Step 7  アトラスの鎖

第15話 アトラスの鎖


イアンの雑記帳



 最近胆汁が多くなったのか、やけにイライラする。

 原因は分かっている。あいつだ。フワフワのニヤニヤの、何を考えているのか分からないフランス人。

 あいつは(空白)僕は(二重線の下に書き出し途中の単語。『憎』と読める)

 鎖だ。僕は鎖が欲しい。



3月а日


 仕事終わりにラウルに電話で呼び出され、先生、ブレーズといかがわしい盛り場に行った。その帰り道、ラウルが無礼極まる行為をはたらいた。

 先生の唇を(語尾のインクが大きく飛び、歪んでいる)

 (ひときわ整えられた書体。この一文のみ活版印刷ではとの疑いもあったが、検証ののち直筆と判定)


 許さない。許すものか。




3月Ь日


 ブレーズが子供を拾った。正確にはブレーズお得意のいい加減な言質を信じて単独越境した外国人なのだが、結果的には同じだ。

 所持品から推定した名前はドロテア。歳は14だと言ったのだが、生年月日もはっきりしないので断定はできない。

 女の子で身長は先生と同じくらい。イコンを肌身離さず身に付ける風習から、親は恐らくはセルビア人、もしくはどちらかがロマかトルコ系で混血かもしれない。

 犬人は「まさかホントに来るとは思わなかったけんど、おらを頼って来たんだから面倒みるだでよ」と大口をたたく。己の頭の蝿を追うので精一杯のくせに、「どーせイアンさんが気にしてんのは金のことだべ?大丈夫。ドロテアの食い扶持はおらがもつだよ」と胸を反らしていた。

 教育し、女性として恥ずかしくないような躾をしなければならないというのに、全くもって考えが浅い。

 先生さえ父親になったように「ブレーズだけじゃなく私も後見人になろう」とドロテアの頭を撫でたりしていた。

「この経済的に恵まれた状態、男だらけの清潔性に溢れる素晴らしい環境でなら、さぞや立派な淑女に育つことでしょうね」と二人に釘を刺した。

 しばらく黙ったので、ようやく事の重大さに気付いたかと思えば先生が「ま、なんとかなるんじゃないか?」と楽天的に言い、ブレーズが「あまっこなんて、ちぃっとびアバズレなほうがいいべ?」と戯言たわごとを吐く。

 こんな調子では(特にブレーズが親代わりでは)繊細な年頃の子供がまともに育つか非常に危ぶまれる。

 僕のアパルトマンを管理するメニエ夫人に頼んで、昼間に仕事を手伝うかたわら行儀作法を教えてもらえるよう話を通した。夕方には事務所に帰らせる。朝食と夕食は三人で摂った方が良いだろう。

 実際に奉公させるのは少なくとも秋口になるか。それまで先生達と同じ屋根の下で寝泊まりさせるのも正直気がかりなのだが、余程心を許しているブレーズと早々に引き離すのも酷というものだ。まるで幼い妹か、親鳥を慕うアヒルのようにブレーズにべったりなのだから。

 ブレーズと、彼に懐いて一生懸命手伝う少女は、眺めていると図らずも和まされる風景だ。

 甘いとは思うが、やはり彼らはしばらく一緒にいるのがドロテアにとっては安心だと思う。

 しかしこれが先生でなくて本当に良かった。



3月В日


 また着飾ったラウルが事務所に来た。先だっての無礼について詰問する僕に「ところがサッパリ覚えていないんだよ。何か君の気にさわるようなことをしたかい」と逆に問う。しらばっくれているようにも見えるのだが、先生が「あれはもういいじゃないか、小ロシアのコザック式親愛表現ということで」とおさめるので、深く追及できなかった。

 もし、僕が同じことをしたとして(およそ2文字分の空白)も、(およそ5文字分の空白)馬鹿馬鹿しいが…想像してしまう。

 冗談であれば、きっと先生は何回でも許してくれるだろう。そういう人だ。



(空白)

 友人として。

 それで構わないと、思い切ろうとしていたのに。

 彼は…ラウルはまさか本気で、そういうつもりではないだろうが。

 分からない。フランスでは先年ソドミー法が廃された。そして僕のおぼろげな記憶では、『医学部の紫虎人』といえば、その道に通ずることでも知られていたはずだ。

 ラウルはなんのつもりか親切ごかしに先生をフランス料理のレストランに誘った。何かイヤな予感がしたので僕も監視に行った。

 虎人が異様な手付きの良さで鱒を平らげながら「創造的な料理の一皿も芸術のうち。芸事に秀でると評判の一族のあなたと、気楽に談義などできることは光栄です。パリから来た甲斐もあろうというもの」などと持ち上げるものだから、先生は「いやぁ、リブロン君のように多才な人物と友人であるだけでも得難い幸運だのに、こんなに良くしてもらえると…」と、でれでれ情けなく目尻を下げた。

