第三話

 結局、ガルはついていかない、ということでしぶしぶと納得したようだった。あのときの答えを見つけかねているガルは、時々考え込むような顔をするようになったが、そもそも彼に暇な時間はない。試験は目前なのだ。


「いいかシルフィ。ママに何かあったらすぐ俺に知らせに来るんだぞ」

「うん! わかった!」

 自分がついていけないからと、ガルはシルフィに何度も言い聞かせている。その様子にアイザは深いため息を吐き出した。

(ママっておまえが言うなよ……)

 シルフィがいつまで経ってもママパパと呼んでいる原因を目の当たりにした気分だった。本人たちに悪気がまったくないのがまた始末に悪い。

 いつまでも寮の玄関から動かずにいるわけにはいかない。生徒は部屋に籠って試験勉強しているのだろう。いつもの休日より談話室や玄関ホールに生徒の姿が見えなかった。

「ガルこそ、ちゃんとケインから借りたノートをしっかり書き写して勉強してろよ」

「へ? ……うん」

 すっかり忘れていた、という顔のガルにアイザは再びため息を吐いた。

「……終わってなかったら、試験までしっかり勉強するようにルーを監視につけるからな」

「げ」

 ルーもそれはごめんだと言いたげにアイザを見上げたが、アイザは気づかないふりをした。アイザでは四六時中監視はできないし、シルフィでは一緒に遊び始めてしまう。ルーが適任なのだ。ガルもルーでは誤魔化せないし言いくるめることができないのがわかっているのだろう。苦虫を噛み潰したような顔をしている。

 その様子にクリスが見かねて口を開いた。ガルのせいで出立が遅れているのもクリスを苛立たせている要因のひとつなのだろう。被っている猫が取れかけていた。

「だいたい、ほんの数時間アイザと離れるのが嫌だって喚いているくせに、補習になったらそれどころじゃないの。馬鹿だからわかってないの?」

 周囲の目があるから完全に素の口調ではないにせよ、喧嘩腰になっている。クリスの作り上げた『クリスティーナ』はそんなことはしないはずだ。

「わかってるよ!」

 牙を剥きだすように言い返すガルに、アイザは呆れ果てる。クリスとガルが言い争い始めるとそれこそあと十分は出発できなくなるので止めたほうがいいだろう。

(わかっていたらもう少し勉強したらいいのに……まさか)

「おまえ、補習になってもサボればいい――とか、考えてないよな……?」

 ぎくり、とガルが図星をつかれた顔をして、すぅっと凪いだ水面のようにアイザの顔から表情が消えた。

「ルー」

「……結局こうなるのか」

 ルーはしぶしぶといった様子でアイザの足元からガルのもとへ移動する。言葉にする前に伝わっているあたりがさすがと言うべきだろうか。ガルはきょとんとしていた。

「ガルがしっかり勉強するよう見張っていてくれ」

 アイザの告げた死刑宣告に、ガルは「え」と硬直する。

「いらない。何それいらない」

「おまえに、拒否権は、ない」

 ぶんぶんと首を横に振るガルにアイザはぴしゃりと言い放つ。低いアイザの声にガルも怒らせた自覚はあるのだろう。それ以上拒絶の態度を出すわけにはいかなかった。

「何かあれば呼びなさい、すぐに行く」

 ルーが尻尾をぱたぱたと振りながらアイザに告げる。相変わらず心配性な親代わりにアイザは強張った表情を緩めて苦笑した。

「一応今日はあたしらがちゃあんとついてるし、心配いらないよー。精霊さまには敵わないけどね」

「そろそろ行かないと」

 今日はしっかりと護衛役を務めているニーリーとナシオンが急かし始めたので、アイザは最後にガルに念を押しておく。

「勉強しろよ」

「うげぇ……」

 キッと強く睨みつけるとガルは叱られた子犬のような顔になったが、反省の色はあまり見られない。心底嫌そうな顔のガルにアイザは寮をあとにした。





 王城へ向かう手段は前回帰ってきたときと同じく、地下水路だった。クリス曰く他にも手段はあるがここが一番安全で一番楽らしい。

「他にも行く方法はあるんだ……?」

 地下水路を抜けて古びた庭園に出たときにぽつりとアイザが呟くと、クリスは無表情で振り返った。

「教えてやらんこともないが、知ったらおまえは面倒事に巻き込まれる確率が増えるぞ」

「知りたいとは言っていない」

 首を横に振りながら否定するアイザにクリスは「だろうな」と笑った。以前通ったときには満開だった木香薔薇モッコウバラもすっかり花が落ちてしまっている。華やいでいたそれがなくなっただけで、なんとも寂しい雰囲気になっていた。

