第3話 七月二十一日 終業式

 あぁ、やっと。やっと、この日が来た。

 本当に長かった。


 頭が寂しい校長先生の退屈な教訓を聞きながら、私は体育館の講堂でひとり、嬉しさを堪え切ることが出来なかった。

 ほんのりと上がった口角が、それをよく表している。


 普段ならば、夏休みごときでこんな風に笑顔になったりしない。でも、今年は特別な夏休みなのだ。

 校長先生の光る頭にかけて誓ってもいい。今年の夏は、生涯に一度だけのものになるだろう。


 明らかにそわそわしている同級生たちの背中を後ろから眺めながら、私はこれからのことを頭の中で計画していた。

 そうこうしている内に、夏のうだるような時間はゆっくり、しかし確実に過ぎていった。


「健康的な、良い夏休みを過ごしてください」

 生活指導の先生がそう言い終わると同時に、気の早い生徒たちが数人、勢いよく立ち上がる。つられて立ち上がりそうになった生徒たちは慌てて座り直す。


 それぞれのクラス担任が彼らを注意しようと近づいてくるのが見えたからだ。

 彼らが注意を受けている間にも、後ろにいる最高学年から順に講堂を出ていく。

 私たち一年生がはけるころにもなると、お説教を終えた彼らが恨めしそうにふて腐れながら立ち上がって去っていく私たちを見ているのが分かった。

 どうやら最後の最後まで残されることになったらしい。


 講堂から吐き出された直後、むわっとした夏特有の生ぬるい風が吹いてきて、私の制服のスカートを揺らす。

 あちー、あちーと言いながら、男子生徒たちが一斉に胸元のボタンを外す。その動作があまりにも一糸乱れぬ様子だったので、私は柄にもなく笑って、こう思った。

 まるで牧羊犬に追いかけられて一斉に方向転換する羊みたいじゃない。



 教室に入ると暑さが少しだけ和らいだ。いくら窓や扉を閉め切っていたとは言っても、廊下の学年全員と教室のクラスメイトでは人口密度が違う。

 教室に入るや否や、はぐれていた友達同士で固まってお喋りするクラスメイトたち。彼らの話し声でがやがやしている教室内を私は深海魚の如く、静かに自分の机に向かって泳いでいく。


 すいすい。すいすい。

 順調に泳いでいたはずだった私の足が、一瞬だけその場に留まる。しかし、すぐに何も起きなかったかのように、また足を動かした。

 平然と澄ました顔をして着席する。


 未だ、がやがやとする教室内で、一つのグループだけが違う音を発していた。

 くすくす。くすくす。

 あぁ、なんて。なんて不快な音なのだろう。

 私は先ほど目にした光景が事実であるかを確かめるために、一度だけ視線を足元に向けた。


 机横のそこには、本来ならば私のスクールバッグが掛かっているはずだ。しかし、視界の隅に、ちらりとも黒っぽい私の鞄の姿は映らない。

 そう、つまり、隠されたのだ。


 私は悔しくて堪らなくて、机の下で手と手を握り締める。

 携帯電話はスカートのポケットの中にあるし、財布に大金が入っていた訳でもない。今日は終業式だけだったから、後々どうにかされて困るような教科書などの類も入ってはいなかった。


 ……本当に、よく考えられているわ。私の鞄を隠した誰かさんは、そのことをよく理解していたから、今日を狙って隠した。可愛い遊びって訳ね。

 でも、あの鞄の中には私の大切なあのノートが入っていたのよ、誰かさん。いいえ、浅田さん。

 私は不快音を放つグループの真ん中に鎮座している女王様を睨み付けたくて仕方がなかった。


 浅田真奈美。私の天敵。妹の親友。彼女のことを好きになったことは一度もない。彼女もまた私に関して好感情を抱いているとは到底思えない。

 隙あらば、私に対してしようもない悪戯をしかけてくる。ただでさえ、お洒落なことと情報通であることが権力で正義だとしている、苦手なタイプの女の子なのに、そんなことをされて、一体どこをどう好きになれというのだろう。


 すん、と澄ました顔をして、私は一心に前を向いていた。その反応を彼女が一番嫌がっていることを私の経験は知っている。

 担任の先生が入ってきて、ショートホームルームが始まっても、私はまだ澄ましていた。


 本当は早く探したい。彼女のことだから、絶対に見つかるところに隠しているのだろう。しかし、彼女のことだから、決してただ隠しているだけなんてこともないはずだ。


「それでは、良い夏休みを」

 そう言って、先生が教室を出た瞬間、私は床を蹴って廊下に飛び出した。

 ゴミ捨て場に、体育館の倉庫。職員室前の落とし物コーナーの展示に、多目的室。理科室、音楽室、家庭科室。図書室、視聴覚室、放送室。空き教室まで探したところで、私は教室に戻った。


