第一話 梶之助の幼馴染はかわいいだけじゃない

「貝殻をジューサーに入れたら故障するだろ」

 五郎次爺ちゃん特製ドリンクは即効台所の流しに捨てて、梶之助は学校に行く支度を済ませる。

「梶之助よ、カルシウムが含まれているんじゃが……僕の特製ドリンク、そんなに不味いんかのう」

それを目にした五郎次爺ちゃん、再び寝室に閉じ篭って寝込む。自分の思い通りにならないとすぐこんな風に拗ねる子どもっぽい一面もあるのだ。

 まもなく午前七時五五分になろうという頃、ピンポーン♪ とチャイム音が鳴り響く。

「おっはよう、梶之助くん、学校行こう!」

 その約一秒後、ガラガラッと横開き玄関扉の引かれる音と共に威勢のいい声が聞こえて来た。

「おはよう麗ちゃん、すぐ行くから」

 梶之助は通学鞄を肩に掛け、玄関先へと向かう。

 訪れて来たのは、和木麗(かずき うらら)という女の子。鬼柳宅から徒歩一分足らずのすぐ近所に住む、梶之助の同い年の幼馴染だ。

学校がある日は、いつもこの時間帯くらいに迎えに来てくれる。子ネコのようにくりくりとしたつぶらな瞳で丸っこいお顔、まっすぐ伸びた一文字眉で、おでこはちょっぴり広め。身長は一四五センチと梶之助よりもさらに十センチほど低くほっそりとした華奢な体つきで、日本人形のようなサラサラした黒髪をいつも桜の花柄シニヨンネットでお団子結びに束ねているとってもあどけなく可愛らしい子なのだ。

 だが、その守ってあげたくなるような外見とは裏腹に、梶之助とは真逆でスポーツ万能。中でも特に信じられないのが、その体格で〝相撲〟を愛好していることなのだ。しかもかなり強い。バク宙、バク転もこなせるアクロバットな身体能力で小柄さがむしろ武器になっている。梶之助は昔から練習相手として度々標的にされ、何度も何度も何度もぶん投げられた苦い経験がある。麗が髪型をお団子結びにしているのは、力士が結う髷を意識しているからなのだそうだ。

「では、五郎次お爺様、行って来まーすっ!」

「じゃ、行ってくる」

 七時五五分頃、梶之助の両親はこの時間には既に出勤しているので、齢九〇近い五郎次爺ちゃん一人残し麗と梶之助は家を出発。この二人は高校へ入ってからも徒歩通学だ。ここから二人が通う県立淳甲台(じゅんこうだい)高校まで二キロ近くあり、自転車通学も許可されているのだが、麗が足腰を鍛えたいからという理由で梶之助も無理やり付き合わされているのだ。

 じつは入学式当日、梶之助は徒歩は嫌だと断ったのだが、麗と腕相撲勝負をしてあっさり負けてしまったため、以降麗の希望に従わざるを得なくなってしまったというなんとも情けない経緯があった。

 二人は門を抜けて、通学路を一列で歩き進む。この時、麗が前を行くことが多いのだ。

「梶之助くん、今日までに提出の数Ⅰの演習プリントは、全部出来てる?」

「まあ、一応」

「じゃぁあとで写させて。私、分からない問題多くて空欄いっぱいあるんだ」

「いいけど、自分の力でやった方がいいよ」

「それは重々承知なんだけど、私、数学めっちゃ苦手だし、私一人の力じゃ無理だよ。英語も高校に入ってから急に難しくなったと思わない? 幕下の下の方の力士がいきなり幕内で取らされるような感じだよ」

「また相撲に例えてる。確かに覚えなきゃいけない英単語や英熟語、中学の時と比べ物にならないくらい増えたよな。文法もややこしいし。それにしても、今日は朝からけっこう暑いな」

「そうだね、半袖でもいけそうだよね。学校着く頃には汗びっしょりになりそう。夏服にすれば良かったよ」

他にもいろいろ取り留めのない会話を進めていくうち、学校のすぐ側まで近づいて来た。この二人以外の淳高生達も周りにだんだん増えてくる。この高校では今日から五月いっぱいまで制服移行期間。まだ梶之助と麗のように冬用の紺色ブレザーを身に纏っていた生徒の方が多く見受けられた。

二人は校舎に入ると、最上階四階にある一年二組の教室へ。幼小中高同じ学校に通い続けている二人は小六の時以来、久し振りに同じクラスになることが出来た。芸術選択で同じ書道を取ったため、なれる確率も高かったのだ。

「ウララちゃん、おはよー」

「おはよう麗さん」

 麗が自分の席へ向かおうとすると、幼稚園時代からの大の親友、世良田秋穂(せらた あきほ)と南中利佳子(みなみなか りかこ)が穏やかな声で挨拶してくる。梶之助にとっても古い顔馴染みの子達だ。

「おっはよう! 秋穂ちゃん、利佳子ちゃん。二人ともまだ冬服だね」

麗は爽やかな表情と明るい声で返してあげ、席に着いた。座席はまだ入学した当初のまま出席番号順に並べられている。

 秋穂は面長ぱっちり垂れ目、細長八の字眉がチャームポイント。ほんのり茶色なふんわりとした髪を少し巻いて、アジサイなどの花柄シュシュで二つ結びにしているのがいつもヘアスタイルだ。すらっとした体型で背丈は一六〇センチちょっとあり、おっとりのんびりとした雰囲気を漂わせている。

利佳子は、背丈は一五〇センチをほんの少し越えるくらい。まん丸な黒縁メガネをかけて、濡れ羽色の髪を肩より少し下くらいまでの三つ編み一つ結びにしている。とても真面目そうで賢そう、加えてお淑やかで大人しそうな優等生らしい雰囲気の子だ。

二人とも文化系っぽい子だが、麗も見た目は文化系女子なので釣り合いの取れた仲良し三人組といえよう。

梶之助が自分の席に着いてから五分ほどのち、

「やぁ、梶之助殿ぉー」

いつものように彼の親友の大迎光洋(おおむかい こうよう)が登校して来てのっしのっしと近寄ってくる。光洋は完全夏用の、ポロシャツと薄手の灰色ズボンという組み合わせだった。 

「おはよう光洋。やっぱいきなり夏服か。暑がりだもんなぁ」

梶之助は光洋と小一の頃から九年来の親友だ。同じクラスになり、出席番号が梶之助のすぐ前になったことがきっかけで自然に話し合う機会が出来、お互い仲良くなったというわけである。その後も小二、小四、中一、そして今学年で同じクラスになり出席番号も前後した。ただ、梶之助は光洋が前では黒板の字が見えにくいので、座席順は過去四回なった時と同じく担任に頼み前後逆にしてもらった。

なぜなら光洋は身長一八六センチ、体重はなんと一三〇キロ以上の大相撲力士としても申し分ないたいそう恵まれた体格をしているからである。小学校を卒業する頃にはすでに一七〇センチ、百キロ以上に達していた。

あまりに太り過ぎているためか、光洋は梶之助と同じくスポーツ全般超苦手なのだ。先月、体育の授業で行われた新体力テストでも、結果は梶之助と同じく全ての種目で同学年男子の平均以下だった。握力やハンドボール投げでさえも。五〇メートル走に至っては一一秒台後半と、同級生の足の速い子の百メートル走よりも時間がかかってしまうという有様だった。けれども彼は、たまに鬼柳宅を訪れ、メロンやスイカなど買うとけっこう高い果物を無料で譲ってくれる気前の良いやつでもある。そんなことが出来るのは、彼の家が果物屋さんを営んでいるからではあるが。

この無駄に大柄な体格のせいで、光洋は五郎次爺ちゃんにかなり気に入られてしまっている。訪れる度、五郎次爺ちゃんが角界入りを熱心に勧めてくることに光洋はうんざりしており、おいらは新弟子検査には間違いなく受かるだろうけど、相撲界の厳しいしきたりや稽古に耐えられるはずはないよ。たとえ式秀部屋でもと五郎次爺ちゃんに決まり文句のように言い張っている。

梶之助と光洋との間には、こんなエピソードもある。中学時代に部活動を選ぶ際、光洋と同様体育が苦手なため運動部には一切興味を示さなかった梶之助は、科学部にするか地歴部にするか悩んでいた。そんな時、光洋に「おいら、パソ部に入るから、梶之助殿もいっしょに入ろうぜ」と半ば強引に誘われ、結局当初入る気もなかったパソコン部に入部することに決めたのが中一四月の終わり頃。それから中学時代の三年間を共に同じ部活で過ごし、高校でも同じ部活、アニメ部に一週間ほど前正式入部した。

「梶之助殿、このラノベ、べらぼうに面白いぞ、読んでみろ。七月からはサ○テレビでアニメも始まるんだぜ」

 光洋はどかっと席に着くと、鞄の中から例の物を一冊取り出し梶之助に手渡す。

「……一応、借りとくよ」

それを見て、梶之助は顔を少し顰める。表表紙に下着丸見えの制服姿な可愛らしい少女のカラーイラストが描かれていたのだ。光洋は小五の終わり頃からラノベや萌え系の深夜アニメに嵌っていたらしい。梶之助はこういう世界に深く踏み込んではいけないなと、本能的に感じている。すぐさま鞄の中に片付けた。

