ランチの時間です(その一)
「はい、昼食の時間ですよ、リセウス君」
ぽん、と軽く背後から肩を叩かれる。
リセウスが振り返ると、いつものように職場の先輩が細い目をさらに細めて微笑んでいる。
「規則通り、食事はちゃんと摂りましょうね。あぁ、もちろん規則通りにきちんと時間をまもって、だけど」
いつも通り、先輩のお決まりの言葉。
見回すと、ほとんどの同僚たちは持参の弁当を食べていたり、あるいは外に食べに行っているのかそもそも席にいなかった。
「あー……もうそんな時刻でしたか。すみません。いつもありがとうございます、先輩」
「いえいえ、どういたしましてだよ。リセウス君は今日も外に食べに行くのかい?」
「はい、そのつもりです。なかなかひとり暮らし下宿住まいでは朝にちゃんとした弁当とか作るのはきついですし、先輩みたいに弁当を作ってくれるような人もいないですしね」
「なぁに、リセウス君にもすぐにそういう人が現れるよ。なかなかいいものだよ? 弁当持参勤務は。……とはいえ、苦手な人参を毎日のように詰めてくるのは勘弁してほしいのだけどね」
そう言いながらも、手作り弁当を机に広げる先輩の顔はにやにやとやたらに幸せそうである。
まったく、羨ましいことだ。まことに羨ましい。羨ましい。
そんな事を思いながら、リセウスはたいして重みがない財布をとりだしてから上着を羽織る。サフィロの街は大陸全体からみれば南の方にあり温かいらしいが、まだ春には少し早いこの時期、外は肌寒さが残る。
「それじゃ、行ってきますね。ちゃんと時間にはもどりますよ、と」
苦手だと言っていた人参のおかずから攻略にかかっている先輩にひとこえかけて、サフィロの街の役人リセウスは庁舎を出た。
「うー……今日もまたけっこう冷えるなぁ」
冷たい風が吹き付けて、リセウスのただでさえ癖が強めなことを気にしている金髪が乱れる。
海が近いところでは海風が冷たく厳しいが、この街は湖のすぐそばにあるせいで冷たい風が吹くのだろうか、湖からの風って湖風というんだっけか。あぁ、それともあれか、ここは万年雪があるような高い山が近くにあるのでそこからの風がきているのだろうか。
そんなことをとりとめなく考えながら、リセウスの足は街のそれほど大きくもないが小さくもない、つまりは取り立てて特徴の無い、とあるひとつの通りへ向かって動く。
このサフィロの街は、ユレイファ王家の直轄領ということもあってか清潔で整備もきちんとされている。ひとことで簡単に言えば、きれいな街だった。それでいて、お貴族さまたち――こちらをゴミ以下の存在でも見るように見る連中――も大挙して訪れるようなこともそうそうないため、リセウスのような先祖代々平民出身な役人にも実に暮らしやすい。
せいぜい、また飛ばされないようにしないと、なぁ。今回は運がよかった感じだけど、次はどんな辺鄙なところに行くかなんて考えたくもないし。
リセウスはこの街に異動する前には、現在は旧エリピア領と、呼ばれているところに存在するとてもとても大きな港街で役人をしていた。……役人なんて言ってもそれはそれは木っ端も木っ端のぺらぺらの平役人だ。
その港の巨大都市のお役所には、貴族の三男坊だとか四男坊だとか、ずいぶんと婚期を逃してしまったらしい貴族の娘だとかが、それはそれは幅を利かせていた。当たり前のようにそこのトップを勤めていたのも貴族というわけで。
リセウスのような平民出身の(勿論、金持ちの家の出では無いし後ろ盾もない)役人は、出世の道などあるわけもなく、お貴族さま役人達に罵られ小突かれ馬鹿にされ、彼らがこなすはずの仕事まで押し付けられる。
それが、当たり前だった。……あの日までは、そうだった。
それはとても、大きなとてつもない流れ。
二年ほど前に、リセウスの住んでいたエリピア王国は旧エリピアとなった。小国と侮っていたユレイファ王国に戦をしかけ、あっさりと敗戦することで。
大きな流れは、彼の勤めていた港街のお役所にも及んだ。
貴族役人たちはそれはそれは見事なまでにきれいに姿を消し(あるいは自らどこへともなく逃げていったりした)て、新たにユレイファから、平民出身の勤勉で有能な好感の持てる役人たちがやってきた。
