第3話 冬はつとめて // 苦しみが永遠のように思える季節に
冬はつとめて。
雪の降りたるはいふべきにもあらず── 『枕草子』 清少納言
*
季節が冬へと移り変わるころ、私のエリーへの想いは確かなものへとなっていた。
私は夢を見ていたのだろうか? 覚めながらの夢を。
誰が証明できるわけでもない私の想いは、しかし、ただ息をするだけの植物となった私の身体に、確かに宿っていたのだ。
エリーが私を訪ねに来るたび、私の胸は確かに高鳴っていた。
現うつつの夢を漂いながら、それでも私の想いは日に日に深まる……。
私は、身体の自由を失ってはじめて、心の自由を知ったような気がした。意識のある間中、私は柄にもなくエリーへの愛を歌っていたのだ。
「ウィルってば、時々とても幸せそうな顔をするのね。そんな風に見えることがある気がするの」
そうだ……そうだよ、私は幸せだ。
君は毎日私の所へ来る。
私はもう必死になってテニスボールの後を追う必要も、金にまつわる処々の面倒に追われる必要もなくなっていた。ただ君を待っている。君の声を待っている。君の手が私の手に触れる瞬間を、待っている。
もちろん、そんな安穏な幸せはそう長く続かなかった。
やがて季節が巡り、本格的な冬が始まり出すころ、私の真の苦しみが始まったのだ。
私は植物であり、人ではないのだと思い知る時が──エリーの傍に、「生きた」男が現れたことで、私は自覚していった。
*
その日、私はあまり気分が良くなかった。
可笑しなもので──寝たきりの身となった私にも、こうした身体のリズムが脈々と流れていて、調子のいい日は爽快だったし、良くない日は身体が重かった。動かせもしない肢体であるのに、重く感じるのだ。
この日がまさにそうで、私に出来たことといえば、なんとかエリーの声を聞き取ることくらいだった。
それも意識を研ぎ澄ませてやっと聞こえるというレベルで、視界は薄暗い。
いつも通りに病院へやってきたエリーが、「気分はどう?」 私に聞くので、最高だよ、と心の中で皮肉ったくらいだ。
するとエリーは、私の腕を優しく撫でた。
ある男性の声が病室の入り口から聞こえてきたのは、それからすぐだった。
「今日も来ているのかい、エリー。感心だ」
若くはあるが落ち着いた大人の声で、青年か、ともすれば二十代後半くらいの、教養のありそうな喋り方だった。
聞こえたのは声だけだが、彼が何者か、私には心当たりがあった。
私の副担当になっている、今年研修医から上がったばかりの新米医師、ジョン・クラークソンだ。私は彼から何度も検査を受けていたので、声くらいは記憶していた。
「こんにちは、クラークソン先生」
案の定、エリーは律儀に挨拶をした。
「ジョンでいいよ。私はまだまだ新米だからね」
クラークソンは穏やかに答える。
エリーの手が、さっと私の腕から離れた。
私には何も見えなかった──彼らがどんな表情で向き合っているのか、どれほどの距離が二人の間にあるのか、どんな空気が二人の間に流れているのか。
それにも関わらず、私の胸はざわりと不気味な音を立てて高ぶり、緊張し出したのだ。
嫌な、予感がした。
ぞわぞわと、虫が肌を昇ってくるような、不快さがまとわり付いて離れなかった。
エリーはクラークソンに向けて言った。
「感心だなんて、そんな風に言ってくれるのは貴方だけです。皆、私は馬鹿なことをしてるって思っているみたい」
「言いたい人間には言わせておけばいいさ。誰も、本気で君たちを理解しようとしていないだけだ。僕は、君は正し い事をしていると思う」
「ありがとう……そう言ってもらえると、少し気分が楽になります」
「少し隣に座ってもいいかな? 君たちの邪魔にならなければ」
「ええ、構いません、どうぞ」
そんな会話を聞きながら、私は彼らの様子を脳裏に想像し、あらぬ焦りを感じ続けていた──二人は何気ない 言葉を交し合っていただけだ。クラークソンはエリーに学校の様子などを尋ね、エリーはそれに真面目に答えている 。
言うなれば、それは、年の離れた兄妹のような雰囲気であったが──私はまず、そこに焦りを感じたのだ。
今の私にはどうしたって出来ないことが、このクラークソンには可能だ、という事実に。
エリーの兄でいること。
エリーの質問に答えること。
こんな、本来なら容易なことが私には出来なかったし、可能だったころも、全くといっていいほどしなかった。もし出来たなら、私はこの時、歯を食いしばっていただろう。──それさえも私には出来なかったが。
そんな私を尻目に、クラークソンは穏やかな調子で続ける。
「何か悩みがあれば、いつでも相談してくれていいんだよ。出来るだけのことをしよう」
「ありがとう……ジョン」
そんな風に会話は区切られ、その後、クラークソンは挨拶だけ残して病室を出て行った。
私と二人きりに戻ったエリーは、ふっと短い溜息を吐いて、私に向かって言った。
「いい先生ね」
いい先生?
