第23話 ライフワークに忍び寄る黒い影①
トラハナムグリと言う昆虫を御存知だろうか。
春の終わり頃から夏の中頃にかけて高山地帯で見る事の出来る美麗なハナムグリである。
ミツバチに
このトラハナムグリの生態は興味深く、通常のハナムグリなら市販されている三次発酵マットに
カリマンタンに棲息する虹色の光沢を持ち長い角のある美麗昆虫としても有名なテオドシア=ビリディアウラタ(カブトハナムグリ)と同じような産卵セットが必要なのだと言えば解っていただけるだろうか。
余計に解らなくなったと言わないでくれたまえ、私としてもこれ以上の説明が思いつかないのだ。カナブン程簡単だと逆に面白くもないが、この大きさでこうも手の掛かるハナムグリも珍しい。
更に高山系だけあり、夏に現れる癖に暑さに弱い。
暑さに弱いのなら冬にでも現れてくれれば、冬の昆虫採集という素晴らしいイベントになるのだが、そうすると花が咲いていないので彼等の餌である花粉が無い。
そもそもハナムグリとカナブンの違いは何かと言えば、カナブンが飛行機ならハナムグリはヘリコプターだと思ってもらえれば解りやすいだろう。カナブンやカブトムシ、クワガタ等は
飛翔する際、閉じたままの上翅をモコっと上に少し持ち上げ、その隙間から下翅を出す。上翅が開いていない分、空気抵抗が少ないので、カナブンよりも自由な動きで滑空できるのだ。
七月二十六日。(厳島教授が殺された翌日)
そのトラハナムグリの生態調査をする為に藤原地区の
昨日サンプルとして捕獲したキタツマフキ分裂体は時間を置くと拙いのでさっさと解剖を済ませてある。結果はやはり私の想像した通り中身がスカスカ状態であった。
外骨格も若干薄かったし臓器や各器官も未発達な状態であったところから推測するに、その状態から徐々に身体を作っていくのだろう。
一見合理的に見えるが、その状態で外敵に襲われればたまったものじゃないと思う。何か身を守る方法があるのだろうか。
話は変わるが、今の私は少し機嫌が悪い。
通年なら七月二十日までにはトラハナムグリの生態調査を始められたのに今年はスタンピードの調査やらなんだかんだとあってこの時期になってしまった。
昆虫世界の六日間は非常に大きく、逃がした魚は大きい感じがヒシヒシとする。何時もなら卵を持っているメス個体を捕獲出来るのだが今回は駄目だ。もうスッカスカのカラッカラだ。
トラハナムグリは小指の第一関節程の大きさしか無いので元々軽いのだが、今年は更に軽い。もうメスは産卵し終わっていて、オスも力尽きかけているのだろう。捕獲は出来たがどの個体もやや弱っている風だったので即リリース。
キタツマフキ事件さえ無ければこんな事にはならなかったのに。しかしだからと言って態々こんな山奥まで来て手ぶらで帰る気もしない。
「モッさん、白いエビがいるよ! ほら。ぴゅって動くね。ぴゅっぴゅっぴゅ」
「あー、沼エビの仲間じゃないかな。私は専門外だから解らないけど」
「モッさんモッさん! 白いザリガニもいるよ! 初めて見たよ!」
「あー、アルビノじゃなかな。専門外から正式名称は知らないけど稀に見かけるよ」
ボートを借りて湖上の人となっている私と貴子ちゃん。
何故こうなったのかは、彼女がボートに乗りたいと言い出したからだ。
私としても貴子ちゃんとボートに乗る行為は吝かでは無いし快く了解したのだが、思っていたよりも気分が盛り上がらないでいた。
この付近にはトラフコガネ等も生息しているので、そちらの方を探し廻りたかったと実は思っている。美しい女性の誘いよりも昆虫に気が向いてしまうのは私の少なくない欠点の一つなのだが、こればかりは一生治りそうもない。
そもそもエビやザリガニを見ても何ら興味が湧かないし、同じ水中にいる生き物ならタガメとは言わないがタイコウチくらい居て欲しい。この際ミズカマキリで妥協しても良い。
ああもう早く陸の上に戻りたいなと思いながらボートを漕いでいると、貴子ちゃんが水面に浮かぶ何かを見つけた。
「モッさん、あそこにキタツマフキが浮いてるよ。ほら!」
と言って指を挿してくれたのだが、私には何も見えない。
ここから距離にして三十メートル。何かが太陽光に反射している様には見えるが、それが何であるのかは識別出来ない。
皆さんは三十メートル離れた場所、それも太陽の光が反射する水面上の五センチ程度の物体を正確に見定められるだろうか?
私には無理だ。
貴子アイは一体どれだけ高性能なのだろう。
見た目は人間の目だが実は複眼なのではなかろうか。
取り敢えず、彼女が指差す方向に進んでみると確かにキタツマフキと思われる死骸が水面上に浮かんでいた。
この辺りも藤原地区なので地図上で見るとスタンピードの起こった北妻蕗村とはそう離れていない様に思えるが、藤原地区は広く、実際は物凄く離れている。
クワガタの飛翔距離は大凡百メートルから五百メートル、カブトムシで一キロ程と言われているが、ここから北妻蕗村までは最低でも二十キロ以上離れているのだ。
厳島教授によって造られたのだからこのキタツマフキの死骸は村周辺からここまで飛翔して来た事になる訳で。何十回にも分けて飛んだのなら有り得る話だが、常識としては考え難い。
これはキタツマフキの飛翔能力を検証した方が良いのかも知れないと思い当たったが、生粋の昆虫では無い合成生物の生態調査に、現在発生真っ只中である野外昆虫を調査するためのウェイトを割くなど以ての外である。
結論として、これは見なかった事にしようと思う。
翌日、テレビでキタツマフキの事をやっていた。しかも名称はチリークワガタだと紹介されて。
思う所はあるがキタツマフキという名称は私が命名しただけで、貴子ちゃんと真野さんと農大の加納くらいにしかその名称を使っていないので仕方の無い事だ。
北妻蕗村以外の場所でもポツポツとその奇抜な形の合成生物が発見されだしたらしく、インタビューに対して子供達は『みたことなーい!かっこいー!』と無邪気に燥いでいたが、村で業火に焼かれなかった生き残りの生息範囲が拡大している事を思うと私としては無邪気に燥げない。
昨日の
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