八章 昔話
久遠まゆらは、先程の湯山栄吉の話を思い返していた。
藤田内科から湯山家に戻ると、湯山に重苦しい声で話があると言われ、そのまま座敷へと招かれた。
「先生は三条太夫からの紹介だから、信用しとるんです」
湯山はまゆらが何度やめてくれと言っても、「先生」呼びをやめない。それでまゆらはもう訂正を入れることをやめてしまった。
「三条さんは、そんなに信用しない方がいいと思いますけど……」
三条というのは、まゆらに「仕事」を斡旋している男である。出自は地方の民間呪術師らしく、その方面をよく知る人物からは「三条太夫」などと呼ばれている。
ただ、まゆらのような人間を斡旋しているということからも、その仕事が怪しいことは疑いようがない。実際まゆらと同じように三条から依頼を受けている者の中には、腕は確かだがどうあっても信頼出来ないような人間も紛れこんでいる。
「いや、わしらのような者は、あの辺りの太夫の凄さをようわかっとるつもりでな。それが紹介してくれたいうことは、先生も充分に力を持っとるということになる」
「いや、私は何も……」
純粋な力という面で見れば、まゆらは三条よりもはるかに強い。
まゆらは見える。
三条は使う。
その差は大きい。
「とにかく、わしは不安で堪らんのですわ。二体目の樒鬼――あんなもんがまた出てきたというだけで、もう……」
「樒鬼って、村に一つしかないんですよね?」
「そういうことになっとるが――わしは昔、あの、幸っつぁんが纏っておった二体目の樒鬼を見たことがある」
「それって――」
「先生にはきちんと話しといた方がええと思ってな。なにせ、風流しを防ぐために依頼させてもらったんですからな」
「風流し? その二体目の樒鬼と風流しが、関係があるんですか?」
湯山は重々しく頷く。
「そう――風流しは、二体目の樒鬼が起こすもんだと、言われとったんです」
そして湯山の話が始まった。
湯山がまだ「風の舞い」にも出られない頃だったから、実に九十年近く前になる。大正と昭和の境目辺り――その辺りはよく覚えていないそうで、とにかく湯山が幼い子供だった頃の話である。
湯山は生まれ付いてと言ってもいいような風狂だった。物心が付く前――この頃も正確にはその時期に当てはまるだろう――から、毎年毎年風祭を楽しみに生きていた。
風太夫を務める家柄からというのもあるだろうが、それにも増して湯山は風祭が好きだった。
だが、そんな湯山にもこいつには敵わないと思わせる風狂が、幼馴染に一人いた。
千葉幸雄は湯山をはるかに上回る風狂である。湯山より一つか二つ上の千葉は、昔からガキ大将気質で、喧嘩っ早くて腕っ節も強かった。
そんな千葉が特に熱中するのが風祭だった。千葉もまだ「風の舞い」に出られない年齢だったが、大人でもなかなか出来ない風祭の通しの見物を遂行しようとして、無理矢理家に帰されたという逸話を持つ。それが確かその前の年の出来事だった。
その逸話からもわかる通り、千葉はとにかく行動力と、風祭に対する鋼の意志があった。幼い子供に一睡もせずに祭を見続けさせるだけの、あまりに強靭な意志である。
その年の風祭は、ウチギリの前から延々と雪が降り続き、一向に止む気配がなかった。フキナラシの前には風溜の神社の付近の雪かきをしなければならない程だった。
湯山は大雪に喜びはしなかった。ただ、風祭が始まるという昂揚感で身体がいっぱいになり、フキナラシ当日の朝から落ち着きなく家の中を走り回り、家族に叱られたことをよく覚えている。
いよいよ舞いが始まる頃になると、湯山の興奮はピークに達していた。
「おい栄吉、俺ァ今年こそ最後まで風を見るからな」
隣で舞いを食い入るように見ていた千葉が、にやりと笑って耳打ちする。湯山と千葉は親分子分というよりは、兄弟のような間柄だった。勿論年長の千葉が兄貴分であるが、他の子供達に振り撒くような横暴さは、何故か湯山に対しては鳴りを潜めるのだった。
「幸っつぁん、僕も最後まで見たい」
湯山が言うと、千葉は悪戯っぽく口角を吊り上げる。
「そうか。ならお前も一緒に来いな」
「風の舞い」が終わると、湯山達年少組は家に帰るように促された。湯山はてっきり千葉が激しく抵抗するものと思っていたが、意外にも千葉はすんなりと家に帰る子供の列に加わっていた。
湯山は内心ほっとした。とにかく眠くて敵わない。いくら風祭に熱中すると言っても、所詮はまだ稚い子供の身体。夜が来れば生理的に眠くなってしまう。