(なんだかかなしいな……)

 王城の片隅、忘れ去られたこの場所は、まるで捨て去られた恋の行く末のようだった。


「久しぶりね、アイザ」

 にっこりと純粋に再会を喜ぶミシェルに、アイザは少しほっとしながら微笑み返した。部屋には既にティーポットとティーカップが用意され、テーブルの上にはたくさんのお菓子が並んでいる。

 クリスは何も言わずにソファに腰を下ろした。あら、とミシェルが意外そうに目を丸くして口を開く。

「クリスもここに残るの? 女の子同士のお茶会のつもりだったのに」

「こいつから目を離すとうるさい馬鹿がいるんだよ」

 もしかしなくてもガルのことだろう、とアイザは苦笑した。シルフィはガルの言いつけ通りアイザのそばにいるが、暇なのか眠そうにしているばかりでガルの期待通りの働きをするかは怪しい。

「まぁ私は気にしないけど。アイザもいいかしら?」

「え、はい。もちろんかまいませんけど」

(むしろクリスはいるものだと思っていたし……)

 ミシェルにわざわざ確認されて、アイザも頷いた。クリスの隣に腰を下ろしながら律儀な姉弟の姿を観察する。ずっと父親だけだったので、きょうだいというものはよくわからないが、クリスとミシェルは容姿もだが中身もけっこう似ている――と思う。

 我が物顔でクッキーをつまみながらクリスはニーリーとナシオンを振り返り見た。

「おまえらはマーサに挨拶でもしてこい」

 ようするに出て行け、という指示にニーリーはテーブルに並べられたたくさんのお菓子を見て声を上げた。

「ええ!? ちょっとあたしだってお菓子食べたいんだけど!」

「いやいや姉さん、空気読もう……」

 姉さんがいると落ち着いて話もできないから、とナシオンが宥めながら連れ出した。その様子にクリスは肩をすくめている。

「……マーサって?」

「あいつらの母親で、俺の乳母」

 まだ城で働いているからな、と答えたクリスになるほどとアイザは納得する。学園にいるから親にもなかなか会えないし、一応護衛としてここについてきた以上、クリスの許可がなければ離れることはできない。

(会いに行く理由をつくってあげたのかな)

 横暴そうな振る舞いのように見えて、クリスの気遣いは細やかだ。

「帰るときにはニーリーにはお菓子を持たせなきゃダメね」

 くすくすと笑うミシェルと呆れたようなクリスの顔に、おそらくいつものことなんだなとアイザは察する。

「ごめんね、試験間近に。大丈夫だった?」

「試験勉強はこまめにしているので平気です」

 日頃から予習復習はしっかりしているアイザは、試験前といってもそう詰め込まなければならないような事態にはならない。ガルとは違って。

「ええと……あの、ミシェルさんはわたしがタシアンの異父妹だって知っていたんですか?」

 先にアイザが口を開くと、ミシェルは目を丸くした。

「あれ? タシアンは教えていないってレーリが言っていたけど?」

 どうして知っているの? と不思議そうにミシェルが首を傾げる。ちらり、と素知らぬ顔をしたクリスを見たあとでアイザはおずおずと口を開いた。

「……クリスが」

 ぽろっと零しました、とまでは言えなかったが、ミシェルにはしっかり伝わったらしい。

「……クリス?」

 笑顔のまま声がわずかに低くなったミシェルに、クリスは動じる様子もなくけろりとした顔で答えた。

「知らないなんて思わなかったんだからしかたないだろ」

「まぁ……隠してるタシアンが馬鹿なんだけど」

 自業自得ね、とミシェルは言い切った。

「マギヴィルではルテティアの元王子ってことよりもタシアン・クロウとしての印象のほうが強いから大丈夫だと踏んだんでしょうけど。詰めが甘いというか」

(確かにタシアンの話題は王子だったってことより武勇伝のほうが多かったけど……)

