04 グラップリング・スパー

 稽古開始から一時間が経過すると、キッズクラスの子供たちには長めのインターバルが与えられ、他の人間は男女混合の稽古を申しつけられた。


 が、ユーリの個別指導は継続中である。そのスパーの相手に任命されたのはオリビア選手と小柴選手であったため、瓜子にはまったく状況が把握できなかった。


「小柴選手なら同じぐらいのリーチなのに、どうして自分にお呼びがかからないんすかね?」


 ついつい瓜子がそのようにこぼしてしまうと、小笠原選手が笑顔で答えた。


「そりゃあ見るからに、アンタが平常心じゃないからじゃない? くれぐれも、スパーの相手を怪我させないように気をつけなよ」


 確かに瓜子は平常心でなかったが、スパー中に我を失うほど猪突猛進ではないつもりだった。

 が、やはり無意識の内に熱がこもってしまったのだろうか。嬉々としてスパーを申し入れてきた竹原選手を三度もダウンさせて、周囲の人々を騒がせることになってしまった。


「おいおい、体重差は十キロじゃきかねえだろ。女子相手だからって気を抜くんじゃねえよ」


「いやいや、今のは猪狩さんが上手かったよ。……いや、上手いっていうか、迫力勝ちか。なんか、タカにムカついてたのかな」


「瓜子ちゃんは、そんな私怨をスパーに持ち込む人間じゃないッスよ。……まあ、タカにムカついてたのは事実かもしれないッスけど」


 と、タトゥーを隠すために長袖のラッシュガードを着込んだレオポン選手が、そのように取りなしてくれた。


「それに、瓜子ちゃんはキック歴五年ちょいで、《G・フォース》でもランキング一位までのぼりつめたんスからね。普通に、タカより格上ッスよ」


「へえ。キックのほうでも、それだけの結果を出してたのか。プレスマンってのは、女子選手も粒がそろってるんだな」


 斯様にして、立ち技の稽古は粛々と進められていった。

 途中でキッズクラスの稽古も再開され、そこから三十分ほどが経過したところで、今度は大人たちにも中休みが与えられることになった。


「立ち技の稽古は、以上となる。キック部門の選手は引き続き立ち技の稽古だが、まずは十五分間のインターバルだ。これでちょうど折り返しになるので、各自十分に身体を休めておくように」


