第3話 結婚
タケルとの最初のカンセリングからちょうど1週間。今日は2回目の日だった。ユカは午前中に2人のカウンセリングを行い、昼食後のタケルが3人目。
タケルは笑顔さえ出来れば、退所して家に帰れる。お笑い番組でも無理なんだろうか。ユカはまじめにそんなことを思った。
午後1時、カウンセリングルームにタケルが来た。
「こんにちは。座って」
「こんにちは」
タケルは前回と比べて、はっきりと元気になっていた。
「何かありましたか?」
「ケースワーカーの柴田さんとじっくり話をして、それから父が面会に来てくれて、進路が決まりました」
「進路?」
「はい。まず自宅から通える心療内科をさがします」
「ええ」
「そして、障害者手帳を申請します」
「はい」
「大学は中退して、障害者枠で働きます」
「それは自分で決めたの?」
若干の沈黙があった。タケルの表情が曇った。
「まず、ここを出るには自立支援を申請して心療内科に通わないといけないと言われました。大学を4年で卒業するのは、もう無理です。卒業しても就職は無いでしょう。柴田さんには障害者就労のことや、障害者手帳のことを詳しく教えてもらいました。結局、就労を考えると障害者就労の方が有利ですし、障害者手帳を持っていることのメリットも大きいのだとわかりました。僕は病気なんですね」
「ものすごい急展開ですね」
「ええ、父もこんなことになって、慌てていて。この方針を了解してくれました。大学を中退することも、障害者手帳を取ることも」
「タケルさんは何になりたかった?」
「なりたい職業は特になかったですね。いまの時代、大学を出ても正規雇用で就職できるのは5割です。しかも待遇はそれほど変わらない。就職活動も初めていなかったし、なり行きまかせでした。趣味でゲームのソフトを作る時間があれば、それだけで良いんです」
「竹下ドクターでしたっけ」
「はい」
「なんて診断されたの?」
「発達障害」
「発達障害にもいろいろあるでしょ」
「そうなんですか?」
「ええ、で、薬は?」
「飲んでますよ」
「薬の名前は?」
「そこまでは知りません」
ユカは話すのをやめた。発達障害とは、学習障害、アスペルガー症候群、ADHD、広汎性発達障害、自閉症のうち精神遅滞の無いものを言うのだが、この概念は独立した病気ではなく、いろいろな症例を寄せ集めた総称だ。単に発達障害では、どの症例を指すのかがわからない。医者自身もわからないままに発達障害と診断する。高校や大学、いや企業でも都合の悪い人間は発達障害の疑いをかけられて心療内科に送り込まれる。タケルは誰にとって都合が悪かったのか。それがユカにはわからなかった。
「柴田さんは他に何か言ってた?」
「ええ、いろいろ障害者世界と一般世界の違いを教えてくれました」
「障害者もいて一般世界でしょ」
「違いますよ。障害者には障害者独自の世界があるんです。価値観もルールも違う。そして、今の日本では障害者世界から一般世界に戻ることは難しい。それに、障害者世界は知られていないだけで、そんなに悪い世界ではない。各地に障害者が集まるサロンがあるし、障害者だけが受けられるメリットもある。これは決断なんですけど、選択肢のない決断なんです」
「竹下ドクターの退所許可は出たのね」
「はい。心療内科が決まれば、家に戻ります。それまでは外出で、何件か心療内科をあたります。自立支援制度があるので、一度先生を決めたら変えるのは大変ですからね。もうネットで2、3件候補を決めてます」
「ドクターは重要だから、近いからとか、便利だからという理由で決めない方がいいですね」
「どういうのが、いい先生ですか」
「それは難しい質問ね。普通は相性が大事とか言ってごまかすけど、知識や経験、技術は当然として、主体性を尊重してくれる先生なら良いですね」
「主体性ですか」
「そう、主体性」
ユカはそう言いながら、障害者になることを押し付けられたタケルの今後の主体性に期待した。
