第一章:ヤムスの森の民

第一話

 その夜は、強い雨が降っていた。


 ヤムスの森の傍らにあるこの村は、街道からも逸れていて村人以外とは滅多に顔を合わせない。国境と、高くそびえる山を背後に、東には人が足を踏み入れることはできない禁忌の森。こんなところにひっそりと村があることを知っている人間のほうが少ないだろう。

「……ん?」

 ガルは遠くから聞こえた音に耳を澄ました。馬の嘶きだ。この村の馬ではない。

 村のはずれ、街道からこちらへ入り込んだあたりだろうか。雨音に掻き消されているが、ガルには確かに聞こえる。

「旅人にしちゃ変わった奴だな」

 こんな雨の夜に、こんな何もないところへ――と思ったところでまた嘶きが聞こえた。場所が変わっていない。まるで馬は助けを求めているようにも聞こえる。

 ガルは外套を羽織ると、玄関を開けた。夜の闇をよりいっそう深めるような強い雨は、少しも止む気配を見せない。

 ランプを片手に、雨の外へと駆け出した。

 夜の雨は瞬く間に体温も奪う。矢のように降る雨は痛みすら与え、ガルは白い息を吐き出しながらそれを見つけた。

 寄り添うように葦毛の馬が一頭。一本の木の根元に、ぐったりともたれているのは――


「……女の子?」


 旅装でもなんでもない、村娘となんら変わらない姿の少女が倒れていた。濃い灰色の髪はぺったりと白い頬に張り付いていて、顔は白いといっていいほどに血の気がない。この長雨で体温が奪われたのだ。

「おまえのご主人さまか」

 よほど懐いているのだろう。馬は少女から離れる気配を見せない。

 ガルは外套で少女を包んで抱き上げた。背格好は少女とたいして変わらぬものの、細い少女を抱えられないほどひ弱でもない。少女の身体は氷のようで、嫌な予感がしたが、細く息をしていたことにほっとする。

 ガルはそのまま、少しでも少女が雨に濡れないようにと身をかがめながら来た道を駆け戻った。







 アイザに、母親はいない。


 アイザを産んですぐに儚くなったと、父からは聞かされている。家にも母の面影を知るようなものはなかったし、ずっとアイザにとっての家族は父だけだったので別段母のことを知らなくても困ることはなかった。

 普通の家と違うことなど気にしたことはなかった。なぜなら父は魔法伯爵。この国でたった一人の魔法使いなのだ。普通であるはずがない。

 祖父母もいなかった。アイザにとっての家族は父一人だった。

 その父も、こんなに呆気なく病で死んでしまうなんて


「と……さ、ん」


 ぽとりと眦から落ちた涙が熱かった。その熱を感じ取って、アイザは目を覚ました。アイザの青い瞳が、見慣れない天井をとらえる。

(……ここ、どこだ……?)

 木で作られたベッドと家具、ぐるりと見回してみる限り、寝室のようだった。白いシーツからは太陽と森の香りがした。

 ベッドから足を下ろして立ち上がると、くらりと眩暈に襲われる。頭が強引に揺らされるような感覚に負けないようにと、ぐっと足に力を入れて、扉に手をかける。寝室を出るとすぐキッチンがあった。そこで真っ赤な髪の少年がことことと何かを作っていた。

(わたしと変わらないくらいの、男の子……?)

「もうすぐできるから、そこ座ってて」

 少年は振り返ることもなく、アイザに告げる。少年の短い赤い髪は、見たことないほど鮮やかだった。夕日の色にも、燃え盛る炎の色にも似ている。

 他に人気はない。ここにいるのはどうやら少年とアイザだけのようだった。

 木の椀に作っていたスープをよそい、少年はくるりと振り返った。立ったままのアイザを見て笑う。

「あんたまだ顔色悪いよ。さっさと食べて、もう少し休んだら?」

 人懐っこそうなその瞳は、金色だった。少年は籠に盛られたパンをテーブルにおいて、ほら、とアイザにも座るようにすすめてくる。つられるように座ると、ずい、とスープを押し付けられた。