 「なぁイアン?」と僕に同意を求めるので、イラつきのあまりつい「先生のそういう卑屈な所はいただけませんね」と失言してしまった。

 どうして僕は間抜けなんだろう。僕達だけのときならともかく、第三者の…それもラウルのいる場で先生をおとしめたのだ。これまでになく愚かで罪深い失敗だ。

 傷ついた先生のしょんぼりした顔。そして「イアン、君は少々皮肉に過ぎるきらいがあるようだね」とさかしらに注意する、あの虎人の半ば勝ち誇ったようなイヤらしい笑みが頭から離れない。

 ラウルはやはり、我が国では未だ有効であるソドムの民に関する法律に抵触する雰囲気を漂わせている。もし万が一、男性同士の疑いが持たれれば名誉の失墜どころではなく実刑が下る。

 それなのに純粋な先生は…そして女好きのブレーズまでもが惑わされている。

 ラウルは闇に堕ちたニンフ、地獄の妖精だ。背中にはまばゆいほどにきらめかしい蝶の翅。鮮やかで美しい虹色の先端から、まやかしの毒を含んだ鱗粉を周囲の者に振り掛けるのだ。

 なんにせよ先生に近付けるのは危険だ。



 あの事件以降どうも落ち着かない。心が乱れている。

 ラウルのしたことを許せない反面、思い返すたび「僕だったら」とザラついた感覚に襲われる。

 彼を羨ましく思うならば責める資格はない。だが、あの人は僕の(文章が途切れている)


 大切に想っている人、ただそれだけだ。それ以上は望むことさえ憚られる。

 しかし…嫉妬の代償に名誉を守る、そんな行為ものに価値があるのか。僕はあの人のために何もしないけれど、こういうことがあると迷いが生じてしまう。

 我儘な野獣が、諦めきれない欲求が胸の奥底から魂を揺さぶる。



3月Г日


 ドロテアは実によく働く。要領はけして良い方ではないのだが、根気がある。

 例えば今日も、窓拭きをさせたら事務所の上から下までピカピカに磨き上げた。

 建物の外側まで、まるで軽業師のように身を乗り出していたので心臓が止まるかと思った。

 引きずり落として叱り飛ばしたが、僕の小言など何処吹く風。「だってブレーズがいいって言ったもの」と僕よりあの犬人を権限視している。

 問題が無いなら何も言わないのだが、どうもブレーズに任せておくと乱暴な仕種や思考を身に付けそうだ。

 早く母親役に引き合わせなければ。



4月Е日


 休日なので1日靴を磨いた。

 紐は解いて個別に洗い干し。刷毛で埃を払い、アルコールを混ぜた蒸留水で生まれたての赤ん坊を拭くように汚れをとる。

 まずダメージを受けた表皮のこわばりをとるべく第1のクリーミング。 軽く馴染ませ、10分程してから空ぬぐい。

 第2のクリーミング。リヒテンシュタイン侯爵の商会が販売する油。多少べとつくが、量を適宣にすれば中盤にはこれが一番いい。

 1時間たっぷり馴染ませる。その間にカフェで昼食を済ませた。備え付けのウィーン紙の取引欄によれば株式の高騰が著しいようだ。そういえばブレーズも、どこだかの貿易会社の株を買ってみたとか言っていたような憶えがある。

 午後には一気に作業の片をつけた。

 第3のクリーミングに、自分で考案し調合した特製のペースト(籾殻と牛脂、コーヒーの飲みカスを混ぜてある)で下地を整える。

 最後に特級の靴墨で化粧して出来上がりだ。太陽の下では無論、仄かな蝋燭の明かりにも黒ダイヤのように光沢を放つ肌目細かな表面に生まれ変わる。

 汚れた靴を顔が映るくらいピカピカに磨き上げていると、シナゴーグで深い瞑想をした時のように心が休まる。また、この靴墨の香りがなんともいえずウットリしてしまう。誰にも邪魔されたくない至福の時間だ。



(購入品のメモ)

手持ち黒板とチョーク

ノート、鉛筆

                        計25グルデン



 ドロテアに読み書きを教え込むのは、ブレーズに算術を覚えてもらうついでだ。しかし面倒なこと極まりない。

 これだけで出費が終わるわけではない。むしろ服、靴、髪飾りと増えていくだろう。

 当面の課題は女性の肌着をどうやって手に入れるか、だが…

 ブレーズに任せると、そこらの遊びに貰って来るような気がする。これはメニエ夫人に相談しよう。

 実家に送っておいた、今夏の帰省についての希望に対する返事が早く欲しかったので、「電話は商売以外のことで使うな」という父の禁を破る。

 実家の受話口には母が出た。先生とブレーズ、その他連れてきたい者がいれば何人でも構わないと父が言ったという。来客のたびに「何故わしが無駄飯食らいどもの宿代をもたねばならんのだ」と憤慨していた、家族にも徹底した節制を敷くあの父が!