殆どの平民役人たちは、職を奪われることもなく、そのまま港街のお役所に務めてもよい、というお触れだったのだが、リセウスや、同じような境遇にあった者たちの何名かは、ユレイファ王国の街のあちこちへ異動せよということになった。
どうやら、以前の仕事ぶり(それは貴族役人たちが押し付けてきた仕事をみてもらえたようだった……こなした書類の名前はリセウスでは当然無いのだが有能なる新上司はそこはきちんと見抜いてくれた)が認められたらしい。
敗戦国である旧エリピアから、「本国」であるユレイファへ異動なのだから、栄転というものに分類されるのだろうが、リセウスとしてはあまりそんな雰囲気を感じることが出来ないでいた。
何しろ、異動先は元々勤めていた港街よりはるかに小さい、小さい、小さい、しつこいようだが小さい。街の人口も以前の何分の一とかそういう状態。しかもお世辞にも都会であるとかは言えない。
王家直轄領での勤務であることや、ぺらぺらの平役人から多少出世できたことなどを含めたとしても、最初は乗り気でサフィロの街にやってきたとは、とても言えない心境、だった。
だが、実際に住んでみて、そして働いてみて、わかった。
同僚や先輩、それに上司も、前の場所とは比べ物にならないほどの前向きさと、仕事熱心さと、優秀さと、人格の好ましさと、その他もろもろの尊敬できるものをもったひとたちであったし。
この街が小さいながらも整っていて、(我が物顔で街を闊歩するような貴族もいなくて)住みやすいこともあるし。
街のすぐ近くにある山と湖の織りなす景色を、すぐに気に入ってしまったこともあるし。
それになにより……やったことが、ちゃんと認められる。
それが、嬉しくて楽しくてますますに意欲が湧いて。
リセウスは、今、すごく充実していた。
ついでに、最近は美味いものが食べられる店も発見したこともあるし。
……本当にいいところだよね、ここって。ま、あえて、今の状況にケチをつけてみるとしたら、いまだにお昼の弁当を作ってくれるような「いいひと」が現れない事ぐらいかなぁ。
と、ぼんやりと理想の「いいひと」を頭の中で描いては直し、描いては直しをしてみる。
ボク自身は金の癖っ毛だから隣にいてほしいのは……やっぱり黒髪とかダークブラウンの髪、それも真っ直ぐなので。背丈はボクより小さい方がいいと思ったこともあるけど高くても一向に構わない。できれば年下の方がいい。でも、可愛いというよりは美人系がいい、ボクはどうやら童顔らしいから。弁当を作ってもらいたいから、料理が上手ならすごくうれしい。優しいひとなら更にうれしい。ついでに何かしらの夢とか目標があってきらきらしていたりすると……。
そんな、リセウスも我ながらくだらないなーという事を考えていたせいか、うっかりと目的地を通り過ぎそうになる。というより、たった今通り過ぎた。
「わ、やっちゃったよ」
だが、通り過ぎてしまったのはリセウスが妙なことを考えていたからというだけでもない、だろう。目的地は、取り立てて目立つわけでもない、平凡で、ごくごくありふれた、そんな場所だったのだから。
「よし、今日は営業してる!」
その平凡な場所の、両開き扉のすぐ傍。たてかけられた黒板。
それには、整っているのに可愛らしさを残した字体でこんな風に書かれているのだ。
――喫茶「のばら」 開店中です。
リセウスはまったく迷いなく、右の扉を開ける。
ここの扉は両開きだが、自分から見て右側の扉だけを開けるのが、常連と言われるような客の間でのマナー的なものだった。入る時も出る時も自分から右側だけを開けていれば、うっかりと出入りが一緒になってぶつかるようなことは無いだろう多分おそらくきっと。……という考えかららしい。
「いらっしゃいませ、お客様。今日は冷えますね」
とても美人な店主夫人の、そのすがたと同じぐらいにきれいな声に迎えられる。
リセウスはこうして今日も、喫茶「のばら」の客となった。
この日も喫茶「のばら」は満員に近いだけの客がいる。
お昼どきということもあるし、この寒さで皆も温かいお茶を飲んであたたまりたいのだろう、と勝手に納得しながら、リセウスはほんのつい先程空いたばかりなのだというカウンター席に案内される。
