第6話 噂の速水君

茉莉花は朝に割と強い。

目覚まし時計の小さなデジタルアラーム音が鳴ると、一回で起きることができる。

しかし時折、目覚まし時計が鳴る前にすっきりと目が覚めることがある。

今朝はまさにその現象が起きた。前の晩特別早くに寝た覚えはないが、茉莉花は目覚まし時計が鳴るよりも少しだけ早くに目覚めたのだ。


「せっかくだからと思って早めに登校したけど、これは正解だったなぁ」


学校で咲いている満開の桜の木を見ながら茉莉花は呟いた。


すっきり目が覚めた茉莉花は二度寝することなく家を出た。

早くに学校に登校したためか、人影が見あたらない。

いつもならそこかしこから聞こえてくる生徒達のおはようという挨拶も、ドラマや漫画や宿題の話で盛り上がる声も、先生が生徒達に挨拶をする声も、運動部の朝練の掛け声も、何も聞こえてこない。

明るい日差しに校舎が照らされているのに、しんと静寂につつまれた学校は普段とは全く雰囲気が違う。

校内の桜並木とのコントラストも相まって、どこか異国の幻想的な教会のようにも感じられる。


こんな綺麗な景色を独り占めできるなんて、今日はいい日だ。


茉莉花は桜の木の下で深く息を吸った。

校舎に入る前に、今までなんだかんだとじっくり見ることができなかった学校の桜を、人がいない今のうちにゆっくり堪能したい。

歴史を感じさせるどっしりとした立派な幹から多くの枝が伸び、その枝々の先には桃色の花弁が咲き誇っている。さあっと風が吹くと、枝もさわさわと音を立て花弁を揺らした。

花びらはひらりひらりと柔らかな風にのって、あたりを舞っている。その桃色を手にしようと、茉莉花は手を上へ伸ばした。

しかし、空中を踊る花びらを捕まえることは中々難しい。

茉莉花は半ば意地になりながら、自身もふらふらとした足取りで花びらを追う。


「うわっ」

「いたっ」


前を見ていなかった茉莉花は誰かとぶつかった。

これは尻もちをつく、と想像し思わず目を閉じたと同時に強い力で腕を引っ張られ顔を何かにぶつけてしまった。

ふわりとシトラスの香りを感じながらおそるおそる目を開けると、目の前には黒髪の男子生徒がいた。耳にピアスをし、目つきは鋭く眉間には皺が刻まれている。

その顔に茉莉花は何故かデジャブを感じた。


「危ねぇな、気をつけろよ」


そう言うと、男子生徒は掴んでいた茉莉花の腕を離した。


「ご、ごめんなさい。助けてくれてありがとう」

「お前、入学式の時といい、いい加減にしろ」

「入学式…。あっ、もしかしてあの時保健室まで運んでくれた人?ごめんなさい、迷惑ばかりかけてしまって。あの時聞きそびれてしまったんだけど、あなた名前は?私は宮本茉莉花」


入学式では気絶する寸前に隣にいた生徒に勝手に倒れていったため、保健室まで運んでくれた生徒が誰だかわからなかったのだが、こんなところで再会するとは。


迷惑をかけるのが二度目になることに申し訳なく思った茉莉花は眉をさげて彼の様子をうかがった。

男子生徒は相変わらず眉間に皺を寄せている。


「…速水慶吾」


ぼそりと名乗ると、彼は茉莉花の言葉も待たずに足早に校舎へと向かっていった。


「速水、慶吾って…」


彼の名前を聞いて、茉莉花は先ほど感じたデジャブの正体を理解した。


速水慶吾。彼はヒロインに長年恋心を抱いている幼馴染である。

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