「おっはよう、光ちゃん」

「……おっ、おはよぅ」 

突如、麗に明るい声で挨拶された光洋は、思わず目を逸らしてしまった。彼は麗に限らず、三次元の女の子がよほど年上でもない限り苦手なのだ。裏話、光洋は小学校時代、休み時間や登下校中に麗にしばしばいっしょにお相撲ごっこしようとかって懐かれ、対戦をさせられいつも麗にバランスを崩され投げ飛ばされていた経験がある。その度に周りで見ていた多くの他の女の子から弱過ぎとか泣き虫とかって言われ笑われバカにされていたのだ。

光洋が三次元の女の子に嫌気がさして二次元美少女の世界にのめり込むようになったのは、そんな理由なんだろうなと梶之助は推測している。 

「梶之助くん、数Ⅰの宿題写し終わったよ、サーンキュ。これからもよろしく頼むね」

「いや、だから自分の力でやった方が……」

梶之助が呆れ顔でそう言ったちょうどその時、八時半の、朝のホームルーム開始を知らせるチャイムが鳴り響いた。麗他、立っているクラスメート達はぞろぞろ自分の席へ。

「皆さん、おはようございます」

ほどなくして、クラス担任で英語科の寺尾先生がやって来た。背丈は一五五センチくらい。面長ぱっちり瞳。ほんのり栗色ミディアムボブヘア。二九歳の実年齢よりも若く見え、女子大生っぽさもまだ感じられるそんな彼女はいつも通り出欠を取り、諸連絡を伝え、このあと八時四〇分から始まる一時限目の授業を受け持つクラスへと移動していく。一年二組では、今日は数学Ⅰの授業が組まれてあった。


「梶之助殿ぉ、おいら、数学、速過ぎてついていけんわー」

九時二五分、一時限目が終わり休み時間が始まると、光洋が後ろからため息交じりに話しかけてくる。

「ちゃんと予習して来ないからだろ」

 梶之助は笑顔で指摘する。

「この間の小テストも二点しかなかったし、このままやとおいら、中間やべぇな、本気出さんと。一週間前からマンガとゲームと深夜アニメとラノベ封印して」

「ボクは高校生活最初の中間テスト、とっても楽しみにしているよーん。科目数も増えるしぃ」

 二人の会話に、とある冬服姿の男子クラスメートも割り込んで来た。

「さすが秀平殿、余裕の構えであるな。この高校の新入生テストでも学年トップだったし。国数英の三教科合計二九八(にーきゅっぱ)だったよな?」

「はいぃ、その通りでございますぅ。ボク、じつは三〇〇点満点を狙っていたのですが、国語で文法問題一問落としちゃいましたよ。トホホ」

秀平という名の子だった。彼はしょんぼりとした表情で言う。光洋にとって秀平は、梶之助と同じアニメ部仲間だ。中学の頃も同じパソコン部だった。

「それで不満そうにするなよ。秀平は相変わらずの天才振りだよな」

 梶之助は感心していた。同じ幼小中出身のため、秀平のことは昔からよく知っている。つまり麗や秋穂、利佳子も彼の古い顔馴染みというわけだ。

「おいら達とは次元が違い過ぎるぜ。秀平殿、灘高行けてたんじゃねぇの?」

「いやいや、さすがに灘はボクの学力程度では絶対無理だよーん。というかボク、将来は京大理学部を目指してるけど、それまでの過程において、べつに有名私立に行く必要はないのでは、と考えてるからね。中学受験も一切しなかったよーん」

「それで高校もおいら達と同じ公立に来たってわけであるか?」

「イエス。淳高はボクんちから一番近いので通学の手間も省けるしぃ」

 光洋の質問に、秀平は自宅から持って来たラノベを読みながら淡々と答えていく。

「それは才能が勿体ないぜ。というか東大じゃなくて京大なのだな。おいらも秀平殿みたいな天才的頭脳が欲しいぜ。吸収っ!」

 光洋は秀平の頭を両サイドから強く押さえ付けた。

「あべべべ、大迎君、すこぶる痛いので止めてくれたまえぇぇぇぇ」

 秀平は首をブンブン振り動かし抵抗する。

「中間では、どれか一科目だけでも勝ってみせるぜ」

 そう宣言し、光洋は手を離してあげた。

秀平のフルネームは助野秀平(すけの しゅうへい)。一六九センチの背丈は高一男子としてごく普通だが、体重は約五〇キロと痩せ型。新体力テストの結果も梶之助や光洋と同じく全て平均以下の運動音痴振り。しかしながら現時点ですでに東大理Ⅰに合格出来そうな学力を有する秀才君なのだ。坊っちゃん刈り、四角眼鏡、丸顔。まさに絵に描いたようながり勉くんな風貌である。

「秀ちゃん、北大の過去問当てられて、あっさり解いちゃうなんて凄いね。大関級の難問なのに」

「先生も驚いてたよね。超天才だよ、シュウちゃんは」

「秀平さんは、淳高始まって以来の天才だと思います」 

 麗と秋穂、さらに利佳子も、この三人の側へぴょこぴょこ歩み寄って来た。

「いっ、いえ、それほどでもぉ……」

 秀平は俯き加減になり、謙遜する。彼も光洋と同じく、物心ついた頃から三次元の女の子を苦手としているのだ。光洋よりも早く小学四年生頃にはすでに二次元美少女の世界にどっぷり嵌っていた。しかしながら、秀平がそういった趣味を持っているということは、梶之助は中学に入学してパソコン部に入部するまで知らなかったのだ。

        ○

六時限目終了後の休み時間が始まってほどなく、

「あっ、やばっ。柔道着忘れた」

 梶之助はこう呟いた。普段は木曜の七時限目は化学なのだが、今日は特別編成時間割で普段は月曜に組まれている柔道があったのだ。

「梶之助殿、おいらも忘れたぜ」

 仲間意識が芽生えたのか、光洋はとても嬉しそうだった。

「ボクはちゃんと持って来たよーん。黒板横の連絡事項は毎日しっかり確認しましょう」

 秀平は得意げに言う。

「おいら、また忘れてサボろうかな。柔道の授業、嫌やわー。初回の授業でいきなりキミ、柔道得意やろ? ちょっと技の手本見せたってやーって言われたし。ラグビー部と柔道部とウェイトリフティング部からの勧誘もしつこくて非常に鬱陶しかったぜ。小学校の時も相撲大会に出てくれないか? とか中学の時もおまえ、なんで柔道部に入らんかったん? って何百回か訊かれたし。おいら、文化系男子だからスポーツは大の苦手なんだって。人を外見で判断するのは良くないぜ」

 光洋はハァッとため息混じりにぶつぶつ呟く。

「確かに光洋の体格見りゃぁ普通そう思われるだろ」

 梶之助は笑顔で意見した。

 この高校では男子は柔道必修。女子はダンスか柔道かを選べるのだが、大半の女子はダンスを選択している。

 麗は柔道……ではなくダンスを選択した。本当は柔道を選択したかったのだが、秋穂と利佳子がダンスを選択するからダンスを選択したという、友達がそうするから自分もそうするという高校生にはありがちな理由があった。

「では、次からは気を付けるように」

「はい、分かりました」

「おいらも次はちゃんと忘れず持って来ます」

 上背一八〇センチ近くあり丸刈り仏顔な柔道の遠藤先生から許しを得、梶之助と光洋は制服姿で柔道場隅の方で見学。二クラス合同計四〇名くらいの男子で行われるのだが、この二人含め十名近くは忘れて見学していたため特に際立って目立つことはなかった。

 授業終了後。

「光洋、秀平。今はまだ受け身の練習だけだけど、これから組み手とか技の練習とかになってくるかと思うと本当に先が思いやられるな」

「同意。なんで高校に入ってからも柔道やらなきゃいけないんだよ」

「ボクももう嫌ですよぅ。柔道なんか時代遅れの最も無駄な科目ですね。柔道の代わりに地学や第二外国語を必修科目にした方がよっぽど日本の未来のためになるよん。この二〇一〇年代の世の中、中学で武道必修にするなんて文部科学省の中の人はなんて馬鹿げたことを考えているんだか、ぶつぶつぶつ」

 梶之助、光洋、秀平の三人で廊下を歩きながらこんな会話をしていたところ、

「それにしてもキミ、高校生離れした風貌しとるなぁ。素でパチンコ屋に入ってもバレへんのとちゃうか?」

 光洋が遠藤先生からにこにこ顔で、機嫌良さそうに話しかけられた。

「いやいや、そんなことは……」

 光洋はかなり迷惑がっている様子だったが、

「部活は何に入ったん?」

 遠藤先生はお構い無しに質問してくる。

「アニメ部です」

「そりゃ勿体無いなぁ。柔道部に入って鍛えれば、全国目指せる器やのに」

「いえ、おいら、筋金入りの運動オンチなんで」

 光洋は自然と早足になる。

「気が向いたらでいいから、ぜひ入ってくれ。首を長くして待っとるで」

「いや、いいです」

 ようやく開放され、光洋はホッと一息ついた。

「大変だな、光洋」

「大迎君、そのうち諦めてくれると思うよん」

 梶之助と秀平は同情する。秀平も小中学校時代、見た目から学級委員長にたびたび推薦されていたため、光洋の気持ちが深く理解出来るのだ。

       ○

「それじゃ、梶之助くん。また後でね」

「うん」

 放課後、部活動の時間が始まると、梶之助は麗といったん別れた。

麗は柔道部もしくはその他の運動部……ではなく利佳子や秋穂と同じ文化部の代表とも言える文芸部に所属している。こちらについては麗自身も入部したいと思ったから入部した。