自分の不甲斐なさを痛感すると共に、千葉の心底からの風狂ぶりには感服してしまった。
だが、あそこまで言っておいておめおめと帰っていったのは何故だろう。湯山はその理由をすぐ知ることになる。
湯山は家に帰ると小便を済ませて着替えるとすぐに床に入った。強烈な眠気のおかげで、寒さも感じずにすぐに寝入ってしまった。
「栄吉。おい、栄吉。何寝とるんじゃ」
枕元で潜められた声がしきりにして、何者かが湯山の身体を揺さぶっている。
「さ、幸っつぁん? なんで?」
千葉は湯山が半分寝ぼけて驚いた声を上げると、しいっと声を潜めるように注意する。
「なんでってお前、風を最後まで見ると決めたんじゃろが。そのまま居残っても無理矢理帰されるっつうのは去年わかったから、今年は一旦帰って忍び込む」
「忍び込む?」
「そうじゃ。見物客は大勢おるから、その陰に隠れたらまずばれん。ほら、何しとる。早う行かんと樒の舞いが始まってまうぞ」
湯山は千葉の計画に度肝を抜かれたが、すぐにその魅惑的な案に乗りたくなった。興奮が再燃し、いつしか眠気も忘れていた。
「わかった。僕も行く」
湯山は素早くさっきまで着ていた服に着替え、家人に気付かれないように千葉と並んで家を出た。
外は相変わらずの雪だった。道は殆どが雪で埋まり、街灯もから、殆ど真っ暗闇である。
道が見えず、灯りもない。湯山は不安になったが、千葉は大丈夫だと胸を張った。
「お前の家まで行けたんじゃ。道くらい身体が覚えとる」
それは千葉の家のすぐ隣が湯山の家だからではないかと言おうとしたが、湯山は口を噤んだ。
だが、悪い予感はすぐに的中する。どこまで歩いても風溜の灯りが見えてこない。それどころか家から漏れる光すら見える気配もない。まさか山の中に入ってしまったのではないかと湯山はしきりに不安に駆られた。
千葉も粋がって見せていたがまだ小さな子供だ。湯山が泣き出しそうになる度に「大丈夫じゃ」と元気づけるが、自らもいつ泣き出してもおかしくなかった。
どれくらい歩いただろうか。もう駄目だと思いかけたその時、雪に反射した光を二人は見つけた。
もはや風溜に忍び込むことなど頭になかった。とにかく大人に助けを求め、一刻も早く安心感を得たかった。それで怒られたとしても甘んじて受け入れる覚悟は出来ている。この真っ暗闇を彷徨い続けるくらいなら、そっちの方がよっぽどマシだった。
光が漏れているのは小さな物置小屋のような荒ら家からだった。村の中でこんな小屋に見覚えはない。だが今はとにかく人のいるところへ駆け込みたい。二人は揃って引き戸を引いた。
中は小便の臭いで満ちていた。湯山は思わず鼻を覆う。
一つの影が立っていた。その身体は蓑に覆われ、顔には何か被り物をして――その影がゆっくりとこちらへ振り向く。
赤い面にざんばら髪の装飾。爛々と金色に塗られた両眼。大きく裂けた口からは巨大な牙が覗く。
「樒鬼――」
千葉が呆然として呟く。その姿は紛れもなく樒鬼そのものだった。
だが、ここはどう見ても風溜ではない。時間的に樒鬼は今、風溜で大立ち回りを演じているはずである。
「あっ!」
そこで湯山は見てしまった。
樒鬼の奥――小屋の隅の辺りで、倒れている人影があった。
人影と言っても、湯山達よりはるかに小さい。まだ赤ん坊と呼んでもいいくらいの幼児だ。
それが、ぴくりとも動かない。しかもその体勢は蛙のような仰向けで、まるで首を掻き毟ったかのように腕が垂れている。よく見ればそこから小便が垂れ、樒鬼の足下まで伝って水溜りを作っている。
「お前達」
地の底から響くような、恐ろしく低い声を樒鬼は発した。
樒鬼がぬっと前に出るが、湯山と千葉は後ずさることも出来なかった。この異常な光景に、腰が抜けてしまいそうだった。
樒鬼はじっと二人の顔を交互に見つめていた。
そのままどれくらい沈黙が続いただろう。樒鬼は小屋の真ん中に置かれたランプ――これがこの小屋の唯一の光源だった――を手に取ると、二人を有無を言わさず外に押し出した。
湯山は訳がわからないままだったが、身の危険だけは本能的に強く感じていた。ああ、この樒鬼はきっと僕達を取って食ってしまうんだ――恐怖が頂点に達していたが、湯山は悲鳴を上げることはなかった。いや、恐怖のあまり、声を出すことを忘れていた。
「行くぞ」
低い声がして、湯山ははっと樒鬼の顔を見上げる。樒鬼は数少ない露わになった身体である手で湯山の小さな手を握った。
――連れていかれる!
