蒼天の君
松原冬夜
第1話 蒼天の君
展望塔から眼下に見える光景を前に、改めて確信する。
ここはいわゆる、異世界だと思う。うん、少なくとも地球ではないし、日本ではない。
石造りの家々の間を縫うように石畳が敷かれた大通り。街並みは整然としている。そこから少し小高くなった丘へと一本道が延びている。丘を少し上ったところ、敷地を囲むようにぐるりと取り囲んだ城壁の内側には森がある。その森を一部切り開いたところに花々が咲く庭園があり、噴水を置いた広場。そして白亜のお城が、城壁の四隅に設えられた展望塔に囲まれ見守られるようにそびえ立っていた。
洋風のお城が森の中に建っている光景は、日本ではなかなかお目にかかれないだろう。遊園地のようなテーマパークでは交通の便が悪すぎて、商売にはならないから、その可能性は却下だ。
一瞬、ヨーロッパ辺りの過去へとタイムスリップをしたのかと思ったけれど、それもあり得ないでしょう。
ファンタジー小説に出てくるような竜を使役して、乗り物としている国なんて……どこにありますか。
そんな世界で、私は「蒼天の君」と呼ばれている。
洋風世界に和風っぽいなと思われるかもしれないけれど、あくまで私が理解した言葉の意味を日本語に当てはめただけだ。もしかしたら、違う意味なのかもしれないけれど。
響きを聞くと「アスール」と言っている。続けて「シエロ」と聞こえるときもある。
「アスール」というのは青色を意味するところらしく、「シエロ」は天だと思う。空を指差しながらそう呟いていたので、間違いないだろう。
親しくなった人はもっぱら「アスール」と私を呼ぶ。音の響きが似ている部分があるためか、何となく私の耳は「アリス」と聞きとる。この珍妙な世界に迷い込んだ不思議の国のアリスを無意識に自分にダブらせてしまったせいなのかもしれない。
酸いも甘いも経験した大人の私は少々、童顔が入っているとはいえ、とても少女とは言えないだろうけれど。
私を保護してくれた人がこの国――アールギエン帝国の皇太子さまだったりしたので、私は皇太子さまのお城で皇子の客人として、高貴な扱いを受けている。だから「蒼天の君」と聞きとったわけ。
名前はちゃんとある、葛城里桜。小学校の低学年のときには自分でも書けなかった「かつらぎ、りお」という名前はここでは誰も呼んでくれない。
まあ、それはある意味しょうがないだろう。誰も私の名前なんて知りませんから。
「
人が空から降ってくるなんて、非常識極まりないと言ってしまったら、話が続かないので、ここは黙って私の説明を聞いて欲しい。
大体、よく考えて欲しい。空から人が降ってくることが絶対にあり得ないなんて、そんなことは言いきれないはずだ。
スカイダイバーが地上に降りるのは、空からだろう。
その場合はパラシュートを開いて落下するのだろうし、私は何もつけずに落ちてきたらしいのだけれどね。
どこから? 空から。そういう話だ。私自身はそのときの記憶はない。
私のあちらでの記憶は、会社からの帰宅途中、高熱で朦朧とした意識で家路についていたところまで。
何でこんなに死にそうになりながら仕事をしているのかしら、と思っていたからつい嫌気がさして空を飛んだとか?
まさか。もっと切実な理由で死を選びたい。
どういう事情から、私がこの世界に空から降ってきたのかわからない。でも、竜で空を飛んじゃう人たちがいるわけだから、人が空から降ってきたところで、ここの人たちは驚かなかった。
言葉も理解できない、帰る場所もわからない可哀相な人間と同情されて、話がとんとん拍子に進んで、皇太子さまの保護を受けることになった。ちなみに、私を拾ってくれたのは皇太子さまの護衛官で、この国一の竜騎士さまだという。
……凄い人に拾われたわけで、運が良かったのかな?
ハッキリ言って、いまだに自分が置かれている状況が把握できていないのだから、私が言えることは……うん、まあ、怪我をせずに無事に着地できて良かったわよね。そんなことくらいだろう。
何だか他人事みたいに落ち着いているなと、自分でも思う。
でも、人間を二十何年もやっていたら、それなりに落ち着くものでしょう。
何々、一体どうなっているのっ? ――なんて、声の限りに叫んで、パニックっていられるのは十代の特権。
もう二十を過ぎた……ああ、四捨五入すれば三十になろうかという――ぶちまければ、二十九歳ですけれど――女がやると、結構ね、イタイと思うのよ。
ここはどこ? 私は誰? なんてね。混乱に涙を流して美しいのは、可愛い女の子や美人の特権。
もう結婚や恋愛は面倒だと、女を捨てに走っている私からしたら、この奇想天外な小説のような状況で、ヒロインを気取る気力もない。
大体、こういったシチュエーションは、児童文学か中高生向けのライトノベルで、主人公は十代が普通じゃなくって? 少なくとも、もう直ぐ三十路が主役を張るなんて、間違っているでしょう。
でも、現実が目の前にあるのなら、なるように、なれ。その一言に尽きる。うん、だってね……もう実は、ここに来てから一年が過ぎていたりするのだから、慌てるにも時期を逸したといっていい。
大体、元の状況に戻りたいのかと聞かれたら、首を捻ってしまう。
逃げたいと思うほどにあちらが嫌いだったわけではないけれど、帰りたいと思うほどに好きだったわけでもない。
執着するほどに、あちらに大事なものを残してきていないのだから、慌てることなんて何もない。
悲しいことに中三の時に死別して両親はいないし、現在、恋人とかそういった人もいない。募集もしていない。
