神さまのいない日曜日 外伝/入江君人

ファンタジア文庫

1話 人喰い玩具が語らなかったいくつかの掌話

 人喰い玩具ハンプニーハンバートは語らない。

 なぜなら真実は深くにあって、この赤眼ごときに見通せはしないのだから。

 人喰い玩具ハンプニーハンバートは迷わない。

 よしんばなにかを見たとして、この身にやどる言葉は浅く、正しかった何かはまたたく間にも腐って落ちる。だから、人喰い玩具ハンプニーハンバートは語らないのだ。

 それでも、迷うときはあった。


「どうして、私の村を滅ぼしたんですか」


 ようやく雪が解け出した春のことだった。奥深い山の小さな峰だった。

 たき火と月と湯気を上げるヤカンがあった。綺麗に食べ終えた食器とすっかり冷めたお茶があった。

 そして、人喰い玩具ハンプニーハンバートと、彼の娘を名乗る少女がいた。


「答えて下さい。お父様」


 アイ。そう名乗る少女は、最初から不思議な子供だった。

 墓守を名乗り、ショベルを抱え、人喰い玩具ハンプニーハンバートを父だという。

 くるっているのだ。ハンプニーは当初、そう思っていた。先天か、後天かは分からぬが、この子は壊れてしまったのだろう。そう思っていた。

「……答えてはくれませんか……」

 ある一点では、たしかにそれは正しいのだろう。だが同時にこの娘は驚くほど聡明で、人の機微に敏感だった。故に、人喰い玩具ハンプニーハンバートは答えねばならぬと思った。彼女の養い親を殺し、村を滅ぼしたその理由を話す義務があると思った。

 だが、

「ああ、答えたくないな」

 人喰い玩具ハンプニーハンバートは言った。

 この聡明な娘ならば、近いうちに自らのくるいに気付くだろう。そして誰が、どのようにそれを施したか、あの村がどんな存在で、人喰い玩具ハンプニーハンバートが見てきたものも、見抜くだろう。あの村人たちがどれほどの悪に身をやつしたのかも。気付くだろう。

 だがそれをこの場で、自分の口から言うことは躊ためら躇われた。

 たしかに、彼らは外道に落ちた。

 人喰い玩具ハンプニーハンバートを殺し、何人もの迷い人を殺し、なにも守れていなかった。

 だが、そんなものは真実では無いのだから。自分がどれだけ殺されようと、彼らがどれだけ殺そうと、そんな話はハンプニーが見た一面でしかないのだから。

 だから、人喰い玩具ハンプニーハンバートは語らない。

 事実も虚構も、呑んで漏らすことはない。たとえそれが葬られるだけの運命であっても。


 だからこれは、人喰い玩具ハンプニーハンバートが語らなかったいくつかの話の一つだった。



                 †


 荒野を一台のバイクが走っていた。あちらこちらに錆の浮いた、馬力だけは強そうな古いバイクだ。

 バイクは行く、古い道を。古すぎて整備されることもなくなったそれは荒れ果てて、一見すると周囲の荒野と大差なかった。

 若いのは搭乗者だけだった。

 銀髪の、赤い目をした少年だった。

 少年は地平線の向こうからでも分かりそうなほど特徴的で、美しかった。頭にゴーグル一つだけを引っかけて、自殺者まがいの速度で行く。しかし彼の赤眼に速度や危険に対する熱狂はない。あるのは目的だけに焦点を合わせた冷徹な瞳だけだ。

 そのときふと、なにかに気付いて、少年が速度を落とし、やがて止まった。

 双眼鏡を取り出して前方を見やる。百メートルほど先。道が分岐している場所があった。

 なにかの待合所らしい廃屋があり、すでに存在しない街の名を示した看板があちらこちらを示していた。その、看板の前に、所在なさげに立ち尽くしている人影があった。死者だ。

 性別すら分からなくなるほど古ぼけた死者だった。肉のほとんどがそげ落ちて、左の肋骨ろつこつは心臓どころか向こうの景色まですかして看板の「P」辺りを覗かせている。

 少年が微妙に居ずまいを正す。腰に吊った銃を少し浮かせ、右手と右足が滑らかに動いて低回転域の動きを確認する。なにかの決定が下され、少年がゆっくりと進んでいく。

「よう」

 いままで見せていた用心深さとはうらはらに、軽い声でいう。

「……やあ」

 思いがけないほど滑らかに振り返り、死者が答えた。少年の中で直接的な警戒心がしまわれ、かわりに別の警戒が立ち上がる。

「道にでも迷ったか?」

「……道? あ、ああ、そうだな。そうなんだと思う」

「どこに行きたい。知ってりゃ教えてやるよ」

「えっと……」

 骨がき出しになった人差し指が、いくつかの看板を示して彷さまよ徨った。その動作は緩慢だったが、少年は辛抱強く待った。

「……もう、分からないんだ」

 だらりと右手が垂れる。いくつかの腐肉が剥がれて落ちる。

「どこか、行かなきゃならないところがあったはずなんだ……でも分からなくて」

「なぜ行かなきゃならない?」

「……それも、分からなくて……」

 そして死者はどうしようもなく立ち尽くす。いくつもの看板の前で、いくつもの選択肢の前で、しかし定める指標を何一つ持たず、立ち尽くす。

 少年が煙草を取り出して火をつけた。真っ白な煙が、うすい青空に溶けていく。

「煙草。やるか」

 火のついたそれを差し出す。だが死者は困った顔で笑って同じことを言った。「分からない」彼はもう自分がそれを好きだったのかも、分からないようだ。

 煙草一本分の沈黙が流れた。

「……行く場所がないんだったらよ」

「え?」

「一つだけ、俺に心当たりがある」

「それは、どういう――」

 再び死者が振り返る。

 その間に、少年はとっくに銃を構えていた。

「あ……」

 見えているかもあやしい眼窩がんかが、同じ色の銃口を見つめていた。

「どうする?」

 少年は聞いた。生きるか死ぬか、相手にゆだねた。

 少しだけ迷った後で、死者は答えた。泣き笑いのような困った顔だった。

「……それももう、分からないんだ……」

 死者が泣くことはなかった。理由がもうなかったからだ。彼はまるで、狙いを外した弾丸のようだった。生まれを知らず、目的を知らず、ただ地面に落ちる日を待っている。そんな無意味な鉛の弾だ。

 そうか。少年はつぶやくと、撃鉄げきてつをゆっくり起こした。

「じゃあこれは俺の“我がまま”だな」

 荒野に銃声が響いて散った。


                  †


「燃料と弾をくれ。それと聞きたいことがある」

 街道沿いにあるさびれた何でも屋、そのひとつに足を踏み入れた少年は開口一番いいはなった。居眠りでもしていたのだろう。船をいでいた店主が慌てた様子で跳ね起きると、戸口に立つこちらをまじまじと見つめた。