じつは麗は、今でも幼い子ども向けの絵本やアニメや小説が大好きで、将来は絵本作家になりたいとも願っているのだ。麗が相撲に嵌ったきっかけも幼稚園に入って間もない頃に、金太郎のお話が大好きだったから金太郎さんの真似をしてお友達とお相撲ごっこをしてみた、という単純なものであった。梶之助のおウチがかつての力士一家だったことに対する影響よりも大きかったのだ。

麗のおウチ自室にある本棚には、幼稚園児から小学生向けの少女漫画誌や少女コミック、児童図書、絵本などが合わせて二百冊くらい並べられていて、普通の女子高生が好みそうなティーン向けファッション誌は一つも見当たらない。クマやウサギ、リス、ネコといった可愛らしい動物のぬいぐるみもたくさん飾られていて、お部屋の様子はあどけない女の子らしさが醸し出されている。 

梶之助と光洋、そして秀平の男子三人組は週一回木曜日だけ活動しているアニメ部の部室、情報処理実習室へと向かった。そこには最新式に近いデスクトップパソコンが全部で五〇台ほど設置されてある。

アニメ部の主な活動はその名の通りアニメーションの創作活動。他にもゲーム製作やDTM作曲活動なんかもしている。パソコンを使って作業をするため、ここを部室として使っているのだ。

ところがこの三人は、ウェブサイトの閲覧やアニメ鑑賞だけをして過ごすことがほとんどである。顧問はいるものの、放任状態となっているため特に咎められることはないという。三十数名いる他の部員達(大半は男子)もゲームで遊んだり、動画投稿サイトや某巨大ネット掲示板を眺めていたりと本来の活動内容とは全く違ったことをしている者は多い。真面目に活動している者は半数に満たないくらいなのだ。

三人は一台のパソコンの前にイスを寄せ合い、近くに固まるようにして座る。梶之助が電源ボタンを入れ、彼のパスワードでパソコンを起動させた。

「まずはこれから見ようぜ」

 光洋はとある動画配信サイトを開き、女の子がいっぱいな深夜アニメを再生した。 

「光洋、俺にはこういう、美少女系のアニメ、どれも同じに見えるんだけど……この間見たやつとは違うんだよな?」

 流れてくる高画質かつ高音質な映像を眺めながら、梶之助は眉を顰める。

「梶之助殿はまだまだ稽古不足であるな。おいらは日々睡眠時間を惜しんで深夜アニメを三時間以上は凝視してるから、キャラ、キャラデザ、声優含めどれも全部違うアニメに見えるというのに」

 光洋は大きく笑った。

「その分を教科の勉強に費やせよ」

 梶之助はやや呆れる。 

「まあ鬼柳君は、ボクや大迎君のようにまではのめり込まない方がいいよーん。もう戻れなくなるからね」

 秀平は自嘲気味に警告する。

 同じ頃、文芸部の部室【視聴覚室】。

「あっ、また折れちゃった」

「ウララちゃん、握力強過ぎだよ。もっとそーっと握らなきゃ」

麗と秋穂は、色鉛筆やクレヨンを用いて絵本作りに励んでいた。

「あー、ダメだぁ。もうストーリーが全然思い浮かばないよぅ。まだ二〇ページも書いてないのに」

一方、利佳子はパソコン画面に向かいながら、嘆きの声を上げた。

文芸部の主な活動は漫画、小説、絵本などの創作活動だ。アニメ部とは対照的に、部員のほとんどが女子である。

「利佳子ちゃん、小説書くのに行き詰ったみたいだね」

 麗は楽しそうに話しかける。

「うん、わたし、高校最初の目標はラノベレーベルの新人賞に初挑戦することなんだけど、まだわたしにはハードルが高過ぎるよ」

 利佳子は苦い表情を浮かべた。

「ラノベの新人賞って、ものすごい枚数書かなきゃいけないもんね。四百字詰め原稿用紙に三百枚前後も書くなんて、ワタシには絶対無理だなぁ。五枚から十枚くらいでいい童話賞のしか書けないよ」

 秋穂は、利佳子が応募しようとしている新人賞の応募要項と選考結果の載せられたホームページを開き、眺めながら呟く。

「私なんて読書感想文を五枚分埋めるのすら無理だよ。ラノベ賞の選考過程って、大相撲の番付昇進に通じる所があるね。こんな感じで」

 麗はそのページを眺めながらにこにこ顔で呟き、黒のボールペンを手に取った。そしてメモ用紙にこう書き記す。

 一次選考落ち=幕下以下。一次選考通過=十両。二次選考通過=前頭。三次選考通過=小結・関脇。最終選考=大関。受賞デビュー=横綱。 

麗は新人賞の選考過程を大相撲の番付になぞらえたのだ。

「麗さん、相撲に例えるなんて、本当に相撲好きね。けど確かに通じる所があるよ。番付も降格するように、選考過程も降格するからね。一度最終選考まで残った人が、次に書いた作品では一次も通らなかったりすることはよくあるみたいなので。それどころか著書を何冊か出しているプロ作家さんですら、改めて賞に応募すると一次で落とされるケースはけっこうあるみたいよ」

 利佳子は笑顔で伝えた。

「プロ作家でも一次で落ちちゃうのかぁ。まるで三役経験のある力士が幕下まで陥落して、幕下相手にも全然勝てなくなるような落ちぶれ方だね」

 麗の呟きを聞き、

「麗さん、また相撲に例えてる」

 利佳子はくすっと笑った。

「ねえリカコちゃん、ライトノベルの新人賞って、競争倍率も物凄いよね。千作くらい集まってくる中で、受賞してるのは三作か四作くらいしかないもん。大学入試の五倍とかの倍率がものすごく低く感じるよ」

 選考結果を眺め、秋穂は思ったことを率直に述べてみる。

「わたしもそう思うわ。さらに大学一般入試とは違って正しい解答、明確かつ公平な採点基準が無いからね。現代文の記述問題、小論文試験以上の不明確さよ。でも、だからこそ挑戦し甲斐があるの。わたし、高校在学中に受賞は無理にしても一次選考くらいは通ることを目標にしてるわ」

 利佳子はきりっとした表情で打ち明けた。

「頑張れリカコちゃん、ワタシ、応援してるよ」

 秋穂は温かくエールを送る。

「でもさぁ、利佳子ちゃん、まずは完成させなきゃ応募すら出来ないじゃん」

 麗は笑いながら指摘した。

「そうなのよね、まずはその壁を突破しなきゃね」

 利佳子は苦笑い。

 そんなやり取りから一時間ほどが経った頃。アニメ部の部室では、

「次はこれやろうぜ」

 光洋が通学鞄から、一つの箱を取り出した。

「こっ、光洋、これは、非常にまずいだろ」

 パッケージに描かれたアダルトなカラーイラストを目にした瞬間、梶之助の顔が引き攣る。

「おいら的法律によれば、十八禁とは〝十八歳以上はプレイ禁止〟ってことだぜ」

 光洋はきりっとした表情で言い張った。

「おいおい。真逆の解釈をするな」

 梶之助は呆れてしまった。

「良いではないか、梶之助殿。高校生の兄と中学生の妹が仲睦まじくいっしょにエロゲープレイしてるラノベもあるんだし、全く問題ないって」

「そうだよね大迎君、いまどき小学生でもエロゲをプレイするものだしぃ」

 秀平も肯定派だった。

「そういう子達の将来が心配だ」

 梶之助は頭を抱える。

「梶之助殿、このエロゲはエロシーンは少ない方なんだぜ。七月からはサ○テレビでアニメも始まるし」

 光洋が、肝心のゲームが収録されてあるDVD‐ROMを箱から取り出し、投入口に入れようとした瞬間、

「光ちゃん、何しようとしてるのかなぁ?」

 背後から誰かにそのDVD‐ROMをパッと奪い取られ、阻止された。

「うぉっ!」

 光洋はビクーッとなる。

 正体は、麗だった。 

「光洋さん、これらは不要物よ。先生に見つかったら没収どころか停学処分よ」

「コウちゃん、こんなエッチなものに手を出しちゃダメだよ。お母さんが悲しむよ」

 利佳子と秋穂もいた。二人とも頬を赤らめて、パッケージに描かれたイラストを眺めながら注意してくる。

「わっ、分かりましたぁ。すぐに、仕舞います」

 光洋は麗からDVD‐ROMを返してもらうと、素直に従う仕草を見せた。

「今度持って来たら真っ二つに割るからね。梶之助くんも、こんないやらしいのを好きになっちゃダメだよ」

 麗は心配そうに忠告する。

「分かってる。俺、こんなのには全く興味ないから」

 梶之助は安心させるように答えた。

「じゃあ梶之助くん、いっしょに帰ろう」

「うっ、うん。いっ、いたたたぁ」

 麗に腕をぐいっと引っ張られ、情報処理実習室から強制退出させられてしまう。

「梶之助殿も大変だな」

「今しがた邪魔者は去った。それでは、再開しますか」

 秋穂と利佳子も退出したのを確認すると、光洋と秀平は先ほどの忠告は無視してエロゲープレイに興じたのであった。

 帰り道、

「私、あとで梶之助くんち寄るね。五郎次お爺様から借りてた大相撲のビデオ、返したいから」

「分かった」

 麗からの伝言を、梶之助は快く承知する。五郎次爺ちゃんは毎朝麗が訪れる時間には梶之助の例の行動によって寝込んでいるため、直接会うことはないのだ。

「九〇年代の取組は今よりも面白いのが多いよね。舞の海が曙とか武蔵丸とか小錦とか、超大型力士に挑んで勝つ取組は私にとっても励みになるよ。水戸泉が豪快に塩を撒くシーンも最高だね。あと、旭道山が久島海を張り手一発で倒した取組もすごく燃えたよ。私がまだ生まれる前だよね、リアルタイムで見たかったなぁ」