「柴田さんて、どんな人ですか?」
「ベテランの精神保健福祉士。いい人でしょ?」
「いい人って、悪い人もいるんですか?」
「そんなこと言える訳ないでしょ」
「ハハハ」
「あ、笑った」
「いや、先生、面白いですよ。笑顔でしたか?」
「笑顔でしたよ」
タケルは長いトンネルを抜けたように感じた。トンネルを抜けると、そこは障害者世界だった。それもまた良し。障害者に対してネガティブなイメージを持ってはいけないと、柴田さんに強く言われたことを思い出した。新しい世界が待っている。言い方を変えるだけでイメージも気分も変わった。
「病院探しに、仕事探し、忙しくなりますね」
ユカはタケルの笑った顔を見て、この仕事は終わったと思った。もう心配ない。なにしろ、タケルはどこも悪くないのだから。
「新しい世界に行くんですね」
「嬉しそうね」
「最初は監禁されて驚きましたけど、世界は広いことを知りました」
「それが心理センターの役割よ」
ユカは淀みなくそう言いながら、これが健全な社会の精神科医療システムではないということに確信を持っていた。悪い人。それは私かもしれない。そうも思った。
ユカが退所して誰に会いたいかを聞いたら、水泳部同期のキムラ君だと言った。カウンセリングは雑談のようになり、もっぱらタケルの高校時代の話になった。あの出来事が起こるまでの楽しかった時代。タケルは笑顔で話をしていた。
「キムラ君とは連絡はとれるの?」
「いえ、でも年1回水泳部のOB会があるんで、キムラは毎回行っているみたいです。来年は僕も行きますよ」
そんな話をしているうちに、時間はあっという間に過ぎた。
「先生とのカウンセリングは、これで終わりですか?」
「いえ、タケルさんが退所するまで、週1回続けるわ。あ、嫌なら断ることも可能よ」
「退所したら終わりですか」
「基本的には。もっとも、心療内科の先生が心理センターでのカウンセリングを認めれば、月1回カウンセリングすることは可能ですけど」
「高いんですか?」
「1回30分で10000円です。それにカウンセリングは計画的に行うものなので、気が向いた時だけというのは無理です」
「遠いんですよね。電話カウンセリングは無いんですか?」
「私はやっていません」
「あの、言いにくいんですけど、先生の携帯の番号を教えてもらえませんか?」
「は。何のために?」
「いや・・・」
「基本的に、緊急時、特に自殺予防のために、クライアント専用の携帯電話を持っています。ただ、タケルさんに緊急性はないですよね」
「そうなんですか・・・。退所後のカウンセリングは考えさせてください。心療内科の先生のこともありますし」
「まあ、来週またお話しましょう」
「ありがとうございました」
タケルが部屋を出ると、すぐにアユミが入ってきた。
「ちょっと待って。時間までまだ10分あるわ。外で待ってて」
ユカはそういうとアユミのいるドアの方へ歩いて行き、ユカと少し話をしてドアを閉めた。タケルのドキュメントも書かなければいけない。インターバルも必要だ。人生に関わる仕事。良い人と悪い人。割り切らない技法。心理学とは基本的にノウハウだ。精神分析とは基本的に文学だ。ユカはカウンセリングの仕事をしている時が一番楽だった。ただ、暇な時間に自分の根っこを考えると心が揺れた。自分が分からなかった。カウンセリングの仕事を肯定できないのだ。特に、今の心理センターでは。
午後2時10分。ユカは部屋のドアを開けてアユミを読んだ。廊下にはタケルがいた。どうやらタケルと話をしていたようだ。アユミは席にキチンと座り、ユカの目を見た。
「よろしくお願いします」
アユミは真面目な感じで言った。
「こちらこそ」
いつもと違う雰囲気に、ユカは何かあるなと感じた。少し間があって、ユカが言った。
「そういうことです」
「え、どういうことですか?」
「結婚します」
「は」
