天と地と姫と 織田信奈の野望 外伝/春日みかげ

ファンタジア文庫

第一話 越後の毘沙門天(一)

 時は戦国。「応仁の乱」によって足利あしかが幕府の権威が失われ、日ノ本全土に群雄が割拠して覇を競いあっていた動乱の時代。

 舞台は、越後。

 豊富な海の幸と港での交易により得られる富に恵まれた大国で、かつ南北に長い。それゆえに越後では各地方の豪族国人が強い独立性を持ち、統一はままならなかった。

 北越後、いわゆる「揚北あがきた」は奥羽へ連なる。

 中越後(魚沼あたり)は関東の玄関口・上野こうずけに接する。

 南越後は、南へ進めば信濃に、また西へ進めば越中に接する。この越中を越えてさらに西進すれば加賀、越前、そしてその先に畿内があり京の都がある。

 この越後は関東ではないが、足利幕府体制下では関東管領・上杉家の管轄下にあった。

 ゆえに、関東管領・上杉家の一族が、越後の守護職を代々任じてきた。

 戦国期の東国には関東の支配者「関東管領・上杉家」と越後国主「越後守護・上杉家」が存在するが、この両家は同族なのだ。

 この越後守護・上杉家のもとで守護代(宰相)をつとめてきた一族が、長尾家。

 主従関係は、上から関東管領上杉家-越後守護上杉家-越後守護代長尾家という順になる。

 現在の守護代は、南越後の春日山城かすがやまじょうを本拠としている春日山長尾家の長尾ながお為景ためかげだった。

 長尾家はいくつかに分裂していたが、本家・春日山長尾家こそが守護代の血統であり、それ以外の長尾家は分家とされていた。

 長尾為景はすでに六十を過ぎた老将だが、同時代の東国を生きたもう一人の奸雄かんゆう甲斐かい武田たけだ信虎のぶとらを老成させたような怪物じみた荒武者で、これまで越後の覇者を目指して戦いに次ぐ戦いの日々を過ごしてきた。武田信虎同様の野心家だったが、信虎とは違い、長尾為景は甲斐源氏の嫡流といったような高貴な血筋の出身ではない。上杉家に仕える宰相の一族にすぎない。

 それだけに、長尾為景はより「下克上」の本質をしにしていた。

 自分の主君である越後守護・上杉なにがしと戦ってこれを殺し、一族を殺されたことに激怒して越後に攻め入ってきた時の関東管領・上杉某をも返り討ちにして攻め殺している。

 生涯において、二人の主君を殺したわけである。

 甲斐の武田信虎は筋目と血を重んじ、どちらかといえば目上には甘く家臣や領民といった目下の者を残虐に殺したが、長尾為景は真逆だった。筋目から言えば自分よりも目上の者であっても、自分に命令することを許さなかった。

 越後も関東も、関東公方の足利家や関東管領の上杉家が分裂して互いに争うことで衰え、乱れに乱れていた。そんな中で、越後守護と関東管領が長尾為景との戦に敗れて次々と討ち死にしたのだから、「下克上」もここにきわまり、東国はいよいよ末世のごとく混乱した。

 だが、自ら戦場で一騎がけする為景は、常に馬上で傲然ごうぜんとしていた「戦国の世は、力がすべてよ。俺に逆らうやつは、たとえ管領だろうが守護だろうがたたつぶす! 戦とは互いに命を懸けた真剣勝負、負ければ死あるのみよ!」

 為景の戦は、勝ったあとの追撃戦が厳しく、残虐そのものだった。

 かつての鎌倉時代での源平合戦に見られたような、武士の情けというものがない。

 敗走する敵兵たちを蹂躙じゅうりんし、奪い尽くし、殺し尽くすことこそが為景にとっての「勝利」。敵将が自分の主君であろうが問答無用に追いかけて討ち取り、その首を本城である春日山城の門の前にさらした。

 為景の父親は、隣国・越中で新興宗教本猫寺の門徒と豪族国人たちが起こした一揆を鎮圧しようとして出兵し、一揆衆の罠にかかって死んだ。この事件が、為景を「俺は武士らしく生きて武士らしく戦って死ぬのだ」という境地に導いたのかもしれない。