 もうほとんどの生徒たちが帰った後の閑散とした教室内で、私は探した。クラスメイト全員分のロッカーの中、教卓、掃除道具のロッカー。


 みーん、みーん、みーん。

 伝う汗も気にすることなく、私は埃塗れになりながら、探した。

 探した。探した。探した。

 ない。ない。ない。ない。

 汗が、伝う。伝う。伝う。

 頬を。首筋を。背中を。

 諦めかけて、自分の机に座ってぼんやりと沈んでいく太陽を見つめている私の横に、彼女の、気配がした。


 悔しかった。

 夏の暑さを微塵も感じさせないその涼しげな気配が。

 ほんのりと香る、石鹸の清潔な、でもどこか人工的な香水の匂いが。

 悔しくて、だから、私は敗北を悟った。

 ほんのりと上がった赤い彼女の口元に。

 柔和に細められた勝者の目尻に。

 鼻孔を擽る、眩い白の香りに。

 下唇を噛み締めて。血が滲むまで噛み締めて。

 ほつれた髪の毛と汗塗れの顔をした私は、彼女に問うた。


「……あ、さだ、さん。どこに、やったの」

 彼女は女神のような微笑みを更に深くして、私と同じ夕日を見ながら、高らかに宣言した。

「トイレよ」

 最後の吐息が彼女の口から発せられたその直後、私は顔を真っ青にして、教室から飛び出した。


 嫌な、予感がした。

 女子トイレに駆け込んで、一番奥の扉を開けると、便器の中にどっぷりと浸かる、私の鞄があった。

 勢いよく鞄を持ち上げると、ぽたぽたと決して綺麗とは思えない便器内の水が滴り落ちる。

 まるでスローモーションのように上から下へと落ちていく水滴を見て、私は足の力が抜けていった。


 ほっとしたのか、放心したのか。

 ぼんやりとしゃがみ込んで、紺色のスクールバッグを抱きしめた。

 霧がかかったような頭でも、鞄のチャックが開いていないことだけはしっかりと確認していた。


 雨の日を幾度となく経験している私は、これくらいの水では中のノートにまで被害が及ばないことを知っている。

 鞄を抱きしめて、立ち上がろうとした、その時。私の頭上から、冷たい水が降り注いできた。

 突然のことで、息が出来ない。冷たくて、悲しい。苦しくて、辛い。立ち上がろうとしていた足が、上からの重圧でまた、折り曲がる。


 全世界が敵に回った気がした。刺すような冷たさと、流れていく先ほどまでの埃や汗。

 上からの水が止まっても、私は呼吸が出来なかった。どうやら多くの水を飲み込んでしまったみたいだ。


 ごぼごぼ、と水を吐き出す私の背に、冷たい真冬のような女の子の声が突き刺さる。

「どうしてあんたは生きているのよ……」

 どこか泣き出しそうにも聞こえる、震えたその声に、私はちょっとだけ同情した。


 それでも、やっぱり、許すことは出来なくて、バタバタと逃げ去る卑怯な足音に私は呆れた視線をやった。

 呼吸が収まるのを待って、私はトイレから出る。

 全身から滴り落ちる水滴を眺めて、如何にも古典的な分かりやすい手法ね、と思った。一度だけ肩を竦めてから、廊下を練り歩いた。  


 私の通った後に、まるで涙の跡みたいな水路が出来ていくから、後ろを振り返って恥ずかしく思った。悲嘆と羞恥の入り混じった複雑な思いを抱えて、私は歩く。

 わざわざあなたが手を汚さなくても、私はこの思いを忘れて生きていくつもりはないのよ、浅田さん。だって、この複雑な感情はそう簡単に忘れさせてはくれないもの。私の中にいるそれは、醜い程にこびりついて、決して私を解放してはくれない。


 後悔と諦観。嫉妬と愛情。哀しみと罪悪感。色んな色が入り混じったキャンバスの行き着く先は、真っ黒な世界だと、私はよく分かっているのよ。

 そしてその未来を、浅田さんに言われるまでもなく、私自身が望んでいるの。

 そんな風に考えながら歩く私の目の前に、男物の革靴が現れた。不思議に思って顔を上げると、苦しそうな顔をしたクラスメイトの桜井一樹が立っていた。


 クラスでも人気のある彼がここにいる意味が分からなくて、私は首を傾げて横を通り抜けようとした。けれど、

「どうしたの」

 私が彼の真横に来たとき、突如として発せられた彼の言葉に、私は足を止めた。


 ゆっくりと彼の方を見ると、彼もまた私の方に顔を向けていた。

 目と目が合う。ごく普通の黒っぽい彼の両目と、ブルーとイエローの二つを持つ私の、私とリアスの、不思議な瞳が。

 私はみすぼらしい今の自分の姿をちらりと見て、彼に向かって笑って見せた。


「どうも、してないわ」

 強がる私を彼はただ、悲しそうに見つめてくる。そして、彼は自分の鞄から大きめのタオルを取り出すと、私に差し出した。

 断る訳にもいかず、私は渋々そのタオルを受け取った。柔らかくて、優しい日なたのようなそれで、私は自分の長い黒髪を拭く。


 ぽんぽん、と私が髪を叩く音が放課後の廊下に響く。彼は、その様子を眺めて、そして口を開いた。

「……神川さん、僕と花火大会に一緒に行って欲しいんだけど」

「……花火大会って……八月二十日の大きなやつ?」

「……うん」

 どうして、何て野暮なことは聞かなかった。誰にだって、本心を知られずに行動したいときはあるのだから。


 私はただ、この突然のお誘いに、戸惑いつつも考えた。色々なことを考えて、そして、ひとつの結論を出した。

「……夜なら、空いているわ」

 それだけを彼に告げて、私はそのまま歩き出した。タオルは花火大会の時にでも返そう。そんなことを思いながら、これから続く、長く険しい、そして複雑な、道を、一歩一歩、進んでいく。

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