28皿目 木枯らし。

 木々の葉に隙間が目立ちはじめ、道ばたに落ち葉が溜まりはじめた頃、朝食の後片付けをしていた妻が、唐突に手を止めて話を切り出した。

「8〜9千円もするのよね〜」

 主語がないのは妻の癖だ。それでも私がわかると思っているのだろう。こんな風に遠回しな言い方をする時は、大体において、妻の腹はすでに決まっているのだ。

「何が?」私は正直に尋ねた。

「あのね、太郎に新しいコートを買ってやろうと思うんだけど・・・」主語が出てきた。

「高くない?」

「プーマとかナイキとか、カッコイイのがいいかなと思って・・・」

 太郎がサッカーチームに入ってから、スポーツブランドの衣類や小物を買うようになった。妻はチームメイトが着ているような、洒落たものを着せたいのだ。

「なにもスポブラじゃなくても、見た目スポーティーならいいんじゃないの?」

「そういうのなら3〜4千円ぐらいであるんだけど・・・」

「機能に大して違いはないだろう?」

「でも、かっこいいのよねぇ・・・」

 この秋、妻が町内会の運動会に出場するのでジャージを買いに行った時の事を思い出した。大型スポーツ用品店で、ナイキやプーマのコーナーで値札を見ては、ため息をつき、ノーブランドのコーナーではデザインが気に入らず、何度も往復して、ようやく、ワゴンセールの中から妥協できる価格のナイキを見つけ出した。妻は自分の物には、高価なものを買おうとはしないのに、人の物を買う時には、値段をあまり気にしようとはしない。先日も、ショッピングセンターの紳士服売り場で、私がダウンジャケットを選んでいると、妻はしきりに高い方を勧めた。今年の春に10年以上愛用していたピーコートを捨てたので、寒くなる前に代わりのものを買う必要があったのだ。妻が勧めるのは2万円以上もする高価なもので、私は気が引けた。結局、購入したのは、定価が9800円で、セール価格7800円のジャケット。どちらかと言うと、安いほうが色や形が私の好みに合ったのだ。

 ダウンジャケットは私の人生の中では初めての買い物だった。着てみると、軽くて動きやすく、なによりも暖かいのが気に入った。後日、妻にも同じものを買うように勧めた程、私はその機能に大満足した。

 太郎のコートの話は、私に睡魔が襲ってきたところで、うやむやのまま終えた。

 夕方になり、妻が帰って来た頃に起き出して、出勤の準備を始めた。子供達はマンションの中庭に遊びに出ていた。私はすっかり気に入ったダウンジャケットを着て、この冬初めてのマフラーを首に巻いた。妻に見送られて玄関を出た。エレベーターに向かう。マンションの中庭から、子供達の遊び声が響く。明瞭な声が耳に届くのは、空気が乾燥している証拠だ。このモコモコ感たっぷりのジャケットは息が白くなる程寒さが増しても、身体にはちっとも堪えない。エレベーターを待つ間に吹き付ける、マンションのすきま風も気にならない。その時、誰かが、外階段を軽快なリズムで駆け上がって来る足音が聞こえた。

 タッタッタッタッタ!

 私はその足音の主が誰なのか確かめようと振り返った。

 タッタッタッタッタ!

 現れた。

「あっ!お父さん!!仕事?いってらっしゃい!」少年はそう言い放って、さらに階段を駆け上がる。

 タッタッタッタッタ!

 駆け去ったあとに小さな風が巻き起こった。

 「行って来るよ」私はそう答えながら、半ズボンにランニングシャツ姿の少年を見送った。

 エレベーターの扉が開き、正面にある鏡に映った自分を見てつぶやいた。

「冬だよな?」

 予報通り、この日、木枯らし1号が吹いた。8〜9千円は必要ないと妻に言おう。

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