 またか。少年は思った。こういった場面で男達が自分をめるのは常のことだ。“なんだ坊主、お使いか?”少年には男がつぎになにを言うかまで読めるようだった。

「……あんたまさか、人喰い玩具ハンプニーハンバートか?」

 ところが予想は外れた。男はむしろこちらのことを知りすぎているようだった。

「いやー懐かしいなおい! すげぇや、本当に昔のまんまだ! 俺のことを覚えてるか? 十三年前、この辺りの死者狩りで一緒にいたんだけど……」

「……わるいが」

「はは、そりゃそうか。あの時あんたは攻撃隊のエースで、俺はただの十二になったばかりのガキだったもの。いやー本当に懐かしい」

「……弾と燃料。あるのか? ないのか?」

「あ、ああ! もちろんあるぞ! バイクだろ? 外槽がいそうもあるな? 分かった、ちょっと待っててくれ。おーい! 燃料たのむ!」

 店主が奥へ声を掛けると妻とおぼしき女が小さく頭を下げて外へ向かった。

「で、聞きたいことってのはなんだ」

「ハナ、という女に心当たりはないか? 歳は――」

 もう何度繰り返したかも分からない質問を繰り返した。だが答えもまた、同じだった。

「他ならぬあんたの頼みだから、聞いてやりたいんだが。うーん、悪いが知らんな」

「……じゃあ、死者や墓守、異能者がらみの話があったらなんでもいいから教えてくれ」

「わかった」

 こちらの質問に対しては、店主の回答も滑らかだった。危険な死者や異能者の情報はこういった街道沿いの店では立派な商品だった。その一つに、ハンプニーは気を引かれた。

「あと、これはずいぶん前の話になるが、なんでもこの辺りの山中に“天国”ってもんがあるとかないとか」

「天国?」

「噂だよ。死者たちの噂だ。なんでもそこでは死者が迫害されずに暮らせるらしい」

「……オルタスでいいだろ」

「あそこが有名になる前の話さ。ざっと十年は前の話だな。なんだよ、あんたが、なんでもいいっていうから話したんじゃないか。これ以上はもう出てこないよ」

「……ふん。天国ねぇ」

 天国。その言葉がなぜか、ハンプニーには気になった。

「いやー、それにしても懐かしい」

 棚から弾丸を下ろしながら店主が言った。どうやらまだ思い出話がしたいらしい。

「不死身なのは知ってたけど、あんた、本当に変わらないんだな。ってそりゃそうか、不死身ってことは不老ってことだもんな。いやしかし、本当にあの頃のまんまだ」

「変わらない、か……」

 弾丸の質をチェックしながらハンプニーは言う。そのときふと、記憶の端でなにかが蘇るのを感じた。

「それをいうなら、お前はずいぶん変わったな。コニー坊や」

「思い出してくれたのか!?」

「少しな」

 十三年前といえば、まだ半死熱が猛威を振るい、墓守もほとんどいなかった時代だ。あの頃は生者による徹底的な死者狩りが行われ、ノウハウを多く持ったハンプニー達、街の若者達は援軍として大陸中を駆け回った。

「十三年前ってのでピンときたよ。というかそれがなきゃ分からねぇよ。なんだ、でかい図体になりやがって、俺の知ってるコニー坊やは鼻の垂れた可愛いガキだったぞ」

「はは、なるほど、そりゃ確かに変わったな」

「ああ、変わったよ。……変わりすぎた」

「……ハンプニー?」

 なにか、妙な空気が流れ始めた。

「あの時、お前は半死熱で死んだ屍者ししやに父親を食い散らかされてな……それで、俺たちの討伐隊にくっついていたんだ。お前は言っていたよ……“生き汚い死者どもめ! 墓穴に叩き返してやる!”とな」

 ハンプニーはずっと、表のバイクを見ていた。そこではコニーの母親とおぼしき人物がバイクに燃料を入れていた。

 彼女はもう、死んでいた。

 そのときになって、コニーはようやく気付いたようだ。

 自分が変わってしまったことと、彼が変わらなかったことに。

「ハ、ハンプニー!」

 コニーがすばらしい反応を見せた。護身用のハンドガンを一瞬で引き抜くと、相手が反応する隙すら与えずに突きつける。十三年前に無力だった少年はいまや筋骨隆々たる戦士で、やせっぽちな半病人など相手にならないほどだった。

「母はやらせないぞ!」

「おいおい、落ち着けよ。俺は、お前の台詞を思い出しただけじゃあないか」

「時代が変わったんだ!」

 ガチリ、撃鉄が起きる。安全装置が解除される。

「もう死者だからってだけで埋められるような時代じゃないんだ。……それに、母は半死熱で死んだ“屍者”じゃない。死後処理もした、まともな死者だ」

「“まともな死者”ね。残念だがコニー坊。それは今だけだよ。腐ってただれて我が儘になれば、どんな死者も変わらない」

「……注文の弾だ。代金はいい。そのまま出てってくれ」

「ふぅん、出て行かなかったらどうなるんだ?」

「残念だが、あんたを……」

 言葉の途中で、コニーは「あ」と間の抜けた声を出して動きを止めた。くつくつと、ハンプニーはわらった。

「どうするって? ええ、コニー坊。その豆鉄砲で俺をどうできるって言うんだ?」

「ハ、ハンプニー……」

「安心しろ」

 ふいに、あの妙な空気が消えた。ハンプニーは弾丸の束を懐に入れると、立ち上がって煙草をくわえた。

「残念なことに……いや、お前にとっては幸福なことに、 。好きでも、嫌いでもない。だからわざわざ“我が儘”を押しつけるようなことはしないさ」

「……見逃してくれるのか?」

「見逃すんじゃない。見捨てるんだよ。じゃあなコニー坊。そこで暖かく腐るといい」

 コートのすそひるがえし、人喰い玩具ハンプニーハンバートは出て行った。


                  †


 時代は変わった。そうかも知れない。

 時は移ろった。そうだろう。

 だが人喰い玩具ハンプニーハンバートは変わらない。化物ばけものの時間は十五年前に止まったままで、魂だけが黒くよどんで古くなっていく。それを、悲しいとも思わない。我ながら哀れだと思うことはあっても、困ったことに後悔は無かった。

 天国。そんなものがあったとしても、ハンプニーは行く気などなかった。地獄だったら少しだけ心引かれたが、それも現世で間に合っていた。

 だから、彼がそこを探したのは、純粋に彼女を探してのことだった。

「……なんだここは」

 誰も出入りしないだろう深い山奥にそれはあった。

 三方を峰に囲まれた小さな盆地だった。大きな労力をもって切り開かれたであろうその狭い窪地は狭い畑といくつかの民家が並ぶ隠れ里だった。それはいい、そこまではよくある話だ。だが住人が問題だった。

 双眼鏡を出すまでもなく分かった。この村の住人は、死者ばかりだ。

「……いやな場所だ」

 やはり、軽く言って、ハンプニーは歩き出した。

 まさかこの場所で長きにわたる願いが叶うなどとは、微塵みじんも思わずに。


                   †


 骨に皮、石に油、はさみつち、室内に使い込まれた道具達が所狭しと並んでいる。大きな窓から入る光が作業場を明るく照らしていた。

 そんな、いかにも職人らしい部屋で、ヨーキは一人の老人からネジを抜いていた。右のかかとにある四つのうちのひとつが、どうも少しゆがんでいるらしい。

「だめですね、抜けません。いったいなにやったんです?」

「わからん。わしはなにもしてないぞ」

「本当ですか? ……仕方ありません、少し打ちます」

 ヨーキは最終手段に乗り出した。老人の右足を椅子の上に乗せ、くだんのネジに乗せたねじ回しの尻をハンマーで打った。

 まるで拷問のような処置だったが、老人はあまり痛みを感じてない様子だった。それもそのはず、彼は死者だ。

 ここ、ヨーキ・ハフリーの工房は死体調整士プラステイネイタのためのものだった。

「よし、とれた」

 無事、最後の一本を引き抜いたヨーキは踵の中を見た。やっぱりだ。骨と骨をつなぐけんが外れている。これはもともと弱くなった腱を守るための装置で、衝撃を受けると自分から外れるようになっているのだ。

「やっぱりどこかにぶつけてますね。高いところから飛び降りたとか、なにか蹴飛ばしたとかしてませんか?」

「うーん……」

 生身の人間だったら捻挫ねんざ するくらいの衝撃があったはずだが、彼は覚えていない様子だった。だが仕方がない、死者になって何年もたつと、すべてが鈍くなってしまうのだ。

