第4話 妻への背徳
その晩を境にミユキとの交信がプツンと音を発て途絶えた。
仕事一途の生活からミユキの出現で純一の気持ちは心身共に惹きつけらて音信不通に成った。
携帯も通じなくなりメールもアドレスを変えられエラーになっていた。
手掛りは母親の病院しか無く、最後の手だてとして病院に訪れてみた。しかし既に母親は退院していなくなっていた。
全く手掛りを失った純一は可って味わった事の無い憔悴感で仕事も手に付かない重症患者に陥った。
純一は知人の生命保険会社の名刺を持って病院に出向き、受付で保険会社の者と偽って名刺を差し出した。
「実は星野さんの保険の件で急用が有りまして、住所が知りたいのですが」
「一寸お待ち下さい」そう言うと書類を調べ、住所を書きだしてくれた。
翌日ウエブでその周辺の地図をプリントアウトした。
その晩早めに仕事を終了させ地図にある彼女の住所を探しに向かった。
その地図に印された場所は全く人気の無い森の真只中、車が漸く一台通れる狭い道を迷いながら林の奥まったところに踏み行っていく。暫くゆくと林を切り開いた広場が拡がっていた。
其処の最奥に一見犬小屋風のトタンで作られた凡住宅と表現しにくいみすぼらしい建物を見つけた。
あの老けて醜い老婆の子として生まれ、犬小屋のようなこの家であの美しい娘が育ったのが信じられない。
余りに極端な現実を目の当りにし絶句した。
手作りの扉は鍵も架かっていない。恐る恐る扉を開くと誰もいなかった。煩雑だが確かに生活の臭いがした。
仕方なく家が覗ける位置に車を止め車中で待つことにした。
然し1時間程待ったがなかなか戻ってこない。諦め帰ろうとした時廃車同然のボロ軽自動車が年期物のノイズを発しながら戻ってきた。
車から様子を窺っていると母親と父親らしき2人が自動車から降りてきた。しかしミユキの姿は無かった。
(今晩は出直そう)とその場を後にした。翌日も仕事を終え、その場所に向かったがその日も誰も居なかった。
待つ間の心境はまるでストーカーだ。(一体俺は何をしている)自分を戒めた。然し、恋慕と焦燥が抑止力を失って何でもしてしまう行動に掻立てた。
その内昨夜と同じ騒音をたて自動車が戻ってきた。その車に今日は3人の陰が見取れた。
その車が純一の車を通り越し小屋の玄関に停車すると後部座席からミユキ飛び出し、純一の車に気づいていた模様で一気に駆寄ってきた。
そして過去に見せた事のない鋭い視線で純一を睨みつけ大声で怒鳴った。
「一体何よ、何んで来たの帰って、お願いだから帰って」興奮して声が裏返っていた。
余りにも激しい怒りの形相に純一はたじろいだ。
「ご免、無断できて、お願いだから少し話せる時間を頂戴・・・本当に悪いと思ってる」訴えるように言った。
「・・・・・」ミユキは怒りに気持ちを昂ぶらせ息をゼイゼイさせていた。
暫く考えていたが無言で助手席に乗るとミユキにしては信じがたい低い声で言った。
「車出して」
以前出掛けたファミレスに向かったが、2人は張りつめた空気に身動き出来ず言葉を失っていた。
沈黙したままファミレスに入ってようやく純一が口を開いた。
「ご免、許して」無謀な行動が相手の羞恥の心に踏みいり反省を感じていた。
「来て欲しくなかった」嗚咽を殺し、声を擦れさせ涙が溢れ頬を濡らしていた。
決して知られたくなかったのだろう、その心境は充分に察しがついた。しかし純一の心がそれ以上追い込まれていた。
「ミユキが突然いなくなって、物凄く苦しくて」
「ご免なさい。純一さんは奥さんに戻って」問答無用の回答をきっぱり言われた。
「今更、元に戻せない、ミユキ無しじゃいられない」苦しみを搾り出すようにいった。
「だって、いつかは奥さんが帰ってきて、純一さんは戻るのよ、私は一人に成らなきゃいけない」どう縋っても間違いは純一の側に有る。
「何とかする」迂闊な言葉が飛出した。
「何とかって」
「今日自宅に連れていく」心を取込まれた苦境から禁断の言葉を口にした。
「それって、一緒に成れることなの」
「・・・・兎に角別れたくない」それ以上は言葉を濁した。
暫く沈黙が続いたがミユキが口を開いた。
「判ったわ・・・」ミユキの泣腫した頬からうっすら紅みが溢れた。