だから、とりあえずはこちらで静かに暮らそうかと思っている。今のところ、私はそれを許されていた。できることなら、このまま何事もなく過ごしたい。
帰るにしても、浦島太郎みたいなのはゴメンだもの。
だってね、ちょっとだけ、その心配があるの。私がしていた腕時計の回転が速いのよ。それって、こちらの時間があちらよりゆっくり流れているということだと思う。時差がどれぐらいなのかわからないけれど。
もし帰っても浦島太郎状態になるのだとしたら、こっちに残る。もっとも、帰る方法なんて見つからないんだけどね。
ぼんやりと空を見上げていると、視界が暗く陰る。風が流れて、髪が舞踊った。
青い空を一部、黒く塗りつぶした影はファンタジー映画に出てくるドラゴンの姿をしていた。両翼を羽ばたかせた姿は体長五メートルくらいあるだろう騎竜の――人が乗る竜を騎竜という――背から顔を覗かせた青年が声を張り上げた。
逆光で顔は見えないけれど、お日様に反射している金色は、私を拾ってくれた竜騎士さま――エスクードだ。二十六歳のエスクードはなかなかの美青年だ。今は顔が見えないから、描写しがたいけれど。
「そこにいるのは、アリスか」
エスクードはアスールと言っているんだろうけれど、やっぱりアリスと聞こえるな。
それが私を呼んでいるのだとわかっているから、私は聞こえたことを示すために腕を振り上げた。
基本的に私はこの国の言葉を知らない。ただ、この世界で一年暮らしていたら、自然と言葉の意味するところを理解するようにはなっていた。
もっとも、私が彼らの話す言語を理解していることを周りは知らない。知られないようにしている。何故って? 言語を理解していると言っても、まだ日常会話程度のものだ。そんなところへ普通に話しかけられても答えようがない――第一に、私はこの国の言語を喋れない。
だから、わからないふりをする。すると、相手は身振り手振りを加えて、会話してくる。この身振り手振りが言葉の意味を教えてくれた。あれですよ、ジェスチャーで会話。外国語なんて理解できないけれど、不思議と意思の疎通ができちゃう感じ。
文字の方はエスクードが子供向けの絵本で教えてくれた。そちらの方はだいぶ覚えたので、筆談も単語の組み合わせならできる。その際、丁寧に発音してくれたことが言語を聞きとることができる助けになったのだろう。エスクードはそんなこと、気づいていないだろうけれど。
というわけで、わけがわからない世界でも一年を過ごしていれば、前に聞いた言葉が何を意味するのか、それなりにわかってきたということだ。
「動くなよ」
エスクードの声が聞こえた。
何を言われているのか、私がわかっているはずがないのに――少なくとも建前上はそういうことになっている――注意するなんて、そして万が一理解していたとしても、それを承知する前に、私の前にエスクードは空を飛んで着地してきた。
何やってんの、この人!
高さはゆうに五、六メートルはあるだろう位置から、だ。
この世界の人たちの身体能力を前にしたら、地球人は真っ青ね。棒高跳びの金メダリストは絶望の涙を流すわよ。あまりに優雅に着地しているんだもの。
多分、魔法か何かだと思う。普通に、跳べるとしたら何か嫌だ。ズルイと思う。
この世界は地球の十八、九世紀くらいの感じだけど、高度文明を誇っている二十一世紀の地球人がこの現実を知れば、自分たちが二足歩行し始めたばかりの猿人に思えてくるだろう。
竜に驚き、魔法にパニくり、空もろくに飛べない。
それって何か、カッコ悪くないですか。だから私は地球人代表として、クールに装ってみたり。
いえ、単に反応が鈍いだけですけれど、それが何か?
仰天して目を丸くしている私に、エスクードは着地した姿勢から身体を起こした。
真っ直ぐに伸びた身長は、百九十センチを超えるだろう。騎士という職業にしては筋骨隆々というわけではないけれど、貧弱とは無縁の肩幅と胸板をしている。
エスクードは膝裏まである前開きの長衣の――コートっぽい感じの上着の下に、シンプルな立襟のシャツ、黒いベストを身につけている。下半身は黒い細身のズボンを履き、黒革の長靴。手は手袋をはめている。腰に長剣を佩かせていた。
均整のとれた肢体は、いつも思うけど、スーツが似合いそうだ。
髪は少し硬質な感じのキラキラ金髪だ。それを無造作に後ろに流しているけれど、額にこぼれた前髪の幼さが、皇太子さまお付きの竜騎士という役職から近寄りがたいと思わせる印象を和らげている。
健康的に日焼けした小麦色の肌、切れ長の目元、その奥にある瞳は蒼い――それこそ、蒼い空の様な色。この人にこそ「蒼天の君」という名が相応しい気がする。
エスクードは驚いている私を見て、口元を緩ませた。
皮肉めいたところが一つもない、優しい笑顔は瞬時に私の緊張を解す。
恋愛なんてもういいと思っている私だけど、美形は好きだ。目の保養になる。
心がときめくことはないけれど、見ている分にはハンサム、万歳。
「驚かせたか、済まなかった」
言葉が通じないので、エスクードは長身の身体を折り曲げ、丁寧に頭を下げてくる。
どこの馬の骨ともわからない女に対しても、礼儀正しい。ときどき、無茶をやらかすけれど、基本紳士だ。
――私より、三つも年下なのにね!
そして、このエスクードが空から降ってきたアリスこと、私を拾ってくれた人だ。
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