外伝~ノクターン~(17・5話)

イアン=アグラムの雑記帳より抜粋


〝言葉に質量があるのなら、僕の身体の内側はエンドウ豆を詰めた麻袋か小学生の机の中のように、あの人への想いでぎっしりと隙間無く塞がってしまっているだろう。

 感情に形がないことには意味があるのだ。行くあてもないこの恋が、ノアの大水のごと僕の喉を衝いて溢れ出し、あの人をきっと溺れさせてしまうから。

 今日のサーカス観覧の後、僕を連れて行ってくれたレストランで先生は「今日で勤続三年目だ!おめでとう、そしてありがとう!イアン!」と言い、そして僕に素晴らしい贈り物までくれた。

 精神の容積の限界を越える感激で、胸がどうにも苦しかった。テーブルの下で何度も自分の踵を蹴り、膝がしらをつねり、渡された小箱が夢幻(ゆめまぼろし)ではないことを確認していた。

 幸福で、あの人があまりにもいとおしくて、喜びさえもが凶器となって僕を殺そうとしていた。

 ぶきっちょな先生が手ずから包んだらしい歪んだ包装を開けると、中に一竿の万年筆が入っていた。それは僕の左手にしっくりと馴染んだ。ジャポンの細工(日本の蒔絵)で、漆黒の地に見たことの無い薄紅の花弁模様が浮かんでいた。

 先生は右手を出して、丸くて短い指を僕の掌と重ね合わせ「君の指はほら、私のよりずっと長いだろう。それに関節も綺麗にスッと伸びている。こういう指付きには細めで先が締まった型のペンがいいんだよ」と教えてくれた。

 イタリアのワインに上気した頬をして。眼を細める笑顔で。まるでバヴァロアのような、どこまでも柔らかく素朴な、ほんわりと甘い微笑み。

 ほんの一瞬だったけれども、皮膚を合わせ体温を通わせられる喜び。

 万年筆はどう見ても特注の品で、僕などのために誂えたのかと考えて「またこんな高級品に叔父上の遺産を費やしたのですか」と責めるような口を利いてしまった。

 生意気な返礼をしたのに「心配しなくてもいい。もとから私のポケットマネーだ」とウインクをされた。金を遣わせたのだから、結局は同じことだ。

 もう、こんなことはやめて欲しい。求めてはいない気遣いや優しさを受けて、これまでの人生であり得ないくらい気分が高揚している。神経が保たない…

 だから思い切ってあの人の手を握って、あの人が絶対に分からない言葉で、天地のひっくり返ろうとも明かしてはならない想いを聞いてもらった。

 僕は…生きていて良かったと…

 これからの未来において、おぞけをふるうような苦痛をもたらす不幸が待ち構えていたとしても、あなたが僕にかけてくれる優しい眼差しと与えてくれる友情があれば、一万年も一億年もの星霜を凌いでいけると。

 いや、むしろ永久に。

 マクシミリアン、マクシミリアン。マクシミリアン!

 我が不滅なる恋人よ。

 僕の愛はあなたの内にこそあらしむる。


 出会った頃、まさかこんな夜がくるとは思わずにいた。

 胸をえぐるような喜びと幸せの夜が。〟




 ‡ 真の騎士道と友情について


 18XX年3月。僕はパリからの一晩かけた特急で東欧随一の都、最先端の科学と文化の中心地、オーストリアはウィーン中央駅に降り立った。

 狭い都会の空には、いくつか新しい建築が目を引いたが、それ以外は特に昔と変わったところは無く、耳に入ってくる緩ぼったいウィーン訛りがまた祖国の首都に戻った実感を与えるだけだった。

 とにかく法律事務所ならどこでもいい、潜り込んで足掛かりにして、さっさと独立してやろう_____それが僕の考えだった。

 今から三年前。その年は春の到来が遅く、降り積もった根雪がウィーンの街角に汚物のようにこびりついていた。そして僕の心にも、やり場の無い憤りと絶望が、一面に泥炭馬車が通った後の泥道のような黒々とした染みをつけていた。

 ふるさとのダルマチアの州都とパリの中間地点で帰郷というには中途半端な距離。仕事先が見つからないかもしれないという心配はあったものの杞憂に済み、遠くオーストリアまで届いていたソルボンヌの威光は僕に朗報をもたらした。

 アパートを決めてすぐに、ウィーンの船舶会社の法務部顧問カイゼリオ氏が、僕に相応しいどこかしらの法律事務所を手配できたと連絡を寄越してきたのだ。

 その日はみぞれが降っていた。雷鳴が深く垂れ込めた雲から響く、陰鬱な午後だったと記憶している。

 友情と愛情に裏切られたことで、およそ人類というものに期待することをやめていた僕に、慇懃な口調が板についた顧問弁護士は言った。

「フェルダー法律事務所は確かに規模が大きくはないが、素性の正しい名士が運営する少壮の事務所です。そもそもフェルダー氏は我が国の教育機関の頂点、映えある帝国・王立大学で学び、叔父上は法律学者であって、幼少より法曹精神の薫陶を受け慈愛と公平を重んじる人柄」云々。

 ごてごてとウィーン風に装飾された美辞麗句を剥ぎ取ってしまえば、只一人でまかなっているチンケな法律事務所ではないか。冷笑を胸の底に沈め、僕は唯々諾々とこの紹介にあずかることを選んだ。

 早速その日、貿易会社からの足で僕は『神よ助けたまえ』通り(なんとも悪趣味でふざけた名前だ)にあるフェルダー法律事務所を訪ねることにした。

 新古典主義のルネサンス様式がはやりのウィーンでは今時古めかしいバロック調の、しかし豪華な外装とは不釣り合いなほど小作りな三階建ての事務所。しかし来客を伝えるのはドアノッカーではなく紐付きのブザー式で、ノブの脇に垂れる麻紐を引くとドアの向こうで「ビーむむむ」と情けない音がする。

 ゴトッ、ガタタタどすんパリン、加えて「しまった」と舌打ち。粗忽な下男がいるらしい。

「はいっ、はいはいはい、どなたが何のご用かな、セールスは向こう半世紀は後で来たまえよ」

 ドアが開く前から若干ソプラノに近い柔弱な声が聞こえ、勢いよく赤茶けた毛皮の隈取り鮮やかなアライグマ人の顔が飛び出した。

「やあやあ、こちらはフェルダー法律事務所だが、君は…?」

 この男……背が低い。

 長身の僕からすると肥り気味の小学生みたいな体つきの、年齢不詳なその男は片眼鏡を鼻に乗せた童顔に、満面の笑みでこちらの答えを待っている。

「僕はイアン=アグラムといいます。クロスドリデン商会の顧問弁護士カイゼリオ氏の紹介で参りました」

 僕も場に相応しい適度な愛想笑いを浮かべた。

「おおぉ、君が私の事務所に志願してくれたアグラム君か!ソルボンヌにその人あり、と聞こえた才子らしいな!まぁまずは中に入りたまえ!」

 いやぁそれにしても君は身体が大きいなあ、と破顔しながら微塵も警戒を抱かず僕を招き入れるアライグマ人…フェルダーは、健康な蛇の鱗のように緑に輝いている瞳の他はこれといった美点の無い、というよりむしろ貧相な小男だった。

 この程度の相手か。打ち負かしてやる気満々だったので、強烈な肩すかしを喰らった気分になる。

「僕はパリから帰ってきたばかりで何かと不慣れな事もあるかと思いますが、どうぞ宜しくお願い致します」

 事務室に当たる一階の部屋に通され、頭を下げる僕にフェルダーは乱雑な机から引っこ抜いたグシャグシャの雇用契約書を渡してきた。

「とりあえず目を通してくれ。しばらくは日給で働いてもらって、君がウチで雇われても良いと納得したらサインしてくれればいいさ」

「ええ、それはまた事後に考えますよ」

 気を付けないと本音の方が顔に出そうだ。

 道路工事の人夫じゃあるまいし、紙切れ同然の書類を出してくるとは…なんていい加減なやり方だろうか。やはり三流、いや五流だな。

「そうだね、まずは宜しくと言わなければな。マクシミリアン=フォン=フェルダーだ。できれば長く付き合ってもらいたい」

 ハ。お断りだね。

「こちらこそ。若輩者ですが、色々と学ばせて下さい」

 ま、なんなら乗っ取る手もあるしな…

 そうして僕は、飢えた獣を自ら呼び込んだとも気付かないフェルダーの小さな手と握手した。

 多忙といってもあまりある日々が始まった。

 フェルダー氏の問題点は、ひとえにその愚かしいまでの善人ぶりにあった。

 まず依頼を断れない。「うちのペットを隣家が拐かした」「15人で料理屋に宴を張ったのだが、私のザッハトルテが異様に小さかった」「宅の植木が邪魔だと清掃局が勝手に伐った。訴えて、そして勝ちたい」等々、次から次へと降ってくる塵屑(ゴミクズ)のような依頼に、イタリア太古の都ポンペイの悲劇よろしく事務所は埋まりかけていた。

 そこで僕はまず依頼を整理することから着手した。難度と緊急性でA1・A2~F1・F2の五段階2タイプに分類する。そしてあまり下らないものは取り次いだ電話の段階で僕が判断し、弾く。これで量は実に三分の一に減った。

 野戦病院での患者処理に想を得た手法だが、これほど効果があるとは思わなかった。ともあれ、そこから先は純粋に裁判沙汰に関わるわけで、僕には実質上初めての経験だった。(因みにデビューはオペラ座で盗みを働いたジゴロの弁護である)。

 フェルダー氏の働きぶりはまあまあ評価できるものだろう。あまり明晰な頭脳をしてはいないようだが、真摯に依頼人と向き合う姿勢に迷いはない。勝率は7対3、示談交渉へもつれこんだものを含めて、成績はさほど悪くはない。

 そうやって日々をあちらの調停こちらの告訴へと奔走のうちに過ごしていれば、気が付くよりも早く季節は若葉の盛りへ移り変わる。

 そして僕は今、事務所の二階のダイニングキッチンでジャムをたっぷり入れたロシア風の紅茶をすすっている。先生…いやマクシミリアンは「サロンで最近話題に上っているんだよ」と買ってきた中国菓子を硝子の鉢にあけて、嬉しそうに眺めている。

「お早く召し上がってはいかがですか」

「まあまあ慌てないで」マクシミリアンはンフフと不敵に…いや不気味に笑う。「未知なる東洋の美味を、舌より先に目で楽しもうじゃないか」

「月餅でしたっけ」僕はその奇妙に厚みのある焼き菓子を手にとってみた。ずしりと重い。「なんですこれは。まるで鉛が入っているようではないですか」

「ちちっ、君はまるで分かっていない」アライグマ人は舌を鳴らし、イースターエッグを触るようにそっと持ち上げる。「新たな文化に接するとき、誰でもなにがしかの畏れを抱くものだ。それを嫌悪や非難にしてはいけないよ」

 別にそういうつもりではなく、単純に重いと感じたからなのだが…

「サロンに集うゆとりのある特権階級の道楽趣味というわけですね」

 実も蓋もないなあ、という文句に耳を塞ぎ、割ってみた。中には石鹸のような黒い物体が詰まっている。食欲も消し飛ぶ色合いに閉口せざるを得ない。

「先生…これはお止めになった方が」

「ななななあに、問題はない。ショコラだってほら、黒いだろう?」

「これは別格ですよ。この光り方は錬金術の応用で生まれた結晶にも似ています。まともなオーストリア人の食べるものじゃないのでは」

 ははは君は慎重だなあと言いつつも、アライグマ人はすでにおっかなびっくりの面相をしている。

「ええい、ままよ、男は度胸だ!」ガブリと食らいつき咀嚼したなり、「くぐっくくう!」と苦しみ出す。

「言わないことじゃないでしょう!水…じゃないお茶を!吐き出してください!」

 紅茶をがぶ飲みしてアライグマ人はプハァと一息、喉に詰まっただけだ、と苦笑した。

「いやいやこれはなかなか不思議な味だよ。あっさりしていて歯ごたえもある。この黒い部分はあちらでは生クリームなんかに当たるものだろうかね」

 知りませんよ、そんな得体の知れないものを召し上がってお腹を壊されても…と注意する間に「美味い、うん、これはいい。南京豆も入っているな」とパクパク食べている。

 本当に食べることにかけては底知れぬ探究心を持った男だ。呆れている僕を尻目に、口の周りに一杯食べ滓をくっ付けている様子は幼児おさなごのよう。

「ほら、お弁当が付いているじゃないですか」

「ふぐ?どこだね?」

 こことこことここです、と指でつまんでいく。くすぐったがり逃げようとするので、苛々した僕はほとんど押さえ込むようにのし掛かり菓子の破片を取り去る。

「ああもうジッとしていてください、子供じゃあるまいし」

「君のやり方が悪いんだ、そんな風にヒヒ、したらこそばゆハハハハ」

 掴んだチョッキを離さず首っ玉を引き寄せる僕に、興が乗ったのか半ば本気で抵抗するマクシミリアン。

 捕物遊びみたいにひとしきりそうして暴れ、さんざ僕を手こずらせた後になって、汗だくのアライグマ人は息を切らしながら「そうそう、忘れるところだったな」と一枚の上等の紙を僕がこしらえたファイル立てから出してきた。

「ずっと待っているのもなんなので作ってみたんだが」

 照れ臭そうに頭の後ろを掻きながら、何度も咳払いをして喉の通りを整えている。

「あー、えー、イアン君、君をこの法律事務所の弁護士として正式に採用したい…いや、させてもらいたい」

 アライグマ人は契約書を、小学生が煙草屋の娘に初めて渡す恋文のように突っけんどんに差し出し、やけに緊張の面もちで天井に近い壁を睨んでいる。

「そ」

 それはありがとうございますと快諾しようとしたのに、言葉が出なかった。何か固いしこりのような不安が心臓の近くにあって、僕の返答を胸腔に固定する。

 得体の知れないその感情は、ギュッと拳を握りしめ待つアライグマの小男に「ヤーはい」と言わせなかった。

 何故だ?こんなこと素直なそぶりでできる筈じゃないか。お人好しをだまくらかすなど簡単だ。なのに、僕は一体何を躊躇ためらっている?

「もう少しだけ、お時間を頂けませんか」駄目だ。何か納得できない。「考えたいことがあるんです」

「あ、ああそう。うん、しっかり考えてから決めたまえ。ゆっくりで、焦らなくていい…」

 マクシミリアンは朗らかに言うが、髭が垂れ下がっていて明らかに落胆している様子。僕は知らず知らず胸に手をやっていた。

 その日はもう依頼は来なかった。夕食でも一緒にと誘われたが、気まずくて断る。

「さっきのことなら気にしないでくれ。それよりどうだろう、明日はサロンの午餐に行かないか?法律家がごっそり集まる良いところがあるんだよ。君を紹介してくれたカイゼリオ氏も出席するぞ。彼に君の働きぶりを報告するんだが」

 マクシミリアンはニカッと笑い数少ない鑑賞点である白いトウモロコシのような歯を輝かせ、ん?と顎をしゃくる。

 僕は一層苦しみが増して居ても立ってもいられなくなり、「そうでした、大家と話し合いがありました」といいわけを添えてウズウズする足にまかせるまま事務所を飛び出す。

 何だ。この胸に刺入されたピンのような痛みは。良心と呼ぶならいかにも下らない。そんなものは一種の倒錯で、人類が人類を利用するために構築した詐術の道具でしかない。だのに。こんな不器用者ではなかった筈なのに。今僕は無害な野兎に怯えるライオンのように、あの愚直で幼稚な男の前から無様に逃げ出している。

「糞っ、糞っ、意味が分からない、なんでだ………!」

 6月のウィーンの宵は華やかな喧騒と自動車でごった返していた。誰もが血縁であるかのようなあけっぴろげさで、たけなわの春の甘く戸惑う夜風に一様に浮かれる中で、僕は父親の仇を殺しに行くように___…それとも賞金のかかった咎人のように小走りに街を進んでいる。

 何人もの通行人にぶつかり、しかしそれさえも気付かないほど僕は混乱していた。神経は青白く火花を飛ばし、骨肉は軋んで反響音で鼓膜を打つ。

 商店のずらりと並んだヘル通りでハッと立ち止まる。誰かがすぐそばで物凄い形相で僕を見つめている…。

 ショーウィンドーの中。鏡を衝立にして奥行きを出した空間。黄色に近い毛皮、篷々ほうぼうと密集した濃い眉毛。理にかなうものしか好まない唯物論的な目付き。男らしく広い額に、がっしりした下顎。熊人の顔。

 それは僕だった。内側から何かが吹き零れる寸前のないまぜになった表情で、凹面に歪んだ鏡の境界の向こうからこちらを睨んでいた。

 僕はあてどなく通りをさ迷い、結局嘘がまことになってアパルトマンに戻っていた。夕食の買い物に行くのだろう、藤の編み籠を肘から提げた桃のような毛皮をした犬人に玄関で行き逢った。