 麗は興奮気味に感想を語る。

 五郎次爺ちゃんは一九七〇年代末以降、現在に至るまで四十年以上に渡ってテレビ中継される大相撲の取組の一部を録画保存しているのだ。麗が今回借りていたものはVHSで録画されたものだが、七年ほど前の取組からはブルーレイディスクに録画するようになった。ちなみに操作方法を五郎次爺ちゃんに教えたのは梶之助である。九〇近いご老人にはごく普通のことだとは思うが、五郎次爺ちゃんは最近の家電製品には疎いのだ。

「ただいま、五郎次爺ちゃん」

「おう、おかえり梶之助」

梶之助が帰宅後の挨拶をすると、五郎次爺ちゃんは明るい声で返した。こんな風に梶之助が帰宅する頃にはいつもの機嫌に戻っている。五郎次爺ちゃんは、夕方頃は茶の間でテレビを見てくつろいでいることが多いのだ。

 それから二〇分ほどのち、

「こんばんはーっ、五郎次お爺様ぁ」

「ぅおううううう、麗ちゃんじゃぁぁぁーっ。ワッホホゥゥゥゥゥーッイ! 僕のガールフレンドーッ。グッイーブニン」

 麗がやって来ると、五郎次爺ちゃんは犬は喜び庭駆け回るように歓喜し、麗にガバッと抱きついた。

「えーいっ!」

 その刹那、麗は五郎次爺ちゃんの腕をサッと掴み、一本背負いでいともあっさり空中へ投げ飛ばした。柔道の技として有名だが、大相撲の決まり手の一つでもある。

「わーお!」

五郎次爺ちゃん、くるり一回転、茶の間の畳にズサーッと着地。その衝撃で入れ歯ふわり空中遊泳。

「もう、五郎次お爺様ったら。でもそこが素敵です♪」

 麗は照れ笑いする。

「フォフォフォッ、僕とっても嬉しいな、麗ちゃんみたいな若い娘さんに投げ飛ばされてもらえて」

 吹っ飛んだ入れ歯を見事口でキャッチし、付け直した五郎次爺ちゃん。

「五郎次お爺様、相変わらずハリウッドスターのようなアクションですね」

 麗は嬉しそうに微笑む。

「五郎次爺ちゃん、受け身の取り方だけは横綱免許皆伝級だな」

 梶之助は呆れ返った。

 五郎次爺ちゃんは大昔、かの双葉山が大活躍していた頃からの大相撲ファンだ。幼少期はラジオで大相撲中継を熱心に聴いていた。昭和二〇年代後半、テレビが普及するようになって以降は毎場所テレビ中継を楽しんでいる。三月の春場所(大阪場所)の時は生で観戦しに行くことも多い。だが彼には、大相撲以上に熱心に観戦しているものがあるのだ。

それは、この地域で六十数年続く伝統行事、年一回開催され麗も幼稚園の頃から毎年出場している〝女相撲大会〟である。

「麗ちゃん、久し振りに梶之助と相撲を取ってくれんかのう。僕、お二人の対戦が久し振りに見たくなったんじゃ」

「OK! お見せしてあげるよ、五郎次お爺様。大会も間近ですし練習も兼ねて」

 五郎次爺ちゃんの突然の依頼を、麗は快く引き受ける。

「ごっ、五郎次爺ちゃん、そっ、そんな急に……」

 梶之助はたじろいだ。

「今年のお正月の時に取って以来、かなり久々に対戦することになるね」

 一方、麗はかなり乗り気な様子だ。

「梶之助、マワシじゃ。力士と同じようにこれ付けてやれ!」

 五郎次爺ちゃんは自室のタンスから水色のを取り出して来て、梶之助の眼前にかざす。

「梶之助くん、付けてあげるからおズボンとおパンツ脱いで!」

 麗から藪から棒に大胆発言。

「五郎次爺ちゃん、麗ちゃん。俺、マワシ姿になるなんて恥ずかしいから嫌だよ。前にも言っただろ」

 梶之助は当然のように困惑する。

「もう、情けない。小学校の頃までは喜んで付けてたくせに。そんじゃあ今回もトランクス一丁でいいよ。私はちゃんとマワシ付けてやるよ。ちょっと準備して来ます」

 麗はちょっぴり不満な面持ちで、彼女の自宅へ。

 それから五分ほど後、

「お待たせーっ!」

麗が鬼柳宅玄関先へ戻って来た。上半身は裸、ではもちろんなくレオタードを纏って、その上から女相撲用の簡易マワシを付けている。ちなみに鮮やかなピンク色だ。麗は桃の節句な三月三日生まれだからなのか、この色が一番のお気に入りなのだ。

「あーら、いらっしゃい。お久し振りねぇ麗さん」

「こんばんはー。おじゃましてます、寿美おば様」

 ほどなくして、タイミングを合わせるかのように梶之助の母、寿美さんも帰って来た。御年五〇を越えているが、白髪や顔の小皺はほとんど目立っておらずまだ三〇代前半くらいの若々しさが感じられるお方である。背丈も一七〇センチ近くあり、すらりと高い。皮肉なことに、梶之助の四人いる姉は皆、彼女の遺伝子が受け継がれ一七〇センチを超えているのである。

「麗さんのマワシ姿はいつ見てもさまになってるわね」

「それほどでもないですよぅ、寿美おば様ったら、褒め上手」

 寿美さんに褒められ、頬をポッと桜色に染め微笑む麗。

「ふふふ、かわいい。その格好してるってことは、ひょっとして――」

「その通りです。私、今から梶之助くんとお相撲取るんです!」

「やっぱり。今回はどんな攻防が繰り広げられるのか楽しみね。それじゃあ、今回もわたくしが呼出さんやろうかしら」

「そんじゃ僕、行司さんやるねっ!」

「よろしくお願いします! 寿美おば様、五郎次お爺様」

 麗に頼まれると、五郎次爺ちゃんはすぐさま大喜びで行司装束に着替えて来た。右手には軍配団扇を装備。鬼柳宅にはこんなマニアックな相撲グッズまで保管されてあるのだ。

 このあと寿美さん、五郎次爺ちゃん、麗、梶之助の四人は鬼柳宅離れにある相撲道場を訪れる。梶之助は麗に腕を引っ張られ無理やり連れてこられたような形となった。

木造瓦葺平屋建ての小屋で、造られたのは一九〇七年(明治四〇年)。すでに創立百年以上が経過している。当然のようにこれまでに何度か改修工事がされてあるものの、外観は建立当時のままほとんど変わっていない。入口横にある『鬼柳相撲道場』と木版に縦書き行書体で肉合彫りにされた看板もかなり色あせていて、時代の流れを感じさせていた。

出入口を通ってすぐ目の前に直径十五尺(およそ四メートル五五センチ)の土俵、さらに奥側に見物用の座敷も設けられてある。

かつて、五〇年ほど前までは、この場所で毎日のように鬼柳家や近隣に住む力自慢の男共よる激しい稽古が流血も交えながら行われ、大勢の見物人で賑わっていたようだが、今ではそんな面影すら全く感じられない。

今回のように、梶之助と麗が時たま遊びのような相撲を取る時に使用されるくらいである。

 四人とも靴と、靴下も脱いで素足になり道場の中へ。土足厳禁なのだ。

「麗ちゃん、やっぱ勝負はやめない?」

 土俵を眺め、梶之助は怖気づいてしまった。

「もう、何言ってるのよ、梶之助くん。男の子でしょう?」

「そうじゃぞ梶之助。男たるもの度胸が必要なのじゃ。ご先祖様や、正代(まさよ)も草葉の陰で泣いておるぞ」

 麗と五郎次爺ちゃんが非難してくる。ちなみに正代とは、五郎次爺ちゃんの妻、ようするに梶之助の父方の祖母に当たるお方だ。二年ほど前に他界している。

「さあ梶之助くん、早く準備して」

「わっ、分かってるって」

 こうして梶之助はしぶしぶ長袖ワイシャツを脱いで上半身裸となり、ジーパンも脱いでトランクス一枚だけの姿になった。彼のあまり筋肉のない細身の体が露になる。

「梶之助、しっかり頑張りなさい。それじゃ、始めますか」

 寿美さんはこう告げたのち、息をスゥっと大きく吸い込んだ。

 そして、

「ひがあああああしいいいいい、うららあああかぜえええええ、うららあああかあああかぜえええええ。にいいいいいしいいいいい、たにいいいかぜえええええ、たあああにいいいかあああぜえええええ」

 独特の節回しで四股名を呼び上げた。ソプラノ歌手のような透き通る美声であった。梶之助と麗はそれを合図に土俵へと足を踏み入れる。

梶之助の四股名は『谷風』。麗に名付けられた、というか四代横綱そのままだ。

 そして麗は『麗風』。命名は五郎次爺ちゃん。麗はとても気に入っていて、女相撲大会でも初出場の時からずっとこの四股名を使っている。

「梶之助くん、もしかして緊張しちゃってる?」

 麗は四股を踏みながら問い詰めてくる。

「しっ、してないよ」

 梶之助はこう答えるも、内心していた。仕切りのさい、彼は照れくさそうに四股踏みをする。その所作は、麗と比べるとかなりぎこちなかった。

 仕切りを四度繰り返したところで、寿美さんから制限時間いっぱいであることが告げられた。

(なんでこんなことしなきゃいけないんだよ?)