「……記憶が怪しいのでしたら、そちらも少し手を入れましょうか?」

「そんなことも出来るのかい?」

「薬とはりで」

 死者の肉体だけではなく、精神にまで施術を施す技は死体調整士プラステイネイタの奥義だったが、ヨーキは若くしてその技を極めている。

 だが、老人は「うーん」と唸って断った。

「これは別に、あんたの技を悪く言うってんじゃないんだが。儂は心にまでは、手を入れたくないんじゃ。悪いのぅ」

「いえ、気にしないでください。では、これで治療は終わりです」

「うむ、ありがとう。……すまんな、新婚ほやほやだというのに時間をとらせて」

「そ、そういうことは関係ないですよ。仕事だし」

「ほっほっほ、ではな」

 動きの良くなった足を靴に して、老人は軽口を叩きつつ出て行った。やれやれ、ヨーキは首を振って道具を片付け、受付に向かって声を掛ける。

「アンナ。次、いいよ」

「あ、ごめんなさいヨーキ、ユキさんはキャンセルよ。午前の予約はもう終わり」

 扉を開けて、女の死者が入ってきた。

「なんだ、ずいぶん少ないね」

「気を遣ってくれたのよ。ほら、私達、昨日アイを引き取ったばかりだし」

 彼女の名はアンナ・ハフリー、その名の通り、ヨーキの妻に当たる人物だ。

「そっか、じゃあ久しぶりに君をようかな」

「そんな、いいわよ。休んだら?」

「君を診るのが一番の癒やしさ」

「もう」

 アンナが、くすくすと笑いながら、服をはだけた。

 それは、人であり、獣であり、石であり、油であり、水である、なにかだった。

 アンナの身体はすでにほとんどの部分が代換品に置き換わっていた。皮は軟性陶器と豚皮に、脂肪は海綿の詰め物に置き換えられ、その全てに彼女の遺灰が練り込まれている。

 人の美ではなかった。だがそれ以外のあらゆる意味で、彼女は美しかった。

 当然だ。アンナ・ハフリーは死体調整士プラステイネイタヨーキが作り出した最高傑作なのだから。

「……きれいだよ」

「それはそうでしょう。あなたが

 僅かにとげのある声がヨーキを刺した。いや、それはただの自意識過剰で、アンナにはそんな気ももうないだろう。

「……じゃあ、診るけど。どこか、変えたいところとか、リクエストはない?」

 通常、死者は自らの身体を様々なもので補強している。それは腐り行く身体を少しでも長持ちさせるための苦肉の策だったが、反面、整形手術的な利点もあった。たとえば骨を継ぎ足して背を伸ばしたり、皮膚を鋼鉄化して鋼の身体になったりといった具合だ。

 だから、ヨーキは聞いたのだ。だがアンナの答えは変わらなかった。

「いつも通りよ。あなたの好きにして」

 それが、アンナ・ハフリーが、自らの身体を任せるときにいういつもの台詞だった。

 それは時として違うニュアンスをはらんでいた。あるときは怒りとともに、あるときは諦めとともに、あるときはびとともに、そしてまたあるときは、愛とともにつぶやかれた。

 いまは、どうなのだろう。ヨーキは思う。彼女は自分を許してくれたのか。許していないのか。それとももう気にもしていないのか。

 ヨーキには聞く勇気がなかった。それはいびつな形ではあったが、男が女に抱くある種の罪悪感とよく似ていた。自分の肉体がどうしようもなく相手よりも強いという罪悪感。暴力的なまでの欲望を相手に向ける罪悪感。

 破壊された彼女の肉体をさらに破壊し、作り直してしまったことへの罪悪感。

 そういったものに、ヨーキは支配され続けてきた。今も、昔も。

 それが二人の関係だった。アンナはヨーキを愛している。ヨーキもアンナを愛している。だがそこにはドロドロとわだかまる腐れた情愛と生存欲求、死への恐怖が入り交じって、もう本当にそうなのか分からなくなっていた。それが、二人の関係だったのだ。

「あ、待って。今の無し。希望あったわ」

 ところが、アンナは突然そこから抜け出した。

「え?」

「私の腰の辺りってもう少し柔らかくできる? 多少太くなってもいいから」

 ヨーキは衝撃に打たれていた。これまで彼女がそんなふうになにかを望むことは一度もなかった。それがここに来て、なぜ?

「あと力も強くして欲しいの。ああ、できるならあんまり匂わない素材にして頂戴。私、香水へらそうと思うから。――なに、その顔。もしかしてできないの?」

「あ、いや、できるけど。……なぜ?」

「なぜって、そんなのあの子のために決まってるじゃない」

 二人の間で、いや、この村で“あの子”と呼ばれる存在など一人しかいなかった。

 アイ。それはこの村を作り出した始祖アルファの一人娘であり、墓守と人間との間に生まれた十二歳の娘。そして、昨夜、二人の子供となった少女の名だ。

 そう、二人は昨日、晴れて夫婦となり、一人の子供を引き取ったのだ。

「ほら、あの子よく私に抱きつくじゃない? でもその度に腰骨が当たって痛いし、それに、香水きらいでしょ? なるべく減らしてあげたいの。あと化粧もね」

 変だ。とヨーキは思った。昨日まで――より正確に言えば昨日のある瞬間までは、アンナはアイの母親になることにどちらかといえば乗り気ではなく、ヨーキの方がその必要性も含めて説得したくらいだった。

 それが、どうしたことだろう、昨夜、泣きわめくアイを抱きしめたあの瞬間から、彼女は変わってしまった。欲望と恐れをぶつけ合う二人の関係性から離れて、一人で、なにか大きなものを支えようとしている。

 それがなんなのか、ヨーキにはまだ分からなかった。

「どうしたのヨーキ。ぼーっとして」

「え? あ、いや! なんでもないよ。分かった。腰だね、すぐに取りかかるよ」

 死人の女と、彼女を愛する男、そしてもう十二歳にもなる子供でできたゆがんだ家族。だがそこに訪れたものは至極平凡なものだった。恋人達の時間が終わり、彼女は一足先に母になろうとしている、だが彼はまだどうしようもなくただの男で、彼女の変化に戸惑っている。

 いずれ、彼も気付くだろう。愛し合うことと、傷つけ合うことが同義だった恋人の時代が終わりを告げ、より大きなステージに自分たちが行き着いたのだと、遅かれ早かれ気付いただろう。

 時間さえ、あれば。

「ヨーキ。ちょっと来てくれ。緊急事態だ」

 そのとき、扉が手荒くノックされ、ダイゴ翁が告げた。

「旅人が出た」


                 †


 その男は人喰い玩具ハンプニーハンバートを名乗ったという。

「なんですって?」

 旅人を迎えた家へと向かいながら、ヨーキは知らせをもたらした人物――村のまとめ役であるダイゴ翁だ――に向かって聞き返した。

「それは。ふざけているんですか?」

「かもしれん。が、童話そっくりではあった。色の抜けた白い髪、不気味な赤い目。あれはアルビノだな」

「……まあ、それはいいです。それより、その男は分かって言っているのですか?」

「分かっている、とは?」

「とぼけないでください」

 そう、この場所において、人喰い玩具ハンプニーハンバートは別の意味を持っていた。

「アルファ様は言っていました。……アイの父親は人喰い玩具ハンプニーハンバートだと。もしかしたら……」

「いや、そんなことはあり得ない。旅人は少年でな。アイの父というには若すぎる」

「……ですが、なにか知っているかもしれません」

「そうだな。それを聞き出すのが君の仕事だ」

 着いた。ヨーキは窓の隙間から向こうを見つめる。すると、たしかに童話にあるような、銀髪の少年がいた。

「生者にはよくあることだが、彼もずいぶんと死者に厳しくてな、同じ生者の君ならなにか喋るかも知れない。話してみてくれ。この村をどうやって見つけたのか、なぜ来たのか、そして外の情報もな。それでただの迷い人だとわかったら、通常通り処理する」