ユカは表情では驚きを見せないが、内心では当然驚いていた。
「どなたとですか?」
「え、聞いてないんですか?」
「誰からですか?」
「柴田さんと仲が悪いんですか?」
「そんなことないですよ。カウンセラーには独立性があるから、あまり話はしないんです。それに柴田さんは管理職ですし、精神保健福祉士のトップですから、あまりお話する機会は無いですね」
「米川先生とは、話するんでしょ?」
「あれ、米川先生も知ってる話なの?」
「もちろん」
「先週まで男がいない、ここでは出会いがない、結婚より愛人って言ってなかった。いや、おめでとうを先に言うべきなのかな。でも、本当なの? しんじられない」
ユカは少し混乱した。
「柴田さんは凄いは。完全に洗脳されました。もう、これからの時代、愛人業は成立しないんですって。お金持ちがどんどんいなくなるから。何でも、大貧困化時代って言うんですってね。だから愛人願望は捨てました」
「愛人願望を捨てるのと、こんなに早く結婚するのは関係ないわよね」
「それは関係ないんだけど、住むところが決まらないと、ここから出られないじゃない」
「え、そんなにすぐ結婚するんですか?」
「はい。2ケ月以内に」
「お相手は?」
ユカがそういうと、アユミはニタニタ笑うだけで答えようとしない。
「よろしければ、教えていただけますか」
ユカが丁重に言い直す。
「そうよね、この病院で先生だけ知らないんじゃまずいから、教えてあげます。いくら貰えますか?」
「お金は払えません」
「冗談ですよ。お相手は、タケルちゃんです」
「本当?」
「教えてあげたのに、本当はないでしょ」
「そうね。ごめんなさい」
アユミは何でも聞いてという体勢でいる。ユカはどこから聞こうか考えている。会話はユカからしか始まらない。いくつかの流れを想定したが、まずは基本的なことから無難に話を始めることにした。
「タケルさんの、どこが気に入ったの?」
「普通じゃない」
「で、結婚してどこに住むの?」
「タケルちゃんのマンション。部屋が空いてるんだって。お父さんも良い人だし」
「もう、お父さんにも会ったの?」
「もちろん、おとといの日曜日に、こちらに来られたから」
それにしても何故、タケルはこの話をしなかったのか。病院中が知っている話を担当カウンセラーが知らなかった。ユカとしては当然、面白くない。いや、それ以上に嫌がらせではないのかと思う。しかし、今はそんなことを考えている時間はない。カウンセリング中だ。
「米川先生と退所の話は出てるの?」
「タケルちゃんが退所して落ち着けば出られるって」
「それは良かったはね。お母さんには話はしてるの?」
「もちろん。凄い喜んでた。私がいなくなるんだから」
「結婚したら仕事はどうするの?」
「それが問題で、手帳を取って障害者就労が良いって、柴田さんに教えられた」
「いい仕事が見つかると言いわね」
「さすがに専業主婦は退屈だし、お金もないし」
もしかしたら、結婚も柴田課長が書いたシナリオなのだろうか。ユカはそんなことも思った。しかし、なぜ。利用者の回転率を上げるための早期退所。いや、シナリオを書いたのは柴田課長しかいない。ユカははっきりとそう思った。
「タケルさんとは、よく話をした?」
「もうホールで一日中話てるよ。好きな食べ物とか、アニメとか」
「タケルさんのお父さんは、どんな方だった」
「高校の先生なんだけど、威張ってなくて、物静かで、目がね、ものすごく深いの。そこらへんのオヤジとは全然違うわ」
「へえ。そうなんだ。ところで、タケルさんが、さっきのカウンセリングで結婚のことを言わなかったのは、私を驚かせようという作戦?」
「そう。柴田さんの作戦」
ユカは一瞬言葉を失った。
「あ、柴田さんは悪意じゃないですよ。私から先生に伝えるのが一番良い。そのために、それまでに情報がもれないようにしただけです。やっぱり、本人から伝えるのが一番じゃないですか」