 梶之助はかなり緊張の面持ちで、

(梶之助くん、あれから少しは強くなってるかな?)

麗は楽しげな気分で土俵中央に二本、縦に白く引かれた仕切り線の前へ。

両者、向かい合う。

「さあ、梶之助くん、思いっきりドンッってぶつかってきてね!」

 そう言って、こぶしで胸元を叩く麗。余裕の面持ちか、にっこり笑っていた。

「お互い待ったなしじゃ。手を下ろして」

 五郎次爺ちゃんから命令されると、両者ゆっくりと腰を下ろし蹲踞姿勢を取ったのち、仕切り線手前に両こぶしを付けた。

「見合って、見合って。はっきよーい、のこった!」

 いよいよ軍配返される。

梶之助は麗に言われた通り、渾身の力をこめて突進していった。すると麗のマワシをいとも簡単にがっちり捕まえることが出来たのだ。

「梶之助くん今回すごくいい当たり。その調子でもーっと私を強く押してみてね」

「うっ、動かねえ……」

 麗の体は、まるで巨大な岩のようだった。

「もう、私のペッタンコなおっぱいにこーんなにお顔埋めちゃって、エッチね」

「いや麗ちゃん、俺、決してそんなつもりは――」

 梶之助はびくっと反応し、麗のマワシから両手を離してしまった。

「せっかくわざとマワシ取らせて梶之助くん有利にしてあげたのにな。とりゃあっ!」

 麗の威勢のいい掛け声。

「うわぁっ」

その瞬間、梶之助は一瞬のうちに麗の肩に担ぎ上げられ空中一回転。先ほどの五郎次爺ちゃんと同じ技をかけられてしまったのだ。

「ただいまの決まり手は一本背負い、一本背負いで麗風の勝ち! どうじゃ梶之助、地球にいながらにして無重力空間を漂っているような清清しい気分になれたじゃろ? 麗ちゃんの一本背負いは五つ星じゃよ。この技で僕もアストロナウト気分が味わえるんだもん」

「ならないよ、全然。というか俺、思いっきり地面に腰打ち付けた。めっちゃ痛え。後で青痣出来るぞ、こりゃ」

風対決。全く何も出来なかった梶之助の完敗であった。

「ちゃんと受け身取らないからだよ。えっへん。どうだ梶之助くん、参ったか?」

 無様にうつ伏せに転がっている梶之助を容赦なく上から見下ろす麗。しかもトランクスがずれて半ケツ状態になっている所を容赦なく踏みつけてくる。さらには勝利のポーズVサインまで取られてしまった。

「また負けちゃった。やっぱ麗ちゃんは強過ぎるよ。押しても全く動かないし」

 けれども梶之助はかなりの屈辱を味あわされながらも、悔しさはあまり感じなかった。なぜなら学力面では麗に遥かに勝っていることに誇りを持っているからだ。淳甲台高校入学式の翌日に行われた新入生テストの総合得点学年順位は全八クラス三一七名いる内、梶之助は五六位と大相撲の番付に例えるならば幕下上位レベル、麗は二六四位と序二段レベルだったのだ。ちなみに光洋は二六七位で麗とほぼ互角。秋穂は五四位で梶之助とほぼ互角である。利佳子は五位で、大関レベルであった。

「私は日々足腰を鍛えてるからね。梶之助くんももう少し粘れるようになってね」

「うっ、うん」

 麗はそう言い放つと、こんなひ弱な梶之助に手を貸してくれ優しく起こしてくれた。彼の体にべっとり付いた土も手で払ってくれた。いつもこんな感じなのだ。

「予想通りの結果ね」

「梶之助よ、力の差がますます広がってもうたようじゃのう。男子たる者、力は女子より上であらんといかんのに。まあ僕も、麗ちゃんはもちろん寿美さんにも力負けするから人のことは言えんがのう」

 その様子を眺め、寿美さんと五郎次爺ちゃんはにっこり微笑む。

 幼稚園の頃から今までに百回以上はここで対戦しているが、今まで梶之助が麗に相撲に勝てたことはたった一回だけ。しかもそれも、麗の勇み足によるラッキーなものだった。

梶之助は、麗ちゃんが鬼柳家の男だったら良かったのに、と思うことが何度もあった。

「梶之助くん、ご協力ありがとう。いい運動になったよ。なんかお腹空いてきちゃった」

 麗は満足げににこっと笑う。

「麗さん、良かったらお夕飯も食べてく? 今晩はスープカレーよ」

「スッ、スープカレーですとぉ! もっ、もちろんいただきます。私の大好物ですからぁっ」

 エサを目の前にして「待て!」の命令をかけられた犬のごとく涎をちょっぴり垂らしながら喜ぶ麗。

寿美さんは小学校の家庭科教師を勤めている。料理の腕前はプロ級なのだ。

「それじゃ、あとはお掃除よろしくね」

夕食準備のため、寿美さんは先に道場を後にし、鬼柳宅の台所へ。

残った三人は協力して土俵を竹箒で掃いて均してから、鬼柳宅の茶の間へと向かっていく。そこで待っている間、麗はお母さんに今夜は梶之助くんちで夕飯をいただくという連絡をスマホでしておいた。

「はーい、出来たわよ。麗ちゃんの分は横綱レベルの辛さの虚空にしたよ」

 しばらく待つと、寿美さんが四人分を卓袱台席へと運んで来てくれた。

「わぁーい。ありがとうございます、寿美おば様。スタミナが付きそう」

 マグマのように真っ赤なスープが麗の目の前にででーんとご登場。麗は幼い頃から筋金入りの辛党なのだ。

(俺はレンタルDVDで見た口だけど、一昔前のド○えもんの映画でパパの大好物として出された〝とかげのスープ〟よりも度肝を抜く強烈なインパクトだ)

 梶之助はこんな印象を抱きつつ、

「麗ちゃんの、すごいね。俺なんか覚醒でも水なしじゃ辛くて食えないのに」

 麗の方を向いて話しかけた。

「梶之助くんはまだまだお子様だもんね。辛いの無理だよね。あっかちゃーん」

 麗は指差してゲラゲラ笑ってくる。

「俺よりちっこい麗ちゃんには言われたくないよ。これくらい俺でも食える!」

さすがの性格穏やかな梶之助も、これにはちょっとだけカチンと来た。

「へえ、強気ね梶之助くん。じゃあさっそく食べてみてよ」

「……わっ、分かったよ」

「はいどうぞ、召し上がれ」

「……」

 こうなってしまったら後戻りは香車の駒のごとくもう出来ない、と後悔もした梶之助の前にススッと差し出されたその地獄皿。

(この赤いものは、例えるならえーと……そうだあれだ! ヨーグルトやアイスなんかに入ってる〝つぶつぶいちご〟だと思って食えばいいんだ。そう考えればこんなもの楽勝、楽勝)

