眺めていた。彼はオレの姿に気がつくと、柱づたいに手すりに飛び乗った。
「来ないで下さい!」
マーラさんは震える声で叫ぶ。「私のことは放っておいてください! このまま死なせて下さい!」
オレはその場で動きを止めて息をのんだ。
風にさらわれたシルクハットが木の葉のように舞い上がる。その行き先を目で追いながら、マーラさんはゆっくりと地上に視線を落とした。
「私は……誰にも必要とされていないんです。私が生まれてきた意味なんて、今も、これから先もずっと何も無いんです」
「そんなことない!」
彼の言葉に思わず声を張り上げる。
「そんなふうに、勝手に決めつけたりしちゃだめだ! 意味がないだなんて、そんな……そんな悲しいこと言わないでよ!」
オレの脳裏には母さんの姿が陽炎のように過ぎっていた。母さんは決してオレのことなど見ていない。オレを必要としていなかった。
そのとき、突風に煽られて、バランスを崩したマーラさんは手すりから足を踏み外した。
咄嗟に差し出した手でかろうじて彼の手を掴み、下を見てゾッとした。マーラさんの体は時計塔から宙吊りの状態で、地上は眩暈がするほど遠かった。もしもこの手を離してしまったら、確実に死んでしまうに違いない。
「メグさん、早く手を離しなさい! このままではあなたまで堕ちてしまう!」
「……絶対に離したりなんかしない!」
繋がっている掌に力を込めたが、汗が重みに輪をかけてマーラさんの手は少しずつずり落ちていく。「絶対に離すもんかっ!」
「メグさん……」
「生まれてきた意味は、自分自身で作っていくものなんだっ……!!」
オレは彼の身体を引き上げようと渾身の力を振り絞った。だが、次の瞬間、汗で滑ったマーラさんの手は掌をすり抜けた。
彼は地上に向かって真っ逆さまに堕ちて行った。
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