 四時間に及ぶ稽古の、半分が終了したのだ。

 灰原選手は「どひー!」とユーリのような雄叫びをあげながら、汗だくの身体で瓜子にからみついてきた。


「これでまだ半分とか、生き地獄だね! 自由時間の二時間はあっという間だったのになー!」


「……灰原選手、さすがに暑苦しいんすけど」


「えー! うり坊、冷たい! ピンク頭に隠し事されたからって、あたしに八つ当たりしないでよー!」


「八つ当たりじゃなくても、あんたは鬱陶しいんだわよ。……でも、ミジンコ並だったスタミナも少しはマシになったようだわね」


「へっへーん! あたしには、若さがあるからね! ……でも、後半はまるまる寝技の稽古かあ」


 ぐんにゃりとのしかってくる灰原選手の重量に瓜子が耐えていると、ようやくユーリたちもこちらに戻ってきた。

 指南役であった大江山軍造と、オリビア選手および小柴選手も一緒である。そして小柴選手はオリビア選手に肩を借りており、ぐったりした表情で腹部を抱えてしまっていた。


「わー、コッシー、どうしたの? お顔が真っ青じゃん!」


「アカリは、ユーリの左ミドルをまともにくらっちゃったんですよー。ボディプロテクターはつけてたんですけどねー」


 気の毒そうに笑いながら、オリビア選手は小柴選手を座らせた。

 すると、赤ら顔をいっそう上気させた大江山軍造が補足説明をしてくる。


「距離感のつかめなさが、別の意味で災いしてな。桃園さんの爪先が三日月蹴りみたいに、レバーに入っちまったんだ。防具をつけてなかったら、悶絶してたろうな」


「そいつは恐ろしい威力ですね。でも、桃園のほうは大丈夫なんですか? うまく中足で当てないと、指の骨なんて簡単に折れちゃいますよ」


 小柴選手に寄り添った小笠原選手がそのように声をあげると、大江山軍造は鬼のような笑顔で「大丈夫だ」と言い放った。


「防具が桃園さんの指も一緒に守ってくれたってわけだな。今からでも、三日月蹴を磨いたらどうだ、桃園さん。あいつをモノにできたら、めっぽう強力な武器になるぞ」


 ユーリはぜいぜいと荒い息をつき、答える体力も残されていない様子であった。

 そんなユーリの姿を見ながら、大江山軍造はいっそう愉快そうに笑う。


「あんたは面白いよ、桃園さん。招待してくれた弥生子師範に感謝だな。……よければ、また明日にでも面倒を見てやろう」


「ありがとう……ございます……」


 かろうじてそれだけ答えてから、ユーリもその場にへたりこんだ。

 大江山軍造はひとつうなずき、分厚い手を振って立ち去っていく。

 瓜子は灰原選手の腕をひっぺがし、ユーリのもとまで駆けつけた。


「お疲れ様です、ユーリさん。呼吸が整ったら、水分補給してくださいね」


 ユーリはぴくんと肩を震わせてから、瓜子の顔をおずおずと見上げてきた。

 瓜子は苦笑して、ユーリの隣に腰を下ろす。


「自分はユーリさんを嫌ったりしないって言ったでしょう? まだ稽古中なんですから、稽古に集中してください」


「うん……でも……他のみんなも怒ってるんだろうなぁ……」


 すると、瓜子の頭ごしに手の先が飛来して、ユーリの頭をぺしんと引っぱたいた。

「うみゃー!」と悲鳴をあげるユーリの鼻先に、瓜子を迂回したサキが立ちはだかる。


「よー、ずいぶん愉快なことをしでかしてくれたなー、乳牛。おめー、覚悟はできてるんだろうなー?」


「サ、サキたん! あにょう、このたびは大変な不始末を……」


「おめーは不始末の権化だろうがよ。いらねー苦労をかけさせやがって」


「ぴみゃー! お肉をつままないでー! やわらかくとも筋肉なので、とても痛いのですー!」


 ユーリの肢体のあちこちをひねりあげてから、サキは「ふん」と腕を組んだ。


「ま、これで長年の謎が解けたぜ。さてはおめー、ムエタイスタイルのときにはさりげなく片目を隠してやがったな? それで的中率も、ちっとは上昇してたってわけだ」


「は、はい……ご推察の通りでございましゅ……」


「右目と左目なら、どっちが見やすいんだよ。やっぱ、まともな視力の左目か?」


「あ、いえ……さっきも色々と試してみたのですけれど……むしろ、試合中は右目のほうが見やすいような……」


「ふん。不同視ってのは、視力の悪いほうで近いもんを見るらしいからな。0.1の視力ってのは想像つかねーけど、無理に両目で見るよりはマシってことか」


 サキはいつもの軍師めいた面持ちで考え込んだ。

 その姿に、ユーリはおっかなびっくり声をあげる。


「あにょう……サキたんは、お怒りになっておられないので……?」


「あー? 二年近くも無駄な調教をさせられて、ムカつかねーわけねーだろ。そのお返しは色々と考えてっから、心配すんな」


 そんな風に言い放つや、サキは身を屈めて瓜子の肩を抱いてきた。


「まずは、このチビタコを没収だな。もともとおめーには過ぎたオモチャだしよ」


「ぷぎゃー! それだけは! それだけは、何とぞご勘弁をー!」


「こら、ひっぱんな。Tシャツが破けるだろうがよ」


 瓜子を間にはさんで、大変な騒ぎである。

 そうしてもみくちゃにされながら、瓜子はひしひしとサキの荒っぽい優しさを痛感させられてしまった。


 さらに、トイレから戻ってきた愛音とともに、ジョンと立松、サイトーと柳原も合流してくる。愛音を除く面々は最初に厳しい声を投げかけていたが、やはりその後は普段通りの態度で接してくれていた。


 ユーリは大変な失敗をしてしまったが、誰もがそれを許してくれたのだ。

 ユーリはまた、ぽろぽろと大粒の涙を流している。それで瓜子も、これ以上ユーリを責めて泣かせることはやめようと、心に決めることがかなったのだった。


                 ◇


 そうして十五分のインターバルが終了し、今度は寝技の稽古である。

 まず最初に女子選手の指南を受け持ってくれたのは、赤星弥生子とサブトレーナーの柳原であった。


「鞠山さんと桃園さんは、キッズクラスの指南役に推挙されていたな。よければ最初に、スパーで実力を測らせてもらいたい」


 そのスパーのお相手を任命されたのは、大江山すみれとマリア選手であった。

 体格を鑑みて、ユーリの相手はマリア選手となる。かつてはリング上で熱戦を繰り広げた両者であったが、やはり純然たる寝技のスパーではユーリに分があった。


 そして、大江山すみれだ。

 彼女は愛音と同世代だが、まず間違いなく瓜子よりも寝技の技量は上である。犬飼京菜との熾烈な寝技の攻防が、それを証し立てていた。

 しかしまた、鞠山選手は大江山すみれの倍以上も生きている大ベテランである。下手をしたら大江山すみれが生まれるよりも前から寝技の稽古を始めていたのだろうから、さすがにその技量は比較にもならなかった。


 結果、二分間のスパーでユーリはマリア選手から三度、鞠山選手は大江山すみれから四度のタップを奪うことになった。


「うむ。どちらも大した技量だな。これなら、キッズコースばかりでなく一般門下生の指南役もつとまりそうだ」


 赤星弥生子がそのように評すると、青田ナナが「待った」と声をあげた。


「マリアはスロースターターですからね。三度ぐらいのタップじゃあ自慢にもならないでしょうよ」


「……そのようなこととは関係なく、桃園さんの動きは見事であったように思うが?」


「ええ。何せ、あの卯月さんがスパーリングパートナーに任命するほどですもんね」


 青田ナナは面白くもなさそうに笑い、赤星弥生子は一瞬だけ殺気めいたものを閃かせた。卯月選手の一件は、やはり赤星道場のほうにも伝達されていたのだ。


「でも、どうなんでしょうね。お地蔵様みたいな顔をしてたって、卯月さんも男です。こんな色気をふりまかれたら、魔が差すことだってあるでしょうよ」


「……君は何が言いたいんだ、ナナ?」


「そいつがどれだけの実力を持ってるか、あたしにも確認させてもらいたいんですよ。キッズクラスのほうにやっちまうんなら、その前に一本だけでも手合わせさせてもらえませんか?」