「分かりました」

「だが、もしも、私達の手に負えないような、大きな街や国の斥候せつこうだったら、そのときはヨーキ、会議で決まったとおりにしろ。アイを連れて逃げるんだ」

「……ええ」

「では行け、しくじるなよ」


                  †


「なんだ、生きてる奴もいるじゃないか」

 男――名乗りを信じるなら人喰い玩具ハンプニーハンバート、はこちらを認めるとすぐに言った。扉すら閉まる前だった。

「……初めまして、ええと」

人喰い玩具ハンプニーハンバート。ハンプニーでいい。あんたは?」

「ヨーキと、申します。ハンプニーさん。……これは本名ですか?」

「まさか、だが最近ではこっちの方が通りがいい。聞いたことくらいあるだろう?」

「あいにく、世事には疎いもので……」

「そのようだ」

 ハンプニーが深く頷き、部屋をぐるりと見回した。どうも、やっかいな相手のようだ。こちらの何気ない言葉から、なにか情報をられている気配がする。

「いくつか、質問したいのですが、よろしいですか?」

「いいぜ、ただし、俺の質問にも答えてもらう」

「構いませんよ。では順番に行きましょうか……そちらからどうぞ」

「では遠慮なく。――あんた、ハナって女を知ってるかい? 歳は――」

 つらつらと、ハンプニーは慣れた様子で女の特徴を告げた。歳は三十から四十、茶髪黒目ではっきりした顔立ち、など。

「知りませんね。もちろんこの村にはいません」

「……なるほど。了解した」

「では、こちらからもお聞きします。――なぜ、この村に?」

「俺はいま言った女を捜してあちこち飛び回っているんだよ。この村に来たのもそうだ。言ってみれば偶然だな」

「……本当ですか?」

「おいおい、次は俺が質問する番じゃないのか? っと言いたいとこだが、まあいい、厳密にやるのは止めよう。答えてやる。 は死活問題だろうからな」

 やはり、この男は危うい。ヨーキは気を引き締める。

「正しくは、噂を聞いたからだ。天国とかいう、死者の楽園の噂をな」

「しかし、それは何年も前のもの 、場所だって違う です」

「くっくっく、話が早いな。いい態度だ。お前の言うとおり、俺が聞いたのは噂というのもおこがましい、情報の死骸だ。だから言っただろう? 偶然だと」

「……なるほど」

 窓の向こう、ヨーキしか見えない位置で聞き耳を立てていたダイゴが席を離れた。旅人は単独行動。背後関係なし。それは彼らが一番知りたかった情報だ。

 これ以上会話する必要は、じつはもうない。それは向こうも同じようだ。

「さて、実のところ俺の質問というのはさっきので全部終わっていてな、だから、こっから先は純粋な興味になるんだが。……お前達は、なんだ?」

 本当に、言葉通り興味本位な質問なのだろう。ハンプニーは先程まであった真剣な様子を投げ捨てて、にやにや笑いながら聞いてきた。

「我々は死者の相互扶助ふじよを目的とした集団です」

「ほう、誤魔化しもせずにまっすぐ言うじゃないか。生意気だ。気に入った」

 ドブネズミの毛並みでも褒めるように言う。

「なるほど、相互扶助ね。それで墓守や生者から逃れて、こんな山奥に隠れ里を作って引きこもっていると」

 正確には、墓守から逃げるためではない。そちらの対策は別にある。だがヨーキは訂正しなかった。

「そうです。我々は十三年前に結成された、死者を守る集団です」

「十三年前……か」

 苦虫を百匹もかみつぶしたような顔で、ハンプニーは言った。

 十三年前、それは世界がもっとも深い闇に染まった時代だった。後に墓守と呼ばれるようになる存在がまだ少なく、高熱と混乱のなかで人を殺して“屍者”としか呼べない存在にとす半死熱が蔓延まんえんする世界は地獄そのもので、死者と生者の境は谷よりも深く分かたれた。

「ええ。十三年前、あの時に我々は結成されたんです。死者に対する際限なき迫害から身を守り、しかし暴力に訴えず、隠れようと……」

「それはご立派。いや素晴らしい」

 ぱちぱちぱちぱち、拍手が響く。

「見事な決意だ。それから十三年も山から下りず、外部との連絡も取らなかったのか? 一度も? それはすごい。是非、これからも頑張ってくれ」

 白々しいほど軽やかな拍手はふいに止んだ。

「で? お前はなんだ」

「なんだ、とは?」

「なぜ、お前はここにいる。そしてなぜいられる。ここは死者の村なんだろう? お前だけなぜ生きている。それとも他にも生者がいるのか?」

「……いや、生きている人間は僕だけですよ。僕は死体調整士プラステイネイタなんです」

「なるほど、それは確かに必要な人材だ。で? 死者どもに攫さらわれてきたわけか」

「そんなわけないでしょう」

 どうも、彼はどうしても村人達を悪者にしたいらしい。さっきから微妙に当たりが強い。

「十三年前に僕の妻が――いえ、当時はまだ恋人でもありませんでしたが――死んで、それで、偏見から逃げるために、この場所に行き着いたんです」

「……ほう」

 不思議なことに、ハンプニーは興味を引かれたようだった。

「? なんですか」

「いや、おもしろい話を聞いたなと思ってな。――十三年前、というと、死者に対する偏見がもっとも強かった時期だ。そうだな?」

「え、ええ」

「そんな時に、お前は死体調整の技を使って、片思いの女を剥製はくせいにした」

「……なにが言いたいんですか?」

「俺はなにも言ってないよ。そうだろうヨーキ? 今の情報を出したのはお前だ。言いたいことは俺にではなく、お前にあるんじゃないか? ええ、ヨーキ」

 険悪な空気が空間を満たした。ヨーキの中で激怒と恥が混ざったものが一瞬にしてふくれあがり、火山の如くまき散らされようとした。

「……盛り上がっているところ、失礼するよ」

 そのとき、熟練のタイミングでダイゴが現れた。

「お茶だ。口にあうといいんだが……」

 彼は、わざとらしいほどにゆっくりと茶器を並べていった。その間にヨーキは大きく深呼吸し、ハンプニーは舌打ちをした。

「死者がれる茶だと? まさかオルタス産じゃないだろうな……」

「は? いえ、この村のものです。……オルタスなんかでお茶が採れるのですか?」

「……いい、さがってろ爺」

「は、……お熱いうちにどうぞ」

 去り際に、ダイゴが「分かってるな?」とでも言いたげな態度で目を合わせてきた。だがヨーキは応えなかった。

 扉が音を立てて閉まり、室内はまた二人になる。ハンプニーは茶には口を付けずに、代わりに紙巻き煙草を取り出して火を付けた。それっきり、沈黙がすべてを支配した。

「……僕は当時、死体調整士プラステイネイタの旅団にいました」

 窓の向こうで、ダイゴがぎょっとしていた。それがヨーキにはおもしろかった。まさか、落ち着かせようとした行為が逆に働くなどと、夢にも思っていなかったのだろう。それは、自分も同じだ、初対面の人間にこの話をするなんて、いまでも信じられない。そう思うと、気もそぞろに煙草を吹かすこの男に妙な親しみが湧いた。

「でも、当時の僕たちに対する偏見は強くて、みんなはいつしかちりぢりになってしまった。その時、落ち延びた村で出会ったのがアンナでした」

 いまでもはっきりと思い出せる。初めての時、彼女は太陽よりも輝いていた。

一目ひとめれでした」

「いい話じゃないか。そして二人は百歳まで生きて、幸せに暮らしました。ってわけだ」

「いいえ、そうはなりませんでした」

 思わず笑ってしまった。余裕を持ってみると彼は冗談ばかりを言っている。

「残念なことに、彼女にとって『そんな奴』はいくらでもいたんですよ」

 もしも、ハンプニーの言う通りに、アンナが百歳まで生きていたら、こんなことにはならなかっただろう。彼女は村のだれかと結ばれ、自分は唯一才能らしきものがあった技を封じて平凡に生きただろう。だがそうはならなかった。