純一は取返しの付かない自身の行動に不安を抱えながら、遂に暗やみに向かって走り出した。
自宅は大型開発の新興住宅街で、同じようなスペースに多少変化は付けてあるものの材質や雰囲気も似たような建物が道路を挟んで何十軒も並んでいた。駐車場もそれぞれ玄関脇に設えてあり、純一は其処に車を頭から突っ込んだ。
いつもならバックで駐車するが同乗者を知られたくない。そして時間を掛けたくなかった。玄関で、はらはらさせ少し慌て気味に鍵を開けた。こうして我が家を気兼ねして開けるのは初めてだ。
車の座席を寝かせ身体を沈めていたミユキに手招きし、近所の住民に気付かれないよう自宅に招き入れた。
朝から不在で雨戸は塞がって多少の物音が他に漏れることはないが、自然に会話が小声になった。
人は後ろめたさを抱えると自然に抑止作用を生むようだ。
湯船を沸かしミユキに入浴を即し、上がってくると上気したミユキにビールを用意し、純一も湯船に浸かった。
湯から上がって改めて乾杯して言った。
「ようこそ我が家に」声を潜めて言った。
「純一さん、嬉しい」
「ミユキに負けた、苦しさに負けたよ」純一は感じている侭を口にした。
「私だって、凄く辛くて寂しかったの」
「ミユキは僕にはポイゾンかな」
「何それって」
「毒」
「そんなに悪い」
「うん、凄く苦しい」
「純一さんを苦しめたくないのに」
「存在だけで苦しくなるのだ」
「でも、奥さんとだって好きで結婚したのでしょ」
「そうだよ、普通の恋愛結婚だし、でもこの苦しみは無かった。気持ちも身体も自由が利かなくなっちゃう。それ程危険な娘かもね」
「悲しいわ、どうして私は人を不幸にしちゃうのかな」
「他にも言われた事有るの」
暫く黙っていたが、ボソリと言った
「いつも嫌なことばかり言われてきた」
悲しそうな顔が胸に痛かった。
「ご免、気にしないで、それだけ夢中にさせちゃう魅力が有るからだ」
「普通の積りなのに、嫌な女ね」
「じゃなくて、何事にも変えがたい気持ちにさせちゃうってことだよ」
「それって、やっぱ、悪女でしょ」
「・・・・・・・・・」言葉に詰まった。
テレビを見て過し、暫く経って2階の純一の寝室にむかった。純一は妻とは寝室が別で、畳に布団を敷いて休んでいた。
妻のベッドと違うのがせめてもの罪の意識から言い逃れていた。2人は床に入ると、ミユキが囁いた。
「有り難う、すごく嬉しい」灯を消していたが囁きが涙声に聞こえ、
優しく舌で涙を拭ってあげた。そして2人の情念は煩悩を焼き尽くすように燃え上がった。
その晩はまるで初夜のように神々しい気持ちで睦み合い、ミユキにまた新しい世界に導かれた。情や愛や欲の境目が溶け、混同し、彼女の際限ない魔術の奥深さに驚嘆した。純一はその技巧に思わず声を漏らし、それをミユキに悟られ、男として不甲斐なさに自己嫌悪に落ちた。しかしその行為は神のまつりごとのような厳かさで淫靡さが無く、その神秘的な感性が何故かを見出せないでいた。
翌朝純一が起きる前にミユキが朝食の用意をしていた。
みそ汁に豆腐の胡麻和え、お浸し等冷蔵庫の有り合わせで作った様だが美味しそうな出来映えだった。
「ミユキ、お料理出きるの」
「そんな気の利いた物は無理、有り合わせで作ったから美味しいがどうか判らないけど」
みそ汁を飲んで純一が感心したように言った。
「美味しいよ、結構上手だね」妙な感覚だ、こんな生活も有る、夜の焦げ付くような甘美な営みと少しぎこちない生活に不思議な感慨が湧きだした。
純一が出がけの準備をしているとミユキが不意に言った。
「今日此処にいていい」
「えっ、この部屋に、1人で」
「帰りたくないの」
「判った、ただ、部屋にいてくれる、近所に煩いのが居るから」
「判ったわ、じゃ、後でメール送るから夕飯のオカズ買ってきて」
「OKそうするよ、じゃ行ってくるね」
その日は雨戸を開いて彼女を残し自宅を後にした。
その日の仕事を終わらせ帰宅をメールで告げるとミユキから夕飯の食材を買ってきて欲しいと返信してきた。
帰り際、スーパーに立寄って買いだしを済ませて自宅に戻った。玄関のドアを開けるとミユキがにこやかな笑顔で向い入れた。
その姿は新妻の若く艶やかな芳香を漂わせていた。買物袋を置いたまま玄関で抱擁し奥の部屋に入るとそのまま求めあった。