「アグラムさん、もうお帰りですか?随分早いのではなくて?」

 その犬人、アパルトマン管理人のメニエ夫人は目尻に微笑みの小皺を作る。

「ああ、気分が悪かったので…」

 そう、いつも職場で夕食を召し上がっておいででしたものね、と夫人は常から眠たげな目をしばたたかせる。

 それもそうだ。あのマクシミリアンが半ば強引に手料理を振る舞ってきて、いつの間にかそれが習慣になっていた。

「それにしてもよろしかったですわね」

「何がです?」

「貴方のお顔、とっても活き活きしてる」フンワリと巻き毛を揺らして微笑む。「ここにいらしたばかりの頃は、捨てられた雛鳥のようでしたもの」

「…そうですか?」

「ええ。きっと今は良い出逢いが導いてくれているんでしょう」

 鈍る足で階段を上がる。自室の鍵を開けてすぐスーツを脱いでハンガーに吊るし、下着だけになってベッドに横たわった。

 道を失った獣に例えられた。それはショックではない。

 それよりも、あんなに固く決意したはずの事をあっさり翻そうとしている自分に腹が立っていた。

 人を信じるな。善意など頼るな。期待など持つな。

 冷たい絶望。それはやがて無敵の鎧となり、糞のような他人…自分自身を含めた人間の愚かさから我が身と霊魂を守ってくれる。そう、信じていたのに。

 気分が落ち着いて、そのまま僕は夢の世界に魂を解放していった。



「この薄汚いユダ公め!」

 怒声と共に木綿の手袋が僕の胸にビシリと当たる。僕は重力には逆らえぬと地面に引かれていく手袋を、そして相手の顔を見た。

 憤然たる調子でユダヤ民族に対する非難糾弾をあげつらねる獅子人。美青年の部類に入ることをチットモ鼻にかけず、裕福ではないもののキリスト教でいう『善き隣人』そのものの鷹揚な愛情を持ち、常にパーティーの招待状を2・3枚胸ポケットに携えている人気者。

 オクターヴ=アンベール。いつもは気さくな笑顔を絶やさぬ彼の額には深い怒り皺が刻まれ、こめかみの青筋ははち切れんばかりにピクついていた。

 怒りの火だるまと化した青年は、目の前にボンヤリしている熊人…僕にもう一度、決闘だ、と叫んだ。

「全く何がなんだか分からないよ。君を愛する友に向かって、こんな馬鹿げた仕打ちをするなんて正気の沙汰とも思えない。君は誤解をしているんだ。一体何が君をそんな風に狂わせたんだい?」

「貴様は、貴様は彼女を…手酷く侮辱したな」

「?なんのことだ」

「おやおや、おとぼけになるか!」おどけてみるが、怒りの火だるまになっていることは変わらない。「ミシェルに何をしたか、忘れたとは言わさんぞ」

「忘れるも何も、思い当たることがないんだよ」

「君は一人の女性を陵辱した。総ての女と名のつくものの尊厳を踏みにじったんだ!」

「馬鹿な!」僕は焦りのあまりオクターブに掴みかかった。「それこそ酷い誤解だ!僕とミシェルは互いの同意の上で愛を語らったんだ!」

「愛などと口にするな、言葉が腐れる!」

「待て、頼むから落ち着け、ミシェルに聞いてみろ!」

「もう聞いた」肩にかかる僕の腕を下水に浸ったボロ雑巾のように叩き落とした。「彼女がハッキリ言ったんだ。お前が酒を飲ませ、無理矢理彼女の……………処女の宝を掠め取ったと!」

 相手の科白が何を示しているのかはじめ分からず、僕は一瞬言葉を失くした。「それを…」馬鹿な、彼女がそんなことを言うわけがない。何か錯乱して口走ったのだとしても、オクターヴなら僕の無実を信じてくれるはずだ。

 僕は、そう、僕の方が信じていたのだ。二人を、恋人と親友を。

「まさかそれを鵜呑みにはしないだろう?」

 しかしオクターヴから返ってきたのは厚い友情に裏打ちされた返事ではなく、檻に閉じ込められた野獣のような唸り声だった。

「貴様のような人種を俺の身の近くにいさせたことを呪うぞ」一つ一つのセンテンスを区切り、丁寧に言った。「このユダヤの豚野郎」

 こんなに憎しみのこもったフランス語を聞いたのは生まれて初めてだった。

 麻薬を嗅がされた雄馬のごとくガツガツ石畳の舗装を蹴るオクターブにかける言葉はなく、ショックの中で浴びせられたイバラの棘のような悪態の残滓ざんしのひとつが胸の底に静かに沈んだ。

 ユダヤ人。

 僕は今まで一度もその来歴を打ち明けたことはなかった。ドレフュス事件の例もあり、興味本意で人口に遡上されるのを嫌ったためだ。

 なのに彼は知っていた。

 なぜ?



 鎧戸を上げたままの東向きの窓から、初夏に近い日光が無遠慮に頬に照射する熱で目を醒ました。

 むっくりベッドにあぐらをかき、今しがたまで夢に見ていた大学での出来事の反復が、過去のものであることに動悸のまだ収まっていない胸を撫で下ろす。

「イヤな夢だ」いつの間にか癖になっている独り言。「どうしてあの頃のことなんか…」

 壁掛け時計を見上げる。盤は昼に近いと告げていた。

 そうだ。あのアライグマの中年の小人、今日はサロンに行くと言っていたっけ…

 二拍して、僕は着替えを始めた。寝間着と下着を洗濯籠に畳んで入れ、新しいシャツを身につける。

 夜中に寝乱れた頭の毛並みを均し、唇の上のダマ毛を切り揃えた。マクシミリアンなどはこれを放置して伊達を気取っているが、僕は年より老けて見えてしまうので好かない。

 紺青のスーツに袖を通す。緑とベージュの斜め縞のタイを締めれば、いつもより少しく爽やかな印象になる。

 机に出したままの契約書を丁寧に折り懷にストンと落とした。

 さあ、断りに行こう。

 僕の意志は固まっていた。



「紹介状はお持ちでいらっしゃいますか?」

 糊が利きすぎて彫刻のようになった白いシャツにベストを羽織ったテリア系のウェイターが、サロンの入り口でズカズカ足を踏み入れようとした僕の前にヤンワリと立ちはだかった。

「紹介状がいるのか」これまでこんな処に来たことはなく、パリでは常識的な礼儀以上には上流階級の知識に触れていない。僕には貴族の知己は無く、どうすれば良いのか分からなかった。「参ったな…知り合いが中にいるんだが」

「それでは中へお入り頂くわけには…と、申し上げるところなのですが、その方のお名前を伺ってもよろしゅうございますか?」

 なかなか機転が利くな。それに袖の下も要求してこないとは洗練されている。

「マクシミリアン=フォン=フェルダーだ」

 ウェイターの顔がパッと明るくなる。「ああ、あの方の!」そしていそいそと先に立って中へ通した。

「いいのか、こんなあっさり通してしまって」

 ウェイターは元来人の良さそうな男で、大きく頷いた。

「フェルダー氏のお知り合いでしたら構わないでしょう。あの方は素晴らしい方です」

「ほう」

 あのだらしなくて優柔で、チビでガキッぽい貴族の偽善者が、えらい人気の取りようじゃないか。唇を歪めて胸の裡に嘲笑う。

 アーチ型の開放された入り口には扉の代わりに背の高い観葉植物の鉢があり、葉擦れのざわめきのような人声が間奏曲になっている。

「……時に、あのパリ帰りの若者の様子はどうだね」

 鼻にかかった気障ったらしいカイゼリオ氏の科白が耳朶をかすめ、自然と足が止まった。

「イアン君ですね」やや甲高の柔らかな声は、マクシミリアンだ。「人品いやしからぬ好青年ですよ、彼は。仕事は早いし記憶の鬼といっていいぐらい博覧強記の上碩学ですし、能率はゆうに千倍でしょうかね。いやぁ、はかどってしまって仕方ないですよ」そして腰の奥から出すような陽気そのものの笑いが上がる。「どうしてあんなに優秀なのか不思議なものですよ。英知をつかさどる守護神アポロンの祝福を受けているのかも知れません。閣下にご紹介を頂けたのは僥倖であると思っております」

 またあの馬鹿者が…褒めるにしても限度があるだろうに。

 しかしなぜだろう。やけに胸がむずかったいような、この搔痒そうよう感は。

「あるいはユダヤのことだ、悪魔の祝福かも知らんな」先の鼻声。「やつらは金儲けのことにしか頭が働かないからな。生まれついての詐欺師連だ。フェルダー、君も裏切られないよう注意したまえよ。うっかりしている内に巣を奪われた、などということの無いように」

 ドッと座が沸いた。反対に僕は血液に氷の塊を投げ入れられたような気がして、ヨロリと壁にもたれかかる。

 ここでもか。いや、文化の進んだパリからしてああだったのだ、むしろ当然と言うべきか。

 構わない。こんな陰口をいくら叩かれても、世襲制度に保証された身分にしがみついて口を糊するしか能力のないカスのような者達…財産と利息とそれを管理する公証人、家柄を表す盾型紋章の庇護のもとでのうのうと暮らすいわゆる「紳士」なんかに侮蔑されたとしても己を恥じる理由にはならない。

 そうだ。逆に今こそ部屋に入って中にいる奴らを脅かそう。およそ男らしくない陰険な悪口魔に、わずかでもバツの悪い思いをさせてやれ。

「貴卿はぜんたい何をおっしゃっているのですか」

 マクシミリアンか。分かってるよ。アンタもこいつらと同類なんだ。幾ら庶民の味方ヅラをしていようが、所詮はオーストリア貴族の出自。階層の間を流れる溝はレテの川底よりなお深い。相容れないんだ。便乗してユダヤの守銭奴ともキリストの敵とも罵ればいいさ………。

 僕はダイヤも噛み砕かんばかりの歯軋りをし、壁に拳を打ち付けた。

 人間なんかそんなものなんだ。さっきまで媚びへつらっていた同じ舌で、その舌の根も乾かぬうちに聖者だ天使だと褒めそやしていた者を貶める。

 僕の前では良い顔をする、だが裏では嘲っているんだろう?

「貴卿は、私の友人を、侮辱なさるおつもりか」

 …………………。

 え?

 椅子の脚がガタンと鳴る。ツカツカと歩む足音。

「もう一度真意を問いただしたい。カイゼリオ閣下、先程の発言は、イアン=アグラムを不当に貶めるものですか」

 いや、そうじゃない、ただあれだホラ私は一般論を…と慌てて唇を噛む勢いのカイゼリオの自己弁護の後に、アライグマ人がサロンじゅうに響き渡る大音声で叫んだ。

「彼は誠実で勤勉で優秀な素晴らしい男です!金輪際彼やその背景に泥をなする発言はお慎み下さい!」

「君、フェルダー!何を考えている、無礼極まりないぞ」

「僭越は承知の上で申し上げよう。私達だってオーストリア人であり個人でもある。そのどちらかを辱しめられたら、一人前の男としての落とし前の付け方はご存知の筈だ。イアン君としても同じこと。この場にいない彼に代わり私が面目を引き継ぎます、よって、今後はいかなる誹謗中傷も許しません!それとも閣下、私がそのように慣例に則り友人二人と御自宅をおとなうことをお望みですか」

 これくらいの意味は僕も知っていた。旧大陸の貴族の慣わしでは、「友人二人と訪問する」ことはそれすなわち古式ゆかしい決闘の申し込みに他ならない。

「御歓談のところ失礼致します。フェルダー様におめもじ願われる方がみえていますが、いかが致しましょうか」

 葉の間から透かして見た。さっきのウェイターがいきり立つマクシミリアンと頬にハンケチを当てるカイゼリオ氏の線上に立ちこうべを下げていた。

「ああ、すぐに通してあげなさい」邪魔が入ったのをこれ幸いとカイゼリオが言い付ける。マクシミリアンの同輩ぐらいの灰色狼人が「君も頭を冷やして…血気にはやるのは若者の美徳、私達の年代では悪徳に数えられるぞ」と、その肩に手をかけカイゼリオ氏の前から遠ざける。

 ウェイターは出口でもう一礼し、壁に身を隠している僕に耳打ちした。

「今のうちに化粧室に行ってください。涙はこすると跡になりますから、洗い流した方がいい」

 僕は、立ちすくんでいた。言われるまで両の眼から涙の河が頬の山を越えて流れていることにも気が付かなかった。

 こちらへ急いで、と声をひそめて袖を引くウェイターに、嗚咽に喉をつまらせながら無用な流血の事態からマクシミリアンを庇ってくれた理由を尋ねた。

「なぁに、かくいう私も啓典の民ユダヤ人ですからね」

「…そうか」

「あの方は、い人です。嘘がなくて真っ正直で情に厚くて。ちょっぴりお人好しが過ぎますけど」笑うと糸のように細くなるウェイターの目元も潤んでいた。「ユダヤ人をユダヤ

人のまま平等にくれる人は、本当に少ない。羨ましいですよ。あんな人と仕事ができたら、さぞかし毎日が楽しいでしょうね」

「……そうか…………」

 上着を汚さぬよう掌で涙と洟をせき止め、化粧室によろめき入る。

 洗面台を使いながら僕は考えた。

 僕はずっと気持ち悪かった。あの人と一緒にいて、仕事をして、1日の3分の2を共に過ごしながら、あの尽きることの無いルルドの泉の奇跡のごとむせ返るような優しさに触れながら、どうしてもそれを疑わざるを得なかったから…。

 いや、まだ逃げている。本心はそうじゃない。

 飛沫を飛ばして景気よく顔についた塩分を流し、鏡を覗き込んだ。

 陽のあわいでは明るい茶に金の筋が入る僕の毛皮。獅子人のように太い鼻柱、猛禽を思わせるまなじり。

 ただそこには今、満足しきった微笑があった。それだけで僕の顔は冷徹な収税吏の印象が薄れ、年相応の傷付きやすい、臆病な一青年に戻っている。

「………信じるのが怖かったんだ」誰に言うでもなく、気持ちの整理をつけるためだけの独白。「もうこれ以上は沢山だったんだ。誰かを好きになって、嫌われるのは」

 そうだ。

 オクターヴが許せなかったのは、ミシェルを憎んだのは、そこだったんだ。

 裏切りは人の世の常。逃れ得ぬ運命さだめ、カインの代より連綿と打ち続く原罪。だから立場や関係の変化から態度が変わるのは当たり前で、そんなことはとうにわかっていた。

 だけれど、愛していた恋人と信じていた親友に嫌われることだけは耐えられなかったんだ。

 僕は、子供じみた性根の持ち主で、しかもひねくれている。でもそんなこと自分じゃ変えられない。昔話のトロルや魔法使いがたとえ厭だと思っても、腐った沼地から出られないのと同じで。

 だから相手を軽蔑して誤魔化そうとしていた。あまつさえ見たことの無い菓子は口に運ばぬ利かん気で、あの人から逃げることで自己防衛を図ろうとまでして………なんて愚かな……………!

 僕が望んでやまなかったものが、そこに在ったのに!