「私が十五で、彼女が二十歳の時でした。アンナは死にました」

 原因は今に至るも分かっていない、心臓か脳に、なにがしかの内傷があったのではと言われている。「悲しみがあり、涙がありました。でも混乱はあまりありませんでした。あの村は良くも悪くも純朴で、以前の常識を色濃く残していましたから、彼女の葬儀はつつがなく行われ、その身体は焼き尽くされて埋められる予定でした」

「だがそうはならなかった」

「はい。僕が死体を盗んだからです」

 いまさら、言い訳するつもりもない。あの時のヨーキ・ハフリーは外道に落ちた。

 突然の死に嘆き、悲しみ、それでも受け入れようとしている乙女を旅団時代の隠れ家に攫って、無理矢理生かすためにその身体を剥製にしたのだ。

 彼女の恐怖はどれほどだっただろう。家族とも恋人とも遠く離されて、ほとんど話したこともない少年に身体をいじくり回されて、ただ、ひたすらに美しくなっていく自分をどう思っていたのだろう。

『あなたの好きにして』

 一通りの処理を終えた後、ヨーキは彼女に聞くようになった。『身体に関して、なにか希望はない?』と、だが彼女はいつもそう応えた。

 それは最初、諦め混じりの怒りだった。『どうせ何を言っても無駄なのでしょう?』そういう意味をこめて、彼女は言った。

 しばらくたって、その言葉は媚びに変わった。彼女は身体が腐っていく度にヨーキに捨てられるのを恐れるようになった。『あなたの好きにして』甘く腐ったささやきは、しかしヨーキが求めるものではなかった。

 愛情、のようなものが感じられるようになったのは、この村に入ってからだった。

 墓守アルファが作り上げた天国。ここに入ってようやく、二人の関係は落ち着いた。

「……あのままだったら、僕たちは遠からず崩壊したでしょう。だから、この村に入れて本当によかった。これが、僕がこの村にいる理由です」

「なるほど」

 パチパチと、先程よりは気の入った拍手が鳴る。

「ま、よかったんじゃないか? おめでとうヨーキ」

「……意外ですね。あなたにそう言われるとは思いませんでした」

「誤解されがちな男でね。よく言われる」

 やるかい? と煙草が差し出された。ヨーキは煙草をやらないのだが、この時はなぜか吸いたくなった。箱から一本抜きだし、火を貰う。

 数年ぶりに紫煙しえんは脳にしみいってずいぶんと美味かった。どうやら相当緊張していたらしい。

「なるほど大体分かった」

「質問は以上ですか?」

「いや、もう一つだけ聞きたいことがある。……いや、どうだろう。やめとくか、くだらない質問だしな」

「なんでも言って下さい」

 本心だった。ヨーキはこの不思議な男に対してなぜか、友誼ゆうぎを感じていた。質問くらいなら何だって答えてやろうと思った。

「あー、じゃあ言うが、お前ら、なんでこんな無駄なことしてんだ?」

 その質問は最初、あまりに本質を突きすぎていて、理解に及ばなかった。

「無駄って、なにがですか?」

「いや、だからさ。お前らは迫害されて逃げてきたんだろ? それでこんな山奥に隠れて暮らしているわけだ」

「え、ええ」

 人喰い玩具ハンプニーハンバートが嗤っている。ニヤニヤニヤニヤ嗤っている。

「それのどこがおかしいんですか?」

「おかしいさ。だってそんな必要、もうないんだからな」

「あなた、なにを言って……」

 血の気が引けた。彼はこの村の闇に光を当てようとしている。

「どうやら、お前らは目も耳も閉じて完璧に引きこもってたみたいだな。おいヨーキ。オルタスって知ってるか? 百万人の死者が暮らす街だ」

「はぁっ!? そんなものがあるわけ――」

「あるんだよ。もう。この世界にはな」

 二本目の煙草に火を付けて、ハンプニーは深々と吸った。

「時代が変わったんだよヨーキ。今の生者は昔ほど死者を嫌っちゃいない。当たり前だ。自分だっていずれはそうなるんだからな。現に“北”のほうには生者と死者が共存している場所もある」

「……うそだ」

 信じられなかった。と、同時に彼の言葉が真実だとも思った。人は変わる。良くも悪くも。憎むだけの関係から愛が生まれ、強固な結びつきがあっけなく崩壊する。それを、ヨーキは身をもって知っている。

「信じない! あんたは嘘をいている!」

「嘘なものか。街に出て聞いてみろよ。ちょっとした事情通ならみんな知ってる」

「そんなことができるものか!」

「なぜ? 簡単なことだろう」

「そうしてこの村の事がばれたことがあったんだ。そのときは何人もの仲間が焼かれ、村を移動するはめになった……」

「なるほど。そりゃ大変だ」

「人ごとみたいに。あなただってその斥候かも知れないんだ!」

「おいおい、そこまでいったらもうなにもできないじゃないか。落ち着けヨーキ。気を張りすぎだ。深呼吸しろよ。な? 煙草吸うか?」

 意外なほど親身な態度で、ハンプニーが身を乗り出して肩を叩いた。

「す、すみません。失礼な態度をとりました……」

「なに、気にするな。必死なんだろう。仕方ないさ」

 なぜだろう、年下のはずなのに、彼は時に老人のように落ち着いているときがある。だから、ヨーキは素直に謝ることができた。

 もっと、話をしたいと思った。聡明で、外聞を知る彼と話をして、このへい塞感そくかんから抜け出したいと思った。

「あ」

 だから、ヨーキは危うく止める所だった。

「どうした?」

 ずっと、口を付けていなかった紅茶を手にとって、ハンプニーが不思議そうに言った。

 すさまじいプレッシャーをヨーキは感じた。窓の向こうのダイゴ翁が、こちらをじっと見つめていた。

「い、いえ、なんでもありません」

「おかしな奴だな。ああ、そうだ、質問がもう一つあった」

「……なんですか」

「いやなに。そんなに閉鎖的なお前達が、迷い込んだ旅人をどうするのかと思ってな」

 ダイゴ翁が銃を抜いた。ハインツもだ。やめろ。ヨーキは叫びたかった。ダイゴにも、ハンプニーにも、叫びたかった。

「なぁ。ところで、この紅茶、毒とか入ってないよな?」

 ハンプニーは嗤う。魔的に嗤う。生と死をもてあそぶ悪魔のように嘲笑った。

 もはや衝突は不可避と思われた。ヨーキには一瞬後の戦いが見えるようだった。

「怖い顔するな。冗談だよ」

 ところが、その夢想はあっさりと消えた。

 ハンプニーはカップの毒を一息に飲んだ。

                

                †


「不思議な男だったのう……」

 ダイゴが言った。まったくもってその通りだとヨーキは思った。

「脈がありません。完全に死んでいます」

 ハインツが言った。その足下には完全に事切れた白髪の少年が転がっていた。

「なにか、隠し球があるのかと思ったが。どう思うヨーキ?」

「…………」

 椅子に座ったままヨーキは答えなかった。

「……ふむ。まあいい。いつも通り、会議で決めた通りに処理しよう。釜に火は入っているな? すぐ灰にして、川に流そう」

「…………」

「君は……まあいい。もう休んでいたまえ」

「…………」

「さぁ、立ちなさい」

 気遣う。というよりも連れ去るように、ダイゴが脇に手を入れて立たせた。だがヨーキはその手を振り払った。

「……ヨーキ?」

「…………いつまで、こんなことをつづけるんですか」

 限界だった。

「こんなこと、とは?」

「この村の、すべてですよ!」

 もう、我慢ならなかった。この村で行われるあらゆる欺瞞ぎまんが許せなかった。アイを騙していること、外の世界を頑なに認めないこと、ほんの小さな変化すら受け入れないこと。

