第三話

 ふわふわの毛並みを夢現に撫でながら、アイザは目蓋越しに感じる朝日に目を覚ました。

「古今東西探しても、それだけ高位の精霊を枕にするのはおまえくらいじゃないか」

 呆れたような声が覚醒を拒む耳に届き、アイザはゆっくりと起き上がる。目をこすりながら見ると、クリスはもうすっかり着替え終わっていた。首元まで隠すフリルのブラウスに、魔法科を示す紺色の制服を身に纏っている。

「小さい頃の癖で、つい……」

 ルーも気にした様子もなくベッドにあがって自ら枕になっていたので、何も考えていなかった。

 ふわ、と欠伸を噛み殺しながら洗面所に向かい顔を洗い歯を磨く。戻るとクリスは髪を編もうと悪戦苦闘していた。癖っ毛で編みにくそうだ。アイザは不器用であることを自覚しているので髪を綺麗に編もうなんて考えない。

 それにしても、とクリスは笑う。

「精霊を連れていれば表立って嫌がらせするような人間はいなくなるだろうが、今以上に注目されるぞ」

「今更だろ」

 どうせ嫌でも注目は集めていた。その要因が増えたところで問題ではない。

 きっぱりと答えるアイザに「まぁそうだな」と同意してクリスは櫛を持ったまま立ち上がった。

「洗面所、使うぞ」

「ああ……うん」

 こうしていると本当に女の子を相手にしているようなのだが、と思いつつアイザは着替え始めた。おそらくクリスは髪を編むために洗面所に行ったふりをしながら、気を遣ってくれたのだろう。衝立があるとはいえ確かに異性の前で生着替えは抵抗がある。

 紺色の制服を着込むと、昨日あまりにもいろいろなことがありすぎてちゃんと眠ったはずなのにどっと疲れが出る。

「アイザ、寝癖があるぞ」

 そう言いながらルーが櫛を咥えて差し出すので「ありがとう」と笑いつつ、こんなことさせていると知ったら卒倒する人が出そうだ、とも思った。させているというより、ルーが自分からアイザの世話を焼いているのだが他人の目にはそうは映らないかもしれない。

 長い濃い灰色の髪に櫛をとおす。針金のように真っ直ぐなその髪はたいてい櫛をとおすだけで寝癖はなおる。クリスのようなふわふわの髪に憧れたこともあったが、頑固なこの髪も寝癖が簡単になおる点だけは楽で気に入っている。

(ああいう髪は、わたしに似合いそうにないしなぁ)

 昨夜は結局、セリカからもらったマフィンとニーリーがくれたクッキーしか食べていない。くぅ、といつもより早めに空腹を訴えてきた腹を押さえながら時計を確認すると、そろそろ食堂が開く時間だ。

(――わたしでこれなら、ガルならなおさらだよな)

 ガルのことだ、我慢できなくて早くも食堂が開くのを待っているかもしれない。けれど律儀にアイザが来るまで待つのだろう。

 昨日夕飯抜きになったのはアイザが原因なのだし、待たせては悪いとアイザは手早く準備して立ち上がった。

「クリス、わたしはもう行くから」

 洗面所で髪を結っているクリスに声をかけるとアイザはぱたぱたと足早に部屋を出た。

「は? おい――」

 背後からクリスの声が聞こえたが、アイザは足を止めなかった。



 約束しているわけでなくても待っているのがガルだ。彼がアイザと過ごす時間を減らすつもりはないらしい、というのは昨日言い争ったことでもある。

「アイザ!」

 急いで女子寮の扉を抜けると、やはりガルはアイザを待っていた。いつもより早い時間は、深緑色の制服が多い。武術科は朝に自主的に練習する者が多いらしく、それ故に魔法科の生徒より早起きだ。

「おはよう。昨日、夜大丈夫だったか?」

「夜?」

 首を傾げるガルに、アイザは苦笑しながら「晩ご飯」と答えた。

「マフィンひとつじゃ足りなかっただろ」

「ああ、ヒューとケインから非常食奪ったから。男子寮だとわりと菓子とか溜め込んでる奴多いし」

 もらった、ではなく奪った、と言ったような気がするのだが、叱っておくべきなのか否か……あとで二人に聞いておこう。

「でもやっぱ腹減ってさ。それで目が覚めた」

「――だと思った」

 ふ、アイザが笑みを零したときだった。

「アーイーザ!」

 ふわりと甘い香りがして、なんだと思ったときには美少女がアイザの左腕に抱きついていた。淡い金色の髪がゆるい三つ編みになって揺れていた。

「もう、置いていくことはないじゃない。もう少し待っててくれればすぐに支度できたのに」

(まて。これは誰だ)