ミスターヘル、そろそろお出でにならないと、私が怪しまれてしまいます」

 急かすウェイターに、すまん、と慌てて顔の水気を拭き体裁を整えた。

 十分後。僕は自分でも驚くほど冷静な態度で白々しくサロンのお歴々に挨拶をしていた。

 とくにカイゼリオ氏には馬鹿丁寧にフェルダー法律事務所の居心地の良さを訴え、「ああ、そうか、それは重畳ちょうじょうじゃ」と紋切り型に答えるしかない氏の慚愧ざんきを周囲に曝すことをもってささやかながら復讐にかえた。

 マクシミリアンは僕が現れたことに驚きながらも、先のカイゼリオ氏の失言に憤慨冷めやらぬ仏頂面でいたが「雇用契約書の事でご相談が」と封筒を取り出して見せると、水を浴びせられたように一気に色を失い周章狼狽の体になる。

「ど、ど、で、いや、相談?やっぱり厭か?給料は確かに高くはないが、あの事務所を君と盛り立てていければと私は精一杯だな」

 短い腕をひねくる様はなかなか楽しく、もう少し見ていたかったが、意地悪をやめて用件を告げる。

「明らかな書類不備です。こんなものではまともな弁護士として契約致しかねますね」

「イアン君………」今にも泣きじゃくりそうな顔。ペーペーの僕に対してこんなに感情を露わにするなど、単純というか単細胞というか。でも法廷ではこんな無防備ではないな。「…そうか…仕方がないな…君ならもしかしてと思ったが。イヤ何も言うな君のせいじゃない、どうかもっと条件の良い勤め先が見つかるよう祈るよ」

「馬鹿ですか貴方は」

 え、と聞き返すアライグマ人の手に封筒を握らせる。

「こんな穴が多い書類を見たのは初めてですよ。よくもまあ恥ずかしくないですね!」

 まず条文の形式がなっていない。違約に関する規定が甘い。給料が事務所の収入に対して高すぎる。しまいにはマクシミリアンに何かあれば、僕が一切を相続することになっている。

「こんな書類にサインしてみなさい、あれがアグラムという悪辣な人間だ、善良なフェルダー氏を騙してあんな無茶苦茶な契約をさせたメフィストフェレスだと後ろ指をさされてしまいますよ。僕はそんなの真っ平御免ですからね。適正なもの以上を受け取らせようというのは、僕をして婉曲に堕落させようという魂胆でもあるかのようですよ」

「え…ええと、それはつまるところ」

 グリグリグルグル若葉色の目が回る。マクシミリアンは指を折りながら理解につとめていた。

「もしかして、一緒に働いてくれるのか?」

 思わず鼻で笑ってしまった。芝居ではなく。「理解力が類人猿並みですね」こうして皮肉を工夫していないと、僕は本心を隠せない。

 腕が、肩が、背中が、胸が、上半身全体がわなないている。

 僕は嬉しい。言葉に尽くせぬ喜びを、今すぐ抱擁で示したい。

 貴方こそ我が真の朋友とも。偽りなき高貴な紳士。その赤茶の毛皮に隈取りのあるわらべじみた面、肉体の容器うつわを満たす純粋な霊魂の内容なかみ。マクシミリアンに向日葵のような笑みがさあっと広がり、目が輝いた。

「それじゃあイアン君!」

「イアンで結構です。今日中に書き直して頂けますね?僕だってまるっきりの暇を余した身の上ではありませんので」

 ああ、もっともだ!今行こうすぐ行こう諸君さよなら!マクシミリアンはスキップしそうにピョンピョン飛び跳ねサロンの出口に向かう。そして僕も。

 後の面々は半ば呆気にとられ、半ばは疲労したように思い思いな気怠けだるい会話の輪に戻っていった。


 それから三年か。過ぎてしまえばあっという間だった。その間にティロル育ちの山人やまうどブレーズがやって来て、事務所はより一層賑々しく順調に運転し始め、少しずつ少しずつ僕は変わっていった。

 その間も先生は幾たりか恋人を持った。僕が事務所に所属した時には、さる歌姫の愛人の一人だった(割りとすぐ振られていたようだが、先生によれば「新たな恋の可能性の模索」らしい)。

 それから一月と空けず恋をしては破れ、愛人の座を得ては何処かしらの色男に奪われ、そのたびに憂さを晴らしに酒に付き合わされた。

 初めはごく目立たない兆候だった。それはやがて命を落とすことになるような大病がかかってすぐには毛皮の艶や白目のかすかな変色に現れるように、僕に顕れたときも莫とした兆しにすぎなかった。

 先生が何回目かの愛の告白に成功し、毎日のように送る花束を思案しながらイソイソと事務所のドアを閉めていくとき。ガランとした事務所の二階の部屋がやけに寂しく思われて、僕は離婚協議の書類を見直す手を止め何とはなしに書斎に入った。

 先生は庶民的な蔵書を好むので、本棚にはルソーやゲーテに並んでポーやディッケンズ、当世流行りの『炬火ファッケル』などの文壇論評が乱雑に詰め置かれている。ドイルをパラパラめくってから棚に戻し(あの独特な文体は鼻につくから嫌いだ)ディクスン=カーを今夜の寝しなの慰みに選んで事務室を閉め、出て行こうとしたところで窓際に落ちたなめし革の手袋に気付いた。

 拾い上げると留め金の横に「M・V・F」のイニシャルが入っている。手袋を落として帰るほどそそっかしい客はいないので、はじめからアライグマ人のものだと分かっていた。しかもホンワリ温もりがある。めかして出かけるとき着けかえたので気が付かなかったんだな。

 匂いを嗅いでみた。オレンジピールのコロンの香り。こんな勘違いしたものを身にまとわせるのは、やはりあの人だけだ。色気を出して女性を誘うなら麝香(じゃこう)の入った方がいいに決まっている。

 この革手袋の内側に先生の肉が収まっていたのだ。あの、柔らかく、小さく、節くれた先生の手が。

 想像の中で萎びた空洞に空気が入り、僕は手袋をした先生の掌を両手にそっと載せていた。衝動的に、ほとんど反射と呼べるだろうキスをその革の手甲に押し付けた。

 ああ、あの人の身体の一部がこの装身具に差し込まれていたのだ。ほんの数分前まで。残り香のなんと生々しい!

 先生、先生と悶えながら狂ったように手袋に唇を当てる。いっそこの身がもう片方の手袋になってしまえばいい。あの人の肌に触れ、風雪から守り、暴漢には自ら弾け飛んでいって目玉を握りつぶしてやろう。僕は、僕はこの手袋にさえ嫉妬している!

 どうして世の女性達は先生をすげなく袖にするのだろう?あんなに包容力のある心根の優しい、信念も持ち合わせた男を?陽気さと品格とを兼ね備えた稀有な人物を?仔を産んだばかりの雌牛の如く慈愛に満ち、ヴェレビトの高嶺の空高くに天駆あまがける鷹のように誇り高く勇敢な紳士を?

 全く信じられない。僕なら……僕だったら………

 僕だったら!

 あの人と自分の薬指に金の糸をかけ、10フィートも離れないで暮らすだろう。朝な夕なに新鮮な気持ちで恋心のソネットを書き、オーストリア皇帝ヨーゼフすら舌を巻く長文の詩文で部屋を埋めるだろう。あの人のダマ毛で傘された唇から息を吸い、僕の息吹きで返すだろう。そうしてまるで1つの生命いのちになって、いつまでもいつまでも互いを抱きしめているだろう。この宇宙の砂時計の塵が落ちきって、終焉の暗黒に世界が閉ざされるその時まで。

 夢想に浸りながらどれくらいそうしていたろうか。気が済むまで唇を当てていたのでよもやと心配したのだが、我に返ったとき幸い革手袋の表面は僕の唾液で湿ってはいなかった。

「なあにしてるだか、イアンさん」

 ギョッと振り向くと、ドアの音がしなかったのに部屋の中にいる碧毛(あおげ)の犬人がアングリ大口を開け僕を眺めていた。

「ブブ、ブレーズ!買い出しに行ったんじゃなかったか!?」

「先生は遅くなるし、おらだけの晩飯になるから急がんで昼寝しとっただよ」

 いつもなら大地を揺るがすゴリアテのようなイビキが聞こえたはずだ。さては上階の先生のベッドを使ったな!

 いや、そんなことに腹を立てている場合じゃない。僕の想いを気取られぬよう、なんとかしなければ…

「フェルダー先生の手袋なんかひねくり回して何のまじないだべ?」

 腋の下から生温かい汗がドッと吹き出た。「ははは、はは、どうも落としていかれたらしくてね、あの人の癖だなあ。失せ物探しに付き合わされるこちらの身にもなってもらいたいな」空々しく乾いた調子で証拠物件を先生のデスクに置く。

「そん手袋にチューしてただな」

 ぼそっと呟くブレーズに、更に背中が滝のような汗を流す。

「見間違いだろう」

「愛シテルー、好キダーッつってただな?」

「…聞き違いじゃないのか」

 うんにゃそうでねえ、おらが耳は3マイル先から馬車の蹄鉄が聞き分けられるんだからよ、と犬人はサラミのような眉を上げる。

「アンタもしかして先生に惚れてるだか?」

 心臓が膨れてせり上がり、喉元の動脈が皮膚を破ってしまいそうだ。面色は蝋燭を入れた鬼灯ほおずきのように朱く燐光を放っているのが分かる。

「違うよ。私があんな」

 あんな、の後に続ける言葉が無い。

 あんなチビっこい短胴の、頭ばかり大きな中年の、しょっちゅう飲み食いし遊んでは朝帰りするような計画性の無い子供大人を…とでも言うのか?

 それは心の内では思える。僕の素直な感想だ。確かにマクシミリアンは欠陥だらけの男だ。見ていられないときも、ハラハラさせられたりイライラしたりすることもある。

 だけれど僕の評価を他人に言おうとは思わない。言わせもしない。それだけをクローズアップするのは侮辱だからだ。美術品なら瑕疵きずがあれば価値を失うだろう。しかし僕はあの人のまるごとを、その欠点も含めて、愛でている。

「…惚れたら悪いか」

 あのサロンの事件での先生と、僕は今、同じ気持ちなのだと思うと嬉しかった。

「僕は先生を愛している。あの人が男であっても」

 愛を薄汚い保身の嘘で誤魔化すより、死んだ方がましだ。いっそ清々すがすがしくブレーズに打ち明ける。

「だがブレーズ、君がもしこの事で先生の名誉を汚すなら命がけで阻止するぞ。同性愛者として密告するなら僕だけにしろ。これは僕の完全な片想いなのだからな」

 身の破滅なのは分かっていた。帝国法規に照らして充分すぎる罪。投獄され、労役につかされ、釈放されてもなお身分証の履歴には隠しようもなく黒々と染みを作るのだ。

 それを受け入れるにあたり、穏やかな気持ちでいられるのが誇らしい。

「別にいんでねえの?」

「は?」

 人差し指の第二関節で鼻の下をこすりながら、犬人は欠伸を取りこぼした。

「おら別に何ぁんとも思わねえだよぉ。世ん中にゃあまっ子好きの女だっているんだから、野郎コ好きな男がいても不思議でねーべ」

 あ、ただしおらはダメだかんな!と腕を交わして×マークを作るので「馬鹿者、誰が君なんかと」と怒鳴ってしまった。

「そーかそーか、ふーん成程ねぇ」知りかぶった頷きを繰り返す。「うんうん、意外と良いカップルなんでねぇか?イアンさんみてぇな固ってぇガチガチの石頭にゃあよ、あんぐらい能天気な奴の方が似合いだべ」

「にっ、似合っ…馬鹿な!」

「随分楽しそうだなあ」

 猟師に撃たれた野鴨のごとく、僕は「キイッ」と飛び上がってしまった。

「マッ、せっ、せせせせ先生!?」

「何も悪魔の顔を見たような反応をしなくたっていいだろう。どうかしたのかね?」僕が想像の中で戯れていたアライグマ人の法律家は、イタリア製の帽子を降ろし、コートに珠を結んだ雨粒を肩を揺すって落とす。「約束をしていたメタイエ伯爵令嬢が、髪結い師が失敗したとかで自宅のサロンを欠席されてね。会えずじまいだったから花だけことづけして帰って来たんだよ」

「だははは、そりゃ先生、あんた様すっぽかされたんだべ。『理容髪切りに失敗したから今日は会えないのお』なんて、ありがちないいわけじゃないべか」

 そうかな?そうに決まってるべ!という二人の会話を背に、壁に向かって呼吸を整えた。

「で、おしゃべりは口と頭の栄養というが、続きに私も混ぜてくれないか」

「あー、どってことねぇ話しだでよ。イアンさんがあんた様のことが超好きだって言っ」

 僕はサッと腕を伸ばしてブレーズの意味もなく元気な尻尾を掴み、そのまま締め上げる。

「君、先生が戻られたのだから夕食の支度をしなければならないだろう。油を売っていないで」吊り上がる犬人の眼。「七時になる前に買ってきなさい!」堅い肉付きの背中をほぼ全力で突き飛ばした。

 ブレーズは勢い余ってドアの段差につっかかり、憤慨した表情で振り返る。(憶えとくだぞ!)(さっさと行きなさい!)と無声でやり合って、その足音がちゃんと一階から出ていくまで確かめる。

「一体何なんだ、イアン?」

 素晴らしく鮮やかな孔雀石色の瞳をしばたたき、きょときょと首を動かす先生。

「………さあ。先生の知りたがられることではないでしょう」



(以下、イアン=アグラムの雑記帳より抜粋)


〝そうやってその日その時から何回も、僕はこの人の疑問の目をくらまし、己の気持ちを封印してきた。

 大きな環になった瞳をして「一体何なんだね、イアン?」と問うてくる先生は、あの日からまったく変わっていない。じれったくなるくらい無防備に、生き馬の目を抜く大都市ウィーンの中に暮らし、欲望や愛憎渦巻く法曹界にたつきを得ながらなおも毒されていない純朴な魂。

 僕はドイツ語ではただ一言、「ありがとう」に全てを要約した。理解してもらおうなどとは露程も思っていない。だから、これでいい。

 先生が質問を重ねてくる前に、貴腐ワインを注文し、乾杯を重ねて場を繋いだ。

 先生のおすすめだというだけあって、このレストランの料理はどれも華美や奇驕(ききょう)に走らぬ、落ち着いた盛り付けの皿の底に温かなもてなしが薫るような味わいだった。

 美食に傾けるひたむきな探求心は果てがないというか(食いしん坊の意地の皮とも言い換えることができる)、デザートがいたくお気に召したらしくレシピを求めてウェイターを困らせていた。

 店を後にして向かった先は◯◯橋のたもとの魚河岸くさい居酒屋ホイリゲだった。既に微酔ほろよいの先生は僕のカフスボタンがずれるの構わず強引にその清潔には縁が無さそうな店に引っ張り込んだ。

 球体に近い髭面の店主が張り上げる「えぃらっしぇい」などと乱暴な迎えの言葉、給仕もいない店内、労働者ばかりの顔触れ。イギリス製の生地から仕立てたスーツの僕と、贅沢ではないがチョッキにループタイのホワイトカラー二人組はどうしても場違いに映る。だのに先生は大人気で、次々人が寄ってきては挨拶し、肩を叩いてゆく。

 ここはきっと先生のとっておきの隠れ家なのだろう。先生の付き合いの内、上流の階層の人達なら入れない場所だから。

 先生は「ここも私のおごりだ。存分にグラスを傾けたまえ。何でも頼んでいい」と風呂敷を広げたが、もとより安価なのでそこを指摘した。「バレたか。しかしだね、気のおけない友と酌み交わすには最適だろう?」と僕の首根っこを片腕に抱え(行儀の悪いことにテーブルに腰かけて)、いきなり『十夜のバラード』とかいう淫ら極まる俗歌をがなり出した。

 性的な内容を連記する歌詞に僕は閉口してしまった。先生はそれを無視して、さも嬉しげにジョッキを突き上げながら、僕とほとんど頬をくっ付けながら歌っていた。

 悩ましい歌が佳境にさしかかると、僕はどうしても想像に拍車がかかり、身体中の筋肉をこわばらせそれを押さえようとした。

「なんだい恥ずかしがって。男同士だ、気軽にいこう」と言う先生の笑顔の向こうに、歌詞に表された愛の行為が浮かんでしまう。それも主人公は(訂正の跡)僕で、その相手が(空白)

 庶民じみた先生に、僕まで毒されてしまったのだろうか。


愉楽にケトルも噴きこぼ

天井叩くよ歓喜の調べ

上がる爪先下る尻

胸は一つで背は二つ


スローなワルツはベッド軋ませ

隣近所も寝らりゃせぬ

あちらこちらで始まるいくさ

洗礼坊主の丸儲け


今や灯火ともしび燃え尽きて

気だるい眠りが新床包む

双葉はしとどに濡れそぼち

重なりもつれて朝をば迎えん


 先生と目を合わせれば、僕の欲望を見抜かれてしまいそうで、視線を下げればすぐ手の届くズボンの谷間、肉体の一部分に集中してしまう。まさに地獄だった。

 大人しいばかりじゃつまらないだろうと小鼻をつねってくる先生に、僕は長い間懐に温めてきたプレゼントの銀鎖を渡した。

 先生の喜びようはクリスマスイブの子供のようで、まったく…

 まったく……

 まったく、言葉にしようがない。

 おまけに周りの者にまでそれを自慢していた。そしてその幼い行動が余りに気恥ずかしく席を立ちかける僕を押さえつけ、ろれつの回らない舌で謝辞を述べ、抱擁をした。

 かなり全員に酒が回ってきた頃、とあるテーブルで何やら互いにキスを始めた。異様な光景だったが誰も注意していない。唖然としている僕に先生は「あそこの連中は小ロシアウクライナからやって来た農民出なんだよ。ほら、泣き役と説教役と慰め役になっているだろう?ああしてコミュニケーションをとったり故郷を偲んだりしているんだね」と説明してくれた。

 あちらでは男同士が唇を吸いあってもどうということはないらしい。気が付けば店のそこここでチュッチュッとやらかしているので、腰の下がむずがったくなっていた。

 居心地が悪いのは、僕が勝手に興奮しているためだった。「ほら、あっち、あれなんか強烈だねえ。兄上みたいだ」と中年が泣き崩れている胞輩にむしゃぶりつくような(こちらも大泣きだ)キスをしているのを面白がる先生の横顔を凝視してしまいそうで、ずっと下を向いていた。

 見境がなくなった野蛮なコサックどもの一人が千鳥足でやって来て、こともあろうにその下品な流儀で先生と親交を深めようとしたので、僕は…多少腕力に訴えて思い止まらせ、飲み明かしたいと駄々をこねる先生を小脇に抱えて店を出た。