そう言われれば、そうかもしれない。しかし、タケルの件と言い、柴田課長の剛腕を見せつけられた感じだ。テキパキした切れる人という印象だったが、こういう絵が簡単に書けるというのは、ユカには驚きだった。
「結婚生活に不安はないの?」
「そんなの暮らしてみないと分からないじゃないですか。マンションに行ったこともないし、景色も知らないし」
「不安はなさそうね」
「ええ、結婚式もやらないし、パーティもやるかどうか」
「そう」
「でも私、先生のこと好きですよ」
「ありがとう」
「でも、先生はカウンセラーに向いてないと思うな」
「ずいぶん酷いことを言うのね。何に向いてると思う」
「直観が凄そうだから、占い師なんてどうですか。タロット占いとか。カリスマ占い師になれば、きっと今より儲かりますよ」
「占いは興味無いな」
「カウンセラーは面白いですか?」
「面白いというより、仕事だから使命よね」
「使命なんだ。面倒くさいんですね。ところで、カウンセリングにも流派とかあるんでしょ」
「そうね。私の基軸はSFA。ソリューション・フォーカスト・アプローチって言って、問題解決を基本にするのね。技法はいろいろ使うけど、基軸はSFA」
「へえ、なんかカッコイイじゃない。こんなところにいないで、独立すれば良いのに」
「こんなところ?」
「だって、ここに来るのは精神障害者になる人ばかりでしょ。そして、味気のない障害者世界で一生を送る。まあ、先生を信用して、ここだけの話だけど、私は絶対に脱出するからね」
「その気持ち、タケルさんも知ってるの?」
「もちろん知らない。タケルちゃんは障害者世界でぬるく生きられると思っている。でも、そう上手く行くかどうか」
ユカはその言葉を聞いて嬉しかった。
「米川先生とは退所後の病院について話してますか?」
「うん。タケルちゃんと同じ病院に行く。それで良いって」
もう、問題は特にない。ユカはスイッチを切り替えて、軽い話題に入った。定刻が来てカウンセリングは終わった。アユミは上機嫌で、手を振って出て行った。
タケルとアユミは県立心理センターの第3グループにいた。県立心理センターは4階建ての建物が二つあり、建物の間はグラウンドになっている。第3グループはA棟の4階ワンフロアーで定員が50人だ。寝室の他にホールがあり、全員がそこで食事がとれる他、テレビとソファー、電子ピアノ、喫煙室がある。ただし、パソコン等のインターネット環境はない。スマートフォンもステーションが預かることになっており、外部との連絡手段は郵便と公衆電話しかない。このシステムは精神科病棟とほぼ同じだ。外出の許可が出ると、自分のスマートフォンを渡してもらえる。それ以外でパソコンでネットに繋ぐ時には専用の部屋で介護士の監視下でということになる。それにも医師の許可が必要だ。ネット中毒のタケルには気の狂いそうな環境だった。いや、タケルでなくても。
アユミとタケルが今日のカウンセリングについてホールのテーブルに向き合って話をしている。
「ユカって、カウンセラーなのに表情あるから面白いよね」
アユミが嬉しそうに言う。
「表情あるかな。作り笑顔なら見たことあるけど」
「あるよ。目じりが動く」
「そんなとこ見てるのか」
「だって、面白いじゃん」
「僕は良い人だと思うけどな」
「もちろん良い人よ。だからカウンセラーには向いてないって」
「でも、優秀なカウンセラーって噂だぜ」
「優秀だろうけど、なんか違うのよね。本質じゃない感じ。どう言うのかな、個性って言うか、もっと我の強い仕事じゃないと治まらないんじゃない」
「凄い人間観察だね」
「しかし、ここは酷いところね。タバコの本数とお小遣いまで制限される。何でかわかる?」
「さあ」
「それは支配して服従させるため。先生の言うことを聞けばタバコの制限本数が増える。奴隷を手なずけるたもの道具よ。まあ、日本でタバコを販売しているのも、値上げするしないで世論が動くのも、喫煙者を支配してるって言うこと。まあ支配の道具はいろいろあるけどね。看護師だってきっと支配する喜びを味わってる。顔を見ればだいたい分かる」
