ミント茶に砂糖(その三)


「……」

「……」


 何秒か、それとももう少し長い時間か、それとも、もっともっと長い時間だったのだろうか、とにかく、サーディクは勿論ウィラータでさえもその美しい女性に目を奪われて動けないでいた。

 この女性は、この存在は本当に自分たちと同じ人間なのだろうかとさえ思わずにはいられない。

 北方のおとぎ話にあるような生命をふきこまれたお人形か、あるいは西方の伝承にある紅薔薇と菫の露の化身か。

 それとも……東方の言い伝えにあるように、別の世界に住まうという女神が人間の男によって力の羽衣を奪われて元の世界へ帰れなくなってしまったのか。

 

「お客様? ……どう、されましたの?」

「あ……」

 菫色の瞳に見つめられて動けないでいるところに、さらにまた、その女性の優美で可憐な声が降り注ぎ、ますますに動けなくなってしまう。

「あー、はいはーい。奥さんはー、カウンターに入っててくださいなー。まぁせいぜい店主さんといちゃついていてくださいよー」

 ドアを開けたままの体勢で結構な時間動けなくなっている夫婦に、助け舟を出すように、間延びしたからりと明るい声が。

「一応ねー、うちの店の奥さんもねぇ、れっきとした人間なんだけどねー、まぁ、見慣れないうちは仕方ない、といえば仕方ないのかなー」

 間延びした声の主は、この店の給仕娘の一人らしかった。白に近い銀色の髪に小麦色の肌は、大陸南方の砂の多い地域の出身者によくある特徴だ。つまり、彼女の容姿は砂の街からやってきた夫婦にとってはとても馴染み深く、先ほどの見ているだけで時間が止まるかのような美女とは異なり、ほっとひといきつけるようなものだった。とはいえ、彼女も彼女で充分に愛嬌があって可愛らしい顔立ちだ。

 「お席に案内しますねー、お客さん。というかーお客さんでいいんですよね。うちの店の奥さんの姿を興味本位で見に来たよーとかの人じゃあなくって」

 「あ、はい、ええ、そう……です、私たちはこのお店でお茶とお菓子を食べるつもりで……」

 「それならよかったー。んー、空いている席はー……あー……お客さんは多分、南方の人だろうし、まぶしいのはきっと平気ですよねー。今は、あのサンルーム席しか空いてないんですけどー」

 自分たちと同じく南方出身だろう給仕娘が示したのは、この建物の中で庭に飛び出した空間、天井も壁もガラス(ただしあまり品質はよくないガラスのようで、ある程度はゆがみがあるように見えた)で出来た場所にあるあまり大きくないテーブル。

 「私どもはそこでかまいませんよ、太陽のまぶしさも、西方では優しくて心地よいものですし」

 「はぁい、それでしたらー、ご案内いたしますねー」


 午前のお茶の時間は終わったが昼食を食べるにはまだすこしばかり早いという時刻ではあるが、店内はカウンター席にひとつかふたつばかり空きがある程度で、ざっと見て十以上あるだろうテーブルにはほとんどすべて客がいた。

 あんなに目立たない店構えの割に、ずいぶんと評判の店らしい。

 まぁ、昨晩聞いた話――茶に入れる砂糖が使い放題だとか、その割に抑えられているという価格の事とか、定番から珍しい菓子までそろっているとか――が本当なら、この店が賑わうのも当たり前の事なのだが。

 客たちは、ちょっとした金とちょっとした余裕があるのだろう階級から上がほどんどのように見えるのだが、日雇いの肉体労働者のような者たちもいたりする。

 こまごまとした家事などの一切を使用人たちに任せてしまえるのだろう、いかにも裕福そうな、仕立ての良いドレスをまとったご婦人方もいれば、作家かそれとも詩人なのか、テーブルに広げた何枚もの羊皮紙の文字を熱心に読んだり書き足したりしている者もいる。

 カウンター席にいる、どう見ても日雇いの労働者にしか見えない体の大きな男は、ひとつ席をあけたところに座っている黒髪の娘の横顔を手元の羊皮紙に木炭筆で描いているようだった。どうやら彼は画家らしい。

 店内の壁を見ると、その黒髪の娘がモデルになったと思われるスケッチ画が3つばかり、きちんと磨かれた額に入った状態で掛けられていた。それらは、ウィラータが見る限りなかなかのいい出来栄えの絵だった。

 そんな店内の様子を眺めながら、小麦色肌の給仕娘によってサンルーム席まで案内される。

「それではー、御掛けになってお待ちくださいね。鞄などのお荷物はー、空いている椅子に置くか、あるいはこちらのかごの中にー」

 そう言って給仕娘がテーブル下から取り出したのは、箱型に編まれた大き目のカゴだった。

「ありがとう、使わせてもらうわね」

「ドリンクメニューはこちらの紙ですー。フードメニューや甘いものは、日によって出せるものも変わるのでー、あちらやあちらの黒板に書かれていますー」

 と、カウンター奥や壁にかけられた黒板を示して教えてくれる。

 なるほど、たしかにそこには菓子の名前らしきものが書かれていた。

「では、ごゆっくりどうぞー」



 さて、ここで問題があった。

 ドリンクメニューの文字は西方独自の文字だけではなく、大陸全土で使われている言語でも注釈がつけられていて、この茶葉の産地はどこか、味は、香りは、どんな飲み方が美味とされているか、まで知ることができた。