 宥めても先生の腹は収まらず、僕のアパルトマンまでついて来ようと言い出した。「僕の下宿に面白い物など何にもありませんよ。事務所までお送りしますから」と言う僕の胸に殴りかかり、「嘘だ嘘だ!酒が山ほどあるって、ラウル君に聞いたんだぞ!」と主張するので、致し方なく僕の部屋に泊まっていくことを了承した。僕は本当に、本当にそんなつもりはなかった。だのに事務所の電話に出たブレーズは「おお、やっとこさ一発ハメる気になっただな。痔にならねえよう気イつけるだぞ」とほざくので、叩きつけた拍子に受話器の柄が折れてしまった。


 結局、僕にはなにも出来なかった。するつもりも無論無かった。それでいい。

 一切記録には残らない思い出。泡沫うたかたの夢とそうたいして差はありはしないのだから。〟




 ‡ 手負いの獣が生まれた経緯について


「あーあ!せぇーっかく取って置きの店に誘ったというのに、私の気の好い呑み友達とたかが接吻くらいのことで喧嘩はするわ、上司である私を一杯の水も与えずに追い返そうとするわ、君は不届き千万だぞイアン!」

 シュラー通りの歩道でガス灯の支柱に背をもたせ、ひょっとこ口に曲げた唇から滔々と愚痴を洩らしてやさぐれるマクシミリアンに、僕はほとほと困惑していた。

「先生、私は貴方をないがしろにして追い返しているわけではないのです。ただ本当に、何の供応もてなしもできませんから、失礼を加えるよりかは日を改めて是非にいらしてくださいませんでしょうか」

「___…ふーん」

「何ですかその目は…」

「波風立てぬよう、そうやって箴言を弄して私という厄介者を体よく引き取らせようというわけだ」

「ちっ、違います!どうしたら分かってくれるんですか、僕は」通行人の目が気になりだして、僕は周囲を確かめた。絶えず動いている人並みの奥にニヤニヤしながらこちらを眺めている顔を2、3発見し、胆が冷える。こんな痴話喧嘩紛いの言い争いで妙な噂が立ったら、僕はさしおいてもマクシミリアンに申し訳ない。「お願いです、今日のところはお許しを。ベッドも一台きりありませんので」でなければ誰が好意を抱く相手を戸口に寄せた浮浪民みたいに扱うものか。

 恐らくマクシミリアンならば、何の躊躇いもなく招き入れるだろう。ベッドが一台なら床を同じくするだろう。でもそれを僕に求められても困る。僕はそんなに…強くない。

「………イアン、君は私にとって無二の朋友だ」

 何を言い出すかと思えば、満面に憂いをたたえて穴があくほどこちらの顔を見つめてきた。眼には露を浮かべ、それがつくりものでない証拠に右耳を倒していた。この人が心を痛めて悲しむときの癖で。

「だからこの機会を逃したくはない。君と親密になりたいんだよ、イアン。タダ酒が呑みたいばかりにせがんでいると思われるなら非常に悲しい」

「僕はそんなこと、いやそんな風に受け取られたら僕の方が悲しいです、先生が僕のアパルトマンにいらしてくだされば名誉で…うれし、いえ、煩わしくはないことですが、あの、本当にそれこそ酒以外にお口の愉しみになる物が無いので、ですから」

「君が居てくれたら何も要らないさ」

 時が止まった。

 真顔で僕を見上げているマクシミリアン。片眼鏡モノクルに付けた僕のプレゼントの銀鎖が街灯の光を吸い寄せチラチラ煌めく。先の太くなった眉の片方だけが弓なりに上がり、どうだろうかと僕の答を待っている。

 こんな美しい一瞬を、未だ僕は知らない。

 何も聞こえない。耳がキーンと鳴って、あらゆる雑音を遮断しているのだ。

 抱き締めたかった。衆目などものともせず、この人を僕の熱くはやる胸の奥深くしまい込むように迎えられたら、あるいはそのぽっちゃりした小作りな身体に飛び込んで髭のある顔に頬をすり寄せることができたら、どんなにか幸せなことだろう。

「どうだろう、友としての頼みを聞いてはくれまいか」

 ああ、この人はなんて歳に似合わない幼稚な仕種をするんだ。

 後ろ手に指を組んで肩を左にずらす。少し前屈みになった姿勢で片足はもじもじとガス灯の支柱を踏んでいる。

 まるでいたいけな子供が無邪気におねだりしているみたいじゃないか。これでは、断る方が情を解さぬ無粋な輩ととられてしまう…

「貴方は卑怯者ですね」頭の中の計算機械で、僕はあらゆる言い訳をはじきだす。このまま酔いざめで事務所に送ればよろけて怪我をするかもしれない。ブレーズとドロテアはもう寝ており、ドアを開けてくれないかもしれない。途中ではしご酒をしたくなり、居酒屋の軒先で駄々をこねられたら面倒だ。それぐらいなら僕の部屋で一晩預かった方がましな筈。「友情をかさにきて無賃の宿を手に入れる、策士の才がおありになったとは」

「んーと、それは承諾と受けとっていいんだね?」

 盛大に(その実、胸躍らせながら)ため息をつく。「僕のけですよ。あなたがウィーン会議の時代に生まれていたら、出世街道を一気に伯爵まで駆け上っていたことでしょうね」己の脇腹を見えないようにつねる。でないと笑みがこぼれてしまう。

 今宵はまろい月の女神の厚化粧も、低い暗幕のように厚い雲に隠れている。しっとりした排気ガスが街にたちこもり、雨の予感に毛皮が重い。こんな夜なら僕の密やかな願いも叶えられていいのではないか?

「よーしヨシヨシ!そうこなくっちゃな!」

 マクシミリアンは軽業師のように飛び上がり、僕の肩先をパシリとやった。

「先生!僕を担ぎましたね!?」

「いやあ、答に窮する君があんまり可愛らしくってねえ」

「先生!」

 クルリと振り向きざま「『私』でなく『僕』という方が君には合っているよ」と言い、クツクツと笑う。

 僕は乱暴にマクシミリアンの腕を捕らえた。

「お、おおお!?なんだなんだ?」

「___…そっちではありませんよ。盲いた驢馬並みの方向感覚ですね」

 アライグマ人はホゥと息をつく。

「良かった。まさか本気で怒っているのかと」

「こんなことでいちいち腹を立てていては貴方の助手はつとまりません。貴方こそ…」

「ん?何だい?」

「…ちゃんと歩いてくださいよ。通行人に迷惑になりますから」

 一度訊いてみたかったことが、今夜なら口に出せるかもしれない。

 僕は意外としっかりした足取りのマクシミリアンに歩調を合わせ(普通にストロークをとると3ヤードも行かずに置き去りにしてしまう)、まだ開いていた雑貨屋に駆け込みチーズや胡桃などを買い(マクシミリアンは何を思ったのか菓子や人形を買った。ドロテアへの土産にするつもりのようだ)、アパルトマンの門をメニエ夫人に開けてもらい友人の宿泊の説明をした(マクシミリアンがいずまいを正して丁重に来意を述べたのは条件反射だろう。さすがに貴族だ)。

 僕の起居する部屋に着くなり、アライグマ人は二間続きの奥の棚へ突進する。

「これはこれは、ヨーロッパ中の銘酒が揃っているじゃないか。おほ、ラクまである。トルコからわざわざ持ってきたのか」

「そんな大層なものではないですよ。ほとんどが酒屋に置いてあるものですからね」

「イヤイヤ、この充実具合は素晴らしい。私は酒好きなんだが耐性が弱いから、大体気が付くとブレーズにされてしまうんだよ」

 あの無礼者め!

「どれでもお好みのものを。高いところのは僕が取ります」

「えーと、じゃあね………あ、あの右から二番目の馬の絵が描いてあるのと…その上のラベルがピンクのあれ、あれは何の酒だい?」

 はじめのがバイエルン産のワインで、ピンクの方がベリーを使ったイタリアの古酒だと教えると、「それは良い!」と二本ともきこし召したいと希望された。

 テーブルを軽く拭き、ちょこなんと腰かけるマクシミリアンに待ったをかける。

「先にシャワーを使ってください」

 えええええ!何を馬鹿なことを言ってるんだ酒をよこせ!と反抗の拳を振り上げるマクシミリアン。

「どうしてかと申せば、1に貴方は酒を飲むと寝てしまう。2に死体のようになった貴方を運ぶのは僕です。3に汚いままで寝床に入られたらかないません。以上の理由から貴方には更に飲酒を重ねる前の入浴を勧告するわけです」

「む、そうきたか。ならば私も受けてたとう。まず第一の懸念にたいしてだが」

 反対弁論を開始されるより前に、脇の下からすくいあげるようにして椅子から降ろす。

戯言たわごとは腹の足しにも財産の目録にもなりません」

 まだぶうたれているマクシミリアンをシャワールームに閉じ込める。湯がふんだんに出る下宿で助かったと思う瞬間だ。

 さて、まずグラスを準備しよう。こんな事態は予想していなかったが母が送ってくれた一組もののハンガリーグラスがある。多分将来アグラム家に嫁する女性と恋を育てるための小道具を暗示しているんだろう。…だがまあ、遠からず使用目的は合っている。ただ僕には愛を謳うだけの器量が無く、またたとい想いが通じるとも互いの戸籍は未来永劫交わることはないだろうが。

 何か目についたらまずいようなものは…無いな。趣味の靴磨きの道具や、日々の記録のたぐい(中には半分日記のようなものがある)は机に戻してある。よしよし。

 シーツに落ちた体毛を払いのけ、ベッドを整えたところに「タオルを借りていいかね!」と叫ぶ声が聞こえた。おろしたてではないが洗濯に出したばかりの自分の下着一式をタオルと一緒に持っていく。ドアの前に立つと待ち構えていたように内側に開かれた。

「おお、グッドタイミングだね。ちょうど上がったところ」

「あの、」ダメだ。「着替えで、す、」いけない。「中で着替えて、汚れ物はそのままに、」下の方を見るな!「し、しておいてください」

「ああ別にいいよ。ちょっと臭いかもしれないが事務所に帰れば着替えがあるんだし…なぜそっぽを向く?」

 ああ、男ってものはどうしてこう同性に対してつつしみがないんだろう。せめてこれがブレーズや他の人間だったらいくらでも目をそらさず対応してやるのに。

 半身をぬっとのぞかせるアライグマ人の体毛の色の変わりぎわ、二の腕から脇腹にかけてのクリーム色が気になってしかたがない。少し内側へ目をやったら、乳首や鼠径部が見えてしまうじゃないか。

「洗えるものは洗ってしまいますから、早くお上がりなさい。風邪をひかないうちに」

「君こそ顔が赤いぞ。調子を崩したか?」

 なんでもないです!と荷物を押し付けて退却。危ない危ない、だが一晩共に過ごすというのにこのような有り様では駄目だ。深呼吸しよう、深呼吸を…

「いやぁ悪いなぁ、確かにひとっ風呂浴びたらサッパリしたよ」

 マクシミリアンがサイズの合っていないパンツを引き上げながら、ダボつくシャツに水滴の模様をつけて戻る。さっき送り出してから10分も経っていない。烏の行水、船乗りの早食いとはこのことか。

 毛皮がまだ濡れているのを叱りつけてちゃんと拭いてやりたい衝動と闘い、辛くも勝利を収める。

「これ、君のパンツなんだがね、私が穿いたらホラまるで半ズボンだよ」

「ああそうですね、見た目といいギムナジウムの夏服みたいです。先生がいま少し歳に相応した言動をなさってくださるなら似合わないと申し上げるところなのですが」

「ほほう?言うじゃないか」にやつくアライグマ人に内心またしても失言か、と己を責めた。「じゃあイアンが上がったら日頃溜まっているだろう鬱憤を洗いざらい白状してもらおう」

「いいのですか?鼓膜が破れても知りませんよ?」

 浴室のドアを閉め、僕は奥歯を噛み締め己の額を壁に叩きつけた。

 この、愚か者!


 マクシミリアンの短い入浴を指摘するどころではなく、ものの5分で出てしまった。というのも、僕がのんびり石鹸を塗りたくって全身に泡立てている間にノートの読まれたくないページを開いてしまうのではないか…そんなことはないと否定しつつも…という疑いが宿酔ふつかよいのようにまとわりついたせいだった。

 湿気が無くなるまで身体を拭くなどできる相談ではなく、下着を身に付けるやシャボンの淡雪を撒き散らしてバタバタと足音高く部屋に戻る。

 アライグマ人は居眠りしているような姿勢でテーブルに俯いていた。先生、と声を掛けると「ああ、なんだ君も早いねえ」と顔を上げる。

 手元には銀の枠に嵌め込まれた一葉の写真があった。僕の唯一の宝物といえる、チェコ旅行の記念の品。

 羊雲と空を背景に大笑している幸福そうなアライグマ人と、懸命に口角を持ち上げている熊人のポートレート。

「私と君がプラハで撮影してもらった彩色写真だよ。こんなに大事にしてくれてるなんて思わなかった」

「それは………………………記念ですから」

 うん、そうだね。マクシミリアンは静かに眺め入っている。

 電気がもったいないから、と枕元に備え付けたランプのコードがぎりぎり届くところへとテーブルを移動させる。消灯した部屋の中は電球に幽かに照らされ、闇の中に浮かび上がるテーブルはまるでレストランのそれのように見えた。僕は先生の対面に椅子を引き、彼のグラスにまずワインを注ぐ。

「私達の幾久しい友情に」

 一文字入れ換えられれば。いや、それは詮無いことだ。

「先生の行末長き健康に」

「じゃあ君の立身とこの業界での出世も願いに足しておこう。それから健康も。あと金運。これは大事だぞ。そうだ女性運も忘れてはいけないな、あとそれから」

「長いですよ。さっさと乾杯しましょう」

 チン、とグラスの口が触れ合う。独特の甘い風味の中にわずかな木の葉散らす北風の辛さが加わって、農村の風景が浮かんできた。

 マクシミリアンは一口味わい、クーッ、と目を細める。

「うーん、これは後味いいワインだなあ。天界のネクターに五臓六腑の穢れをみそぎされるみたいだ」

「まあ文句が無ければ幸いです」

「文句だなんてつけようもない。ふくよかなかおり、豊穣な深み。ラウル君の言ったように君は酒を選ぶ目が高いな」

 紫の毛皮、深紅の瞳の見目麗しい虎人のラウル=ド=ルヴェル。あいつめ、いつの間にかマクシミリアンに取り入ったようだ。先日不埒な行為を働いて僕にどやされたというのに懲りていないらしい。

「こんなときにあいつ…彼の話はしないで下さい」

「何を不愉快そうに。君と彼は同じ学舎まなびやで机を並べた仲だろう?」

「だからといって親友とは限りません。なにせソルボンヌには二千がたそこらの学生がひしめいているんですから」

 相性が悪いわけでもないだろう、とアライグマ人は空になった僕のグラスになみなみ注ぎ、彼のように世故せこけた友人は貴重だぞ、と偉そうにふんぞっている。

「君はどうも生真面目だからな。私は若いうちならばもう少し遊んだ方がいいと思うんだよ。でないと歳を喰ってから後悔することになるからね。ともあれ、ブレーズみたいになれとも言わないぞ、あれはちと身持ちが悪すぎる」

 緑毛の犬人。あれはあれで女好きが過ぎるし口が軽いし分別が無い。悪気もなく「さっさと先生のケツを食っちまったらどうだべ」とのたまうデリカシーの欠如。喧嘩っぱやいのも問題だ。

「今は大概週がわりでおつむの軽い…もとい、あまり貞操に頓着しない女性達と遊んでいますよ。病気でももらいやしないかと危ぶんでいるのですが」

「君は誰かいないのかい?詩的な恋のお相手の可憐なレディは?」

「…世迷い言を。大体なんですか、その枕詞は」

「ほら、いつだったか聞かせてくれたじゃないか。『恋をした相手の名前を人知れぬ森の中で叫び…』ってやつさ。今思い出した。その娘さんには、もう告白したのかね」

 肘を立てて顎を支えるアライグマ人。自分こそが思慕の対象などとはつゆ知らず。穏やかな微笑みで、僕の心を締め上げる。

「…貴方には関係の無いことです」

「なぁ、せめてどんな女の子なのか教えてくれたまえよ。毛並みの色とか、瞳の色とかさ」

「毛皮は…赤煉瓦に似た感じがベースです」マクシミリアンはふんふん、と鼻の穴をおっぴろげて聞き入っている。「瞳は濃い孔雀石マラカイト色ですね。少し高い声をしてます。あと…おっちょこちょいなところがあって、しょっちゅう僕に責め立てられています」

「可愛いんだね?」

 マクシミリアンは両の瞼の端がくっつきそうなくらいニコニコしている。

「…可愛いというか、放っておけないというような。僕よりも年嵩としかさのくせにどうにも抜けていて、だけど妙なとこで器が大きいですね」

「面白い表現をするね。それにあねさんだとは!君なら年下が…いや、幼さのある女性ならしっかりした君にはぴったりなのか」

 背は、身体つきは?と畳み掛けるマクシミリアン。そこまできて我知らず暴露しかけている自分に気が付いた。やはりアルコールのなせるわざだ。

「ここまでにしましょう。この件は僕の命にも関わる秘密ですから」

「大袈裟だなあ!どうしたんだい、ここまで聞かせといてはぐらかすのは洒落心にもとるというものだろう。な、私にだけ。教えてくれないか」

 否や、首を振る。アライグマ人は、ここが攻めどころだと追及の手を緩めない。

「貴方も今夜はやけにしつっこいですね。他人の恋路よりご自分はどうなんです?余裕がおありなようには見えませんのに、僕の好いた腫れたに首を突っ込んでいかがなさるおつもりで?」

「君に私の女性を口説くエトセトラを伝授しようと思ってさ。役に立つぞぉ」

「ふん。どうせまたぞろ紳士用刊行誌の『女性にモテるコツ』からの入れ知恵なんでしょう?違いますか?」

「…な、なんで分かったんだ…」

 どうせそんなところだろうとたかをくくっていたが、やはりか。

「僕が誰を好きでも構わないでしょう。当てようとしたところで無駄ですからね」

「おやおや」マクシミリアンの太短い指が胡桃を取ってかじる。「ところでイアンよ、そろそろ隠し事は無しにしないか」

 !