それだけだろうか?
エリーの手が再び私の腕に優しく触れるのを感じたが……私の心は、嵐の海のように荒れはじめていた。
エリーは真面目で、加えて信心深いタイプでもあったから、少なくとも私の知る限り、異性との交遊はあまりなかった。パーティーへ参加することさえ稀だったくらいだ。
重い黒縁めがねに代表される彼女の身持ちの固さは、同年代の少年たちからは敬遠されていたことだろう。
しかし、この頃になると、エリーは眼鏡をコンタクトに変えていた。
細いばかりだった身体も、ゆっくりと丸みを帯びていき、少女から女への見事な開花を見せていたのだ。
──私が以前の容姿のままだったならば、彼女の変化を喜びと共に受け入れたはずだ。
この期に及んで自惚れるのも馬鹿馬鹿しいが、私はエリーの隣に立って何一つ見劣りしない美貌を誇っていたのだ。その上、始末の悪いことに、過去の栄光は私にプライドを植え付けていた。
エリーに相応しいのは私だ。
私の方が、クラークソンより彼女に相応しい。
そんな事を、干からびた顔と身体でもって、考えていた。笑止千万とはこのことだろう。
あの日を境にジョン・クラークソン医師は、エリーが私の病室へ訪れるたび、必ず顔を見せに来た。
他愛のない世間話をいくらかした後、
「僕に出来ることがあれば、遠慮なく相談してくれ」
と頼もしいことを言い残して、仕事へ戻る。
するとエリーは、
「優しい人ね」
とか、
「こんな先生が付いていてくれて、良かったわ」
といった賛辞を、ポツリと口にするのだった。
私の前で。
これが、どれだけ悔しかったか、誰に想像できるだろう……。
私は叫び出したい気分だった。今すぐこの窮屈なベッドを飛び起き、のびたスパゲッティのようにぶら下がった鬱陶しい栄養剤のチューブをもぎ取って、エリーの前に立つ。
私はエリーに触れ、彼女に愛を告白し、全ては過去のものとなるだろう。
そんな夢を見た。
しかし現実は残酷で、悲惨で、情けないものでしかありえない……私は相変わらず、ベッドの上で呼吸を繰り返すだけの物体で、立ち上がることはおろか、声を出すことも叶わなかったのだ。
毎日のように繰り返されるエリーとクラークソンの温かい会話を聞きながら、彼らが日に日に親しくなっていく様子を見ている……。
その間にも、エリーはますます美しくなっていく。
そんな彼女にクラークソンが惹かれているのは、間違いなかった。
嫉妬に狂った男の目から見ても、ジョン・クラークソンは誠実で真面目な男だった。
医師という堅実な仕事を持ち、穏やかで頼りになる上に、独身である。特に目立った容姿ではないが、均衡の取れた中背をしており、人好きのする童顔を持っていた。
私はこの男のあら探しをしたが、見つかったのは精々、私の方が美男子だったとか、私の方が資産があったとか、その程度の過去との比較でしかなかった。
──負けを認めるのは容易ではなく、私は人間として男としてクラークソンに勝てないのが分かると、エリーを引き合いに出し始めた。
エリーが会いに来ているのは私だ、と。
エリーは私に会いに来ている。クラークソンはただ幸運にもここで働いているだけで、「ついで」に過ぎないのだと……。
しかし欺瞞は欺瞞でしかない。
真実が現実をあざむくことはなく──私は、次第にありのままの実態を受け入れざるを得なくなっていった。
「エリー」
と、彼女の名を呼ぶ。
私ではない。これはクラークソンだ。
「君が好きなんだ……。僕のことを真剣に考えてくれないだろうか」
エリーは答えない。しかしクラークソンは畳み掛けるように続けた。
「分かっている。君は兄上のことが好きなんだろう。それをどうこう言うつもりじゃないんだ……君は立派なことをしていると思うし、そんな君を尊敬している。しかし、今君を抱きしめられるのは僕だ。僕だけなんだよ」
するとエリーは、うな垂れるように視線を床に落とした。
しかし、クラークソンがエリーの肩を掴むと、顔を上げて彼を見つめ返す。
「急がなくていい。でも、僕は真剣だ。考えておいて欲しいんだ」
クラークソンの台詞に、エリーは、色よい返事こそしなかったものの、断りもしなかった。
長い冬だった。
長く寒々しい冬だった。
長く苦しい、灰色をした、荒涼の冬枯れ。
私の想いは、また凍土に埋まってゆく。そうして、氷の心でもって、全てを忘れてゆくのだろうか。
エリー……私の義妹。