 マギヴィルにやってきてからこれまでアイザが知らないままだったのも、タシアンの計算通りだったわけだ。唯一、クリスというルームメイトを除いては。

「……タシアンの妹だからこんなに気にかけてくださるんですか?」

 卑屈になりすぎている問いだろうか。けれどアイザには、ミシェルがアイザに興味を持ち、こうして幾度も話す機会を持つ理由などそれくらいしか思いつかなかった。

 しかしミシェルはアイザの言葉を咀嚼するように幾度が瞬きをしたあとで、ぶは、と笑った。

「やだ、私はそこまで打算的じゃないわ。確かに興味を持ったのはそれがきっかけだけど、今はあなたと友だちになれたらって思っているもの」

 あはは、とよほどアイザの問いが予想外だったのだろう。目尻に涙を浮かべて笑うミシェルの姿に、アイザも肩から力が抜けた。

「この間は、話が中途半端になっちゃったなと思って気になっていたの。ついアイザにいろいろ話しちゃって、悩ませちゃったかなって」

「それはもちろん、いろいろ考えましたけど」

 考えないはずがない。アイザはそこまで無関心になれないし、非情にも冷静にもなれない。

 恋に夢は持てなくても、それでも、恋をする少女を応援してあげたいと思うくらいには、年頃の少女となんら変わりないのだ。

「ごめんなさいね、そんなつもりじゃなかったんだけど――それに、たぶんまた驚かせると思う」

「え?」

 これ以上に驚くことなどあるのだろうか、とアイザは警戒しながらも紅茶を一口飲んだ。香り高い紅茶は学園の寮ではとても味わえない。隣のクリスはあくまで同席しているだけで、会話に混ざるつもりはないらしい。お菓子をつまみながらただ耳を傾けている。


「この間言っていた縁談相手ね、イアラン殿下なの」


「ゴホッ」

 噎せた。

「え、は? え……? で、殿下……?」

 空耳だろうかとアイザはミシェルを見て繰り返したが、ミシェルは訂正するどころかしっかりと頷いた。落とされた爆弾が大きすぎてアイザの頭では理解が追いつかない。

(他にイアランって名前の人っているかないたとしても王太子ではないよな、まさかそんな馬鹿な話はない――ってことはあの殿下……?)

 ぐるぐると考えながらも手に持っていたティーカップはテーブルに戻した。

「うちとしてはイアラン殿下が即位されたあとはさらに繋がりを強くしたいみたいだし、そうなると年も同じ私は適任なのよね。このままだともしかしたら、あなたの義姉になるかも」

 他人事のように話すミシェルに、アイザのほうが困惑する。心臓はばくばくと鳴り続けたまま落ち着く様子はなく、唇は震えて言葉がうまく紡げなくなった。

「そ、それでいいんですか!?」

 思わず声を荒げてから、アイザはしまったと硬直した。何も考えていなかった。考える前に、声が出ていた。当事者ではないアイザに、口を出す権利はないと頭ではわかっているのに、止まらなかった。

(だって、そんな)

 イアランと結婚したならば、ルテティアで暮らすことになる。あの、王城に。

 タシアンはイアランにとって欠くことのできない信頼できる存在だ。おそらくこれからどんどん重用されるだろうし、そうなればミシェルと顔を合わせることは多くなるはずだ。

(好きでもない人と結婚して、好きだった人のそばにいる、なんて)

「……そんなの、つらいだけでしょう……」

 泣き出しそうな顔でアイザが零すと、ミシェルは困ったように微笑んだ。何もかも諦めたような顔だ。その表情に、アイザは女王の影を見た。

 ――しかたないのだ、と。

 そう声なく告げるミシェルに、アイザは唇を噛む。

「わたしは、タシアンにも殿下にもしあわせになってほしい。あなたにだって、そんな顔してほしくない」

 このままミシェルの言うとおりイアランとミシェルが結婚したとして、果たしてその先は幸福と呼べる未来になり得るのだろうか。アイザには、とてもそうは思えなかった。心を偽って、心を封じて、そうして生きていく未来が幸福であるはずがない。

 幸福ではなかったから、ヤムスの森は燃えた。


 信じたい。信じさせてほしい。幸福な恋が、あるのだと。

 独りよがりな、願いだとしても。


 ミシェルは何も言ってはくれなかった。その目を見ることもできなくて、アイザはただ自分の手元へと目を落とした。指先がわずかに震えているのが見える。怖いのか、怖かったのか。自分でもわからなかった。

(自分の気持ちを包み隠さず話すって、怖いんだな)

 いつも気持ちを押し殺していたのは、アイザ自身だ。誰かに話す必要なんてなかった。ずっと、父と自分だけの世界で生きてきて、父には我儘なんて言ったことはなかったから。

「経験もないくせに、まるで知っているみたいに話すんだな」

 苦笑交じりのクリスの声に、まったくだとアイザは自嘲した。

 けれど、アイザは震える両手をぎゅっと握りしめて、口を開いた。顔をあげられないまま、ひとりの女性を思い出す。

 ――虹が見たいわ、と彼女は言った。

 まるで、恋する少女のように。

「恋は、知らないけど」


 でも、とアイザは零した。


「……恋したことで狂い果てた人なら、知っている」



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