「それでもタバコやめないの?」
「さあ、今はやめない。こんなに美味しくて、気分転換できるものをやめる理由がない。そもそもタバコは頭脳労働する上で人間の脳が求めたから発明されたわけで、文明の必需品でしょ」
「まあ、うちでは自分の部屋だけにしてもらわないとね」
「わかってる。その程度の制限なら問題ない」
「あ、僕は外出許可も紹介状も貰ったから、予約がとれれば明日にでも川上クリニックに行こうかと思うんだけど、どうかな?」
「川上かぁ。昨日ネットで一緒に見たけど、宇野の方が良くない?」
「なんで? 川上クリニックのホームページが分かりやすくて一番充実してたってことで良かったんじゃないの?」
「いや、宇野は金持ってそうだし、食えるかなと思って」
「はあ、じゃあ川上に決まりだ。僕が決めた。決定。後で電話してくる」
「わかったよ。いいよ川上で。女じゃないかよ。この女好きが」
「あとは障害者手帳が出るのに1ケ月はかかるだろうからな。それまで就職活動はできない。画期的なゲームでも作るかな」
「スマホのゲームとか意味がわからない。街を観察しながら歩く方がマシだわ」
「まあ、プログラミングの面白さを言っても、プログラミングをしない人には分からないだろうな」
「はい。全然わかりません」
「ちょっと川上クリニックに電話してくる」
「はーい」
アユミはそう言うと喫煙室に行った。タケルは介護士のいるステーションにテレフォンカードを取りに行く。川上クリニックの予約は簡単にとれた。紹介状はすでに出来ている。問題は患者として受け入れられるかどうかだった。ホールに戻るとアユミはまだ喫煙室にいた。タケルは喫煙室にアユミを呼びに行った。
「予約とれたけど、一緒に行かない?」
「何時から?」
「3時」
「私はまだ外出許可が出てないんだけど、米川先生まだいるかな?」
「聞いてみれば?」
「わかった。ちょっと行ってくる」
「僕も行こうか?」
「一人の方が交渉しやすい」
「わかった。じゃあ、待ってるから」
アユミはステーションに行って、まだ米川ドクターがいるかどうか聞いてみた。年配の介護士が電話で問い合わせる。
「まだ、いらっしゃるみたいですよ」
「外出許可が欲しいんですけど。高橋アユミです」
「ちょっと待ってください」
いたら絶対に来る。理由は好色だから。アユミはタケルと病院に行くと言えば、外出許可は取れると思った。数分で米川ドクターが来た。
「外出許可ね。OK。調子はどう?」
「はい、問題ありません。それから紹介状もお願いします」
米川ドクターはちらちらとアユミの胸を見る。アユミはわざと少し前かがみになってサービスする。米川ドクターはニヤリと笑う。
「ところで、明日行く病院はどこ?」
「川上クリニックです」
「川上京子か」
「はい。ご存知なんですか?」
「もちろん」
「どんな先生ですか」
「いや、いい先生だよ。精神科医のお手本みたいな先生だ」
「精神科医のお手本」
「そう。ムダがない、ミスがない、男がいない。あ、これは冗談だよ」
「とてもドクターの発言とはおもえませんね」
「そうだね」
米川ドクターはそういうと、アユミと目を合せ、二人はニヤニヤと笑った。
アユミは外出許可が出たことを伝えにホールに戻った。
「外出許可出たよ。後で紹介状を届けてくれるって」
「それなら、朝から出て家を見ていかない?」
「え、時間、間に合うかな?」
「10時に出れば余裕で間に合う」
「それじゃ、申告時間を訂正してくる」
「10時から5時半でいいかな」
「そうだね」
「私のお城が見れるのね。楽しみ」
アユミはそう言うと、速足でステーションに行った。