 そしてなにより、人を殺すこと。

「昔は違ったじゃないですか! 迷い人が来ても! そのまま返した!」

「その結果は、君がさっき言ったとおりだったろう」

「だからって殺すことないでしょう! 解放して、村の場所を変えればいい! 現にあの方が生きているときはそうしていた!」

 アルファが生きていた頃は、こんなことはなかった。この村を作り出した壊れた墓守である彼女は、死者と同じだけ生者を愛して、その命を奪うことなどなかった。それが、彼女が死んで全てが変わってしまった。

「仕方なかろう。あの方は死んでしまったのだ。いまではそうやすやすと村を変える事などできない。あの子にどう説明する?」

 だからその発想こそが間違っているんだ! そう、ヨーキは叫びたかった。だができなかった。

 そのときにはすでに、六つの虚ろな瞳に、見つめられていたからだ。

「わかるだろうヨーキ。私達は危険を冒すわけにはいかないのだ」

 ダイゴが、年長者に相応しい、理知的で、優しい瞳で言った。だがヨーキは知っていた。それが凝り固まって、決して変化を受け付けない偽物だと言うことを。そう安定するように施術をしたのは、他ならぬ自分なのだから。

 彼らは、安定しすぎた。おかげでもう変化そのものを受け付けることができなくなってしまったのだ。良くも、悪くも。

 もしもそれを脅かすものが現れれば。

「わかる、だろう?」

「……ええ」

 仕方なく、ヨーキは頷いた。そうせざるをえなかった。

「帰って、休みなさい。あとは私達がやっておこう」

 敗北感を抱いて、ヨーキは部屋を抜け出した。パタン、と背後で扉が閉まる。

 また、日々が始まるのだ。

 倦怠と虚偽につつまれた、穏やかな日々が。

 ヨーキはふらふらと歩いて壁にもたれ、そのままずるずると座り込んだ。

 アンナと、暮らしていたときのことを思い出していた。二人、出口のない穴に落ち込んで、より深い闇に転がっていくだけの日々。あの時はアルファに助けて貰えた。

 だが、もうだめだ。彼女が作った天国は壊れてしまった。壊れて、別のなにかに成り下がってしまった。

 誰かに助けて貰いたかった。

 神か、天使か、あるいはこの状況を抜け出せるなら、悪魔にだって願っても良かった。

 願いは速やかに叶えられた。

 ぱん。

 それは聞き馴染んだハインツの銃声だった。

 撃ったのか。ヨーキは思った。この世界では死者が出歩く。それは無論、こちらが殺した相手にも言えることだ。村ではその対策として筋弛緩きんしかん系の毒を飲ませて動けなくするのだが、もしかすると配合が薄かったのかもしれない。

 起き上がったハンプニーとは、会いたくなかった。彼に責められたら、いつも以上につらいことになる。だから二発目が聞こえたときはむしろほっとした。

 しかし、三発目。四発目。

 五発目が聞こえたあたりで、ヨーキは安心できなくなった。

 銃声はまだ続いた。六発、七発、八発、なかには明らかに拳銃とおぼしきものもあった。

 そして、十二発目で、すべての音がしなくなった。

 微かに硝煙の臭いが漂い始めた。こつ、こつ、と、隣の部屋に一組ぶんの足音が響き始める。 

「……ダイゴ翁?」

 呼びかける。だが望んだ返事は返らなかった。

「いや、俺だ」

 彼は、あまりにあっさりと現れた。ごく普通に扉を開け、ごく普通に煙草を取り出して火を付ける。そして、ごく普通に、挨拶をした。

「よう、ヨーキ、久しぶりだな」

 そこには、確かに死んだはずの人喰い玩具ハンプニーハンバートが立っていた。

「あ、あなた、死んだはずじゃ……」

「そんなことどうでもいいだろう」

「い、いや! そんなわけには……」

「そうか? じゃあ、どうでもよくしてやるよ」

 いって、彼は真っ黒な銃口をこちらに向けた。ハインツの猟銃だった。

「どうだ? これでもまだ些細な事が気になるか?」

「あ……う……」

「さて、お前は……うーん。どうしたものかな」

 くるくると銃口を巡らせてハンプニーが唸った。それが、自分の生命のことを言っているのだと気付いて、ヨーキは戦慄せんりつした。

「……僕を殺す気か」

「いや、決めた。生かす」

 また、あっさりという。

「お前は悔やみ、恥じ、傷ついて、そしてなにより生きている。だから生かす」

「…………」

「じゃあな。懺悔ざんげなりなんなりして、勝手に苦しめ」

 銃口が外され、戸口に向けて撃たれた。銃声を聞きつけてやって来た誰かが一瞬で撃ち倒される。ハンプニーが死体をまたいで出て行く。こちらを見ることもなく。

 銃声が外へと広がっていく。誰かの悲鳴が流れてくる。ヨーキは、あまりにもなめらかに始まったそれらがこの村の最後だとはどうしても思えずに、動くことができなかった。

 やっと、何かをする気になって立ち上がり、隣の部屋に行くと、ダイゴもハインツも、大脳から脳幹まで破壊されて倒れていた。

 ヨーキは半ば無意識で、一番損傷の少ないダイゴのもとへ行き、僅かに残った脳組織をつなぎ合わせて賦活ふかつし、覚醒剤を直接投与した。その甲斐あって、ダイゴは意識を取り戻した。

「う。ヨーキか」

「なにがあったんですか」

「分からん、確かに殺したのに。弾だって何発も撃ち込んだのに効かなかった……」

 ダイゴは気丈にもすぐに立ち上がり、片方だけ残った左目で部屋の惨状を見た。

「……この村は終わりだ」

 どこか、計算式で解いた答えでも言うような調子でダイゴが言った。それは、理知的で村のまとめ役だった男の、最後の残滓ざんしだったのかもしれない。

「ヨーキ。私は皆と共に少しでも時間を稼ぐ。その間にお前は、アイを連れて逃げろ」

「そんな……」

 すべてが終わりつつあることがまだ信じられなかった。それを受け入れているのは、むしろ死者の方だった。

「会議で、決めただろう。決定にしたがえ」

「しかし!」

「行け」

 それ以上ダイゴは時間を無駄にはしなかった。小さな拳銃をひとつ持ち出すと、あとは振り返らずに駆けだした。

 ヨーキは一人、どうしようもなく取り残される。


                †


 撃って撃って撃って、撃った。殺して殺して殺して、殺した。

「~~♪」

 無意識のうちに口笛を吹きながら、人喰い玩具ハンプニーハンバートは歩いていった。闘いの場にはまったく相応しくない童謡だ。リズムに合わせて引き金を引き、屈強な死者どもをなぎ倒していく。

