第六話

 アイザの故郷は、国境から少し離れたところにある小さな街だ。かつてはその小さな街が、魔法伯爵リュース・ルイスの領地であった。

 数ヶ月ぶりに帰ると、やはり懐かしいという気持ちが湧いてくる。

「……懐かしいな」

 思わず声に出ていただろうかと思うと、ルーが街を眺めながら目を細めている。

「ルーも懐かしいって思ってくれるんだ」

 ルーがこの地で過ごしたのはそう長い期間ではない。アイザが生まれ、物心つく前までしかいなかった。

「思うさ。赤子のおまえをあやしていた頃が、私が生きていた中で一番忙しい時だった」

 馬車が街はずれのアイザの家の前で止まる。

 家の前には青年が一人立っていた。

「レーリ!」

 馬車から降りると、アイザは真っ先にレーリのもとへ駆け寄った。

「家、軽く掃除しておきました」

「ありがとう」

 アイザがマギヴィルへ行っている間、家のことはタシアンに頼んでおいたのだ。人が住まなくなった家はすぐに朽ちてしまう。

 国境騎士団の団員が、時折風通しするためにアイザの家を訪ねていたのだろう。

「あなたの部屋と書斎は窓を開けるために入っただけですが」

「十分だよ。わたしの部屋はいいけど、書斎は迂闊に触ると本の山が崩れるから」

 書斎は、父が使っていた部屋だ。部屋の隅にあるベッドで寝起きしていたのだが、ベッドの存在がわからなくなるほど本が積まれている。

 アイザの部屋はきっと、女の子の部屋だからとあれこれ触らないように気を遣ってくれたのだろう。触れられて困るようなものは出していないし、気にしなくていいのに、とアイザは笑う。

「アイザ!?」

 名を呼ばれて、アイザは振り返った。

 濃い灰色の髪が風に揺れる。

「おまえ、どこ行ってたんだよ!?」

 やってきたのは、こげ茶の髪の少年だった。

「クルト」

 アイザは目を丸くして少年の名を呼ぶ。年はアイザと同じくらい、活発そうな顔をしている。

「なんか全然家にいねぇし、たまに国境騎士団が来ていたみたいだし、しかもふらっと帰って来てるし、おまえ何やったんだよ」

 クルトの気安い態度に、真っ先に反応したのはガルだった。

 アイザとクルトの間に割って入り、アイザを背に守るようにして立つ。レーリは涼しい顔のまま、タシアンは笑いをこらえているようにも見えた。

「アイザ、これなに」

「は? こいつ誰?」

 剣呑な雰囲気の二人に、アイザは気づいた様子がない。

「こっちはガル。わたしの友達」

 とりあえず近くにいるほうを、とクルトに紹介する。しかし二人は睨み合ったままだ。

「それで、彼はクルト。えーと……近所の人……?」

 なんと言えばいいだろうかと迷った末、アイザの口から出て来たのは『近所の人』なんてものだったので、クルトはがっくりと肩を落とした。

「なんでこいつが友達扱いで俺は近所の人なんだよ! 幼馴染だろ!?」

「幼馴染といえるほど交流はなかったと思うけど……」

 アイザもその父も、近所付き合いは必要最低限の範囲でしかやってこなかった。確かにクルトはそのなかでも口うるさくアイザにかまってきた人ではあるが、アイザの基準のなかで彼は友人にもならない。

「そっちがタシアンとレーリ」

 そこでようやく、タシアンやレーリの存在に気づいたのだろう。国境騎士団の制服を着たままのレーリに、クルトはぎょっとした。

「な、なんで」

 国境騎士団の奴が、と声に出さなかったのは賢い。

「タシアンが国境騎士団の団長だから。イアラン殿下の計らいで彼がわたしの後見人をしてくれてるんだ」

「お、おま、いつの間にそんなことになってんだよ!」

 驚くクルトに、アイザもなんと答えるべきか分からず苦笑した。アイザだって、まさか国境騎士団の団長が自分の後見人になるなんて思わなかった。

「普通の女の子と変わらないように見えるが、彼女はこれでも伯爵令嬢だ。ましてルテティアにおいて最後の魔法使いと呼ばれたリュース・ルイスの娘。国として保護するのは当然だろう?」

