Step 9 マクシミリアンの幸せな日々

第17話 マクシミリアンの幸せな日々


法律事務所長の日記



4月某日 日曜日



 どうも私は少々抜けているようだ。開場時刻を2時間取り違えていて、イアンと劇場に駆け込んだのははじめの演目の始まる僅か2分前だった。伝手ツテを頼って購入したサーカスのチケットが危うく無駄になってしまうところだった。

 既に場内には立ち見も出ており、桟敷席への通路はごった返しの様相。人波にさらわれまいとするのに精一杯でまごつく私を、イアンが抱きかかえて運んでくれた。機転は誉めたいところだが、私も子供ではないので流石に恥ずかしかった。

 ようやっと指定の席に辿り着くと、お定まりの野獣の曲芸が終わる頃。道化の寸劇、それから自転車の曲乗りが続いた。

 あのタイプの曲乗りは今まで見たことがない。細いレールを立体的に組み合わせて乱高下するコースを作る。その上(ときに内側)を二輪で疾走するのだ。

 言うのは易しいが、見ていてあれだけ緊張するものは無い。

 華奢な自転車に跨がる引き締まった体つきのライダーが、急カーブ・断絶・剥き出しの刃などの罠を張られた鳥籠のようなコースの中を、まさにツバクラメさながらに器用に舞い走るのだ。

 桟敷席から乗り出し、かぶりつきで観入ってしまった。瞬きするのも、息をつくことすら惜しい。興奮のあまりイアンの服の裾を握って何度も「あれを見たか、今のはどうだ」と叫んでしまった。

 本当はイアンにこそ喜んでもらいたかったのに、結局私が一番楽しんでしまった。

 そう、そしてなんと素晴らしい運動神経で観客を魅了したライダーは女性だった!

 コースの頂上から後方へ宙返りしながら(自転車に乗ったまま!)着地すると、客席の前をぐるりと手を振りながら挨拶をした。視界を狭めるとしか思えない白塗りのイタリア仮面をサッと取ると、短い栗色の髪が流れた。

 悪戯っぽい眉に小悪魔的な瞳。プックリした唇に引いたルージュが微笑で歪むと、ふるいつきたい衝動に駆られた。あどけなくも蠱惑的、まだ若いので美少女と呼べるだろう。



 手品の方は評判負けだった。ギロチンショーを失敗し、すり替えた人形の生首が客席の前まで転がってきたし(粗悪な出来で、兄上が出演した『サロメ』の舞台小道具主計が見たら激怒しただろう)、首を斬られる役の女性は出番を間違えてマジシャンの合図の前に頭をギロチン台から引き抜いたものだから、桟敷の後ろで立ち観していた酔っ払いが「ヨォヨォヨォ、その姉さんにゃ新しいトサカが生えたんけェ」と野次を飛ばした。

 そして偶然というものは天の恩寵というが、その後で全く予期せぬ出来事があった。自転車乗りの少女(とそのパトロン)と、夕食を予約していたレストランで再会したのだ。

 彼女…やはり想像していたとおりイタリアはジェノバ出身の、オリエッタ=サジノといったが、なんと驚くべきことに向こうが私を憶えていて話しかけてきた。

 なんでも、自分の出番寸前まで空いていた席(私の遅刻のせいで)に腹が立ち、本番ではいつも集中を保つために用意する客席への視点を、空席になっていた「そこ」に合わせたのだという。

「どんなフザけた奴かと思っていたら、ズーッと口をパカーッと大開き、ンでギョロ眼の間抜け面をしてるんだ。こう、チビっこいのが仕切り板に一生懸命で伸び上がってサ(私の真似なのか、極端に瞠目して肩をいからせ板を掴む仕種をした)。笑いそうで困ったわ」

 興業はまだ続くから、次回は遅刻などしないで観に来てくれと投げキッスをよこしてきた。

 この陽気で思わせぶりな出逢いにウキウキと弾む心持ちでいたら、イアンが珍しく「また恋でもされましたか」と冗談めかして尋いてきた。確かに可愛い娘だけれど、もう一寸しとやかな方が良い、と答えた。

「そんなことばかりおっしゃるから、まだ御独りなのではないですか」と苦笑された。理想と現実の乖離を意識しながら、なおかつ両者をすりあわせようとすることも恋を豊かにすると思うのだが…

 イアンにはきっと先を越されてしまうだろう。彼にそう言ったら、静かに首を振っていた。

 会話が途切れたところで「今日は重要な記念日なんだが、何の日か分かるかい」と尋ねると、ウンウン唸って考え込んでいた。

 そこで私は、かねて用意していたプレゼントの小箱を、ドラムの音を口で表現しながら思い切り芝居がかった動作で差し出した。そして言葉も無いイアンに「勤続三年目、ありがとう」と渡しながら、この日の真意を告げた。