 こちらに襲いかかってくる若い死者を殺し、遠くから狙ってくる死者を殺し、物陰に隠れて震えている死者を殺した。

「なんで……こんな……ひどい」

 命乞いをしていた死者を殺す。

「私達は……平和に暮らしていた……だけなのに……」

 あるいはそうなのかもしれない。この村は平和で、善なる場所だったのかもしれない。そのためには僅かな迷い人の命くらい、奪ってもいいのかもしれない。

 だから結局、これは人喰い玩具ハンプニーハンバートの我がままだ。

「わるいなぁ」

 ハンプニーは嗤った。

「だが死ね」

 物乞いに駄賃でもやるように、ピンを抜いた手榴弾しゅりゅうだんを落として路地を去る。背後で爆発、閃光と爆風にコートをはためかせて、ハンプニーは嗤い、口笛を吹く。

 遠くでヒバリが鳴いている。コッコと鶏が叫んでいる。泣き嗤いの笑みを浮かべて、人喰い玩具ハンプニーハンバートが歩いてく。

 両腕を武器に換装した死者を殺した。鋼の肉体を持った死者を殺した。人形の身体を持った死者を殺した。すべてをわきまえ、命乞いも抵抗もしなかった賢い死者を殺した。

 結局、こうなるのだ。流れの閉じた水が腐るように、閉じこもった死者は同じ事を繰りかえし、やがては石ころと同じ存在になる。

 故に、己もまた死者なのだろう。そう、ハンプニーは思う。心臓が動いているだけの死者。動き続ける自動機械。永遠に回り続ける壊れた玩具。

 死者が死者を殺して歩く。口笛吹いて山村を行く。終わりを待つものは、まだまだ多い。


                †


 アンナ・ハフリーはとっくに覚悟を決めていた。

「さあみんな銃を持って! あの子のために時間を稼いで!」

 村の高台にあるアイの家には、畑に出ていた死者達が集まっていた。アンナは彼らに次々と銃を渡して送り出す。

「よぅし! ってくるぞぅ! アンナ! 後は任せた!」

「アイぢゃんによろしくな。たのむぞぅ!」

 嘆きの中で死んでいった村人たちと違って、この場にいるものは絶望してはいなかった。みな、アイのためという希望を抱えて、雄々しく戦い、果てるつもりだった。

 アンナはそんな彼らに頼もしさとともに、痛ましさを覚える。なぜならそんな風に導いたのは、間違いなく自分なのだから。

 最初は彼らも絶望していた、ついに終わりが来たのだと、天罰を与える執行者が来たのだと嘆き悲しんでいた。だがそんな彼らを叱咤しったし、促し、アイのために戦う覚悟を決めさせたのは、自分だった。

 悪いとは微塵も思っていない、アンナは母だ。あの子の母だ。まだ、たった一日の新米の親だが、だからこそその思いは強く、固い。あの子のためならどんなことでもやってやるという気概があった。

 それがたとえ、自分の命すら奪うものであったとしても。

「アンナ。喜べ」

 最後まで残っていたクロノ爺がいった。

「なに?」

「村に出してた仲間が、ヨーキを回収した。もう着くぞ」

 どっと、肩から重荷の一つが下りた。それはアンナが最も心配していた懸念だった。

 彼にはある重要な役目があった。それは村が滅びるときにアイを連れて脱出することだ。

 それが、村唯一の生者である彼に与えられた使命。この村があの子に対して働いた詐称さしょうへの、せめてもの罪滅ぼしだった。

「ヨーキ! 無事だったのね!」

「アンナ!」

 真っ青な、それこそ死人のような顔で入ってきたヨーキは、こちらを見ると泣きそうな顔で抱きついてきた。アンナも同じ気持ちで抱き返した。

「……最後の時だ。悔いのないようにな。よし! 儂らも逝くぞ!」

 クロノ爺が最後の死者達を引き連れて出て行った。部屋には二人だけが残される。

「アンナ! 良かった。本当に良かった!」

「ええ! ヨーキ! あなたも!」

 抱き締める腕が、抱き合う胸が熱かった。炎のような生者の熱がこの身を焼き、凍える心臓がぬくもりを帯びた。そのときだけは、アンナは母であることを忘れ、彼の恋人としてそこにいた。時は優しく止まり、世界には二人しかいなかった。

 初めは、憎かった。

 この身を破壊し、死の恐怖を蘇らせ、魂を侵した年下の少年が憎かった。だがやがて気付いた。

 アンナを破壊するときに、ヨーキもまた同じように破壊されていたのだ。恐るべき才能と欲望を持った化物のような彼は、しかし同時に、ごく普通の、自分を愛する少年だった。

 それに気付いてからは、もうどちらがどちらを破壊しているのか分からなかった。最初に自分を破壊したのは彼だった。だが最初に彼を犯したのは自分だった。最初に傷を付けたのは彼だった。だが最初に心をえぐったのは自分だった。

 たぶん、愛と呼べるようになったのは、ごく最近だ。

 あの穴蔵のような日々を抜けて、痛めつけ合うことだけを恋だと思っていた自分たちが、新たな安らぎを得られたのは間違いなくアルファやダイゴ、クロノやユキのおかげだった。

 だから、いいのだ。アンナは、もう。

 また、あの時が来たのだと、アンナは思った。人生で何度か訪れる転機、いままでの日々が一気に色あせて違うものに変わってしまう。そんな朝焼けの季節が。

 だから、

「行って、ヨーキ」

 アンナは、彼を放した。

「アイを連れて、街へ行って、私達のあの子を、助けてあげて」

 恋人よ。愛のすべてを捧げた人よ。アンナは彼が愛おしかった。そしてそれゆえに、もう、二人だけではいられなかった。少年ヨーキと少女アンナの閉じた愛は、世界を覆うほどに広がって、形のないものになったのだから。

 その先頭に、あの子がいた。

 だから、アンナはもうよかった。村が滅びても、この身がついえても、笑っていられた。

「そんな……」

 だが、ヨーキはまだ、そこまでたどり着いてはいないようだった。

「いやだ……そうだ! アンナも一緒に行こう!」

「だめよ。あの子を私達みたいな目に遭わせるわけにはいかないでしょ?」

 恋人時代に受けた仕打ちを、アンナは忘れてはいない。暴力、強欲、殺戮、堕落、敗北、挫折、不義、腐敗、あんなものにアイを遭わせるわけにはいかない。その原因に自分がなるなんて絶えられない。

「……ちがう、ちがうんだアンナ。もう外は変わったんだ……だから」

「なぜそんなことが言い切れるの?」

「それはハンプニーが――」

 言いかけて、ヨーキは止まった。顔には絶対にどうすることもできない、絶望があった。

「……さあ、話している時間はないわ。準備をして」

 ヨーキはノロノロと、ほうけたように言うことを聞いた。そんな夫をアンナは助けた。チョッキを着せて、荷物をそろえて背負わせてやる。いつも行っている、そんな日常の動作が、最後のものであることを噛み締めながら。

「さ、行ってヨーキ。ここでお別れよ」

「……うそだろぅ」

 まるで、たったひとり取り残された子供のように、彼は言った。

「こんな……こんなの……うそだろう?」

 なにも答えず、ただ抱きしめる。彼の作った肉体で。

「いやだ。アンナ、離れたくない。一緒に行こう、じゃなきゃ、僕も残る。君と離れてなんて、生きていけない。君は僕のすべてなんだ」

「駄目よ。駄目なのよ。ヨーキ」

「どうして!? なぜ同じ気持ちじゃないんだ!? 君は心変わりしたのか!?」

「そうじゃない。そうじゃないの」

 彼の気持ちは痛いほど分かった。自分も以前はその場所にいたのだ、その気持ちは消えたわけではない。いまだって耐えがたいほどの痛みと悲しみに引き裂かれそうだった。

 だが、アンナはもうその痛みに耐えることができた。

 生者の顔に涙が流れた、死者は生者のそれを共有した。

「あなたも、いずれ分かるわ……。私の気持ちが。だってあなたも、父なのだもの」

 親の愛。と、言葉にするなら、それはきっと陳腐なものになるだろう。だがアンナにはなによりも強い力だった。

「行って、ヨーキ。お願いよ。私を愛しているのなら、行って」

「……結局、そう言って僕を捨てるのか……」

 違う。そう言いたかった。だがもう、言えなかった。

「……分かったよ」

 そして、ヨーキはゆっくりと背中を向けて歩き出した。そこには理解の色など欠片もなく、ただ裏切られ、うち捨てられた犬のように、心を失くして彷徨うだけだった。

 それでもいいと、アンナは思った。いま大事なのはアイの安全で、そのために彼が動いてくれるのなら、恨まれても良かった。いつかきっと、誤解は晴れるのだから。

 だから、アンナの仕事はここで終わりだ。

 体中に巡っていた力みがようやく抜けて、肩の力がすっと抜けた。村人としての責務、母としての責任、それらの重責を、ようやく降ろすことができた。この時ようやく、アンナはただの矮小わいしような個人として存在することを許されたのだ。