 驚愕に足る科白だった。

 僕は丁度飲み下しかけていたワインを1コンマ遅れて目口鼻から暴発させてしまった。

「あ、ゲフッ、お、ゴホッ、な」

「自分の気持ちを私にいつまでも隠しおおせるなどと思うとは、ナメられたものだな」

 忌々しいワインがまだ気道が塞ぎ、僕は一言もしゃべれない。見かねたマクシミリアンがテーブルに膝をついて乗り出し背中をさすってくれる。

「打ち明けて楽になったらどうだい。私が怒るとか思っているならとんだ勘違いだよ。イアンのことには一切文句はつけないし、なんだって受け入れる準備があるのさ」

「ぜ…先生ゼンゼイ…」

「うん。そうだ。分かっているよ」

 マクシミリアンの掌は服の上からでも熱いくらいに温かい。それに、熟したプラムのように程よく張りがあり軟らかい。魂がとろかされていきそうだ。

 一体いつからだろう?僕がそんなそぶりをしたろうか?疑問のすべてはマクシミリアンの慈愛溢れる眼差しに解きほぐれていく。

 そうか。僕の想いを、魂の哭き声を、察してくれていたんだ…そう思うと不覚にも泣けてきた。

「先生、僕は…………僕は、僕は、先生が」

 アライグマ人は髭を上下させながら、うん、とことさらに大きく頷いた。

「………僕は…」

 唾を飲み込み唇を舐める。一言でいい。たったそれだけがなんて重いんだ…

「僕は貴方のことが」

「迷惑なんだろう?」

 僕の中でガラガラッと雷鳴が轟き、百万の煉瓦を積んだバベルの塔が倒壊した。

 フランス語、ドイツ語、ダルマチア語、英語、ロシア語、トルコ語、あらゆる言語が乱れ混沌に陥り、また、どれを使ってみても意味が出てこない。

 僕を宥めるかのごとく肩に手をかけアライグマ人は続けた。

「君は自分では気付いていないのだろうが、面白くないときや腹立たしいときにすぐ下を向いて黙る癖があるんだ。下らないと判断した会話を切り上げたいときもそうだな」

「え、先生、それは」

「今日だって何回もそんなことがあったよ。それでハッキリ分かったんだ。君には私が鬱陶しいのだろう?だがこの性格はもう変えられないと思う」

「先生」

「だからな、これより先は自分でなるたけ直していくつもりだよ。それは私の精神構造上の欠点なんだろうからね。だからどうか、今までのことも許してくれ。もう君に放吟を強いたり無理矢理連れ歩いたりはしないから」

 マクシミリアンの一言一言が、プラド竜魔公ドラクルの恐ろしい杭のように僕を穿つ。脳髄が激烈に痛み、胃の底がせり上がって吐き気がしてきた。ショックで気が遠くなっていく。

「違」

 マクシミリアンは深々と溜め息をついた。「私を…見捨てないでくれないか。この歳になって恥ずかしいが、真の友と呼べるのは君だけなんだ」額が僕の胸につくぐらいうなだれる。その右耳が、倒れていた。

「僕の話を聞け!」

 片手で相手の首を絞めるようにグイと握り、互いの鼻先が触れる距離まで顔を近づけた。

「何を勝手なことを言っているんだ。貴方が迷惑だなんていつ僕が言った。ええ?」

 だって、だって君は1日じゅう、ずっと乗り気じゃなかったろう?と戸惑うマクシミリアンの肉が石と化すほどの剣幕で、戯け者!と怒声を叩きつけた。

「僕はな、いいか、貴方と一緒にいられるだけで楽しいんだ。それだけで満足だったんだ。それは僕は感情表現は下手だし緊張すると言葉は出ないけど、それを…それをそんな風に誤解されるなんてあんまりだ!」

 アライグマ人の髭が僕に怒鳴り付けられビリビリ振動している。先の春の事件でもマクシミリアンに激して怒鳴ったが、あれを大声とするなら今度のは咆哮だ。

「貴方は…何て…愚かなんだ…!どうして…!」どうしてこうもすれ違う。相手の魂を捕まえるどころか、想いのままに伸ばした手が勝手な解釈で払い除けるものととられてしまうなんて!「僕が俯くのは…照れ臭いからなんだ…」

「じゃあ、本当に?その…楽しかったか?」

「ああ!」

「詰まらなさそうだと感じたのは、私の勘違いなのか?」

「全く、徹頭徹尾、百パーセントの間違いで、さらに上乗せして今19世紀最大にして最後の愚問だ」

「嘘じゃないね?」

「貴方にはつかない」

 みるみる顔がほころんだ。そして僕の首に腕を回し、キスを____頬を右へ左へ何度も繰り返す。

「そうか。うん、そうだったのか。なんだ、ずっと気に懸けていたのが馬鹿みたいだな!」

 狂喜するマクシミリアンに身を任せ、頬から位置を変えて眉間へ当ててくるその唇の感触に、僕は身の内に次第に高まる興奮を覚えていた。

 そして思わぬことに、呪われていると信じていた僕の舌が生まれて初めて素直になった。

「僕は…貴方が、好きです」

 やった。言えた!

「え、何だって?」

「あの、だから、貴方の…先生のことが、好きなんです」

 感激にうち震えながら狭い背中を力を若干抜いて抱き締める。そんな僕にはお構いなしで、アライグマ人はチュッチュとこちらの面を吸う。

「私もだよ!イアン!ああ、なんて幸せなんだろう!」そしてまたキスの嵐だ。「我が朋友マインフルンデよ、私達の友情は永遠だぞ!」純真な心から発した声が揺れている。

 小柄な体躯は温度が高い。ひしと重なった胸がかしたての白パンのようにもちもちしている。下着の薄い布をとおしてマクシミリアンの心臓が力強く拍動しているのが分かる。

 僕の股間が熱を帯びてくる。そこへゆっくり、ゆっくりと鎌首がもたげてきて…テーブルに座るマクシミリアンの尻を狙うように板の下から欲望の角笛を伸ばしていく。

「いいですか。もっと自分に自信を持ってください。生涯上司と仰ぎたい貴方がそんな調子では、僕はどうしたらいいんです」

 そうだな、うん、そうだ、とリピートし、マクシミリアンの興奮はいやまさり…ついには僕の唇を覆うように強烈な接吻をするに至った。

 完全に勃起した僕の上で、マクシミリアンの動きはしばし止まる。あわやの事故に笑顔も固まっている。僕もまた、息を殺して真正面からキスを受ける。

 アライグマ人の二重瞼の下の瞳が雨に濡れた若葉のようだ。自分が泣きそうな、それでいて半笑いになっているのが分かる。相手がぷるんとした唇を離すまで意識の歯車は都合よく停止してくれていた。

「先生?」自分の咽喉のところで動脈が拡張し、びくんびくんと細かな時を刻んでいる。「これは………」

 いきすぎだ。あり得ない。しかし紛れもない現実。

「すまん。口が滑った、なんてな、ははは」

 意識が戻ったとたんアライグマ人の接吻の後味が唇から全身に広がった。熊人がしきりに発情した際に開く脇の下や項の臭腺から、僕に特有の松脂の匂いフェロモンが溢れ出す。僕はそれと悟られないよう身体を揺すって空気に散らす。

 マクシミリアンは照れ隠しに鼻の下をこすった。「これで私達は小ロシア式でも親友として通じたわけだな」と、闇雲なキスの失敗を言い訳した。

「よくも僕の同意も得ずに唇を奪ってくれましたね」肌をすり寄せたい身体をテーブルの向こうに押しやることが、どんなに名残惜しかったか知れない。「特別に不問に伏します。以後、お気をつけを」

「じゃあもう一度乾杯だな。今度こそ、お互いに同じ気持ちで言えるわけだ」

 友情を称える祝辞を添えて杯を干した。

「さあ、どんどんいこう。潰れるまでな」

「僕の忠告は無視ですか」

「いやいやいや。この状況で良識の枷など必要ないだろう?明日のことなど考えない。昨日のことは悔やまない。ケセラセラどうにでもなるさ、楽しめやこそ舞い踊れ、我等酒神バッカスの落とし児なり!」

 マクシミリアンの大きな耳がふよふよと宙を掻いている。下膨れた福々しい微笑みは健在だが、赤みの度合いからして血管に浸透するアルコールが泥酔の基準値を越し始めたようだ。

「先生、もうこの辺でベッドへ行かれませんか」

「えー、やーだーよー」

 トロンとした瞳でプウと膨らました面を近づけてくる。熱い吐息は僕の鼻先を炙り焼く。危うく理性を失ないアライグマ人にむしゃぶりつく寸前、相手はテーブルにガッシとしがみつき「死んだフリ!」と叫んだ。

「あのですね、重々申し上げております通りご自分のお歳と、体面というものをお考えなさい」

「ふん。どうせ私は背丈も性根も小さい子供大人だよぅ。だけれども意気だけはそんじょそこらの奴には負けないんだぞ。なんたってウィーンの貧民街したまち育ちなんだからな」

「自慢する時と場所を間違っておいでですよ」

 マクシミリアンは嘴をつんと掲げる。強がっていても目が虚ろで呂律が怪しい。

 最悪は無理矢理にでもベッドに押し込んでしまおうという心積もりで、ワインを空けてベリーの古酒にさしかかる。

 マクシミリアンの蓋を外す手つきがもう怪しかったが、本人もそれを自覚しており常よりも慎重にグラスに中身を注いだ。

「そうヒック、いえばイアン、君が私に言いたかったのは結局なんだったんだヒック?」

 いつの話かと確認すると、アパートに向かう時のアレだよ、と人差し指で宙に環を描く。

「ああ、あれですか。…くだらないことですよ」

「なら言ってもいいだろう?」

「それは………貴方が怒ってやしまいかと思いましたので」

 マクシミリアンは「ヒャックん?」としゃっくりプラス鼻声で疑問の表情になる。

「僕は普段から貴方にたいしてどんな失礼なことでも言ってしまうから…本当は、腹の底では面白くないのではないですか?」

「ああなんだ、そんなことか」椅子の重心を大きく傾け後ろの脚だけでバランスをとる。宿題に飽いた学生のような格好。「君も馬鹿だなあ」

「貴方にぃ、そんなことを言う資格は、なぁい」きちんとしゃべるつもりが、妙に間延びした科白になる。「貴方こそなぁ、馬鹿がつくお人好しだろぉ」幼児の悪戯を叱るがごとく、行き過ぎた反駁を上部意識が見咎めた。あっ、と乗り出した身体を引く。まずいぞ。これじゃ本格的な酔っ払いだ。「ほら……これですから」

 アライグマ人、ここでチチョチョチョと舌を鳴らす。

「私は君のことが好きだと言っただろう?そして君も私が好きだと告白してくれた。愛情から発された軽口に怒るほど子供じゃないよ」

「…またそんな…気持ち悪いことを…」

 こういうストレートな感情の発露は、この人を愚かな道化に仕立てる三角帽子だ。止めさせたい自分と、尻尾をぴくつかせている自分がせめぎ合う。

「どんな辛辣な批判だろうと、イアン、君の真心から伝えてくれる真摯な言の葉は、私にとって優しい忠告にすぎないのさ」グイっと杯を干し、ぺろりと唇をなめる。「ダメージがある場合もあるにはあるが、まあ精神への栄養注射みたいなものだね」

「…やめてくださいよ。僕は別に深遠な警句を発するほど徳に恵まれた人間じゃないんだ。そこを誉められると、傷を舐め合うみたいで非生産的です」

「そうやっていつでも気遣いを忘れない。いやつだな、君は」

「だ、黙っ、黙りなさい!」

 テーブルの木目に爪を立てる僕に対し、ふふふん、と完全に場を掌握した勝者のほくそ笑い。滅多にないことだが、僕はマクシミリアンにそれ以上言い返すことができなかった。

「ふざけかかるときは相手が嫌がっている方が燃えるものだな。女性を力ずくで征服するのと同じで」

「強引に征服したことがおありだとでもおっしゃるのですか?」

「無いことはない、と言えなくもない、に、しくはなからず」

「つまり経験がないのでしょう」

 すまし顔で曰く、空想の中でなら成功するさ。

「とは言っても、やはり同意もなく無理矢理契って乙女の花を散らすことほど騎士道に反する行いはないからな。たとい頭の中でもやってみようとは思わんがね」

「…もし………」

「ん、どうしたね」

「もし…………」

 見えない紐が僕の身体を引っ張るようだ。マクシミリアンの輪郭が二重に見える。

「もし、僕がその罪を犯していたら、あなたはどうなさいますか」

 アライグマ人が止まっている。もう笑ってはいない。それはそうだ。「まさか」と喉から音を絞り出す。「それは笑えない冗談だぞ。君がそんなことをするわけがないだろう」

「どうして言い切れるのです?」

「君がそんな人間じゃないからだ」

 くすくす笑いが込み上げた。腹の底がむずがったゆい。言っちまえ。どんな反応が巻き起こるのか、わくわくするじゃないか。僕が人間というものに絶望することになったわけを、この人にぶつけてみたい。

 おかしな嗜虐心がむくむくと膨らんできた。先程の下半身の欲望のように。それでいながら、もう瞼が睡魔の爪で下に引っ張る力に負けそうだ。

「やっぱり…貴方は…おめでたい方だ」

 嘘だろう、そうなんだろう?私を担ぐにしてもタチが悪すぎる___…と眉間に皺を打つマクシミリアン。その輪郭がミミズのようにのたうち境界が部屋の背景に溶けていく。

 僕の身体はいまやイタリア名物の地震より激しくグラグラ揺れていた。

「貴方は…御自身が思うよりずっと価値ある人間です……僕より、はるかに………」

「おい、しっかりしろ。ニヤニヤしていないで訂正しないか」

 マクシミリアンは険しい顔を作り僕の目を醒まさんとテーブルをはたいている。

 この人が、こんなに怒ることもあるんだな。ボンヤリそう思った。

「イアン!本気で怒るぞ、訂正したまえ!」

 いつかと同じだ。またしても僕の名誉のために怒るのか貴方は。貴方は本物の…

「愚か者ですね」

「イアン!起きろ!!」

「オクターヴも…貴方のようだったなら…僕も救われたのに……」

 睡魔の濁流に耐える意志も余力も無かった。瞳は閉じるともなく閉ざされた。瞬時に僕は夢の奈落へと落ちていった。


 三年前のパリ。ソルボンヌの構内で、法律学科が入っている建物の前だった。

 叩きつけられた手袋を拾い上げる。あまり長いこと茫然と立ち尽くしていたためだろう、もうあたりには誰もいなかった。木立を吹き抜ける冬の風が身にしみて冷たい筈なのに、ふつふつと沸いてくる怒りとおぼしき感情で耳から鼻から口から湯気が出ている。

 オクターヴが平素がいかな崇高な理念を持った学生だろうと、今回の侮辱は誤解の域を越えて悪質であること甚だしい。

 彼と僕の間には、確かな友情があった。少なくとも僕はずっと変わりなく彼に対してよき友であろうとしていたつもりだった。入学した当初からの付き合いで、ときに好敵手として成績の首席と次席を争った。

 卒業した後は法律家として一日も早く自立し、共にフランス行政の荒波に立ち向かい、法曹界を上り詰めようと語り合った夜は数えきれない。

 無二の友。互いが互いの身元保証人として、いや、もし状況がそうなったなら相手の為に我が身を差し出すことすら嬉々として了承した筈の信頼。少なくとも僕にとっては絶対の友情だ。そう、信じていたのに。