 こう自己暗示した梶之助は、男らしく赤い部分が特に目立つ所を目掛けてレンゲを振り下ろす。掬い取ると休まず口の中へ一気に放り込んだ。

「……ん? あっ、あんまり、辛くないような……」

 ところが約二秒後、

「っ、ぅをわああああああっ!」

彼の口元は一瞬にしてバーナーの点火口へと姿を化した。

 すぐさま冷蔵庫へ光の速さで猛ダッシュ。五百ミリリットル入りアイスココアを取り出して一気にゴクゴク飲み干す。

 辛さは後になってじわりじわりと襲って来たのだ。

「アハハハ、やっぱり無理じゃない」

 麗は得意げになっているのかまたもや笑顔でVサイン。

「くそっ」

梶之助の舌はまだピリピリ痛みが走っていた。

「麗さん、梶之助ああなっちゃったけど、大丈夫かな? 少し薄めようか?」

 寿美さんは少し心配する。

「このままで大丈夫ですよ寿美おば様。そんじゃ、いただきまーす。あー美味しい♪」

 麗はそいつを平然と口の中へとベルトコンベアのように流れ作業的に運んでいく。とても幸せそうな表情を浮かべながら。これも梶之助の完敗だった。

「さすが麗ちゃんじゃ。タイ人もびっくりじゃな」

 五郎次爺ちゃんは褒めながら、自身は梶之助の分と同じ辛さのスープカレーに舌鼓を打っていた。

「満腹、満腹。ごっちゃんでしたぁーっ!」

 ちゃっかりお代わりまでいただいた麗に、

「麗さん、ついでにお風呂も入っていかない?」

 寿美さんはこう勧めてみた。

「そうですねー。さっきの相撲と、このカレーでかなり汗かいちゃったし。お湯もいただいちゃいます」

「麗ちゃん、僕といっしょに入らんかのう」

 五郎次爺ちゃんはにこにこ微笑みかけ誘ってみるが、

「五郎次さん、ダメよ。麗さんはもう年頃の女の子なんだから」

「アウチッ!」

 寿美さんにステンレス製のお玉杓子で後頭部をコチッと叩かれてしまった。

「私も、五郎次お爺様と入るのは、さすがに恥ずかしいです。でも、梶之助くんとなら全然気にならないですよ。梶之助くん、久し振りにいっしょに入ろう!」

「入るわけないだろっ!」

 梶之助は間、髪を容れず拒否。

「もう、梶之助くんったら大人びちゃって。下はまだまだお子様サイズのくせに」

麗は笑いながらそう言い放って、風呂場の方へとことこ走っていった。

「ああ、その通りだ……ていうか、なんで知ってる?」

 梶之助は困惑顔で突っ込む。

 週に一、二回、麗が夕方以降に鬼柳宅を訪れる時は、三〇パーセントくらいの確率で夕飯をいただき、二〇パーセントくらいの確率でお湯をいただいていく。鬼柳宅には、自慢ではないが大の男が十人以上は一度に入れるとても広い檜風呂が備え付けられてあるのだ。ちなみに風呂掃除や湯沸しは基本的に五郎次爺ちゃんが担当している。


「あー、汗も引いてさっぱりしましたぁ。それではそろそろお暇しますね」

 風呂から上がった後、麗は満足げな表情を浮かべながら茶の間に戻って来てこう告げる。

「麗ちゃん、今度は九〇年代末の大相撲ビデオを貸してやろう。九九年初場所の千代大海が若乃花に本割りと決定戦で連勝して逆転優勝をつかむ取組は特に見ものじゃぞ」

「ありがとうございます、五郎次お爺様。楽しみです」

麗は受け取った五本のVHSカセットを嬉しそうに両手に抱えると、玄関先へ。

「またね麗ちゃん」

「麗さん、またいつでもいらしてね」 

「グッバイ麗ちゃーん。また僕を投げ飛ばしに来てねーっ♪」

「ではさようなら、今日はたいへんお世話になりました」

 麗はぺこんと一礼して玄関から外へ出る。仄かにラベンダーセッケンの匂いを漂わせながら、徒歩数十秒の夜道を帰ってゆくそんな彼女の後姿を、三人は見えなくなるまでじっと眺めていた。

 ちなみに権太左衛門はそれから三〇分ほどして帰って来て、一人で少し遅めの夕飯を取ったのであった。


         ※


 五月二日、清清しい五月晴れ。

「ぅおーい、梶之助ぇ。昨日のやつよりもカルシウム成分をたっぷり含ませたぞ。ビタミンも豊富じゃ」

「いらねえ。五郎次爺ちゃん、戦前生まれのくせに食べ物を粗末に扱っちゃダメだろ」

 今朝も、やはり梶之助はいつものように五郎次爺ちゃんから特製ドリンク(今日は蜆とトマトとピーマンをオレンジジュースにブレンドさせたもの)を振舞われ、即効流しに捨てる。五郎次爺ちゃん拗ねて寝込む。そのあと麗が迎えに来て、二人はほぼいつも通りの時刻に登校。

淳甲台高校一年二組では、今日の一時限目は体育が組まれてあった。

男女別二クラス合同。今のカリキュラムはグラウンドで男子はサッカー、女子はソフトボールを行うことになっている。

男子が準備運動として腕立て伏せをしていた際、

「先生ぇ、世良田さんが倒れたよ」

 女子生徒の一人がこう叫んだ。

(えっ!)

 梶之助は視線を女子のいる方へとちらりと向けた。

本当に、秋穂がうつ伏せに倒れこんでしまっていた。

一周二百メートルのトラックを走っている最中だったらしい。

「秋穂さん、大丈夫? 頭打ってない?」

並走していた利佳子は中腰姿勢になり、秋穂の顔色を心配そうに見つめる。いつもはきれいなピンク色をしている唇が、白っぽく変色していた。頬も少し青白くなっていた。

「あっ……リカコ、ちゃん」

秋穂は幸い、すぐに意識を取り戻した。

「熱中症?」

「貧血だよね」

「世良田さん、大丈夫か?」

 二人のすぐ近くにいたクラスメート達、女子体育担当教官も近寄ってくる。その声が十数メートル離れた梶之助達の耳元にもしっかり飛び込んで来た。

「秋穂ちゃぁん! 大丈夫?」

 すでにノルマの三周走り終え素振りをして待機していた麗もバットを投げ捨て、すごい勢いで秋穂の側に駆け寄って来た。中腰姿勢で心配そうに話しかけてあげる。

「うん、平気、平気。ちょっとくらっと来ただけだから。軽い貧血だよ」

 秋穂はこう答えて、すぐに自力でゆっくりと立ち上がった。

「よっ、よかったぁ」

「わたしも、とても心配したよ」

 麗と利佳子はホッと一安心した。

「でも、保健室には行った方がいいよ。保健委員の子、世良田さんを保健室へ連れて行ってあげてね」

 担当教官から頼まれる。

「先生ぇ、その子、今日欠席です」

 女子生徒の一人が伝えた。

「あらまっ」

 担当教官は照れ笑いする。まだ出欠確認をする前だったので、気づかなかったのだ。

「じゃあ私が、秋穂ちゃんを保健室へ連れて行くね。あの、秋穂ちゃん、一人で歩ける? おんぶしよっか?」

 麗は積極的に名乗り出た。

「なんか悪いけど、その方が楽そうだし、そうさせてもらうね」

 秋穂はゆったりとした口調で、元気なさそうな声で伝えた。

(麗ちゃん、心優しいよな)

 梶之助は準備運動をしつつ、時折様子を眺めていた。

「しっかり掴まってね」

麗は秋穂の前側に回ると、背を向ける。そして少しだけ前傾姿勢になった。

「ごめんね、ウララちゃん」

秋穂は申し訳なさそうに礼を言い、麗の両肩にしがみ付いた。

「――っしょ」

 麗は一呼吸置いてから、秋穂の体をふわっと浮かせる。

 体格は秋穂の方が大きいのだが、麗は軽々と持ち上げてしまった。

「ウララちゃん、本当にごめんね、迷惑かけちゃって」

「べっ、べつにいいよ、気にしないで」

(なっ、なんか、胸が――秋穂ちゃん、いつの間に、こんなに大きく……中学の頃はぺったんこだったのに)

 むにゅっとして、ふわふわ柔らかった。

 秋穂のおっぱいの感触がジャージ越しに、麗の背中に伝わってくるのだ。

(突き押し食らった時にクッションになるから羨ましいよ)

 そんな心境に駆られた麗はトコトコ走り出した。

「麗さん、力持ちね」

 その様子を見て、利佳子はとても感心する。

 

「失礼します。木村先生。あの、この子、秋穂ちゃ、世良田さんが、体育の授業中に、貧血で倒れました」

 麗は保健室のグラウンド側の扉を引いて小声で叫び、秋穂を背負ったまま入室した。

「失礼しまーす」

秋穂は元気なさそうに挨拶した。

「いらっしゃい」

 養護教諭、木村庄子先生は二人を笑顔で迎えてくれた。ぱっちり瞳に卵顔。さらさらした黒髪を赤いリボンでポニーテールに束ねている、三〇歳くらいの女性だ。

 今保健室には、この三人以外には誰もいなかった。

「それじゃ、下ろすよ」

 麗はこう告げて、秋穂をソファの前にそっと下ろしてあげる。

「ありがとう、ウララちゃん」

 秋穂はぺこりと頭を下げて、ソファにぺたんと座り込んだ。

「世良田さん、これをどうぞ」

木村先生は、保健室内にある冷蔵庫から貧血に効くという栄養ドリンクを取り出し、秋穂に差し出した。

「ありがとうございます」

 秋穂はぺこりと一礼してから両手で丁重に受け取る。瓶の蓋を開けると、ちびちびゆっくりとしたペースで飲み干していった。

「和木さん本当に力持ちね。世良田さんは、貧血になったのは今回が初めてかな?」

「そうですねぇー。ワタシ、水泳の授業がもうすぐ始まるからダイエットしようと思って、ここ一週間は朝食ほとんど食べてなかったからかなぁ?」

 木村先生の質問に、秋穂は照れ気味に打ち明けた。

「原因は非常に良く分かりました。世良田さん、朝食を抜くのはダメよ。保健や家庭科の授業でも再三言われてるでしょ」

 木村先生は爽やか笑顔で忠告する。

「でも私、最近太って来たような気がするの」

 秋穂はぽつりと呟く。

「世良田さんの身体測定のデータ見ると、標準体重よりちょっと少ないから、少々増えたってダイエットはする必要ないからね。敏感になりすぎて太ってないのにダイエットしようとする子が本当に多くて……」