夕食の時間は午後6時。食事はワゴン車に乗って運ばれてくる。今日はカレーとサラダ、デザートのヨーグルト。タケルとアユミは隣通しに座って食事をする。この時間、ホールは30名ほどになる。自室で一人食事をとる人もいる。第3グループはだいたいが20代だ。グループは概ね年代別になっている。明らかに精神がおかしいと思える人は一人もいない。ちょっと対人関係が苦手だったり、自己主張が強かったりという程度だ。うつは第2グループだった。グループ間は鍵がかかっていて交流できない。基本的に精神病院のシステムを踏襲しているのだろう。
「川上先生って、男がいないんだって」
「は、どこからそんな情報を」
「それは秘密。明日、確認しないとね」
「別に男がいようが、いまいが、関係ないだろ」
「いや、男を与えると金をもらえるとか」
「プッ。どんな世界だ」
「世の中そんなもんよ」
「そうだよな、アユミのお母さんに会ってないんだよな」
「うん。母はここには来ないからね。会いたい?」
「結婚するのに、会わない訳に行かないだろ」
「まあ、タケルちゃんが退所してからね」
食事が終わると、各自が返却場所にトレイに乗せたお皿やスプーンを持って行く。だんだんとホールから人が減る。テレビを見ているのも3、4人。あとは、トランプをしている5人のグループ。消灯は午後10時。時間はあっても、やることがない退屈な場所。流石に男子が女子の部屋に、女子が男子の部屋に入ることは禁じられている。
タケルとアユミは、まだキスもしていない。禁止されているのはもちろんだが、その程度ならチャンスはある。しかし、アユミすら手を出していない。それでもお互いに結婚することを決めた。理由は一つ、結婚することでしか、心理センターから退所できないし、退所できないということは、精神病院へ移送され入院になるからだ。タケルとアユミは柴田課長に脅迫されて結婚することになった。そう言ってもおかしくない結婚だった。
翌日、タケルとアユミはバスで街に出て、そこから各駅停車で5駅目のタケルのマンションの最寄駅で降りた。そこから徒歩約12分。7階建てのネズミ色のマンション。1階にはコンビニや薬局がある。このマンションの4階。401号室がタケルの住むマンションだった。
「ここ」
タケルはそう言うと、オートロックの鍵を開けた。エレベーターは1基。エントランスの横には郵便受け。タケルとアユミはエレベーターに乗り、401号室の前に行く。
「おしゃれね」
表札にはNAKAJIMAと書かれた銀色のプレートがあった。タケルが鍵を開ける。
「おじゃまします」
アユミはそう言うと、先に靴を脱ぎ、タケルより先に部屋に入っていった。作りは3LDK。奥から順に、タケルの部屋、父親の部屋、物置となっている離婚して出て行った母親の部屋。
「ここがアユミちゃんの部屋」
「この部屋か」
部屋は家具の他にダンボールが積まれていて、かなり処分しないと住める状態にはならないように見えた。
二人がタケルの部屋に入ると、アユミがいきなりタケルに抱きついてキスをした。タケルは思わず顔をそむけた。
「あれ、もしかして、童貞ちゃん?」
アユミはそう言うと嬉しそうに笑った。
キスのやりなおし。そしてアユミはタケルの股間を触る。硬くなっていないようだ。アユミは、タケルの洋服を脱がせる。タケルは抵抗しない。すぐにタケルが上半身裸になる。そして、アユミはジーンズのベルトをとき、ボタンを外す。二人とも立ったままだ。そのままアユミはタケルのジーンズを下へおろす。
「脱いで」
アユミに言われるままに、タケルはジーンズを脱ぐ。アユミはタケルをベッドへと優しく押し倒す。タケルが仰向けに横になる。着ているのはトランクスと靴下だけだ。アユミはペニスのある場所をパンツの上から触る。そして、スカートの下に付けていたパンティをタケルの顔の上に置く。タケルは手でパンティの位置を少しずらす。タケルは目を閉じている。アユミはタケルのトランクスを脱がす。すーっつと足先から完全に脱がす。そして、シックスナインの体制になってペニスを咥える。なかなか完全に勃起しない。執拗に舌をからめ、手を使い十分な硬さになるまで攻撃する。完全な硬さになるのに、5分以上かかった。これでよしという味を確かめてから、アユミは体勢を騎乗位に変えて、するりと挿入し、上下に動く。