「あ、ありがとう」

「あんた、村の近くで倒れてたんだよ。長く雨に打たれていたのか、すっかり身体が冷えててちょっとやばかった」

 また小さく、アイザはありがとう、答える。

 意識がなくなる直前の記憶と一致する。そこからこの少年に助けられたのだろう、とアイザは納得した。王都への街道から逸れたことはしっかり覚えているが、ここがどのあたりなのかは検討もつかなかった。

「村……? ここは」

 窓から覗く景色は、深い森の緑ばかりだ。アイザの知る景色とはいささか異なる。アイザの育った町からは森なんて見えなかった。

「ヤムスの森のそば。ちっさい村だよ」

 答えながら、スプーンを使わず椀に口をつけて少年はスープを飲む。

 ヤムスの森、と確かめるようにアイザは小さく呟いた。ヤムスの森を知らぬ者はいない。このルテティア王国の北に大きく広がる禁忌の森だ。アイザが通ろうとした街道の北に、その末端がある。そのそばにこんな村があったのか、と少々驚いている。地図にものらないほどの小さな村なのだろう。

 アイザはおずおずとスープを一口飲んで、温かく素朴な味にほっと息を吐いた。そんなアイザを見てにかっと笑いながら少年はパンを投げてよこした。

「俺はガル。そっちは?」

「わたしはアイザ。アイザ・ルイス」

 パンをしっかりと受け取りながら行儀が悪い、とアイザは眉を寄せた。

「アイザの馬、外にいるよ。倒れたアイザから離れなくて、俺が運んだあともついてきたんだ」

 正しくはアイザの父の馬だ。だが世話はいつもアイザがしていたので、よく懐いてくれている。

「荷物もそこ。濡れていたから勝手に見ちゃったけど、中身は無事だよ」

 ガルが指差した先に、アイザが掴んだカバンがあった。咄嗟に持ってきただけなので、中には財布か何かが入っているくらいだ。見られて困ることもない。

「なんであんなところで倒れてたのか、聞いてもいい?」

 アイザは旅装でもなかったし、荷物だって旅をしているようなものはない。普通に考えても異常だろう。

「王都に、向かう途中だったんだ」

 急いで、とアイザは付け加える。

「……王都に? ここ、街道から離れてるけど」

「わたしの父はリュース・ルイス。魔法伯爵だ。……父が先日亡くなって、本来爵位は返上されるものだけど……わたしが継げないかと、思って」

 ――そのために、女王陛下に会いに行こうと。

 このルテティア王国を治める麗しき女王陛下。すべて国民の母。公平なる女王陛下に、どうか国境騎士団からあの町を渡さないでほしいと、願うために。

「魔法伯爵……聞いたことある。そっか、亡くなったのか」

 訃報は瞬く間にあちこちへ広がっていったはずだが、この村には届かなかったのだろう。

「けど、突然家に国境騎士団がやってきて、わたしを連れて行こうとしたんだ。言っておくがやましいことなんて何もないし、悪さもしてない。そいつらに追われて、逃げているうちに」

 こっちに来たのか、とガルは納得してようだった。

(……まて、そういえば、わたしが倒れてからいったいどれだけ時間が経ってるんだ?)

「わたしはどのくらい寝て――」

「半日」

 昨日の夜にアイザはガルに助けられ、今まで――昼近くまで眠っていた。

「っ急いで王都に行かなければ」

 こうしているうちにも街道は国境騎士団に押さえられているかもしれない。王都へ行く道はその一本だけだ。

「アイザは王都に行きたいんだよな?」

 ガルの金色の瞳がきょとん、と丸く、アイザに問いかけてくる。

「え? ……ああ、だから」

 早く行かないと。助けてもらってろくに礼もできないのは心苦しいが、このままでは王都への道は阻まれる。


「なら、俺が連れてってやるよ」


 ちょっとそこまで、というくらい気軽な口ぶりで、ガルは告げた。

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