 それがいとも簡単に覆された。最後に投げ掛けられた言葉は__…彼の口からほとばしるとは空想すら困難だったそれは__…

 薄汚いユダ公。

 僕の精神は深く傷つき悲しみにくれる半面、裏切りに対して激しく煮えたぎっていた。

「なんだっていうんだ…」手の中で手袋が鉤爪に貫かれる。「なんだっていうんだ!畜生ぉぉぉッ!」

 その叫びも放り捨てた手袋も、空しく虚空に吹く風に舞い踊り、消えていった。

 このつい二日前だった。僕が大人に___…身体や精神の成熟のことではなく、女性経験の方面で少年期を脱したのは。

 僕とオクターヴには共通の女友達がいた。ヨーロッパの古典文学を学んでいた女学生で、名をミシェル=レノール。黒目がちの小柄な狸人だった。

 そしてミシェルとはもともと、僕より先にオクターヴの方が親しくなっていた。

 入学して一年目の終わり、つまり夏の始まる前だったと記憶している(フランスは秋から新学期が始まる)。

 大学の構内を図書館から教授の待つ棟へと、弁論技法の授業の為に借りてきた資料を両手にうずたかく積み上げて寮に向かっていた僕に、内気そうな狸人を連れてきたオクターヴが「おうい、そこ行く我が未来の共同経営者!」と声を掛けてきた。そして本の重みに腕が震えている僕に「君にも紹介しておかなきゃな。後で恨まれると怖いし」と言ってその場に引き留めた。

 構内のカフェテリアで文学科の女性連と待ち合わせしていた彼女に、自分が意を決して語りかけたのが成功したのだと鼻高々に自慢する。それを聞く彼女ミシェルは謙遜の微笑を浮かべていた。

「さあ、ミシェル、こっちが俺の親友で非凡なる頭脳を持つ法学部きっての秀才、イアン=アグラムだ。といっても固くなることなんかないよ。勉強以外はからっきし、とにかく四角四面の石部金吉で無愛想な男だが」獅子人は僕の首に片腕を回して陽気に笑った。「とにかくいい奴さ。なにしろ競馬の観覧席を譲ってくれるのは学内広しと言えどこいつくらいなもんだからね」

「はじめまして、イアンさん。ミシェル=レノールと申します、どうかミシェルと」

「…イアン=アグラムです」

 よろしく、と会釈した。しかし不覚にも抱えていた本のピラミッドの頂点に額が当たって、貴重な図書館の蔵書や先輩や教授方の論文のファイルを敷石にぶちまけてしまった。

「おいおいイアン、何やってるんだ、しょうがないやつだなあ」

 悪いねコイツ、君に一目惚れしちまったかも知れないよ。オクターヴは気さくな会話を途切れさせないまま、すぐにしゃがみこんで拾うのを手伝ってくれた。

「あ、あたしも手伝います」

「いいさいいさ。スカートが汚れてしまう。昨日は大雨だったからな」

 僕も目線で必要はない、と告げた。

 ミシェルは確かに可愛らしい娘だった。体つきがとにかくホッソリしていて顔も小作り、ツンと上向きの小さな鼻が愛らしく、差し伸べる腕は柳のよう。肌は薄薔薇の毛並みで繊細な綿のような柔らかな毛に覆われている。どことなく、ボッティチェリの描く天使に似ついて見えた。

 これが馴れ初め。それから僕らは、何とはなしに三人セットの愉快なコメディア・デラルテになった。ミシェルが切り出し、僕が展開し、オクターヴがオチをつける___…そのように僕らはあくまで友人として微妙な距離を保っていた。

 僕はその頃までじかに母や姉以外の女性と接したことは皆無に等しく、ミシェルに対する親しさがやがて仄かな恋心に変わっていくのが空恐ろしくさえあった。僕は彼女以外の誰かを好きになるべきだと思っていたが、気持ちの流れはどうにも抑えようがないもの。

 それにしだいにこう考えだした。はじめに彼女を見初めたのがオクターヴであることは覆しようがない事実だ。しかし彼はそんな狭い了見で物事を見てはいないし、常に僕と対等等でいてくれる。だから何も、そこまで臆病になって身を引くこともないのじゃないか?

 無論僕は、オクターヴを出し抜きにしようとは思わなかった。そして恐らくオクターヴもまた、古きフランク人の家系図にかけて、どちらが花婿として残るかを決定する、来るべきその日までは一滴の血も流さないといった様子で___…一人の女性に二人の恋人候補というバランスは保たれていた。

 しかし、それは短い幕間の演目。ドラムの高鳴りに合わせて、やがて演題は佳境へと向かう。

 あれは成績表彰の翌日だった___…

 夕刻をとっくに過ぎた頃、ミシェルが、前触れもなく僕のアパルトマンを訪ねてきた。

 そして言ったのだ。

「イアン、今まで隠してきたけれど…私、本当は貴方が好きなの」

 そしてホッソリした腰、硝子細工のような身体がそよ風に突かれたように面食らっている僕の方へもたれ掛かり__…

 その夜、僕は童貞を喪い、彼女の処女を歯牙にかけた。

 事が済み、互いの肌の移り香と味わいを反芻し合いながら、僕は彼女にオクターヴにも明かさなかった出自の秘密を明かした。

 僕は数千年に渡り先祖代々から直系のユダヤ人で、君は恐らく一族に入る初めてのフランス人の母親の血になるだろう、と…

 ミシェルは僕の二の腕を枕にし、こう答えた。

「まあ…まあ…それは…なんてことなの」僕に見えない半分の顔が歪んでいようと、遺精の高揚に満ち足りた僕は気取ることはなかった。「私がユダヤ人の妻になるなんて___…驚いてしまうわ」

 ミシェルはすいっと目をすがめ、青ざめた下唇を噛んでいた。その視線が首席を讃える楯からどんどん離れ、天井をじっと眺める。僕はその意味をずっとはかりかねていた。

 決闘の局面まで。

 雨もよいの夜半。僕は呼び出しの場所、大学に近いマロニエ並木に馬車で乗り付けた。

 天空をも砕く雷鳴の車輪が轟音を響かせ、激しいどしゃ降りに変わる頃。こちらも一台の馬車に二人の級友…決闘の証人の責を負った…、医者を乗せたオクターヴが到着した。

「よく逃げなかったな」

 かつての親友の言葉に被われたのは、称賛ではなく嘲弄だった。貴賓席からサーカスの観衆を見下ろすような冷たい目付き。

 それでも僕は思った。これは完全な決別ではない、まだ交渉の余地がある筈、なんせ僕達はまだ卵とはいえ法律家なのだ。自己弁護に舌を奮うのは、今をおいて他にはない。

「なあオクターヴ、もう一度考え直してくれ。君の名誉の為にも、君を親友と思う僕を哀れと思うなら、5分___いや3分___いや1分でもいい、僕の話を」

 2ふりの長剣サーベルが宙を飛んで僕と彼とに渡され、僕の必死の科白を遮った。

 すぐさまオクターヴは鞘を払い、身体の前に構える。十字架に模す、騎士の臨戦体勢ポジション

「待てオクターヴ!まだ合図も宣誓も__…」

 友人が止める間もあらばこそ、うぉぉぉ!と荒ぶる雄叫び上げて、獅子人は大上段にふりかぶる。僕も剣を抜き放ち、横様にかざして兜割りを受け止める。

 そうだ、お前はいつもせっかちだった。だから今度のことも純朴で激情にはやるお前の、単純な思い違いだ。なんとか剣だけをはたき落とさなければ、身体に傷なんかつけてはことだ…

 剣激の丁々発止ちょうちょうはっし。凄まじいオクターヴの気合いに圧され、余裕など生まれる隙はない。水溜まりを踏み、泥を跳ね上げるのも一種の伴奏に、チャンチャンギャリギャリとしのぎを削り合う。

 不意に、どしゃ降りの簾を通し、小柄な狸人の耳が見えた。群衆と呼ぶには少なすぎる数人の野次馬に混じって…明らかに物乞い、娼婦、飲んだくれの連中の中に…嘘だろう、いや喜ぶべきだ、一晩抱き合った相手を見まごう筈がない。

 ショールとスカーフを身体に巻き付け、小間使いに傘をささせた少女。

 ミシェル。止めに来てくれたのか!

 小さな口が引き裂けてしまうんじゃないかというほど心をこめて、精一杯叫んでくれた。

「お願い勝って、オクターヴ!」

 この言葉で僕の世界が壊れた。

 そのときの感情を、心境の変化というのは生易しすぎる。

 例えるならば…そう……人はたくさんのカーテンがかかった部屋で己の魂を守っている。それが少なかったり多かったりは、あるだろうが。それを引き開けて、時に人と交流し、場合によっては特定の個人のために開きっぱなしにしておくのだ。家族や友や、恋人の為に。

 この瞬間、僕の心象から、その幕全てがレールから外れて落ちてしまったのだ。

 もはや戻らぬ心のひだ…戸惑い、思いやり、礼儀、尊敬。人間の優しい面を飾るもの、繊細で柔らかな人情の一切が風化し塵となった。

 後に残ったのは僕の魂だけ…憎しみと怒りに満ちた、悪臭振り撒く悪魔デーモンと変じた僕だけだった。

 

 ミシェルが口許に手をやる。その陰からチラリと、羽毛のような歯並びがよこしまな笑みにたわむのを認めた。

 ミシェルの意図が読めた。オクターヴが彼女を捕まえたんじゃなかった。二人の出会いのきっかけを作ったのは、おそらくこの狡猾な女…つまり、僕達が彼女の蜘蛛の糸に絡めとられたんだ。

 有能な二人の生徒…オクターヴはカール大帝から続くフランク騎士の家柄、僕はオーストリア領ダルマチアきっての資産家の出。

 この狡猾な女は、ずっと二人を天秤にかけていたんだ。それが2日前、僕の方にわずかに傾いた。首席卒業の記念の盾の目方だけ。きっかり35ポンド。

 だがそこに大きな誤算があった。彼女はこの比例式において負の数式記号を僕にふるのを忘れていた。それは最大のマイナス……

 ユダヤ人。

 よおく考えたんだろうなあ。処女を喪った自分が、名誉を保ったまま安全パイへ乗り換えるにはどうすればいいか。

 答え。僕に犯されたと周囲を欺き、二人を決闘させ、唯一の証人である僕を殺すこと。

 いいだろう。僕を裏切り友をけしかけ、世界をぶち壊しにしてくれた女め。

 褒美に世にも美しい結末をくれてやる。お前などにはもったいないほどの、オペラ座での演目に飽いた王候貴族が目を醒ますような刺激的な最後を!

 防戦につとめていた僕が急に攻め始め、オクターヴをあっという間に圧倒してしまう様子は観客達の間にどよめきを走らせる。

 くっ、このっ、と苦境に立たされた獅子人の顔が歪む。僕は本気を半分しか出していない。それで十分だった。木立の一本まで追い詰め、背中にごわごわした樹皮を感じた相手が起死回生の一撃を放とうと刃を下からすくいあげようとしたところを…

 懇親の力で弾いた。サーベルはひゅんひゅんと雨粒の輪を作りながら飛んで、医師の足元に突き刺さった。

 オクターヴは痺れた利き腕をかばい、僕を睨んでいる。その眼差しには敵意の瘴気がみなぎっていた。命乞いなど無用ということか。

「いい度胸だ。苦しまずに終わらせてやろう」

剣先を胸骨のわずか左にずらす。皮膚の2インチ内側で運動する心臓を狙って。

「言い残すことは」

「さっさとしろよ腐れユダ公、ケリをつけて魔界の公爵にでも善良な男の心臓を抉り出したと報告するんだな」

 雷鳴の合間を縫って声がした。

「待って!」

 小走りに駆けてきたのは___そちらを向かなくとも分かる___ミシェルだ。

「その人を殺さないで!」

 来ちゃダメだミシェル!とオクターヴが叫ぶのを、切っ先を顎につきつけ黙らせる。

「ここまで僕を愚弄しておいて、虫がいいとは思わないのか?」

「私は__…私はオクターヴに相談しただけで…彼に罪はないわ」そりゃそうだろうさ。「だからお願いイアン。あなたはもう私の一番大事な花を摘んだでしょう?」

 瞳を潤ませ泣いている。これが本物の涙だと言うのだから恐れ入る。この女の肉体は自由自在な演技を生み出す正確なオートマチックを内蔵しているに違いない。

「そうだな。許してもいい」

「ああ、良かった___貴方の慈悲に感謝を___」

「ただし代償は貰おう」

 凍りつき剥がれ落ちるミシェルの仮面に、腹の底から哄笑が沸いてきた。

 サーベルの柄をクイクイとひねる。途端にオクターヴが悲鳴を上げて跪いた。その両袖から血が滴り、地面にできた水溜まりに朱を加えていく。

「オクターヴに…貴方…貴方は何をしたの!?」

「別に」と僕。薄笑いが止まらない。「手首の腱をちょん切ってやったただけさ。人の命を狙ったんだ、それぐらいは当たり前だろう。これで二度と僕を刺そうなんて思うまい」

 またもや計算の狂ったミシェルの様子はまさに千変万化。どうやって犠牲を払わず最大の利益を得ようかと馬車馬並みに脳を働かせているのだろう。

 次にこの女が口を開く前に楔を打つのみ。

「さあミシェル、こっちへ。僕と共に来るがいい。そんな不具者など捨てて、裕福な暮らしを共にするんだ。さあ!」

「え……え………」

 くくく。悩んでいるぞ。偽悪的な態度が理解できないだろう?

 ミシェルの表情が、パッと明るくなった。悲しげな顔をしてはいるが、その裏でしめしめと舌なめずりしている。

「___…分かったわイアン。彼をこれ以上傷つけないで」

 一歩、悲劇的な自己犠牲を装ったとりあえずの勝利を…ユダヤ人でもとにかく金のある夫…を得るべく僕の手を取ろうとしたミシェルを、オクターヴが両腕に引き留めた。

「駄目だよミシェル、こんな男のものになっちゃいけない!」

「は、離してオクターヴ!」

 見ようによっては美しいこの光景も、僕には狸人が羽交い締めにされてもがくようにしか見えない。

「俺は…君を愛している!命の限り君を守ってみせる!たとえ四肢をもがれても!」

「離して…離しなさい!」

 おやおや、化けの皮がめくれてきているぞ。いつまで見ていても面白いが、そろそろフィナーレといこうじゃないか。

「…仕方ない。オクターヴ=アンベール、ミシェルは君にくれてやろう。金にあかせていいようにできる愛情ではないようだ」

 もはや僕の誇張された偽悪的な言動を疑うことすらしない獅子人は、勝ち誇って宣言する。

「そうだとも、俺達の愛は貴様の獣欲とは違って本物なんだ!」明らかにヒロイズムに酔いしれてオクターヴはダラリと垂れた手首で僕をさす。「さあ来い!まだ終わってないぞ!俺の命尽きるともミシェルは渡さない!!」

 僕は、またしても心から熱が失われていくのを感じていた。こんなに馬鹿な男を親友と信じていたのか。まともな論理も判断も持ち合わせない、下手くそな辻役者の真似をする田舎者のような男を。

「…どうやら僕の完全な敗けだな。彼女は君の妻だ。せいぜい幸福しあわせにしてやることだな」

 後の半分は本心だった。ここまでの流れから自分の身に課せられた義務の重さに…不具者と望まぬ結婚への後戻りできぬ坂道を転がり始めたことに愕然としているミシェルと、狂ったように勝利を叫ぶオクターヴに背を向ける。

 ミシェルが捌かれようとする雌鳥のようにけたたましく僕を呼んだようだった。

 毒気を抜かれた観衆が左右に別れて道を作る。みんな薄々ことの異常さ、不自然さには気付いているんだろう。だが構うものか。

「ユダヤ人め…」

 始め一つだった呟きが、やがて小石が水面に波紋を広げるようにどんどん高まっていく。

「ユダヤ人!ユダヤ人!」

 馬車に乗り込み扉を閉めても、その声は消えなかった。翌日アパルトマンを引き払い、就職する予定の法律事務所に辞退を申し入れ、ウィーンの土を踏んでも。


 それが今は、まったく聞こえない。何故かは分からないが…いや…分かってはいるが認めたくなかった。

 人間を蔑むのは心地よかったから。傷つけられた悲しみを誤魔化すために、心を閉ざすのが気持ち良かったから。

 それこそ愚かな増上慢であることを指摘されたくなかったし、認めたくなかった。そんな凍てついた心を、アライグマ人の法律家が、憎んでやまなかった貴族側の人間が、………マクシミリアンが綺麗に溶かしてしまったのだ。

 仕事を始めた頃のサロンでの悶着もそうだったし、今年の旅でもルーマニアの居酒屋で受けた罵声に真っ先に異を唱えてくれたのはマクシミリアンだった。

 どんなに毒舌を浴びせてもめげない。批判ばかりする僕を嫌わない。優しく思いやってくれる。普通の、1人の人間として。

 僕は激しく惹かれている。マクシミリアンの頼りないところも、間の抜けた性格も、ときに頑固一徹の正義感も、すべて。

 だから………できるものではないと知りながら…あの人の生涯の支えになりたいと思っているのだ…

 ああ、マクシミリアン。

 マクシミリアン、マクシミリアン、マクシミリアン。

 愛している。愛している。貴方こそ僕のアポロン。愛しい太陽の守護神だ。




 ‡ 蒼ざめた月明かりより隠れた一室でのこと


「ん……」

 ふかふかしたスポンジケーキに包まれているようだ。なんだろうこれは?枕ではない。こんな弾力は無いし心地よい温もりなど無い。人形か?いや違うな。ちゃんと脈打っているし、指が動いて僕の熊人の耳の後ろを掻いている。