 大成功だった。イアンは仰天というより動転した(まるで罠にかかった仔豚、丸くなる眼とすぼんだ口先を今思い出しても可笑しい)。

 それから、俯いたり私の目を覗き込んだり、「あ、これは、その」と何度も言い澱んだりし、しまいに黙り込んだ。気に入らなかったのかと思うほど間をあけてから、いきなり私の手を両の掌で包むように握りしめ、ダルマチアの言葉で詩を読むようにゆっくり話した。意味はサッパリ分からなかった。

 全部言い終えてから「ありがとうございます」とドイツ語で礼を述べる。

 喜びのショックなのか(そうであって欲しいのだが)、「ああ、そうだったんですか!」や「ありがとうございます!」という反応ではなくて、深刻に受け止められた様子に私もビックリしてしまい、少しばかり格好がつかなかった。

 驚かしてみたかっただけなのだが…

 イアンは外国語を喋りながらひたと私を見据えた。瞳は丹念に練ったカラメルか茶水晶のようで、綺麗で深く優しかった。そんな眼で見つめるものだから、なんだか腹と心臓の間がモワモワとしてしまった。

 自他に対して常に厳しく繊細で潔癖なイアンは時折、憂愁のうるみにこぼれそうな表情になる。その理由が不可解な場合もあるが、まっすぐすぎるきらいのある彼だから、幾分予想を覆されるくらいが謎めいて良いのかもしれない。

 彼は本当にい青年だ。仮に弟がいたとしたら、こんな感じなのだろうか……兄上が私を「可愛い」と言うのがよく分からないでいたが、もしかしてこういう気分なのかもしれない。

 我が心の兄弟。フランス風に「モナミ」、つまり親愛なる友…と言うのも良い。(ラウル君の影響だ)

 欲を言えば、イアンとは末永く一緒に仕事がしたい。だが有能な若手をいつまでも1つ場所に縛るわけにもいかないだろう。経験。経験を積まねば務まらない。

 デザートに出た、プディングの生クリームとチョコレートがけが美味しかった。給仕に尋ねたのだが、名称をよく覚えていない(訛りもあり)。ティラミッソと言ったろうか。

 居酒屋は普段からイアンはあまり得意ではないらしいが、X通りの橋のたもとにある行きつけの店に連れ込んだ。あそこは酒呑みなら、この地上の何処よりも居心地の良い所だ。

 気分が乗って、ビールのジョッキをあおりつつたむろしていた面々と『十夜のバラード』を謡った。毎回どこかしらに即興が入るので正確な歌詞はもはや誰も知らないという、筋金入りの酔いどれ歌曲。大体こんな風だ。


男ヤモメは腐ったキャベツ

年増女のかたきは鏡

巣を整えたるカケスは1羽

淋しさ埋めるは寒夜のくさめ


犬は歩けど骨は得られず

船乗り故郷を遥かに離れ

心安らぐ夕べもなくて

この先どうして生きようか?


あらや不思議な浮世のえにし

堅物旦那は娘にゾッコン

機会を得ずして蜘蛛の巣暖炉に

イソイソ年増がマッチ擦る


待ちに待ったり初夜の宴

女のカマドに火が入り

男の薪が燃え上がる

長のひでりに雨がきて

しとねに咲くは愛の花



 …と、ここから「愉楽にケトルも吹き零れ、天井叩くよ歓喜の調べ、上がる爪先下る尻、胸は1つで背は2つ」と男女の営みのあからさまな描写があるのだが、一番面白いこのパートでイアンの声がどんどんしぼんでいき、ついには赤くなった顔で下を向いた様子は熟れた苺のようだった。

 前後構わずはしゃいで、イアンをからかったり、誰かにワインを引っ掛けられたか引っ掛けたかしたような気がする。

 この店の後のことは、ほとんど記憶が無い。頭に酒が巡るといつもこうだ。

 1つだけ、居酒屋でイアンが私に純銀製の眼鏡飾りを呉れたのだけは憶えている。多分そのせいで血潮が騒いだのだろう。サーカスの礼…だった、と思う。

 朝はイアンのアパートで目が覚めた。宿酔がひどく、ほとんど彼に引きずられるように事務所に帰ってきた。

 そしてイアンに「どんちゃん騒ぎもほどほどに」と釘を刺された。

 だが一生無理だ。私は酒とパーティーと文化を愛する、生粋のウィーンっ子なのだから。



4月某日 月曜日


 ドロテアが朝からトイレに立て籠る。

 理由が皆目解らず、説得を試みたり、また問い質そうにも「イヤダ!入る、イヤダ!」しか言わない。時折ドアの隙間から漏れてくる、胸を締め付けるようなすすり泣きに困惑してしまった。

