一枚の絵
今居一彦
風の夜の来客
とある街の一角。駅からそれほど遠くはないが、あえて目立たないようにしているかのように、路地裏にひっそりと佇む一軒のパブがある。私は仕事帰りに偶然この店を見つけ、最初に入ったその日からすぐに気に入り、暇さえあれば顔を出すようになった。特に平日の前半は客の入りも少なく、静かに落ち着いてビールを飲みながら、気さくな店主の選曲したオルタナティブなBGMに耳を傾け、好きな本や雑誌に目を通し、時々煙草を吹かすのが、私にとっては何よりも有意義な時間だった。もとより無口な私は、店主とも他の常連客ともあまり言葉を多く交わすわけではないが、個性豊かな常連客の振る舞いを眺めながら、お互いいつもそこに居るという暗黙の了解があるような気がして、とても心地よかった。
かれこれ一年くらい経ったある日。店主と私の他には店に誰もいない閑散とした夜のことだった。いつものようにカウンターの片隅に座りビールを飲んでいると、季節はずれの強い風に煽られるかのように、一人の男が店に舞い込んできた。コートの襟を立て、風に飛ばされないようにするためか、帽子を深々とかぶり手でしっかりと押さえていた。男は勢いよく入ったのが何かの間違いだったかのような表情をにわかに浮かべたものの、静かに一通り店の中を見回すと、おもむろに私の近くのカウンター席まで来て立ち止まった。
「いらっしゃい。一人ですか?」
店主は新しい客に親しみを込めて歓迎の挨拶をした。男はそれに応えたとも応えていないともいえない素振りで、カウンター越しにビールサーバーやワインクーラーを眺めていた。まるで生まれて初めて見る景色に、好奇心を無理やり押し殺すかのように、ただ黙って立っていた。
「何か飲みますか?帽子やコートは向こうのハンガーにかけていいですよ?」
店主は少し間の取りにくさを感じながらも、相手の様子を見ながら丁寧に案内した。男は斜め後ろに振り向いてハンガーの位置を確認したが、まったく興味はないと言わんばかりに、帽子をさらに深く押さえると、そのままカウンターの席にゆっくり腰を下ろした。
「ドラフトビールを一つ」
男の声は明瞭で聞きやすかったが、微妙なタイミングだったせいか、店主には音としては聞こえていても理解をするまで少し時間がかかった。
「は、はい。ビールですね」
店主は一応確認した上で、棚に並んだパイントグラスを手に取ると、ビールをつぎながら私の方に目をやり、何かバツの悪そうな顔をした。私は読みかけていた本を閉じ、テーブルに伏せてから、わずかに残っていたビールを飲み干した。
男は注文したビールを受け取るとコートのポケットから裸銭を出して支払い、一口飲んでから小さく息を吐いた。私は赤ワインを追加で注文した。それから煙草に火をつけようとしたが、ふと手を止め「あ、煙草を吸ってもいいですか?」と男に話しかけた。普段自分から人に話しかけることもあまりないのだが、不思議と気がつけば自然に言葉がこみ上げてきた。ビールグラスの底から浮き上がる炭酸の小さな泡に見入るように視線を落としていた男は、顔を上げて私の方を向き「どうぞ」と穏やかに答えた。
この時初めて男を間近でよく見ることができたのだが、歳は三十代後半から四十代前半くらいだろうか、髭は丁寧に剃られていて、コートしか分からないが小綺麗な身なりをしている。印象的なのは深くかぶった中折れ帽で、最近ではあまり目にしないスタイルだが、この男にはごく自然に馴染んでいるように思えた。
私は一言「どうも」と返事をして煙草に火をつけ、煙を眺めながら次の言葉を探した。しかし「あなたはだれですか?」という朴訥なセリフ以外に発想するセンスがなく、思考は停止したままただなんとなく不自然な愛想笑いを浮かべているだけだった。店主も普段であれば新しい客には積極的に話しかけるのだが、今回に限ってはしばらく様子をみようとしているのか、あるいは珍しくどう接すればいいのか迷っているのか、店の奥で仕事をしたまますぐにはカウンターに姿を現さなかった。この男は、良くも悪くも、どことなく周囲の人間が遠慮してしまう雰囲気を漂わせていた。
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