その、案内をしてくれるイヴという名前らしい店主の奥さんの麗しいお姿。それをまともに見ても動揺しない程度には、リセウスはこの店に来慣れている。だが……まだ、不意打ちで目に入ったときは平常心ではいられないが。
「お飲み物のメニューです、どうぞリセウスさん」
……今のように、名前を呼んでもらってしまうような幸運がふりかかったときも、やはり平常心ではいられない。
どうにか、気を取り直して「お飲み物」のメニューと、カウンター奥の黒板メニューとを見る。
もたもたしていたら、午後の仕事に遅れてしまう。
今日は寒くなるという事を料理人は見越していたのか、フードメニューはいかにも体が温まりそうな品が多い。スープ・シチュー系だったり、生姜をはじめとする香辛料がきいた肉料理であったり、だ。
最初のころは、そういったメニューが、ここの店主がウリにしたいのであろう紅茶に果たして合うのか、とリセウスは半信半疑……疑がかなり強め、といった気持だった。紅茶は(交易が盛んな港街出身のリセウスには他の街人よりは馴染みがあるとはいえ)高級なものである。その高級なものに、高級な砂糖をいれて、なおかつ高級な菓子を食べながら、飲む。というものだと思っていたからだ。
が、実際に茶菓子ではありえないようながっつりした食事と、紅茶を一緒に「いただいてみる」とこれがまぁなんというか、つまり、半信半疑の疑の部分など空高く彼方へ吹っ飛んでいってしまった。
喫茶「のばら」の店主アルフによれば、紅茶の主成分は口の中の油を洗い流してさっぱりさせてくれる……という話だ、とリセウスも小耳にはさんだことがある。理屈の上でもちゃんとしているのだ。
……というわけで、甘くないモノにも紅茶は合う。
だが、もちろん相性というものも存在する。
料理と、紅茶の種類。それに、紅茶の温度や、ミルク入りかミルク無しか、といった要因が複雑にからみあう。
カウンターの向こうにこの時刻は必ず居る店主のアルフに、どんな料理を食べたいかを聞けば、あるいはその逆でどんな紅茶を飲みたいかを聞けば、相性のいいものを教えてくれる。リセウスもそれは勿論知っている。
だが、あえて、あえての自分で料理も紅茶も選ぶというのが、リセウスのやり方だった。
自分の舌で、自分で選んだ組み合わせの相性を楽しむ。
たとえ、合わなかったとしてもそれはそれである意味楽しいことだ。とリセウスは思う。
……。
大陸南方産の、テンプールベルにモルグネ、エルピーザ。
南方産と人気を二分する、大陸西方の南側にある島国産であるジュファ、レギーンナ、ミスティエル。
他には大陸東方のグレーイス。
もっといろいろ種類はあるし、フレーバー付の紅茶もあるのだが、リセウスお気に入りの紅茶はこの辺りだった。
テンプールベルにしておけば、獣肉にも魚にも合う、はずだよね。なにしろ定番中の定番だし。でも久しぶりにエルピーザやミスティエルも飲みたい。グレーイスはすごく美味いし殆どの食べ物に合うけど……今の財布の軽さを考えるとグレーイスを注文するのは無謀行為……! と、なっちゃうと……。ん、今日はこれだ。これにしよう。食べ物は……これがいい。よし、決まり!
そこへ、タイミングよく店主アルフが声をかけてくる
「どうやら決まったようだね?」
「うん、今日は紅茶はミスティエルで、あとは鶏肉たっぷり根菜ミルクシチューってのをお願いするよ」
「なるほどなるほど、いや、なるほどね」
意味ありげに青い瞳を細めながら、店主のアルフは厨房へ今のオーダーを伝えてから、ミスティエルの茶葉を用意し始める。
「……ふぅ、今日の組み合わせは、我ながらなかなかだったよなぁ。百点満点中でいくと……八十五点ぐらいは、まぁ間違いなくいけるよね、うん、いけるいける」
とてもありがたい「規則により定められた」昼食時間はそろそろ終わりだ。
こうして、今日も役人リセウスは満足したお腹をさすりながら足早に庁舎に戻るのだった。
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