湯山は恐慌状態に陥った。この樒鬼は、自分をあの世へと連れていく気なのだ。手を振り解かなければと頭では必死に抵抗しようと意識するのだが、圧倒的なまでの恐怖が判断力を奪い、唯唯諾諾と樒鬼の言葉に従うことしか出来なくなっていた。
――助けて!
湯山が金魚のようにぱくぱくと口を開けていると、千葉がぎゅっと湯山の手を握った。
「幸っつぁん――」
込み上げてくる悲鳴や嗚咽を押し戻し、何とかそれだけ口にする。
「大丈夫じゃ」
千葉のこの言葉の何と心強かったことだろう。虚勢を張っているだけなのは明らかだが、自分より頼りになる者がその言葉を口にしてくれたことは、何よりの励みとなった。
生きたまま三途の川を渡るような心持ちの行進は恐ろしく長く感じられた。だが永遠に続くかと思われた行進は、突如現れた目映い光によって打ち切られた。
その光の源は、紛れもない神社――風溜だった。
「もういいな」
樒鬼は握っていた湯山の手を離すと、二人の顔をはるか高くから見下ろして低い声で言う。
「いいか、今見たことは決して誰にも話してはならん。もし話せば、風流しに遭うと思え」
それだけ言うと樒鬼は素早く踵を返し、元来た道を足早に去っていった。
風溜では、樒鬼が舞いを奉じていた。
湯山は話し終えると冷や汗を拭い、まず謝った。
「すみませんなこんな話をして。気分を悪くされたりは……?」
「いえ、大丈夫ですよ」
まゆらは小さく笑って返す。
湯山は置時計を見て、おおもうこんな時間だ――と立ち上がる。
「お昼にしましょうか」
昼食を食べ終え、久保が眠ったことを確認すると、まゆらは自分に与えられた客人用の部屋で一人沈思黙考する。
風流しがどういうものなのか。まゆらにはそれはもうわかっていた。先程の湯山の話で確信は得られた。
だが、その事実と去年起こった風流しは全く結びつかない。
それはつまり――去年起こった事件は風流しではないということではないか。
そこまで考えてまゆらは一人苦笑する。これではまるで探偵だ。自分に与えられた役割は霊能者であって、筋道立てて謎を解くことではない――まあ、この事実に行き着いたのは、およそ正当な手順ではないのだが。村の中を埋め尽くすそれを思い出し、まゆらは小さく身震いする。
そこでふと、意識が外に戻っていく。
何やら家の中が慌ただしいことに、まゆらは今になって気付いた。
部屋を出て玄関の方へ向かうと、玄関で恵美子と村の者が互いに周章した様子で話していた。
「あっ、先生」
恵美子はまゆらの顔を見てそう口にする。湯山同様家族も「先生」呼びをやめない。
「どうかしたんですか?」
「いやね、駐車場の方で火事があったそうなんですよ」
「火事?」
「ええ、どうも車が燃えてるそうで。早く見つかったから被害は火元の一台だけで収まる見込みだそうですが」
久保を起こした方がいいだろうか――まゆらはそんなことを思った。
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