 問題は、黒板に書かれたメニューの方だった。

 これは大陸西方の文字でしか書かれていないし、西方文字がとりあえずは読み書きできるサーディクに読みあげてもらっても、料理の名前とその価格だけしか書かれていないことが判明した。

 つまり、夫婦には黒板に書かれているメニューが、どんな料理なのかあるいは甘味なのか、まったくといっていいほどにわからなかったのだ。

 しかしサーディクとウィラータの夫婦もそれなりにこの旅で経験を蓄えたのだ。2人とも、あわてない騒がないうろたえない。自分たちは、こういうときにはどうすればよいのか知っているのだから。

 場末の安い酒場などではまず使えないような手であるが、前評判などを信じるならば、この店ならば大丈夫だろういう確信がある。

 サーディクは、すっ……と、日に焼けた腕をまっすぐに上にあげて、はっきりとよくとおる声で、こう言った。


「給仕さん、メニューについてちょっと聞きたいことがあるのだ。来てくれないかね?」


 すると、すぐに先ほど対応してくれたのと同じ給仕である銀髪に小麦色肌の娘がやってきてくれた。

 カウンターの中から出てこようとするこの店の奥さん――まだ、夫婦ともに彼女のまぶしすぎる陽光のような姿をまともに見ることはできないでいた――に、自分が行くから、と手で合図することまでしてくれたのだ。

 なかなかに気の利く娘だ。

「はいはーい、お待たせしましたー、メニューについてですねー」

「まず、どれが甘い菓子なのか、教えてほしいのだが」

「はーい、甘いメニューが書かれているのはですね、カウンター奥のこっち側の黒板になります。……えぇ、ウサギさんの絵が下の方に描かれている方です。そうメニューの一番上にスコーンってある方……、そうそうそう、こっちになりますよー」

「ふむ、では……この本日のおすすめとある、ザッハトルテというのはどんなものなのかな? あぁ、あと大事なことがあるんだ、甘さはどのぐらいかね?」

「ザッハトルテはですねー、南方の方ですからチョコレートはー、ご存知ですよね? ざっくりと言ってしまうならチョコレートケーキの一種ですよー。チョコ風味のスポンジケーキにあんずのジャムをぬってー、それからさらに表面には特殊なチョコのコーティングをしてあるんですー。この表面部分のチョコがですねー、当店「のばら」でお出しているのはお砂糖がしゃりしゃりする食感で、それが、またいいんですよー。それにがっつりと甘いですし!」

「まぁ……」

「甘さの満足度はかなり高いですよー、当店のザッハトルテ!」

「ねぇ、サーディク……これにしましょうよ」

「い、いや、ウィラータ、注文はまだ早い、他の甘味の説明も、聞いてからでも遅くは、遅くは、ない……」

「はぁい、ではお次はどのお菓子の説明にしましょうー!」

「つ、次は……ミルフィーユなる菓子についてを……」

「ふふふー、ミルフィーユというお菓子はですね、さっくさくのうすーい生地がたーくさん重なったパイ生地にですね――」


 結局、夫婦はこの店で今日出ているほとんどの甘い菓子のメニューを注文することになった。最初に説明を貰ったザッハトルテというケーキは、二皿注文することにした。さすがにすべてを二皿ずつは食べ切れそうにもないため、断腸の思いで他の菓子は1皿ずつという注文だった。

 「では、飲み物はミントティーをポットでひとつ」 

 「はい、ミントティーをポットで、ですねー。それにしてもーお客さん方、仲良しさんですよねー。ご夫婦……でいいんですよね?」

 「えぇ、そうですよ」

 「まるで兄妹のようによく似てますよねー、それとも夫婦として長く暮らしているとだんだん似てくるっていう、そういうことなんでしょうかー」

 「あぁ、自分たちはもともと親戚……いとこ同士でしたから」

 彼女が言うようにサーディクと、ウィラータの容姿はよく似ている。髪の色も、瞳の色も同じ。白髪もまじった銀の髪に、濃いグレーの瞳だ。肌の色さえも今はほとんど同じぐらいに日に焼けていた。

 性別と体格をのぞけば、二人はそっくり。まるで、同一人物が性別を変えて現れたかのように似ている、と言われたことさえもある。

 「なるほどー、でもー、似ているっていうのも含めて、仲良しぽくっていいですよねぇ。私も早く、一緒にいい具合に年を重ねていける……そんなお相手さんが欲しいものですー」


 この娘なら、よく気も利くようだし、頭もよさそうだし、なにより(適度にだ……ヒトの美しささえも適度にしておくというのが良いものなのだと夫婦は先ほど思い知ったばかりである。とにかく、彼女の場合はいい具合に適度であった)可愛らしい。

 サーディクとウィラータの身内でも、彼女に嫁に来てほしいと言い出す者はわりといそうだった。

 もしも、本当に、彼女が結婚相手に困っているようだったら、いい男性を紹介してやりたいと思う程度には、サーディクとウィラータの夫婦はこの間延びした話し方をする娘を好ましく思い始めていた。



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