 暗殺は陰湿な印象を人々に与えるが、長尾為景は凶悪とはいえ常に「戦で雌雄を決する」という武士としての矜持きようじを持っており、常に堂々と会戦し、時にはおおいに敗れて佐渡などへ逃げ、敗北しても決してあきらめず蘇り、逆襲の機会を掴み取るや否や問答無用で主君の首を奪うその覇王ぶりには一種の凄惨な覚悟のようなものが感じられ、意外にも「暴虐の徒め」とののしる者は少なかった――。

 悪の魅力のようなものがこの異常な老将には、あった。

 とはいえ、このように主殺しを繰り返す驍将ぎようしようが、元来ばらばらの越後衆をまとめられるはずもなく、あちらを討てばこちらが反旗を翻すといった具合で、越後の戦乱はいっこうに終わらなかった。

 もともと越後人は独立の気概が強く、「統一された越後」というものを考える人間はほとんど存在していなかった。

 春には隣の城と街道でつながっていようとも、冬になればたちまち雪に閉ざされるからだろうか。

 武将は男の仕事と定められているところも、当時の日ノ本では珍しい部類といえる。

 親子兄弟によって繰り返される骨肉の家督争いに終止符を打つべく、各国の武家で広く「姫武将」の習慣が取り入れられていたからだ。武家はたとえ第一子が女であっても、その第一子に家督を継がせる、という風習である。

 越後には、この姫武将の習慣がなかった。

 それぞれが一匹狼として生きる覚悟を背負った独立の気概と、「戦は男の世界、女は無用」という一種凄惨せいさんなまでの美学とが、越後人の性質だといえる。

 この越後人の性質をつきつめて濃縮して生まれ出てきた男が、大勝利と大敗北を繰り返す主殺しの驍将・長尾為景だった。

 越後の完全制覇をもくろむ長尾為景は、自ら殺して空位になった越後守護と関東管領の座にそれぞれ上杉家の血をひくお飾りの代役を充てたが、上杉家復興を唱えて為景に反乱を起こす者は絶えず、忠誠心というものが生来薄い越後の豪族たちは叛服はんぷく常ない。

 為景が強くなれば強くなるほど、広大な越後のどこかに為景と力勝負をしたがる豪族が現れる。

 きりがなかった。


 中でも、もっとも厄介な存在が、宇佐美うさみ定満さだみつという奇妙な名字を持つ豪族だった。

 長身。常に総髪。かぶいた異相。日頃は琵琶びわじまのほとりで船を浮かべ、美女たちを侍はべらせて釣りに興じている遊び人の青年なのだが、力こそが頼みと信じている素朴な荒武者が多い越後にあって、学識のある宇佐美定満は「義」という観念にこだわっていた。

 宇佐美定満は為景ととある因縁があり、為景は「宇佐美定満は私怨しえんで自分に逆らっている」と信じていたが、宇佐美定満の行動原理はただの私怨ではなかった。

「長尾為景は強いが、あれは獣だ。あいつの頭の中には、正義ってもんがねえ。考えもなくただ戦って守護を殺し関東管領を殺し、東国をめちゃくちゃにしやがった。それでも乱れた世を立て直して収拾をつけるならいいが、あいつは腕自慢の連中と戦を繰り返すことじたいが目的だ、収拾なんぞつける気がねえ。いちばん迷惑しているのは、合戦のたびに兵糧を徴収され田畑を荒らされる民百姓だ。オレは面倒な戦は嫌いだが、捨てておけねえよ」

 とこの男なりに義憤を感じ、「面倒臭い」とぼやきながら反為景勢力を結集し、長尾為景と何度も戦ってきた。

 宇佐美定満はただの風流な教養人ではなく、軍学にもけている。

 ひたすら突撃あるのみの為景を大がかりな策にかけて敗走させ、あと少しというところまで追い詰めたこともある。

 しかしながら宇佐美家は、守護代になれる家柄ではない。

 宇佐美定満が為景を討ち取って殺してしまえば、さらに越後は乱れる。

 たとえ為景を守護代の座から引きずり下ろしても、次に出てきた守護代もまた暴君なら同じことになる。

 むしろ、為景という強大な力が存在しているからこそ、かろうじて越後は崩壊の手前で踏みとどまれているとも言えた。

 宇佐美定満は、本来ならば琵琶島で美女と酒と釣りを満喫して遊んでいられればそれでいい男だ。それが立ち上がったのは、もともとは為景との間に存在するぬぐいがたい因縁のためだった。