 タシアンがすらすらと用意していたかのように答える。

クルトは拳を握り締めながら、誰を睨むわけでもなく、けれど何かに相対するように叫んだ。

「魔法って、魔法使いなんて……! なんにもできないじゃないか!」

 クルトの発言に、アイザはむっと唇を引き結ぶ。

 彼は昔からそうだ。魔法使いとは名ばかりだと研究に没頭するアイザの父を馬鹿にしていたし、魔法なんて欠片も信じていなかった。

 魔法は世界を愛する力だ。アイザがそう何度訴えても、鼻で笑うばかりで。

「ルーヴェ・ルーフェン」

 アイザはルーの名前を呟いた。しかしその名は誰の耳にも届かない。ただ姿を消していたルーの耳を震わせるだけだ。

「遠慮はいらない、本来の姿を見せて」

 ルーは呆れたようにため息を零したあとで、ふるりと身体を震わせた。風がルーの身体を包み込んだと思うと、彼は常人にも姿が見えるようになる。

 体高はアイザの身長ほど。人などその大きな前脚で踏み潰してしまえるだろう。

 普段ルーがとっている大きさは、あくまで人と暮らしやすいようにしているだけだ。

「う、うわああああああ!?」

 クルトは突如現れた大きな、大きすぎる狼に悲鳴をあげて逃げ出した。

「モニカのところのイタズラ小僧め」

 ふん、とルーは鼻を鳴らして、普段の大きさへと変わる。モニカというのはクルトの母親の名だ。アイザを気にかけてくれていた人でもある。

「……覚えていたんだ」

「よくアイザをからかって追いかけ回していた」

 そういえばそうだったかもしれない、とアイザは苦笑する。

「魔法使うのかと思った」

 意外そうにガルが呟いて、タシアンやレーリも似たような顔をしていた。

(そんなにわたしは考えなしに見えるのかな……)

「こんなことのために使ったりしないよ。クルトには魔法みたいに見えただろうけどな」

 ルテティアにいる間、魔法は必要なときにしか使わない。できれば一切使わない。それはルーと約束している。

 光水晶に貯めた魔力があるとはいえ、用心したほうがいいに決まっている。

 突如現れた大きな狼は、魔法で出したと見えても不思議ではないだろう。

「……どうする? まだ昼過ぎだが、今日はここで一泊するか?」

 ノルダインからのルテティアの王都までの道中、アイザの故郷は通り道だ。なので立ち寄ることは初めから決まっていた。

 タシアンはアイザに気遣ってゆっくり家で休む時間をくれようとしているのだろう。

「いや、いいよ。王都まで急ぐんだし、帰りにも立ち寄ることはできるから」

「……本当にいいのか?」

「父さんの蔵書でいくつか持っていきたいのがあるんだけど、帰りで十分だし……別に挨拶する人もいないし」

 むしろ王都でお世話になったタニアやダンに会うほうが楽しみだ。

 そしてふと気づいた。ガルの村は王都へ向かう道から逸れている。立ち寄るくらいならできるだろうが、ガルは何も言わなかった。

「ガルの村には? 行く?」

 今から出立して、いっそ村で一泊してもいい。

「え? いいよ別に。たぶんイスラおばさんにもっとこまめに手紙よこせとか怒られそうだし」

「……帰りには寄るからな」

 ガルのことだ、手紙なんて一通も出していないかもしれない。それはイスラだって心配するに決まっている。

 それなら行くか、とタシアンが馬車の手綱を握る。ここからはレーリも一緒だ。


 遠ざかる故郷を見つめながら、アイザは膝を抱えた。

 レーリはタシアンと一緒に御者台に座っているので、馬車のなかは相変わらずアイザとガル、そしてルーがいるだけだ。

「……アイザ? どうかした?」

 こういうとき、ガルにはすぐ気づかれてしまう。どうしてだろう、と苦笑しながらアイザは「なんでもないよ」と答えた。

「なんでもないって顔してない」

 伸びてきたガルの手が、アイザの頬をつねる。

「いひゃい」

「痛くしてないよ」

 ぐにぐにと頬をつねられているが、ガルの言うとおり痛みはほぼない。

 それでもやめろ、と手振りで示すと、ガルはあっけなく手を離した。

 けれどガルの金の目が追究するようにアイザを見てくるので、アイザは大人しく降参した。

「……わたし、最初は街のために王都を目指したんだけど」

「うん」

「でも街を離れてみて、わかったんだよな」

 故郷を発つまで、アイザの世界はあの街ひとつだった。それが、今は随分大きくなったと思う。

「なにが?」

「わたしは、別に街を守りたかったわけじゃないんだ。そこまで、愛着あるわけでもない」

 久々に戻った街を見て、確かに懐かしいと思ったけれど、それだけだ。

 あの時アイザを突き動かしていた衝動は、街のためなんかじゃなかった。

「わたしはただ、父さんの跡を継ぐ理由が欲しくて、街の為になんて理由を掲げただけだったんだよな」

 言葉にすると、それはなんて利己的な行動だろう。

 そしてそのことに、今まで自分自身でさえ気づいていなかったことが恥ずかしい。

「理由はどうであれ、あのとき動いたのはアイザだけだろ」

 ガルがまっすぐにアイザを見つめて、手を伸ばしてくる。また頬をつねる気だろうか、とアイザが身構えたが、ガルの手はアイザの頬を包んだだけだった。

「だから、そんな顔しなくていいよ」

 あたたかな両手が、アイザの見えない涙を拭うように頬を撫でる。

 いつだって、そうやって、ガルはいとも簡単にアイザの不安を吹き払う。うずまいていた、自己嫌悪の波が凪いでいく。アイザはただ、ガルを見て涙を堪えていた。


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