 もしや黙示録の始まりか、はたまたモーセの奇跡の再来だろうか。

 なんにせよ、たっての願いが受け入れられて今日は最高に気分が良かった。明日先生に報告しよう。

 あの人と一緒に(余計な者もいるが)我が家に帰られる。あの寒々しい館に行くのが、こんなに嬉しく待ち遠しいものになるとは。

 そうだ、是非とも先生を海に連れていこう。ダルマチアの美しい海岸線、アドリアの真珠と評されたあの街へ。

 磯の香のかぐわしい浜でムール貝のニンニク詰にレモンを絞って(戒律など知ったことか)、先生が大好きな魚をご馳走しよう。

 サファイア色のわだつみを眺めながら身体が火照るまで陽を浴びて(先生が泳げなくとも構うまい)、木陰で冷やしたワインを飲んで(数文字分の空白に、インクの垂れた染み)

 計画と想像とが頭の中で勝手に組み上がる。まだ3ヶ月も先だというのに。幸せだ。

 家から10マイルは離れるが、遺跡もあったはずだ。資料を集め始めなければ。

 いっそ馬車巡りのコースを作ろう。僕の知っている故郷の姿を、余すところなく観光してもらう配慮が必要だ。あの人が喜んでくれるような。

 持てる全力で、先生を楽しま



(以下、かなり長い空白。所々に褐色の飛沫の跡)



 ラウルが来た。あいつは一体何を(単語に二重線。「たくら」とまで読み取れる)考えているのだろう。



4月И日


 先生がサーカスに誘ってくれた。先頃巷で有名な自転車の曲乗りが出るというもの。しかも「チケットは二枚だけなんだ。私は君と一緒に観たいんだが、厭かね」と言ってくれた。

 呼び物にもう一つ、注目されている大手品師が舞台に立つらしくブレーズがしきりに「ずっこいだずっこいだ、イアンさんだけー!」とぼやいていた。

 たとい全オーストリア、いやドイツ語圏、いっそ世界をくれるとしても、このチケットは手離さない。

 それにいいことを思い付いた。これを口実にし、あの失踪の時に渡せずにいる銀の鎖を先生に受け取ってもらおう。

 ああ、嬉しくて居ても立ってもいられない。

 先生に誘われて食事やサロンに行ったりしたことはあるが、大きな劇場に何の理由もなく気軽に二人で、というのは初めてだ(ブルガリアではブレーズが単に飽きたためにオペラに来なかったのだし)。

 この自らの単純さ。たかが紙切れ一枚で、なんとたわいないことだ。笑止してしまう。

 今夜はアルコールの力を借りなければ眠れる気がしない。


 恐れ。僕の抱いているぼんやりとした不安は、現在の平穏な日常が崩れ予想だにしない未来が訪れる可能性を、じわじわと感じるせいだ。

 この上もなく無思考のブレーズや、まだあどけなさの残るドロテア。ことあれば事務所に駆け込んでくる下層の人々、先生の知り合いの優しく大らかな貴族(ごく少数だが)、アパートの管理人や隣人。

 かつて華やかさに憧れ飛び出したパリで、僕は裏切られ毛をまだらにむしられる思いを味わった。

 格別の思い入れも無く単に実家に帰ることをいとうて身を寄せた首都ウィーン。ヨーロッパの都市としては泥臭くて、ドイツ語が訛っていて、少しだらしない感のあるこの場所が、今は愛しくてならない。

 何より僕に暖かな光と優しい世界を与えてくれた、あの人。

 なろうことなら今のままで地球の時間を止めてしまいたい。考古学を志したほど歴史好きなあの人には「とんでもないことを!」と言われそうだが。



 鎖は束縛するためだけの道具ではない。その役目は船を港にもやうように、鱶やクラーケンのような魔物から遠ざけておくための守りでもある。

 僕の命より価値あるものを安全地帯にとどめるための物。そういう鎖が、力が、方法が欲しい。

 もし自由を奪うために使うのなら、それは。

 僕のよこしまな願望と、あの虎人であるべきだ。



19ZZ年 寄贈

無記名のスクラップノートより

ニューヨーク エリスアイランド 

移民博物館蔵

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