 木村先生はパソコン画面を見つめながら、ため息交じりに助言した。この学校の生徒達全員の身体測定データが、専用ソフトに保存されてあるのだ。

「標準体重が、多過ぎるような」

 秋穂は眉をへの字に曲げる。腑に落ちなかったらしい。

「秋穂ちゃん、意外と軽いね。五〇キロ無いんだ」

「あぁんっ、見ちゃダメェー」

「ごめんね、秋穂ちゃん」

「すぐに消すわね」

 木村先生は麗が両目を覆われている間に、データ画面を閉じてあげた。

「あのう、木村先生。ワタシが貧血になった原因、もう一つ心当たりがあります。ワタシ、今、生理中でして」

「そうだったの。それじゃいつも以上に貧血になり易いから、体調管理にはじゅうぶん気を付けるようにね」

「はい。あとワタシ、便秘も頻繁になりやすいです」

 秋穂は苦虫を噛み潰したような顔で、自分のおなかをさすりながら伝える。

「私はけっこう便通いい方だよ」

「ウララちゃん羨ましい。便秘はけっこうつらいよ。うぅーんってお腹に思いっきり力入れてもウサギさんのウンチみたいなのしか出なくてすっきりしないから」

「世良田さん、繊維質のものとか、お野菜はちゃんと食べてる?」

「ワタシ、お野菜はピーマンとかセロリとかアスパラガスとか、苦手なものが多くて、あまり食べてないです。お菓子の方をよく食べるなぁ」

「それも貧血の原因よ。ちゃんとお野菜も食べなきゃダメよ」

「はーい。これからは気をつけます」

木村先生からの忠告に、秋穂は照れ笑いを浮かべながら素直に返事した。

「私はキムチチゲとか、麻婆豆腐とか、トムヤムクンとか、グリーンカレーとか、ビビンバとかでお野菜摂ってるよ」

「ウララちゃん、相変わらず辛いもの好きだね」

「和木さんも、辛いものを食べ過ぎると、お尻のお医者さんのお世話にならなきゃいけなくなるかもしれないから、気を付けましょうね」

 木村先生はにこにこした表情で忠告する。

「あれって、中高年のおじさんがなるものでしょ? 私は大丈夫ですよ」

 麗は大きく笑った。

「いやいや、若い女性もけっこうなってる人多いみたいよ」

「えっ! そうなんですか。ひょっとして、木村先生も、あっ、いや、木村先生はもう若い女性じゃないよね、三十路だしおばさんだね」

 木村先生から伝えられたことに、麗は少し驚く。

「先生はまだ一度もなってないから。それと和木さん、二重に失礼よ」

 木村先生はニカッと微笑みかけ、麗の頭をペチッと一発叩いておいた。

「あいてっ。あれは便秘以上につらいよね。私、絶対なりたくないのでこれからは辛い物は少し控えまーす」

「ぜひそうしてね。胃にも良くないし。ところで世良田さん、今日は早退する?」

「いえ、少し休めば大丈夫ですよ。木村先生、ワタシ、一時限目が終わるまでちょっと休んでまーす」

 秋穂はそう伝えながらゆっくりと立ち上がり、ベッドの側へぴょこぴょこ歩み寄った。

「分かりました」

 木村先生は快く許可する。

「ふかふかして気持ち良さそう」

 秋穂はとても幸せそうな気分でベッドへ上がり、足を伸ばし仰向けに寝て、自分でお布団をかけた。

「秋穂ちゃん、お顔と首、汗かいてる。拭いてあげるよ」

 そう言うと麗は自分の首に巻いていた、デフォルメされた大相撲力士のイラストがプリントされたスポーツタオルを外し、秋穂の首筋に押し当てて、そっと撫でる。

「ありがとうウララちゃん。すごく気持ちいい」

「どういたしまして。あの、秋穂ちゃん、気分が悪かったり、頭とか、お腹とか、痛い所はない?」

 秋穂ににこっと微笑まれ、麗は照れくささからか、視線を逸らしてしまった。

「うん。ワタシは大丈夫だよ」

 秋穂は元気そうな声で答えた。

「そっか。よかったよ。あのう、木村先生、私もちょっと休みまーす。昨日、というか時刻的に今日ですけど三時頃まで大相撲のビデオ見ててものすごく眠たいので」

「あらあらっ、いいけど、勉強以外での夜更かしはダメよ」

 木村先生はちょっぴり呆れていた。

「あの、秋穂ちゃん、いっしょのベッドに寝ても、いい?」

「うん、もちろんいいよ。というか、その方が嬉しいな。ワタシ一人でおねんねするのは寂しいから」

 麗のお願いを、秋穂は快く承諾する。

「ありがとう、秋穂ちゃん」

 やったぁーっ。めっちゃ嬉しい。今ものすごく幸せだよ私。

 こんな心境の麗もベッドへ上がり、秋穂とぴったり引っ付くように寝転がった。

「それじゃ、おやすみなさい」

 木村先生はそう告げて、カーテンをシャッと閉めてあげた。

「こうしてると、幼稚園のお昼寝の時間を思い出すよ」

 秋穂は麗の方を向いて話しかける。

「お昼寝の時間、懐かしいな」

「ワタシなかなか起きれなくて、帰りのお迎えのバス乗り過ごしちゃったこともあるよ」

「ああ、覚えてる。秋穂ちゃん先生の車に乗せてもらってたね。私も危なかった時あったなぁ」

 そんな思い出話をしていくうち、二人はすやすや眠りに付いた。

「二人とも寝顔、とってもかわいいわ。子どもみたい。高校生に見えないな」

 木村先生はこっそり覗き込んでみたのであった。

 それからしばらく後、九時二五分の一時限目終了を知らせるチャイムが鳴り響くと、

「……おはよう、ウララちゃん」

「おはよ秋穂ちゃん。私よく眠れたよ」

 その音で、二人ともすぐに目を覚ました。ベッドから起き上がって、カーテンの外に出る。

「あの、ウララちゃん。この間の遠足の時も、バス酔いしちゃって迷惑かけちゃってごめんね」

「いいの、いいの。私が手の指骨折した時、秋穂ちゃんに食事とトイレのお世話してもらったし、困った時はお互い様だよ」

 麗は照れくさそうに言う。

「いえいえ。あの、ウララちゃん、ちょっと前にテレビで見たんだけど、ウララちゃんが日課にしてる四股踏みって、便秘にも効くみたいだね」

「うん、健康のために秋穂ちゃんも四股踏み毎日やった方がいいよ。私は一日二百五十回から三百回くらいやってるけど、秋穂ちゃんは初心者だから二、三十回でいいよ。いきなり数こなすと筋肉痛になっちゃうからね。今からここでいっしょにやろう」

「今から?」

「うん、木村先生もいっしょにやりましょう!」

「先生はスカートだから、パンツ見えちゃうから無理」

 麗に強くせがまれ、木村先生は苦笑する。

「私と秋穂ちゃんは今ジャージだから、問題ないね。秋穂ちゃん、私が手本見せるね。まず足を大きく広げて、腰を割って、ウ冠みたいにして、あと、つま先はなるべく外向きになるようにね」

「こっ、こうかなぁ?」

 秋穂は照れくさそうに、麗がやっているようにしてみる。

「そう、そう、わりといい形だよ」

 麗は褒めてあげる。

「ありがとう。でも、この格好恥ずかしいよ。和式トイレで用を足す時の格好以上だよ」

「恥ずかしがらずに、慣れればなんてこと無いよ。タカアシガニの気分になって、片方の足に体重をかけながらこうやってもう片方の足を高く上げて、下ろす時はずんって地面を踏みしめるの。どすこーいっ!」 

「ウララちゃん、すごく体柔らかいね。バレリーナみたい。足上がった時カタカナのトの字みたいになってる。ワタシはそこまで足高く上がらないよ。どっ、どすこーぃ」

 秋穂は小声で言いながら、そっと左足を上げた後、地面にとんっと下ろした。

「その調子だよ。今度は逆の足でやってみよう。どすこーいっ!」

 麗はもう一度四股を踏み、手本を示す。

「どす、こーい」

 秋穂ももう一度四股を踏んだ。

「だんだんいい形になってきたね。さあもう一丁、どすこーいっ!」

 麗、三回目の四股踏み。

「どす、こい」

 秋穂も三回目の四股を踏もうと足を上げ掛け声を出した。

次の瞬間、 

廊下側の出入口扉がガラリと開かれた。

「あのう、失礼します」

「失礼致します、木村先生」

 一組の男女が保健室に入って来たのだ。

「あっ、カジノスケくんに、リカコちゃん。はっ、恥ずかしい」

 秋穂が四股を踏んでいる所を、この二人に正面方向からばっちり見られてしまった。秋穂はゆっくりと足を下ろし、四股踏みは止めて気を付けの姿勢になる。

「恥ずかしがってちゃダメだよ。健康法なんだから。どすこーっい!」

 麗は四股踏みを続けながらにこにこ笑う。

「世良田さん、急に開けて、ごめんね」

 梶之助は申し訳なさそうに謝った。

「秋穂さんも、けっこういいフォームしてたよ」

「そんなことないよぅ」

 利佳子に微笑み顔で褒められ、秋穂は頬を赤らめてしまう。

「麗さんは、元気なのにサボっちゃダメでしょ。おかげでわたし達のチーム、ボロ負けだったよ」

「ごめんね利佳子ちゃん」

 麗はようやく四股踏みを止め、ぺこんと頭を下げる。

「お着替え持って来てあげたよ。あと上履きも。運動靴は下駄箱にしまっておいたから。はいどうぞ。こっちが秋穂さんので、こっちの小さいのが麗さんね」

 利佳子は二人の側に近寄り、手に持っていた籠の中から二人の制服と上履きを取り出し手渡す。利佳子も梶之助もすでに制服に着替え終えていた。

「サーンキュ」

「ありがとう、リカコちゃん」

 二人が受け取ってすぐに、

「わっ! ちょっ、ちょっと麗ちゃん」

 梶之助は慌てて体の向きをくるりと一八〇度変えた。

 麗は梶之助が目の前にいるにも拘らず、躊躇無く体操服を脱ごうとしたのだ。麗のおへそと、付けていた真っ白なジュニア用スポーツブラが、ほんの一瞬だけだが梶之助の目に映ってしまった。