 ブレーズが「いい加減にしねえと、こん扉ブッ壊すだぞ」と言い、私と彼と二人がかりで破ろうとしているところにイアンが出勤してきた。

 事情を説明すると、ドアの向こうにブルガリア語で何事か話した。始めはしゃくりあげるばかりだったドロテアが、ようよう一言二言と何かを打ち明け、イアンは納得した様子でブレーズに「彼女に替えの下着と、服を」と言い付けた。

 イアンはしばらく話し、ブレーズが蚊帳の外に追いやられて不機嫌そうに服を籠に詰めて戻ると、それをドアの前に置いて私達とダイニングに行った。

「一体全体、どういうこった。あいつ、なんでおらに逆らっただ」と息巻くブレーズにイアンは軽く「月のものですよ」と明かした。

「栄養が行き届かないと成長の妨げにもなります。ドロテアはこれまで劣悪な環境にいたせいで、女性としての身体が押さえつけられていたんです。ここで生活を始めたことで、ようやく成熟を始めたのでしょう」という分析だが、ちょうど言い終わったところでドロテアが入って来た。

 後ろ手でモジモジしている少女に犬人が「そったら…おらだって知ってたら…わかんねぇべそんなん!」とバツが悪いしかめっ面をしていると(私だって思い至らなかった、よくもイアンは察したものだ)、「ゴメンナ…サイ、ブレーズ、ゴメンナサイ先生」と鼻を鳴らして涙ぐんだ。

 ブレーズが乱暴にドロテアの頬を両手で挟み「おらは怒っちゃいねえ。泣くな」と言い、私が「彼は心配していたんだよ」と教えると、探るようにかわるがわる私達を見て、ベソをかきながら笑った。

 ともかくもドロテアはこれで完全な女性に一歩近づいたわけだ。一日かけ、今後の身の振り方を話し合い、まずはオーストリアで生きていくことに差し支えないよう最低限の学業を与えるべきだとのイアンの案を採用した。

 これからバカンスシーズンまで、私とイアンとブレーズで初歩から礼儀作法と言葉をみっちり教える。それから私達が旅に出る間、イアンが交渉してくれたアパートの管理人のもとで奉公させる。戻ってきて、その出来具合をはかり、学校へも通わせる…とまあそんな具合だ。

 学資について、私が負担しようと提案すると「あいつの面倒を見るのはおらだ。株やって儲けただから、そいつを使うべ」とブレーズが遮り、イアンがアブク銭で養うのはいかにもまずいと反対し、喧嘩になりかけた。

 私が連名している慈善救済活動に教会学校の指導者がいるので、そちらに紹介することで話をつけた。ブレーズは「ドロテアを尼さん学校になんか入れたかねえだ」と強硬に拒んだが、別に因習も無くゆるやかな教育機関だから大丈夫だと説得した。

 大人三人が怒鳴ったり掴み合いになったりしたのでオドオドしていたドロテアも、最後はブレーズが笑ったので安心したようだ。

 なんというか、子供がいる生活は楽しい。この先あの子を養女に迎えようかと思う。

 イアンとブレーズ…いや、イアンに相談しよう。

 彼のような友人を持って私は幸せだ。

 芯から落ち込んでしまうような晩に一人ぼっちでいたら、たまらない。そういう案件の後にも、一緒に呑み合える仲間。年齢も立場も気にせず本音を言い合う、そういう相手。

 わが心の兄弟。

 プレゼントにもらった銀鎖は大層高価な物に見える。あまり無理していなければ良いのだが。

 明日は魚屋の主人の結婚式に招ばれている。心づくしのもてなしをする、と言われたが、私には新鮮な魚料理が何よりのご馳走だ。

 事務所の全員で賑わしに行こう。きっと晴れになるだろう。

 そうそう、メニエ夫人が来てくれて、なにくれとなくドロテアの女性生理についての世話を焼いてくれた。間にイアンを挟んでのやりとりだったのだが、フンフンと聞いていて突然ツカツカと私とブレーズに歩み寄り、私達は音も高く頬をひっぱたかれた。

「レディに無体な仕打ちをなさる殿方は、野蛮人にも劣りますわよ」とドアを破ろうとした一件を微笑みを崩さずたしなめられた。

 ふんわりと優しげだが、なかなかに芯のあるひとと見た。ブレーズは「まるでおらの母ちゃんみてぇだな」とこぼした。なんとなくだが、私も母上を思い出さずにはおれなかった。

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