「あーん」
アユミが声を出した途端にタケルは勢いよく射精した。
「もう出ちゃった?」
アユミは挿入したままで、タケルに話しかける。
「貴方、凄い持ち物持ってるわよ。合格。ところで、欲望はないの?」
「欲望って、どんな」
「触りたいとか、舐めたいとか、見たいとか」
「うーん、経験がないから」
「じゃ、これからね」
アユミはそう言うと、タケルのペニスを抜き、トイレに行った。タケルは急いで服を着た。アユミのパンティがベッドの上にあった。タケルはそれを自分の鞄に入れた。
「何か飲み物ない?」
トイレから帰ってきたアユミが言う。
「熱いの、冷たいの?」
「冷たいの」
「水、牛乳、ビールならあると思う」
「水ちょうだい」
「わかった」
二人はリビングで水を飲んだ。
「お昼どこで食べる」
「何がいい?」
「何でもいいよ」
「駅前に有名なラーメン屋があるから、そこにしようか?」
「異議なし。ところで、私のパンティは?」
「もらった」
「変態。返して」
「いやだ」
「窃盗罪」
「わかった返すよ」
「いいわ、記念にあげる」
「大丈夫なの」
「スカートだし、問題ない」
「わお」
「タバコ吸いたいんだけど」
「あ、今日だけ特別に。灰皿の代わりを取ってくるわ」
アユミはタバコに火をつけた。美味しかった。タケルを奴隷にして楽しもうかとも思った。そして、おなかが空いていた。早くラーメンが食べたいと思った。
「そろそろ急がないと」
「吸い終わったら」
そんな会話のあと、二人はラーメン屋に向かった。二人とも名物のガッツ醤油ラーメンを食べた。久しぶりのラーメンにアユミは喜んでいた。あまりゆっくりは出来ない。ふたりは再び来た電車で市街地の駅まで戻った。駅から徒歩5分のビルの3階にある川上クリニックに着いたのは、午後1時40分だった。
待合室には10人ほどの患者がいた。受付には2人の女性。タケルとアユミは緑色の健常者手帳(ICカード)と紹介状を出した。
「少し時間より遅れるかもしれませんが、おかけになってお待ちください」
並んで座れる席が空いていなかったので、二人は別々に座った。待合室にはm環境音楽が流れていた。水槽があり、熱帯魚があった。本棚とマガジンラックがあった。本には精神病関連の専門的な本や入門書、漫画などが置いてあった。その中には、「はじめての発達障害」という本もあったが、タケルは手に取らなかった。そう言えば、アユミの正式な病名を知らないことに気がついた。しかし、病名を知ってもどうして良いのかがわからない。だいたい、自分は発達障害だと診断されているが、それがどういう病気なのかをタケルは知らない。最初は笑顔が無いというだけの症状だった。しかし、笑顔は戻ったはずだ。ならば自分の症状とは何なのか。なぜ、健常者手帳を失い、障害者手帳を取得するのか。柴田課長にはうまく説明してもらったが、どこかおかしいと思った。
診察は基本的に短いようだ。診察室から人が出てきたと思ったら、すぐに新しい人が入り、またすぐに出てくる。一人平均5分もかかっていない。
診察室の隣にはカウンセリング室がある。ホームページで紹介されていた通りだ。医師は川上京子の他に、毎週金曜日に来る平井聡という医師がいる。嘱託の精神保健福祉士もいる。現代的な心療内科だ、
午後2時5分。タケルが呼ばれた。
「はじめまして。院長の川上京子です。心理センターからですか。お疲れ様」
川上京子は細身のいわゆる美人でスーツを着、赤い眼鏡をかけていた。医者というよりビジネスの世界で活躍している雰囲気。もっとも病院経営は立派なビジネスだが。
「よろしくお願いします。中島タケルです」