 黄昏た後のような薄墨に淀む、赤茶けた毛皮が目に入った。これは、肩先の色の変わり目。僕はこの肌を知ってる。ゆっくり頭を下げた。そうだ。ベージュの毛に覆われた腹と胸。胸毛の繁みはやや白っぽい。

 僕はそこに顔を埋めてみた。ずっと夢に見ていた行動。男の身体に欲望を抱く禁忌、戒律に背く愛撫。ほほずりに心地よい甘美な弾力、ヴァニラビーンズの香りがする。これがこの人の素のままの体臭なのか…コロンなぞ振り撒く必要はないじゃないか。

「ぅあ…イアン…」

 少し高めのテノール。僕の頭をさわさわと探る指先。

 顔をこすりつけると、乳首を発見した。小さい。丸パンの上に載せた南瓜の種より三回りぐらい下といったところか。

 迷わず口に含んだ。「アアッ」とひきつけのような反応がして、頭を撫でる手にも力がこもる。僕は舌で巻き込むように転がし、吸い上げて前歯で挟んだ。コリコリとした感触を思う存分味わう。

 やがて唾液の糸を引いて顎を離す。今度は鼻先を使いそっと鎖骨をなぞる。「うう、ああぁ」と相手の肌が震えている。そこから胸鎖乳突筋の縁に沿い、喉をなぞりあげる。

 顎まできたらコースを変えず、一気に大きな三角耳へ抜けた。僕の頭を抱えていた腕が、今や快楽に意識を奪われつつも貞淑を守ろうとする乙女のように弱々しく肩を押し返している。

 耳の中にはグッと濃い匂いが充満していた。僕の興奮が燃え上がる。心臓のリズムはジプシー千人の奏でる音楽のように狂乱のコードをつまびいていた。

 耳を噛んだ。キャッという悲鳴、肩に食い込む指。僕は我慢しなかった。

「あう、あう、イアン、痛いよ!」

 分かっている。こんなこと、通常ならとてもできっこない。

 だけど許して欲しい、僕は自分を抑えられない。何故なら貴方を愛しているから。貴方を、この肉体の全てを僕のものにしたいから。うつつから離れた胡蝶の境ゆめのなかでしか、肌を交えることなぞできないのだから。

 咀嚼していた耳を放して、つぶさに相手の表情を眺めた。

 マズルは胸や腹と同じベージュ。頬からは赤茶けた色になり、焦がしたような隈取りがある。まろやかな顎に先太りの眉という童子じみた容貌を特徴づける孔雀石マラカイト色の瞳。

 マクシミリアン=フォン=フェルダー。男爵の次男坊の地位を持つ、31才の太りじしな小男。おかしなハプニングに事欠かない法律家で、純朴で素直で実直な僕の……

 僕の………

「イ…ア…ン」

 潤んだ瞳で僕を見上げ、喘ぐようにフウと息をついた。果実酒のふくいくたる名残を宿した吐息が顔にかかるなり、僕の股間の男性がいきり立った。

「イアン…あ…熱いよ…」

 科白を聞き終わるまで待てず、斜めに差し込むように唇を奪う。

 思い余すことの無いよう、少しでもこの夢が長く続くよう祈りながら、グミのような唇を割って深く深くキスをした。

 貴方は僕の恋人、これまで何人の愛人を抱いてきたとしても今は、今夢に見ているこの時は僕だけのものだ。

「…~んー、んっクゥゥンンッ…!」

 マクシミリアンは上気した面を曇らせている。気持ちいいのだろう。僕もそうだ。こうやって同じベッドで、同じ下着を身につけて、胸を合わせ、固く抱き合って、そして…

 あれ…?

 相手のパンツを引きずり下ろしながら、ふといぶかしむ。いやにディテールの凝った夢だな。マクシミリアンが着ているのは本当に僕の物ばかりだし、恥じらいに満ちた表情で「駄目だ、駄目だよ」と抵抗するのも本物らしいし、自分の身体の関節にわだかまるアルコールのダルさもリアルだ。

 ええいままよ!こんな都合のよい夢は二度と無いかもしれない。マクシミリアンの肉づきのよい下腹部を隠すものを一気に脱がし、部屋の隅に放り捨てる。そして僕もシャツをもどかしく脱ぎ捨て、パンツを下ろして生まれたままの姿になった。

 膝立ちの僕を見上げるマクシミリアンが、感心したように嘆息を漏らした。

「なんて逞しいんだ君は。まるでラファエロかミケランジェロといったところだな」そして股間から天を衝く一本槍に絶句していわく、「それにブレーズの言った通り、またとない立派な道具だ」

 僕はにっこり笑んで、アライグマ人の裸体を覆い尽くすように自らの身体を重ねた。僕の小さな恋人は真っ赤になり「いけない、やめるんだイアン」と悶える。

 好きです。だから、いいでしょう?

「いけ、ないイアン。何をするんだ」固く閉まる膝を腕力にものをいわせてギリギリとこじ開けた。すかさず腰を入れて、ガバッと身体を落とす。僕の重みで自由を失ったマクシミリアンが唸る。「う、あ、駄目だったら」

 僕は正面から困りきるマクシミリアンを見つめた。

「貴方が好きだ。心から愛している」

 えっ、と引きつるマクシミリアンに、またキスをした。相手の毛皮がぞわぞわ逆立つのを肌で感じながら腰を持ち上げ、尻の奥に引っ込んだ体内への入り口を貫くべく尻たぶを左右に分けようと___…

「へ、へ、へ、ひぶわっくしょい!」

 マクシミリアンから発せられたくしゃみの衝撃が全身に叩きつけられた。僕は交尾の真っ只中に冷水を浴びせられた野良犬と同じく、呆然として今の有り様を見下ろした。

「ひひふ、ふまん。くすぐったくてね」はなをすするマクシミリアン。一糸まとわぬ小柄な体躯の胸が僕の唾液で仄明るく光っている。「君のキスがあんまり激しいものだから」

 筋肉のほどよくついた胸、向かって右の乳首には僕の歯形。緩やかなカーブで盛り上がる腹に、ちょこんと凹んだ臍。あらわにされた下半身にプリッとした一揃いの睾丸、切り詰めたフランクフルトのような男根。

「う…あ…」

「目が醒めたみたいだね。うっ、君が離れると寒いなあ」

 ここは僕の部屋だ。これは僕のベッドで、サイドテーブルに移された電気ランプのシェードが和らげた光が、僕と…マクシミリアンの裸体におぼろげな輪郭を与え、壁には今まさに襲いかかる大きな影とそれに怯んだ体勢の小さな影を投げかけている。

「正気に戻ってよかった」もぞもぞと股間を内に閉めて太腿の付け根を両手で隠す。「よほど良い夢を見ていたのかい」

 苦笑するマクシミリアン。僕は、僕は…彼のふとももを二の腕に乗せ、女性にするような正常位で犯そうと…

 頭痛が始まり、鼓動と共に大きくなっていく。一番下まで見下げた。僕自信の膨れ上がった欲情が、汚ならしい形を股間の陰毛の茂みからつきだし、脈動している。

「しかし危なかったなあ。もう少しで君、私なんかとところだったぞ」

 破顔するマクシミリアン。僕はその脚を放して頭を抱えた。

「さ、まだ朝までは長い。そばに来てくれないと寒いから、早く下着をつけて」

「うわぁぁぁぁぁ!」

 僕はたまらずベッドから飛び降り、床に額を擦り付け非礼を詫びた。

「も、もももももも申し訳ありません!」

「いや…まあ」気まずく目を泳がせる。「構わないさ、うん。むしろ君に悪かったな、恋人と勘違いしたんだろう?」

「え?」

「ほら、言ってたからさ。緑の瞳とかなんとか、毛皮の色も私と同じ女性だと。その娘と間違えたんだろう?」

 ベッドの下にかしこまる姿勢でマクシミリアンを見上げた。これは…なんの話だ?

「忘れてしまったのかい?君が酔いつぶれる前に聞かせてくれた話だよ」

「あ…ああ、あれは違いまして」

「あれ、君の恋人のことだと言ったじゃないか」

 あれは女性でなく貴方のことです。そう口を滑らせるほど寝惚けてはいなかった。

「いいえ、まだ片想いです。………片想いなんです…」

 そうだったのか、なら余計だよなとアライグマ人は同病相憐れむといった調子で頷いた。

「私もそういう夢を見るよ。よくあることだ、うん」

 平に陳謝しつつ、部屋中に放り飛ばしてしまった服をかき集め、ベッドに戻る。

 大丈夫だろうか。こんな、こんな状態で同衾してしまっては、またぞろおかしなことをしてしまうのでは…

 まだ衰える気配のない僕の一部に目をやり、横になって片肘で頭を支えていたマクシミリアンがポツリと言う。

「収まりがつかないのか?」

「申し訳ありません」今度は僕が赤くなる番だった。マクシミリアンが膨張の一途を辿る僕の一物を、つらつら眺めている。恥ずかしさに焼き焦がれそうだのに、押し下げた雁首かりくびは更にはねのけんばかりに勢いづいてしまう。「多分…こうなってしまうと、しばらく無理です」

「じゃあバスルームでスッキリしてくるか?」

「…?なんですか、その妙な手の動きは?」

 スコスコと右手を上下する仕草をしていたマクシミリアンが目を見開く。

「君、マスターベーションをしたことがないのか!」

「ああ、オナの罪自慰ですか…ありませんよ」ああ、苦しい。大好きな相手を前にしてお互い裸でいることが災いし、精力の炎が呪いのごとく身内を駆け巡る。早く服を着てもらわなければ。「なんとか耐えますから、寝みましょう」

 マクシミリアンがおいでおいでをする。服の山を下ろせと身ぶりで示すのに従って、己の股間を強くひしぎながら膝で歩み寄った。

「手伝ってやるから、覚えるんだ」

 言うなり股ぐらにあてた僕の両手の下にマクシミリアンが手を突っ込んできた。

 ひっ、と叫んだ僕の腰を抱いて、根本から一物を握り、筒状にした掌でしごく。

「うわああ!やめてください!」

 叫ぶのはつかの間で、花開いたえもいわれぬ快楽の大輪は、足腰の要所から力を消失させた。僕は仰向けに倒れ、脚を広げマットレスを叩く。

「暴れるんじゃない、大人しくしているんだ」

「でも…いや…しかしですね!」

「これをしないものだから有り余った精力が暴走してしまうんだよ」教え諭すようにマクシミリアンは囁く。「こんなことは罪にはあたらない。男性特有の苦しみを和らげるための知恵さ」

 僕の身体に寄り添って寝そべり、マクシミリアンは愛撫を続ける。抵抗する意志はとうになく、僕は信じられない状況と気持ちよさですっかり従順になっていた。

「懐かしいなあ。ギムナジウムでもこうやって互いに慰めあったものさ。でないと四六時中ズボンの前を突っ張らかしていなけりゃならなかったからな。若かったなあ、あの頃は」

「せっ…先生は今でも…おっ、…お若いですよ」

「優しいことを言ってくれるな」一旦手を止め、掌につばきをつけた。「私にこれを教えてくれたのは同室の狸人だった。どうしているのかな、彼は…」

 ずっ、と尿道口の真下をこすられて、滑らかな感触に悲鳴を上げた。

「気持ちいいかい?」

「はっ、あひっ、はいっ、ひぐっ」

「私もさっきは気持ちよかったよ。あ、いけない」笑顔から舌打ちし、己の性器を触る。「私まで興奮してきてしまった」

 顔を倒してそちらを見た。確かに、給気口にセットしたバルーンのようにむくむくとマクシミリアンの男根が付け根から膨らんでいく。

「昔はね、二人が同時に気持ちよくなるためによく『こすりっこ』で対応したものだ」

「どんなっ…悪戯っ…なんで、すか?」

 たわいもないことさ。勃起したペニスをこすりつけ合うんだ。あっけらかんと笑ったアライグマ人の肩をつかみ、思いきって言ってみた。

「僕達も、しません、か」

 ぎょっとしたマクシミリアンが手首のスナップをより強くした。「あっ、あうあああ!」と僕はのけぞる。

「ああ、すまんやりすぎた…本気で言ったのか?」

「興味がっ、あ、るからっ、もも申し上げたまで、で、すっ」

「どうもおかしいな…また寝惚けてるとかは無しだぞ」こくこくと首を縦に振る。「大人同士の戯れには度が過ぎているが、それでもいいんだね?」

「はいっ!!…先生が、おいやで、なければ…」

 たとえ 律法師ラビに破門されたって、こいねがう気持ちを止めることはできない。帝国の法規に触れる罪状だとしても、たとえ地獄に落ちるとしても、マクシミリアンの肌を知られる歓びには代えられないのだから。

 そうか、と握った指を開き、マクシミリアンは僕の膝の間に身体を滑り込ませる。さっきと逆にアライグマ人が僕の上に乗り、二人の性器が重なった。それだけのことで僕の方からはタラタラと愛欲の体液が漏れだしてしまう。

 頭身の低いマクシミリアンのかんばせが僕の胸にのし掛かる。腰をうまく使い、自らの男根を僕の血管のたうつ剥き出しのモノにこすり付け始めた。

「はあああっう」

 股を締め付けてしまう僕の脚力にも負けないで、アライグマ人の殿筋が大胆に収縮する。キュッキュッと音を立て、大きな僕の亀頭を小さな亀頭が攻撃してくる。

 マクシミリアンの背中を抱き締めた。ぴったり密着した肌に荒々しい動きが堪らなく刺激的で、僕は胡座をかくようにその尻を抱え込む。そうすることでより前後の余裕ができ、マクシミリアンは「うおおおおおっ」と古代の戦士のような雄叫びを放ちながらズコズコと腰を運動させた。

 クキッキュ・クキッキュ・クキッキュ…無機質なベッドのスプリングが淫らな声で鳴いている。僕は「ひいっ、あぐひっ、うぐひいいっ」と喉を詰まらせながら泣く。マクシミリアンは「くふっ、くおっ、おおん、あぁんっ」と複雑な調子をつけて哭く。

 快感に突き上げられるばかりの僕は楽だが、この人はそれを把握して誘導しなければならない。その気負いが頼もしく、少し角度を持ち上げて僕を見つめる切なくも真剣な面持ちに浮かんでいた。

 僕も、腰を使った方がいいかも知れない。マクシミリアンにだけ任せず、協力するのだ。

 頭では分かっているのに、馴らされていない身体は淫魔のようなアライグマ人を受け止めるだけで精一杯だった。まだるっこしくて、とろけていきそうで、瞼も開かないままただ涙が流れた。

「どうやらっ、こっちの方面はっ、私にっ、一日の長がある、なっ」嬉しげにニッと口角を上げる。「気持ちいいだろうっ、さあっ、存分に味わえっ」

「あっ、あひぃっ!」

 はい、と答えたつもりだった。口を開けばよだれがこぼれ、ごぼごぼと喉元に泡が立つ。

 幸せ。そう、これはいまだかつてない高揚と幸福。ありとあらゆる内臓が喜び舞っている。

 嬉しい。マクシミリアンと1つに丸まり、汗と熱を発しながら悦楽を共有していることが。年長者ぶった物言いのアライグマ人に組み敷かれ、雄の本能である嗜虐的な性欲の餌食となっていることが。愛する人に手ほどきされていることが。

 僕は腕を伸ばし、たっぽりした尾の後ろに揺れるマクシミリアンの尻をまさぐった。きれいな桃型に盛り上がる双丘の割れ目に指を沿わせる。

「ん?なんだっ?」

 肉の隙間に四指を差し込んでいく。浅いところで蕾のような肛門を見つけた。その中心に僕の中指の先端をぴったり挟む。

「あっ、イアンっ、何をしているっ?」

 やがてめくれたアヌスの唇の間から、すきっと伸ばした中指を侵入させる。マクシミリアンは頭をのけぞらし目を白黒させた。

「いぐがっか!」

「マクシミリア…先生、貴方ばかりが、乱れもせず冷静なままなんて、狡いのではないですか」腰を突き上げ、摩擦に合いの手を入れる。「今宵は月に隠れて、共に相果てるまで…」

 はっはっはっ。舌を出しながらマクシミリアンは首肯した。暑がりな僕の発する汗に加え、陰茎から滲み出た透明でサラッとした体液に滑る臍から下を、顔を真っ赤にして擦り付けてくる。

 愛しいアライグマ人が「細くて長く、美しい」と誉めてくれた指は、言った本人の尻に根元まで挿入された。指先でウエーブをつけるように直腸の内側をなぞれば「ああああ!くあああっ!」と、ひと掻きごとに悶える。

 マクシミリアンの生々しい温もりが指の表面をすっぽりとくるむ。湿って、ぬるぬるしていて、繊細なひだが絡みついた。僕は自分の全身を飲み込まれたような思いに、喜悦のため息を漏らす。

「イアンっ!ああ、いい、いや、ダメっだっ!ひきぃ!」

 強い衝動が喚び起こされ、僕はガクガクしている相手の顎をつかんだ。

 彼我の間には距離がある。この体格差を、僕は生涯憎む。もし僕があと3インチ背が低かったら…彼があと少しだけ成長期に身長が伸びていたら…この状態で唇を吸っていただろう。

 キスをして舌と舌を結びつかす代わりに、僕たちは嘗め回すように互いの顔の変遷を見つめた。

 アライグマ人の、やや眉を下げた半眼。口元も開きかけたまま、子猫のように切なくセレナーデを奏でている。そして僕もまた、彼の腰使いに翻弄されて鈍重になってくる下半身を持て余し、熱に浮かされ泣き叫んでいる。

 身体が、腰が、勝手に動く。剥き出しのペニスは敏感な感覚器官となってマクシミリアンの皮膚の滑らかさを伝えてきた。

 やがて、眉根が寄ってきた。互いの先端の粘膜を集中して突き合わせているので、二人分の体温が相手を触媒にして最大まで高まる。

 もう、赤熱した鉄鉱石も同然だ。視界が冗談ではなく一面ピンク色に見えてきた。

「ぁふん、あうぃ、あきっ、イアン、いいぞ!」

「せっ、あわっ、先生、あはんっ、くくぅっ」

 ジュップジュップ毛皮を鳴らし、僕を苛むマクシミリアン。そしてその尻に指を挿し、ほじくり返しては喘がせる、僕。

「あっ……っ…あんっ…あっはっ!……ああ、あああ、あああああああっあがあ!」

 哭いているのはどちらだろう。ヨダレを拭こうともしないで、欲望のままに、こらえられない悦楽に毛皮を波打たせているのは?