重い黒縁めがねの、小枝のように細い、私の義妹……。
*
そのまま冬は過ぎて、春になった。
当初、僅かではあるが見込まれていた私の目覚めは、結局この頃になっても起こらなかった。私は相変わらず眠り続け、エリーは相変わらず私の元を訪ね続け、クラークソンはそんなエリーを励まし続けていた。
そして、気が付けば春は終わり、灼熱の夏が始まっていた。
エリーは高校を卒業し、希望していたカレッジに入学して、文学を学んでいる。彼女の夢は作家だという。こんなことも、私は、植物人間になって初めて知ったのだ。
私が植物人間となってから一年が経つと、さすがのエリーも、少しずつではあるが、希望を失いはじめていった……。私の枕元で泣くことが多くなった。
「目を覚まして……ウィル、お願いだから……もう、負けてしまいそうで怖いの……」
エリーはいまだクラークソンを男として受け入れていなかった。
しかし、根強いクラークソンの求愛に、彼女が一種の救いを見出してもいるのも確かだった。滑り止めといってしまえば言葉は悪いが、事実、エリーが悲しみに崩れ落ちたとき、彼女を本当に支えてやれるのはクラークソンの方だったのだから、当然ともいえる。──私ではなく。
ある真夜中のことだ。
季節はいつだったか、何年目だったか覚えていない。一年を過ぎたころ、私は年月の節目を数えることを放棄していたからだ。
クラークソンが私の枕元へ来た。
そしてしばらくの間、この医師は私の顔をまじまじと見つめ続けた後、顔を歪め、ゆっくりと瞳に涙を溜めていった。
「どうしてお前なんだ……何も出来ないくせに……」
固く拳を握りながら、クラークソンは低い声で言った。
「彼女が、お前を守るためにどれだけ努力をしているのか、知っているのか? 人妻に手を出して刺された、最低な男であるお前をだ……。おい、聞こえているんだろう?」
私は答えなかった。
「返事くらいしろよ! 僕は、お前のようなぼろ布に負けなければならないのか!」
私は答えなかった。
「もう……もう、いいだろう……なぁ、エリーを開放してくれ。彼女は素晴らしい女性だ。幸せになる資格があるんだよ……」
薄暗い病室の中、クラークソンの抑えた嗚咽が漏れた。
私は、答えなかった。
それから何日か、何週間かが過ぎたころ、エリーが私の耳元に小さな告白をした。
「ウィル……私は、駄目な子ね」
疲れた顔をして、僅かな自嘲の笑みを見せながら。
エリーは真面目で慎み深かったが、自身を嘲るようなタイプではなかったから、私の心は痛んだ。しかし、そうだ……クラークソンの言うとおり、私には何も出来ない。
「本当はね、私、心のどこかで、貴方が目覚めなければいいと思っているの……。今のウィルは私だけのものだけど、目を覚ましたら、また綺麗な女の人たちのところへ行ってしまうって、分かっているから……」
そう言って、エリーは私の頬に触れ、慈しむように肌を撫でた後、涙を零した。
「ごめんね……」
ついに私は、汚いぼろ切れどころか、不幸の病原となったのだ。
私の命は二人の人間の幸せを邪魔し、財産を切り崩し、病院の一角に生かすことも殺すこともできない邪魔者として横たわっている。
私は死ぬことさえ出来なかった。
──生きることも出来ないくせに。
私は、医師や看護士の手がなければ排泄の始末さえ出来ない身でありながら、クラークソンの恋路を塞いでいた。私はエリーを泣かせていた。私は何も出来なかった。何も。
苦しみは永遠に思えた。
この冬があけることはないのだと、この氷河が溶けることはないのだと、いつしか諦めはじめていた。
それでも私には夢があった。
──ある朝、私は何事もなかったかのように目を覚まし、周囲を驚嘆させて、エリーの瞳を喜びの涙で濡らす……そんな夢が。
『私はエリーに触れ、彼女に愛を告白し、全ては過去のものとなるだろう』
私と彼女は結ばれ、どこか郊外に美しい家を建てて、週末は青い芝生の上で駆け回る子供たちを眺めながら、お互いの肩を抱き合う。私は、多分、家からそう遠くないところに、スポーツ用品店でも始めるだろうか……。
私が帰ると、エリーは私を待っていて、両手を広げて迎えてくれる。
エリー、エリー、エリー。
私には夢があった──叶わない夢が。
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