「紹介状、読みました。発達障害ね。いま苦しいことありますか?」
「今は特にありません」
「そう、では今日は薬を2種類処方します。一つがネルンデス。これはオレキシン受容体に作用する睡眠薬兼安定剤。もう一つがオキルンデス。これはネルンデスの効果を打ち消す薬。詳しいことは薬剤師さんに聞いてください。1Fに薬局がありますから、そこが便利ですよ」
「はい」
「それから、障害者手帳の診断書を書いておきますから、来週もう一度来てください。診断書が出来たら、すぐに市役所に行って障害者手帳の申請と自立支援医療の申請をしてください。福祉の詳しいことは、別途精神福祉士の藤原さんから聞いてくださいね」
「はい」
「それじゃ、いいですよ。何か質問は?」
「カウンセリングは必要ですか?」
「必要かどうかはご自分で判断してください」
「それじゃ」
タケルはこれが診察かと呆気にとられた。心理センターでも、こんなことは無かった。みんな真剣に話を聞いてくれた。タケルは物足りなかったが診察室を出るしかなかった。
「ありがとうございました」
タケルは待合室に戻った。次にアユミが診察室に呼ばれた。タケルは本棚から「はじめての発達障害」という本を手に取った。目次に目を通し、序文を読んでみたが、まったく自分に当てはまらなように感じた。ページをめくっているとアユミが診察室から出てきた。
「どうだった」
「別に何も」
「アユミちゃんの病名は何だっけ?」
「境界性人格障害」
「へえ」
そんな会話をしていると、受付の女性がタケルを呼んだ。会計を済ませ、処方箋をもらう。すぐにアユミも受付に呼ばれ処方箋をもらった。
「薬だね」
「そうね」
二人はエレベーターで1階におりた。ニコニコ薬局。大手のチェーンではないようだ。受付があり、受け渡しの窓口が4つある。薬剤師も5人以上いる。近くに病院が多いからだろう、混んでいる。待ち時間は30分の表示だ。二人は5時半までに心理センターに戻れば良い。アユミはタバコが吸いたくてたまらない。今、午後2時25分。心理センターに戻らなければいけない時間が午後5時30分。ここから、心理センターまではバスの待ち時間を含めて40分。時間的には余裕がある。
「受付だけ済ませてカフェにでも行こう」
アユミがタケルに提案した。
「そうしよう」
タケルとアユミは処方箋を渡し、戻るのは4時過ぎになる旨を伝えて、薬局を出た。薬局のあるビルの向かい側に大手チェーンのカフェがあった。そこならばタバコも吸えるはずだ。二人はカフェに入った。
「薬、なに貰った?」
アユミがタケルに聞いた。
「えと、なんだっけ、ネルンデスとオキルンデスだ」
「ああ、定番ね。人畜無害だわ」
「アユミちゃんは?」
「私は、マルイマイルド。1日3回毎食後。新薬だって」
「それ、なんの薬?」
「気分安定剤だって」
「で、川上先生の印象は?」
「ホームページにあった通り。嘘は無いでしょ。それより私のパンティどうした?」
「鞄の中」
「ふーん。捨てるんなら返してね」
「センターで見つかったら大変かな」
「別に良いんじゃない」
「やっぱり返す」
「気が弱いんだ。じゃあ、今ちょうだい」
タケルは鞄からパンティを取り出し、わからないようにアユミに渡した。アユミはすぐにそれを鞄に入れた。
「ところで、今日のセックスはどうだった?」
アユミは声のトーンを落とすこともなくタケルに聞いた。
「ここじゃ、喋れないよ」
「そう。残念だわ。でも、結婚の儀式は終わったって言うことで良いよね?」
「もちろん」
「それだけ?」
「ありがとう」
「それだけ?」
「またよろしくお願いします」
「こちらこそ」
アユミはそう言うとニヤリと笑った。アユミがタバコを3本吸ったところで午後3時半になっていた。二人は薬を取りに行き、バスで心理センターに戻った。
(第4話に続く)
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