「ダメダメ麗さん、ここで着替えたら。いくら幼馴染同士だからって」

 利佳子は驚き顔で注意すると、急いで麗の背中を押しベッド横に移動させ、カーテンを閉めた。

「和木さん、幼馴染でも、一人の男性として見てあげなきゃダメよ」

「はーい。以後気をつけまーす」

 木村先生からにこにこ顔で注意されると、麗はてへっと笑って舌をペロッと出した。

「ワタシも早く着替えなきゃ」

 秋穂もカーテンの内側へと隠れ、制服に着替え始める。

 麗と秋穂はほぼ同じタイミングでカーテンの外へ出て来た。

「休み時間、あと三分くらいしかないじゃん。早く教室に戻らなきゃ」

 麗は時計を見ながら呟く。

「次は英語だね。ワタシの世界史に次いで好きな授業だよ」

「秋穂さん、早退しなくても大丈夫?」

 やる気満々な秋穂に、利佳子は少し心配そうに問いかける。

「うん、たぶん大丈夫」

「秋穂ちゃん、まだしんどかったら、無理せずに早退した方がいいよ」

「でも、授業休んじゃうと、今日習うところ、ノートが取れないし」

 麗の助言に、秋穂は困惑顔を浮かべる。

「それなら私のノート、後で写させてあげるから心配しないで」

 麗は優しく微笑みかけた。

「大丈夫かなぁ?」

「大丈夫だって。私、今日は授業、ちゃんと真面目に聞いてノート取るから」

「本当?」

「うん、本当」

「和木さん、心配されてるのね」

 木村先生はにこっと微笑む。

「まあ、私、普段授業中いつの間にか寝てしまうことが多いですし」

 麗は照れ笑いする。

「ウララちゃんのノート、すごく言い辛いんだけど……文字の羅列になってて、色分けもほとんどされてないから、どこが要点なのか分かりにくいし、その字も、読みにくくて……あの、気に障ること言ってごめんね」

 秋穂は大変申し訳なさそうに言った。

「いやいや、全然気にしてないよ、紛れも無い事実だから。中学の時も提出した時いつもCか良くてB評価で返って来てたから、私も反省しなきゃって思ってるし」

 麗はまた照れ笑いする。

「じゃあわたしのノートを、写させてあげるね」

「ありがとうリカコちゃん」

「どういたしまして」

「そうした方が私もいいと思う」

 利佳子の計らいに、麗は苦笑いした。中学時代、利佳子のノートはどの教科もいつも最良のS評価だったのだ。秋穂も同じである。

「ではワタシ、今日は早退しまーす」

 秋穂は意志を固めた。

「私も早退しようかな。英語も三時限目の古典も四時限目の数Aもめっちゃだるいし」

「麗さん、ズル休みはダメよ」

 利佳子は呆れ顔で言う。

「冗談、冗談」

 麗は大きく笑った。

 四人は保健室から出て、一年二組の教室へと戻る。 

 二時限目始まってすぐ、秋穂は担任の寺尾先生に早退の旨を伝え、荷物を持っておウチへ帰っていったのであった。


         ※


「ただいま、五郎次爺ちゃん」

 同じ日の夕方四時半頃、梶之助が帰宅すると、

「おう梶之助、つい三〇分ほど前、慶一兄さんから宅配便が届いたぞ」

 五郎次爺ちゃんからこんなことを伝えられた。

慶一とは、旧陸奥国、岩手県宮古市に住む兵助の長男、つまり五郎次爺ちゃんの一番上の兄に当たる人だ。元力士で、引退後は漁師を生業にしている。御年一〇一なのだが、今でも現役バリバリである。そんな彼から秋刀魚、鯛、マグロ、ウニ、アワビ、蟹などなど三陸の海で水揚げされた新鮮な魚介類が、月に一回程度クール便で送られてくるのだ。これには慶一の、西宮の鬼柳家の一員に対するお礼の気持ちという意味合いがあった。

慶一はその長い人生において昭和三陸地震と東日本大震災、二度の自然大災害を経験し大津波の襲来を目の当たりにして来た。東日本大震災では彼の住居と家族は皆無事だったものの、所有していた漁船・漁具は津波により全て流されてしまった。そのさい、五郎次爺ちゃんと権太左衛門と寿美さんは阪神・淡路大震災時にこの家と離れの相撲道場が被災した際、慶一が修築支援をしてくれたお返しとして自腹で新しい漁船・漁具を手配し、以前と同じように漁が出来るよう復興への手助けをしてあげたのだ。困った時はお互い様というわけである。 

慶一からは稀に、猪や鹿や熊の肉などの山の幸が送られてくることもある。慶一はこれらの獣を銃は一切用いず素手で仕留めているそうだ。

「めっちゃ美味そう。今回はカツオとカレイまである」

「昨日獲れたばかりなんじゃと。刺身にして食おう」

 箱を開け、目に飛び込んで来た海の幸の数々に二人は興奮気味。

「慶一爺ちゃんも本当元気だよなぁ、あの年でまだ漁師やれるなんて」

「十代二〇代の若い衆と相撲を取って、今でも余裕で勝てるみたいじゃぞ」

「すご過ぎるな。一五〇歳くらいまでは生きそうだ」

 そんなわけで鬼柳宅の今夜の夕食は、寿美さんが捌いた刺身料理が中心となった。麗と彼女のご両親も誘って、賑やかな団欒を楽しんだのであった。


夜九時半頃、和木宅麗の自室。

麗がベッドに寝転がり、腹筋を鍛えていた最中、彼女所有のスマホ着信音が鳴り響いた。誰かから電話がかかって来たのだ。

「秋穂ちゃんからだ」

 番号を確認すると麗はこう呟いてむくりと上体を起こし、通話アイコンをタップする。

「もしもーし」

『あっ、ウララちゃん。今日はいろいろ迷惑かけてごめんね』

「いやぁ、どういたしまして。お体は、大丈夫?」

『うん、おウチ帰った後もいっぱい休んだからもう平気。すっかり元気になったよ』

「それはよかったよ」

『あの、ウララちゃん、明日のベルギー料理教室は参加しないの?』

「うん。プラリネとワッフル作りでしょ。激辛料理じゃないし。それに、相撲大会間近だし、稽古しなきゃいけないから」

 麗は申し訳なさそうに断る。

 淳甲台高校では国際交流も盛んに行われており、世界各国の料理や音楽、民芸などの文化に触れ合うイベントが頻繁に行われているのだ。

『そっか。あの、ウララちゃん、今度のお相撲大会、頑張ってね。今年もリカコちゃん連れて応援しに行くよ』

「ありがとう。去年は運良く準優勝出来たし、今年は初優勝を狙いたいよ。あの、秋穂ちゃん、私からも一つ頼みたいことがあるの」

『なあに?』

「明後日でもいいから、私の練習相手になってくれない?」

『ダッ、ダメダメーッ。無理、無理ぃ』

 麗のお願いを、秋穂は苦笑いを浮かべながらすぐさま断る。

「あーん、やっぱりダメかぁ。最近はパパも逃げるようになっちゃったから。じゃあ私、そろそろ切るね」

『うん、それじゃ、ばいばい』

 電話の向こうの秋穂は、とても嬉しがっている様子だった。

「梶之助くん、技の練習したいから、明日から私と稽古付き合ってね」

 麗は続いて梶之助にも連絡する。

『えー、またぁ』

「今年は本気で優勝狙ってるから、頼んだよ!」

 麗はこう告げて、電話を切った。


       ※


「いってぇぇぇぇぇー。麗ちゃん、もう少し優しく投げてよ」

「優しく投げたよ。梶之助くんが受身取るのが下手なだけ。さあ、早く立って。次は〝首捻り〟と〝徳利投げ〟と〝素首落とし〟の練習したいから」

「そっ、それは勘弁」

 そういうわけで梶之助は五月三日と四日の両日、鬼柳相撲道場にてお昼過ぎから夕方頃まで麗の練習相手に無理やり付き合わされたのであった。


 四日の夜、和木宅の夕食団欒時。

「麗、明日のお相撲大会、今年もお母さんは見に行っちゃダメ?」

「パパも麗が相撲取るところ、カメラに収めたいんだけどなぁ」

「絶対ダメだよ。負けるところ見られるのは恥ずかしいし、緊張して勝てる相撲も勝てなくなっちゃいそうだから」

麗は両親とこんな会話を弾ませる。両親には、見に来て欲しくない様子であった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る