 可愛らしく拗ねている美少女は、どこからどう見てもクリスなのだが、脳がクリスと認識しない。誰だ。声まで違うってどういうことだ。

「ク、クリス……?」

 確かめるように名前を呼ぶと、クリスはくすくすと花が綻ぶように笑った。

「どうしたのアイザ。まさかルームメイトの顔を忘れちゃったの?」

 信じがたいことに、やはりこの美少女はクリスらしい。

 ――おかしい。腕に絡みついてくる胸には女子らしい膨らみまで感じるんだが。何か詰めてるのか。

「……アイザ。それ、なに」

 混乱しているアイザの前で、ガルが低く問いかけてくる。金の目はまるで敵を見つけたように鋭く光っていた。ええと、とアイザが口を開く前にガルの顔は険しくなった。

「すっげぇ男臭――」

「ガル!」

 男、という単語が発せられて、反射的にガルの口を両手で塞ぐ。幸い、まだ食堂が開いていないこともあり生徒はちらほらとしかいない。

「おまえに話があるんだった! ちょっと向こうに行こうか!」

 片手で口を塞いだまま、アイザはずるずるとガルを連れて自習室へ向かう。肩を竦めたクリスを睨み「おまえもだ」と合図すればとことこと後をついてきた。



 朝の自習室はがらんとしている。夜遅くには魔法科の生徒で埋まっているが、今頃は誰もが朝の支度に忙しく自習室を使う人間がいないのだろう。

「――で、それなに」

 珍しくガルは不機嫌そうだ。人見知りもしない彼は初対面でもすぐに親しくなるのにも関わらず、クリスには威嚇するように睨み続けてる。

「アイザのルームメイトですけど?」

 にっこりと笑いながらクリスは答えた。まるで見せつけるようにまたアイザの左腕に抱きついてきている。

「そんなわけないだろ。なんでアイザのルームメイトが男なんだよ」

「あらやだ。貴方、目が悪いんですか? どこをどう見たら私が男に見えるっていうんです?」

 どうやらガルに正体を明かす気はないらしく、クリスは小首を傾げて否定する。ガルは「はぁ?」とますます眉間の皺を深めた。ガルがここまで怒っているというのは、アイザは初めて見る気がする。

「……気のせいかな。すごく火花が散ってるような」

「気のせいだと思うのならアイザは鈍感だな」

 アイザのそばを忠実についてきているルーの言葉に「……だよな」とため息を吐き出す。ルーは我関せずと言った顔で仲裁に入る気はさっぱりないらしい。

「見た目は女だけど、男だろおまえ。すっげぇ男臭い」

(……いやクリスからはいい匂いしかしないけど)

 ガルの言う『匂い』は、実際の匂いとは別だろう。獣人のガルが他の人間には気づかぬことに気づいたとしてもおかしくはない。

「お――男臭い!? それは武術科の汗臭い連中に使う言葉であって俺みたいな美少年にはふさわしくない!」

「クリス、言葉遣い戻ってるぞ」

 しかも美少年って言ってるし、とアイザは呆れながら注意するが、クリスの耳には聞こえていないかもしれない。

「やっぱ男じゃん! なんでおまえがアイザのルームメイトなんだよ!」

「知ったことか! 学長にでも聞いてみろ!」

(いやいやそんなくだらないこと学長先生に聞くなよ……)

 口に出してつっこめばいいのだろうか、とアイザは遠い目で天井を見上げた。アイザのことで言い争っているようなのに、その本人がすっかり蚊帳の外だ。

「クリスー。その子にも誤魔化しはきかないと思うよー。獣人だもんね、彼」

 くすくすと笑いながら自習室の扉からニーリーがひょっこりと顔を出した。そのあとに魔法科の制服を着た男子生徒が続く。誰だろう、とアイザが見つめると、視線に気づいたのかぺこりと会釈された。

「これはナシオン。あたしの弟」

 おはよ、とアイザに挨拶しながらニーリーが手を振る。

(弟……)

 つまりは彼もクリスの護衛と思っていいのだろう。黒く長い髪をひとつに束ねている。背が高くほっそりとした身体つきは魔法科と言われて納得できる。あまり筋肉のなさそうな身体つきは、とても武術科には見えない。

 クリスははぁ、とため息を吐き出して肩を落とした。

「――たった半日でこうもバレると自信がなくなるな」

「まぁまぁ。彼は規格外かな」

 ぽんぽんと慰めるようにクリスの肩を叩く。ガルは乱入してきた二人にも威嚇の態度を変えなかった。

「で?」

 普段は人懐っこいガルだが、苛立ちを露わにしていると獣のように険しい。珍しいな、と思いながらアイザはガルの顔を見つめた。

「クリスは確かに男だけど、事情があって女として学園に通ってるんだ」

 状況からして、男であることは認めてもいいのだろうとアイザが説明する。その方がガルの警戒心が和らぐだろうという計算もあった。

(今は腹が減って余計にイライラしてそうなんだよなぁ……)

「事情?」

 さらに深く問いかけてきたガルに、アイザは口籠る。話していいのか、と思いながらクリスを見ると諦めたように頷かれた。だが一抹の不安を感じてアイザはさらに念を押した。

「……迂闊にしゃべらないって約束できるなら説明してやる」

「絶対に秘密だっていうことならしゃべらないよ」

 きっぱりと答えるガルにそれでもアイザは不安になる。

「信用できるのかその馬鹿は」

「信用はできるけど、記憶力はアテにならないかもしれない……」

 そう、信じる信じないの問題ではなく、ガルが話してはいけないことだとぽろっと忘れてしまわないかが不安なのだ。

「さすがに俺、そこまで馬鹿じゃないんだけど」

 不満気なガルに、アイザとクリスはもう一度顔を見合わせる。やがてクリスが観念したように口を開き、昨夜アイザが聞いた内容を簡潔に説明し始めた。


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