 もう、そんなこと、どうでもいいんだ。

 ずっと、繋がっていたい。緑の瞳を淫らに濡らすマクシミリアンに、視線で呼び掛ける。僕は自分だって泣きじゃくっていることも忘れてしまっていた。

 うねうねともつれていた二本の男根に痛烈ともいえる痺れが走る。それが2体の野獣の身体を揺らす激震となって、僕達は「うはあっ!!」と一声、お互いの背中の毛皮を鉤爪でバリバリ引っ掻いた。

 身体がこわばり目玉が飛び出る。

 互いの下腹が固くなるのを感じる。マクシミリアンの体内が痙攣しながらギュッと締め付けてくる。

「ひいっ…!」と僕。「くっ…!」とマクシミリアン。

 下半身に集まっていたすべての熱が、そのままはじけた。大きな茎と小さな茎が、猫の目型に割れた穴から抑えのきかなくなった白濁液をドクドク吐き出す。それがパレットで筆先にかき回される油絵の具のように、ぐちゃぐちゃに混ぜ合わされた。

 ペニスが膨れては破裂を繰り返し、途中で休むこともない。僕達は腹一面を沼沢地に変えるがごとく最後の一滴までをほとばしらせた。

「んっあっあっあっあっあっ、…うあ…………あ…」

 男性の泉が涸れ果てるまで、僕の腕の内でアライグマ人の身体が鞭を打たれたような痙攣を続ける。ナポレオンの巻き絨毯のように長大な射精。

 やがてそれが済むと、息を切らして一つに組み合わさった二匹の雄の獣が残された。

 マクシミリアンはカブトムシが樹液を盗むように僕の胴体にしがみつき、胸の毛を噛んでいた。僕は相手の尻を貫く方とは反対の手で、彼をひしと抱き締める。

 アライグマ人の口許から、ひうひうと細やかな喘鳴が漏れていた。僕はいけないと叫ぶ魂の制止を振り切り、その大きな耳に挟まれた頭頂部に顎を寄せて、幾度もためらってから友情より愛情の勝るキスをした。

 分かちがたい磁石のよう。遺精を終えても長い間、僕達は二人して鼻をすすりながら、固く相手を締め付ける脚や腕を緩めなかった。

 汗が引いて冷気を感じるようになると、却って相手の体臭が鼻腔に満ちてくる。

 しょっぱい汗の匂い、すえた唾液の匂い、仄かに糖質の精液の匂い、そして…

 かぐわしく喉の奥を衝いてくるヴァニラの香り。マクシミリアンの下顎や耳珠の中から立ち昇る、独特の興奮臭だった。

 深呼吸を繰り返す。部屋中の空気を吸い込んでしまいたいほど。

 ああ、なんて甘い。

 アライグマ人の尻から引き抜いた指先はぬっぷりと湿り、異臭でなく石鹸のヘリオトロープが香る。

 愛し合う者達のように。それとも原始の野蛮人が暖を求め合うように。僕達は無心にひたむきな抱擁を続けていた。


 いつまでも抱き合っていたい誘惑になんとか抗って、枝から離れるナマケモノのようにゆっくり互いの身体を押しはがした。

 案の定ドロリとした卵の白身のような液が、下腹の間に幾筋もの橋を渡す。ベッドを汚さぬよう、すぐに床に下り立たなければならない。

「…シャワーを…」

 僕は相手の吐息と一緒に消えゆくその語尾に頷き、腰が抜けているマクシミリアンを横向きに抱え上げてバスルームに行く。

 シャワーのコックをひねり、お互いに相手の胸や腹にこびりつくものを…熱い湯の滝で固まる二人の生命のエキスをブラシで丹念にこそぎ落とし、向かい合ってぬるくなったバスタブに漬かった。

 マクシミリアンも見つめる僕も、吸血鬼に魂まで吸い取られたように呆然としている。

 なんだろう、何か大切なことがあったのに、思い出せない…

 マクシミリアンが波止場に投げ出された魚のように口をパクパクさせる。ようやっとかすれ声で「良かったかい…」と言った。

 コクリと頷く僕の頭にぽっちゃりした腕が伸びてきて、軽く2度はたいた。

「私も人肌は久しぶりだったよ。十分に堪能できた」

 僕も右手を泡の島の浮かぶ湯の面から抜き、そっとマクシミリアンの頬に掌をあてがった。

「あの…………」

 何か言いたいのに、言葉が出てこなかった。微笑する相手の孔雀石色の眼に見つめられるだけで胸が一杯になり、吸い込んだ空気が喉を圧して塞いでしまうのだ。

 気持ち良かった。夢のようだった。貴方の肌が、唇が、潤んだ瞳が、ぬめつく優しい穴が、僕を絶頂に導き天国のような射精へ引き上げた技巧が、あの二人の交わりとも遊戯ともつかぬひとときが。

 コックリ首を傾けるマクシミリアン。「うん?」と問いかけながら、目を細めて僕の掌が撫でるままに受け入れている。

 もどかしい。幸せだったと、その一言で済むことだのに。

 アライグマ人は、にゃむにゃむと唇を蠢かす。そこから聞こえた科白で鼓動が早まった。

「我が兄弟よ」

 聞き間違いか?いや、今度は僕の夢想じゃないぞ。

「この大地広しといえど二つとないダイヤモンド。少年のような純朴さと、強靭な肉体。私が兄上の他に唯一魂を別けたと言える、愛しい半身。我が魂の背子せこよ、神が下された歓喜の兄弟よ」

「背子の意味はいにしえの恋人の意で、男性形ではありませんか」

「細かい校正は要らないさ。気分だよ、気分……それに人類はみな愛し合う兄弟なんだから……ヴェートーヴェンが歌に託しているじゃないか……」

 僕の掌の触り心地にうっとりと瞑目し、更にセンテンスを足していく。

「イアン…君は私の理想だよ。私がもし生まれ変わるリインカネルタなら、私は…君のようにか、でないのなら君の家族になりたいものだなあ」

「僕の…?」

「そうさ。せめても今生では君の兄弟でありたい。そう思っても、いいだろう?」

 僕は、まなじりを左手の指でギリ、とつねった。そうしていてもこらえられない涙が鼻梁びりょうを流れてしまう。

「イアン…どうした。何故泣くんだ?」狭い湯船を掻き分けて、マクシミリアンが僕の膝に乗ってくる。「君が泣くと…私の胸が痛む。君の肉体をオナの罪で汚したことを悔いているのか?」

 僕の頭をたばさみ、つまずいた我が子の怪我をみる父のように慈悲深く尋ねた。

「さっき、酔い潰れた君をベッドに連れていった。そうしたら、急にえもいわれぬ悲しげな顔をして泣き出すじゃないか。だから…」少し声が引っ込んだ。「君が嫌がるかもと予想したにもかかわらず、慰めようと思って…抱きしめていたら君が…」

 目を開けてしっかりと前を見据えた。信じられないことに、マクシミリアンの瞳までが表面張力に震える涙をまとっている。

「こんなことになるなんて…いや、のは私だ。調子に乗って、君との親しさを測りかねて…いや、そうじゃない、君が、やっぱり君が可愛かったから……言い訳ばかりだな。イアン、私はいやらしいんだろうか。もうなんだかよく分からない」

 いつもだったら、カッとのぼせ上がって相手を黙らせるために何か喚いただろう。でも今度は違っていた。

 僕は、意識をはっきりさせたままで初めて、マクシミリアンから唇を奪った。

 チャブンと湯船に波が立つ。生まれてから誰にしたより慎重に、そして長く鼻の下を合わせる。

「イア…」

 喋ろうとするのをさらに強い圧力をして邪魔する。舌がくちゅ、と湿った音をたてた。

 大丈夫。僕は文句なんか無い。ただ貴方が愛おしいだけなんだ。頭を下げたり、泣かれたり、そんなのはもう願い下げる。

 マクシミリアンの潤んでいた瞳の潮がひき、再び活き活きとした光が戻った。そして、そっと僕の後頭部に手を添える。僕も彼がバランスを崩して沈まぬよう かいなに支え、うなじを片手に持つ。

 頬が紅潮してきたのは呼吸が苦しいせいではない。何か、性的なものではなく胸を打つ感動があって、僕達は大人しく、敬虔な口づけを交わしあっていた。

 僕も貴方も違ったところで自信がない。しゃにむに言葉を求めるより、こうして肌を触れ合っているほうが足りない隙間を埋められる気がする。

 通じている。今まで常に片方が閉じられていた向かい合わせのつがいの窓。それが全開になり、瞳や、微笑みや、指先の動き、顎の下の柔毛にこげといったありとあらゆるものから神秘なたまゆらの魂が見えている。

 仲睦まじい鳩のように、互いの気持ちを口を通してかよわせる。そうしていれば、二人の間を循環する生命力により千年はものを食さずいられるような気がした。

 僕はほとんど唇を離さずささやきかけた。

「一切、ご心配無きよう」貴方の愛が友人としてのものでも兄弟としてのものでも構うものか。そんなちっぽけなしがらみで結び付いた絆ではない。「ベッドでのことは僕が望んだことですし、好きな相手と好きなようにして一体何を気に病むとおっしゃるのですか?たといそれが、厳しく戒められた帝国の立法制度に反するものであったとしても、僕には何の意味もない」

 マクシミリアンが眼をしばたいて照れを見せた。こんな表情を目にするのも、三年間で初めてのことだ。まるで…まるで………

 不遜な言い方をするが、恋人にするような親しげな恥じらい。

「そうだったな。君は、さっき私のことを好きだと初めて言ってくれたんだったな」

「おや、もうお忘れでしたか。薄情なことで」

「生意気言うな、兄にむかって」

「……何ですって?」

 マクシミリアンはムッフン、とそっくり返る。「君は弟分、私が兄だ。たった今からそうなった。これからはもっと敬い称え尽くすがいい」そして、ウインク。

 アハッハッハハハ!笑いが喉を衝く。

 こちらが弟か、なるほど。あちらはまたなんと小さき兄であることか。

「笑うんじゃない!」

 マクシミリアンはプウッと頬を膨らまし、僕の額を小突く。

「アハハ…済みません、いやそれにしても…頼りない兄ですね」

「口の減らない弟め!こうしてやる!」

 マクシミリアンと一緒にバシャバシャと湯を散らして取っ組み合う。勿論、肉体で争って彼は僕に勝てない。だがこれは児戯、兄弟のスキンシップだ。あまくチョークされ、あっさり白旗を掲げる。

「大丈夫、僕は貴方の唯一人の弟に、名誉を汚さぬ自慢の弟になってみせます」

 それでいいんだ、手間をかけさせる奴め。真面目くさる顔にまたしても笑いが込み上げた。

 クスクスと尾を引きながら風呂から上がってベッドに入る。きちんと下着をつけたのは言わずもがな。

 一人用の枕を二人で使い、眠くなってくる前に色々な話をした。今日(日付では昨日)のサーカスのこと、夏の果物の出来の予想、ドロテアがメニエ夫人とうまくやっていけるかどうか、そして7月の里帰りのこと等々。

 そしてマクシミリアンは僕より早く瞼を降ろし、うつらうつらとするや力尽きたイルカが海底に沈むように僕の隣で眠りに落ちた。

 胸の上で祈るように指を組むアライグマ人を冷やさないよう脇に抱き、じんわりと暖かくなる己が胸に片手をあてて天井を見上げる。

 今日の日記は明日書こう。そこには、レストランまでの出来事だけを綴ればいい。だって結局、僕は何もできなかった。

 抑えの効かない衝動から端を発する性的な交流はあったが、受け身から始まり友情…兄弟愛で終わってしまったから。それでは惰性に負けていて、この気持ちに黒白をつけたとは言いがたい。やはり一人前の大人としては、はっきりと告白し、その上で僕から最後の一線を越える許しを得るべきじゃないだろうか。

 うにゃふん、とマクシミリアンが鼻先からすり寄ってくる。あの大樽のような実兄ヴィルヘルムにもきっと普段から、このように甘えて肩に頭を載せてクゥクゥと寝ているに違いない。

 オペラ界の重鎮、脂の乗ったバスのヴィルヘルム=フォン=フェルダーはしばしば事務所に泊まるが、あそこに客用の寝場所など無いのだから(ブレーズには男と枕を並べるなど思い浮かべるだけで身の毛もよだつことだろう)。

 マクシミリアンの寝顔をとっくり眺めるという贅沢に浸りながら考える。

 僕はいつかこの人を独占することができるだろうか。そしてその時、この人を傷つけずにいられるだろうか。何より幸せにできるだろうか。そしてまずは第一に…

 この人に自分を…恋人として受け入れてもらえるのだろうか…

 乗り越えなければならない障害を数え上げればきりがない。解決するための答えを求めて計算しても追い付かない。そもそも、「もしも」とは不確定な未来を人間の狭い料簡で解釈しようという愚行に他ならない。

 〝もしも〟今宵こうなると分かっていたら、僕は…きっとマクシミリアンの来訪を避けていた。同性愛は僕をともかく除いても、マクシミリアンに益をもたらすとは考えられない、とそれをいいわけにして。臆病風にあてられることに馴れすぎていたから。

 だが今より先は、あらんかぎりの思考力を駆使して彼と幸せになるすべを探っていこう。

 僕は頭でっかちの、プライドばかり高い視野の狭い小僧にすぎない。そのくせ愛する相手には、あらゆることに及んで自信が無い。

 だけれど、自分が誰よりもマクシミリアンを大事に想っていることだけはしかと断言できる。天地神明の厳格な定款にも耐える自信がある。

 寝言も言わず、むずがるような動きもせず、ただ僕と毛皮を接して眠る丸っこい男。胸が安らかに上下している。その心臓が、一拍を打つ毎にささやくようだ。

 私は、幸せ者だ。私は、満たされている。私は、誰もが好きだ。私は、この世から苦しみが少しでも無くなるよう祈る…

 まるで小さなキリストだ。天使というには大人で、聖人というには幼く無邪気すぎる。僕はイスラエルびとの子孫で根っからのユダヤ人だが、この表現がしっくりとあてはまる。

 やっと僕のもとを訪れた預言者。福音をもたらすべく地上に生をけた天の羊飼い。書物の中の錆び付いた知識などではなく、人生において真に必要な知恵を持っている人。

 小さな身体を腕の中に感じていると、精力を使い果たしたというのに胸がざわめく。

 僕は貴方を無理やり犯しはしない。そうしたいのはやまやまだが、きちんと正規の手順を踏んでいく。いつか総てを打ち明けてからだ。その時、答えを出せばいいのだ。

 いつの間にか寝息が重なっていた。遠くに響くふくろうのさえずりが夜のときをつむぎ、寝相の良いマクシミリアンと眠りながら動く癖のある僕は、指と手足を絡めて朝遅くまで目覚めることはなかった。

 夢の中でさえ、僕ら二人は花園に手を繋いで遊んでいた。下草を刈りこんで作られた迷路でマクシミリアンは僕の手を抜けんばかりに引っ張り、二人して芝生の上にもつれた形で倒れてしまう。僕は困りながらもどうしても彼を離せない。

 焼け落ちるような紅い空。どこかの邸宅の庭の景色。

 理想そのものの夢だった。だが夢はいつか終わる。



 僕の恋はまだ始まったばかりで、知ったつもりになっていた心の痛みはまだ序の口にすぎなかった。それはこれからすぐに、いやというほど思い知らされることになる。





つづく

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