「あ……」

 なにもかもが消えてしまって、アンナはひたすらに楽になった。母でもなく、村人でもなくなって、ただ、恋人としての彼女に戻ってしまった。そして思った。

 うらぎりもの。結局、わたしを置いていくのか。

 あべこべな気持ちが心を満たした。置いていったのはむしろ自分だという冷静な意識はそこにはなかった。アンナの中で過去と現在、そしてあり得たはずの未来が混ざり合って、感情の大波となって寄せては返した。

「……くっ」

 今すぐに、あの背中を引っ掻いてやりたかった。振り向かせてキスをして、一生鎖につないで飼ってやりたかった。

 でも、そんなことができるはずもなかった。

 だからアンナは、そっと、テーブルの上の銃を取った。

 安全装置を外し、撃鉄を起こす。人一人をたやすく殺せるその武器を、アンナはゆっくりと持ち上げて、その銃口を、愛する夫の背中に向けた。

 なぜ、自分がそんなことをしたのかを説明することは難しかった。そして、なぜそんなことで癒やしを感じたのかも、分からなかった。

 たぶん、なにか、あかしが欲しかったのだ。

 彼が自分のものだという証拠、その全存在を自分が握っているのだという確かな証しが、欲しかったのだ。

 故に、無論、アンナに引き金を引く気などなかった。彼女はただ、実感したかっただけなのだ、ヨーキ・ハフリーは、アンナ・ハフリーのものだという、そんな、実感を人差し指に引っ掛けたかっただけなのだから。

 だが、

「伏せろヨーキ」

 窓ガラスが砕け散る。ぬらりと差し出された銃口が火を噴く。まき散らされた破壊が家具を破壊し、その先にある小さな死体を吹き飛ばした。

 そして、ヨーキは見た。

 後頭部を吹き飛ばされた妻と、彼女が構える、小さな銃を。

「危なかったなぁ。おい」

 二発目の弾丸が飛来し、アンナの右手をもぎ取っていった。

 そして、その瞬間“そういうことになった”。

 アンナ・ハフリーは土壇場で全てを裏切り、夫を殺そうとした。

 それを、人喰い玩具ハンプニーハンバートは確定させてしまった。

「……まったく、これだから死者は度し難い」

 そういって、彼はまた新たな戦場に旅立っていった。どうしようもない誤解だけを残して。

「アンナ、まさか君は……」

 違う! そうアンナは叫びたかった。悔しかった。彼のなかに、自分が裏切り者として残ることが死にたくなるほど悔しかった。ちがうのだと言い訳したかった。あれは確かに愛情の一部で、度し難いほど恋心だったのだと、叫びたかった。

 だが脳の大部分を吹き飛ばされた彼女はもう言葉を発することはできず、思考もバラバラになっていまにも消え去りそうだった。

 アンナは、思いの全てを瞳に込めた。そして願った。この思いが僅かにでも伝わるように、あんな悪魔に決定づけられた“真実”ではなく、この愛がひとかけらでも伝わるように。

 そう思って、アンナは倒れた。

 


 幸福なことに、そして不幸なことに、ヨーキは彼女の思いを知った。

 言葉などいらない、ただその一瞥いちべつだけで良かった。それだけで彼は彼女の全てを知ることができた。アンナが何一つ変わらずに、自分を愛してくれていたこと。今の行動があの日の睦言むつごとの続きであること。

 すべてが、ゆっくりと流れていった。

 頭を撃たれたアンナが倒れていく。彼女の目には悔しさと悲しみが切ないほどに光っていた。

 ヨーキの瞳に涙がこぼれる。

 彼女の裏切りがなかったのだと、どうしようもなく実感できた。自分とまったく変わらない大きさの愛を知ることができた。

 だがそれも、今この瞬間に消え去ろうとしている。

 思いを伝えなければならなかった。慟哭どうこくのなかで死のうとしている彼女に、すべての誤解はなかったのだと伝えなければならなかった。

 しかしヨーキにはもう、その手段が残っていなかった。言葉では間に合わない。ならば再びの奇跡を願って瞳に込める? そんな不確かなものにゆだねる気にはなれなかった。

 だから、ヨーキは銃を抜いた。

 アンナの瞳が再び歪む。彼女はこちらの意図を十二分に理解していた。

 ヨーキは銃口をこめかみに向けた。

 一瞬後に消え去る彼女に、誤解のないこと、愛していることを伝える方法は、もうこれしか残っていなかった。

 彼女の瞳が言う。馬鹿なことは止めろと、いつもの声が聞こえるようだった。

 それが、なんだか嬉しくて、ヨーキは笑った。

 結局のところ、ヨーキは父親には成れなかったのだ。彼は、徹頭徹尾、恋人だった。

 それがこの家族の運命を決めた。

 一切の遅滞なく弾丸が放たれた。頭蓋ずがいに入り込んだ小さな鉛玉は衝撃波を発しながら柔らかい脳をぐずぐずに解かし、やがて耳の後ろを抜けて出て行った。

 そして、二人は倒れた。

 


 バカ。恋人と寄り添うように倒れながら、アンナは思った。ヨーキはバカだ、と。

 そして、自分もバカだ。

 なぜならそのとき確かに、抱いていた慟哭は消え去っていたのだから。

 ああ、この気持ちをなんと言えばいいのだろう、甘く腐れた独占欲と、噛み付きたくなるような支配欲。なんて心地よい痛み。決して愛などとは呼びたくないほど薄汚れて、けれど確かに愛の一部であるその感情をあらわす術がアンナにはなかった。ヨーキがアイではなく自分を選んでくれたという事実がたまらなく甘く、嬉しく、そして悲しい。

 時が足りなかったのだ。アンナは思う。

 自分たちはまだ、どうしようもなく恋人で、未熟過ぎる父と母だった。

 それでも、幸せだったといったら、あの子は怒るだろうか……。

 今際いまわふちで、アンナはそんなことを考える。それだけが心残りで、後悔で、そして――。

 それっきり、彼女の思考は消え去った。

 あとには奇妙な生温かさの残る死体だけが、残された。


                †


 人喰い玩具ハンプニーハンバートは語らない。

 なぜなら真実は深くにあって、この赤眼ごときに見通せはしないのだから。

 よしんばなにかを見たとして、この身にやどる言葉は浅く、真実だったなにかは瞬く間にくさって落ちる。

 だからこのときも、彼がなにかを語ることはなかった。

 村人達がなにをしていたのかも、アイの養母が、養父を撃ち殺そうとしたことも、語らない。

 なぜならそれは事実であると共に、事実ではないからだ。

 故に人喰い玩具ハンプニーハンバートは語らない。だから、


「お前はいずれ、全てに気付く」

 

 炭火に近いほど小さくなったたき火を見つめて、ハンプニーは言った。

「時間のかかることじゃない。お前が外の社会に混ざれば簡単に気付けることだ。望むと望まざるとにかかわらず、お前はすぐにあの村の悪に気づく……」

 いや、これも嘘だ。アイが気付くのはあくまで、アイなりの事実だ。

 だが、それでいいとも思っている。

「それにあの連中も、俺にだけは言ってほしくないんじゃねぇかね……」

 え? と闇の中で緑の瞳が瞬きした。

「お前に秘密がばれるにしても。俺からってのは、こくな話だ……」

 この娘は、いずれ多くの真実を手に入れるだろう。だがそれは毒の混ざった真実で、故に正しくひもくことは誰にもできない。

 だからせめて、自ら選べ、

 化物がうそぶくまがいものではなく、自らの手でつかみ出せ。

 そう、ハンプニーは思っていた。

「そう……ですね」

 アイは言った。

「きっとみんな、私に自分で気付いてほしいと、思っています」

 ハンプニーは答えた。

「そうか――じゃあがんばりな」

「はい!」

 紫煙が垂直に上っていった。闇と混ざって夜空と溶けていった。


 人喰い玩具ハンプニーハンバートは語らない。

 人喰い玩具ハンプニーハンバートは迷わない。

 たとえそれで真実が潰えても、それでいいと、思っている。

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