 赤星弥生子は、火花の散りそうな雰囲気で青田ナナを見据えた。


「今日の君は普通じゃないな、ナナ。……赤星道場の人間として恥じるような真似はしないと誓えるか?」


「当たり前でしょう。あたしがそんな間抜けに見えますか?」


 赤星弥生子は半眼になりながら、ユーリのほうを見た。


「……うちの門下生がこう言っているのだが、桃園さんはどうだろう?」


「はいはいぃ。ユーリは誰がお相手でもけっこうですよぉ」


 かつては兵藤選手の果し合いめいた申し入れも、二つ返事で了承していたユーリであるのだ。なおかつ、プレスマンのコーチ陣の情け深い振る舞いによって、ユーリは持ち前の活力を回復させていた。


「それじゃあ二分だけ、お相手をお願いする」


「はぁい。承知いたしましたぁ」


 マットの上で、ユーリと青田ナナが膝立ちで向かい合う。

 背丈は同程度だが、肉の厚みは一階級分、青田ナナのほうがまさっている。そしてその身には、立ち技のスパーのときよりも猛烈な気迫が感じられた。


「始め」の号令がかけられると同時に、青田ナナがユーリに組みついた。

 首の後ろに手をかけて、力ずくでねじ伏せようという格好だ。

 が、ユーリに力勝負を挑むのは、無謀の極みである。五、六キロていどの体重差では、怪力のユーリをねじ伏せることは不可能であった。


 そうして青田ナナの初撃をやりすごしたユーリは、首相撲の要領で腕を相手の内側に差し入れる。

 ユーリも相手の首裏を取り、何度か左右に揺さぶったのち、えいやっとばかりに横合いに引き倒した。


 青田ナナは、すかさず両足でユーリの胴体をはさみこもうとする。

 しかしユーリは、すでに青田ナナの右足を乗り越えていた。

 ユーリの右足だけが相手の両足にはさまれた、ハーフガードのポジションだ。


 ユーリは右前腕で相手の咽喉もとを圧迫しつつ、逆の腕で相手の足を押そうとする。

 そうはさせじと、青田ナナは足を二重がらみにした。

 しかしその頃には、ユーリの両腕が相手の右腕をからめとっていた。


 やはり、ユーリのほうが常に一歩、先を行っている。

 右足だけは拘束されたまま、ユーリはするするとアームロックの形を完成させてしまった。


 青田ナナの右腕が、じわじわと背中のほうに折り曲げられていく。

 青田ナナはユーリの右足を解放して、凄まじい勢いのブリッジを見せた。

 が、ユーリは巧みに衝撃を逃がして、相手の上に居座り続ける。ついでに右足も抜けたので、アームロックがより完璧な形で完成した。


 青田ナナは決死の形相で、ブリッジを繰り返す。

 しかしユーリは寝入った牛のようにびくともせず、むしろ青田ナナが暴れるたびにその右肩が危うい角度に曲がっていった。


 ユーリは眉を下げながら、審判役の赤星弥生子を振り仰ぐ。

 それと同時に、赤星弥生子はユーリの肩をタップした。


「それまで。技の解除を」


 ユーリはほっとした様子で、青田ナナの右腕を解放した。

 青田ナナは、真っ赤な顔をして赤星弥生子に食ってかかる。


「どうして止めたんですか! あたしはタップしてませんよ!」


「君の右肩は、外れる寸前だったはずだ。それがわからないほど、未熟ではあるまい」


 赤星弥生子は、白刃のごとき眼光で青田ナナを見返した。


「やっぱり今日の君は、普通じゃない。それでは危なっかしくて、スパーもさせられないな。頭が冷えるまで、海岸でも走ってくるといい」


 青田ナナはわなわなと肩を震わせつつ、きびすを返して体育館を出ていってしまった。

 その姿が完全に見えなくなるのを見届けてから、赤星弥生子はユーリと鞠山選手に向きなおる。


「うちの門下生が、失礼をした。お二人は三十分間ほど、キッズクラスの指南役をお願いしたい。現在は立松さんと大江山師範代が指揮を取っているはずなので、そちらに指示を」


「了解だわよ。ほらほら、ちゃきちゃき動くだわよ、ピンク頭」


 ユーリは気乗りしない表情で、鞠山選手に引き立てられていった。

 そうして稽古の後半戦が始められたわけだが――およそ二時間の稽古が終了するまで、青田ナナが戻ってくることはなかった。

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