新婚時代の再現のようだが、恐ろしいほど危険な抱擁に天罰に怯えながら、泥沼にのめりこんでいった。
ミユキはこまめに働いていた様子で部屋も奇麗に片づいていた。既に風呂が湧いていて先に純一がはいった。
風呂から上がるとテーブルの上に今夜のメインの鍋料理が準備されていた。ミユキが風呂から上がるまでビールを飲んでテレビに目をやっていた。暫くするとミユキが湯で頬をうっすら染め上がってきた。
純一の大きめのパジャマの上着を腕まくりした姿が妙に似合っていて可愛さが倍加して見えた。
台所の棚に差し込まれていた本のレシピ集から選んだ鍋料理だったが、始めての料理にしては意外なほど美味しい食事が出来た。
幾つもの不条理を抱えたまま甘く危険な時間が密度を増し、走り出した。
そうして三日が過ぎ、就業中午前11時を廻った辺り、ミユキから電話が掛かってきた。
意外な時間帯の電話にフッと不安が過った。
受話器を耳に当てミユキの言葉の想定外な内容に脳に隙間がポカリと空いた。
「純一さん、隣の田崎さんと言う奥さんが鍵開けて入って来たの」恐怖感で萎縮し声が掠れていた。
「えっ、何で、鍵なんか持っているの」
「奥さんから鍵預かっていて、雨戸を開けたり、掃除を頼まれていたって・・・・・どうしよ」怯えた声で言った。
鍵が勝手に開き、見知らぬ人に入られ身動きできない状況は恐怖の何者でもない。ジッと身を堅くし次の展開に怯えていた。
「まだ、居るの」
「いえ、お願いして帰ってもらったわ」
「判った、帰ってから話そう」
この事態は既に人事では無くなった。誰よりも純一自身の大きな騒動の予兆を感じだしていた。まさか妻が隣の奥さんに鍵を預けるなど考えも及ばない。それ以前に妻の不在に女を連れ込む事自体論外だ、だがそれは棚におき呟いた。(鍵なんて勝手に渡すなよ)(留守中女なんか連れ込むな)と反論されるだろう。
その日の午後最も畏怖した思惑通り妻から電話が入った。
「あんた、自宅に美由紀って言う女入れてるって田崎さんが電話してきたけど、どういう事」
当然のごとく口調に怒りが満ちていた。
「・・・・・」純一は絶句した。
「あの女とまだ付きあっていたの、何か言いなさいよ」
いい加減な言訳を許さない気迫が隠っていた。
「・・・・・すまない」息が詰ってそれしか言葉がでない。
謝る現実は認めた事を意味する。
僅かでも間違いであって欲しいと願った妻にしては、その後の収拾がつかなくなって感情を爆発させた。
「部屋に布団が曳きっぱなしでティッシュが散らかって、酷い惨状だって何故。私の居ない留守に自宅に女を入るなんて、何やってるの・・・私が何で田舎に戻っているか判っているわね。貴方の子供を産みに帰っているのに貴方には都合よくて遊んでいられるわけ。女を自宅に連れ込むなんて最低狂ってるわ、いい加減にしてよ」
興奮で言葉が裏返って声に涙が滲んでいた。
純一は言訳出きる内容じゃないのは承知していたが田崎夫人の言葉に悪意が滲み取れ反発した。
「そんな、馬鹿な有りえない。田崎さんの話しは無茶苦茶だよ、そんな状況誰が見せるんだよ。頭に来るな」
人は追詰められると些細な隙間を見つけてでも逃げ道を探す。
「だって、自宅に入れたの、本当でしょ。まだ居るのだったら帰して、お願いです」
妻は感情の昂ぶりを必死に耐えて、下から懇願する言い方にトーンを変えてきた。妻の大人の対応に純一はとても抗えない。
到底勝てる相手ではなかった。
「判ったちゃんとするよ。心配かけて済まない」素直に謝れるスキを妻が作ってくれた。
その晩、自宅に戻るとミユキが緊張させた面持ちで大粒の涙を曝し純一の胸に顔を埋め泣きだした。抱きしめた肩が震えで響いていた。
「怖かったろう、大丈夫か、嫌な思いさせたね。2人の事なんとかするから、少し我慢してね」
純一の胸で少し落ち着きを取り戻すと肩の呼吸が収まってきた。流石にその晩はミユキを泊める訳にはいかない。
駐車場から車を引きだし少し離れた場所に駐車させてから、人気が無いのを見計らってミユキを手招きし車に乗せた。
辺りに目一杯気配りしながら抜け出した。既に隣の奥さんにばれた以上警戒の意味を成さないが。
運転しながら純一は今、思いついた事を滑らせた。
「2人の部屋何とかしょうね」
「本当、純一さんと居られるの」
「うん、必ず何とかする、少し時間をくれる」
「本当信じていいのね」
ミユキを送る途中レストランで食事を済ませ、実家に送届けてから自宅に引き返すと、間髪を入れず妻の兄から電話が入った。
幾度も電話をかけ苛立っていたような不愉快なトーンが響いた。
「柴田さん、明日時間とれないかな。帝国ホテルまで来て欲しいのだが」重々しい口調が内容を表していた。
「あっ、判りました。じゃ、7時にホテルのロビーで良いですか」
「そうしてくれるかな、じゃ、明日」
妻の兄は横浜に住んでいたが、大手町のクレジット会社に務めていて足回りの良さから親戚の会合ではよく帝国を使っていた。
面談の用件は他に有りえない彼の問責にひたすら謝罪するだけ、まな板鯉を演じるしかないのだ。
当日早めに仕事を済ませ心の重しをひきずってホテルのロビーで待っていると恰幅のいい義兄が訝しそうな顔つきで表れた。
純一は妻との結婚話しで妻方の両親に反対され、兄がこのホテルで断りを告げに来た、その時の情景を思い出した。
以来反対を押し切って結婚したがいつもくれてやった風な高い位置での物言いに辟易していた。
しかも今日は問答無用の内容に一際高圧的に対応させられるのを覚悟した。
2人は連れ立ってホテル地下の日本料理の店に入った。
「お前何にする」着座していきなり被さってきた。
そうした体質は承知していたが、純一は「お前呼ばわり」にカチンときた。何故なら純一より義兄は一つ年下だった。
それでも今回の事態に反発の余地は無い。苦みを噛殺し押さえたトーンで答えた。
「兄さんに、任せます」
「そうか、じゃ俺が決めるよ」そう言うとお作り弁当と生ビールを注文した。
内心(弁当かよ、偉そうな割にせこいな)声には出さなかった。
グラスを交わし、義兄は注意深く言回しを吟味しながら切りだした。
「あんた、女をどうする気だ」言葉を吟味した割にストレートだ。
「・・・・・」何を言っても通じない、しかも純一はミユキに未練が残っていて、断言できる事が何もなかった。
「黙ってちゃ、話しが前に進まないよ、腹積もりを聞かして欲しいのだが」
「自分がしたことで、妻に何も反論出来ないのは承知しています。子供の件も有るし、ケリは付けます」
それしか言い様が無かった。
「アンタも男だしこうしたことも有るだろう。
今回の件は現実に起きてしまったことで仕方がないが、後に問題が残らないように妹に話しをしておく。只アンタを信用しない訳ではないが、一応念の為その女に会わせてくれないか」
「あっ、判りました。近いうちに呼びだします」
「早い方がいいな、今日はどうかな」その強引さに長男の自負で来た気迫を感じた。
「彼女は千葉市なので今日は難しいかもしれません。一応連絡してみます」
問題は全て純一が原因だ。結果は成り行きに任せるしかなく従わざるをえない。純一はメールに詳細を書き込み発信した。暫くすると返信して来た。
「判りました、1時間半位掛かりますが必ず伺います」
内心来ない事を願ったが、緊迫感が伝わり責任を感じたようだ。
ミユキが来るまでは他愛無い会話に切り替えた。不倫話を一時間半、追いつめすぎると人は逆切れという最後の暴挙に出る。そこに追い込むのは得策じゃないことは承知していた。それでも軽妙な会話を交わすには程遠い中身の無い話しに終始し純一の心境は鈍痛を伴っていた。暫くすると、ミユキが少しくぐもった表情で現れ純一がお互いを紹介すると義兄が言った。
「お前、今日は帰ってくれないかな」またカチンときたが飲み殺した。
「あっ、はあ、判りました帰ります」そうして、ミユキを少し外し耳元で言った。
「こんな時間に呼びだしてご免、今日は先帰るね、後でメールするから」
純一は2人を残し漸く開放されたが、それ以上不安に呵まれていた。
重い身体を引摺って自宅に辿り着くと即ミユキにメールを入れた。
「今日の事は気にしないで、何か有ったら何でも相談して」
しかしその晩からミユキの返信が途絶え、誰からも連絡が来なくなった。
義兄は勿論、妻にも此方から連絡しづらく全く状況が掴めず空虚な孤立感を感じていた。
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