 しかし、彼は次第に自分自身の栄達や野望のためでなく、越後の民を戦乱という不運から救済したいという、おかしな「観念」によって動くようになっていた。

 人の世に、失われた「義」を復興させたいと、本気で願うようになっていた。

 そんな、奇妙な男だった。

「戦はやめた。為景はもういい年だ。オレは、長尾家から次の守護代にふさわしい人間を輩出させるぜ。性根ができあがっちまっている大人はもうダメだ。利発な素質を持った幼い子供に英才教育を施すのよ」

 ある時、宇佐美定満はそのような深慮遠謀を抱き、為景と和睦わぼくした。

 為景は(宇佐美の心底がわからん)といぶかしんだものの、戦で宇佐美を殺すのは難しい。見切りがよく、逃げ足が速いのだ。それに、宇佐美には妙な人望があり、蹴散らしてもすぐに味方をかき集めてきて自分に抵抗する。

しかも、欲に釣られない。「義」などという得体の知れない言葉のために戦っている。そのくせ、貴人らしいところはひとつもなく、上方の侍のように派手にかぶいている。

 かと思えば、「もう戦に疲れた」と言いだして突然すべてを放りだし、霧深い野尻湖に浮かぶ琵琶島にこもって釣りに狂うこともある。

 越後には根付いていないはずの、姫武将、などというものも育てているらしい。

 家臣にそのことを非難されると、宇佐美家は人材難だからだ、とへらへら笑っているという。

 なんとも不気味で、理解不能だった。

 為景がもっとも嫌悪している男だった。

 そしてそれゆえに為景は、和睦に応じた。

 

 そんな中、春日山長尾家の分家にあたる上田長尾家の嫡男・長尾政景まさかげという少年武将が、合戦でめきめきと軍功を重ねながら、老いた為景の次の守護代の座を狙いはじめていた。

「分家とはいえ、俺にも長尾家の血が流れている。宇佐美定満がどうあがいてもしょせん下郎の血筋の者。あいつは守護代にはなれんが、俺にはその資格がある!」

 戦国時代の人間の命は短い。

 六十を過ぎてなお現役の武将として西へ東へ兵を出し続けている長尾為景はある種の異常人だが、さしもの驍将・為景も寄る年波には勝てないはずだ。

 それに対して、上田の長尾政景は父から家督を継いだばかりで、圧倒的に若い。

 年の差こそあれ、為景と政景は、似たような性質の人間だった。

 戦場においては無類の無鉄砲さを誇り、どれほどの乱戦になろうとも死なない強運の持ち主で、勝利を確信するとともにけたたましい笑い声を発しながら逃げる兵たちを斬って斬って斬っていく、そんな残忍な武将だった。

 その意味で、政景はまるで、為景の実の孫のようだった。

 外見もよく似ている。

 全身から野心の炎を燃え上がらせるかのような、筋肉質の肉体。

 肉食獣を思わせる、太く黒い眉。

 名門の男武者らしく整った顔立ちとはうらはらに、敵を食い殺さんばかり

の鋭い眼光。

 まるで悪鬼羅刹らせつの権化だ。

 異なる点は、若い政景のほうが二回りほど小さいことと、そして年齢のみだった。

 皮肉なもので、為景の嫡男・長尾晴景は、為景にはまったく似ても似つかない惰弱な貴公子で、すでに六十を過ぎた父親に引退を勧めることもなく、春日山城の館で歌や女遊びにうつつを抜かしている。

 当然、自分の武勇を誇りあらぶっている若い野心家の政景は憤っていた。

 自分はいつも最前線に駆り出され、為景に勝利を与えているというのに、その為景の息子の晴景はといえば館にひきこもっているのだから。

 為景と政景は、戦においては肝胆相照らす仲でありながら、後継者の件を巡って何度も衝突を繰り返してきたが、ある戦の折、ついに軍議の席で衝突した。

「ジジイ! 晴景のようなうらなりに越後の守護代がつとまるか! 同じ長尾家の人間でありながら、晴景ごときが守護代の座を継ぐのは我慢できんな。あんたの次は、武勇に優れたこの俺が! 越後守護代になるべきだ!」

 と若い政景が野望を剥き出しにすれば、為景も、

「若造めが! 長尾家は、この俺が大きくしてきたのだ! 俺はな、越後一国を奪い尽くすために、守護も関東管領も討ち果たしたのだぞ! 貴様のような小僧にその度胸があるか、主を殺す覚悟が? 当然、越後は俺の国だ! 守護代の座は、この俺の息子に継がせる!」

 と譲らない。

「ほざいたな! だが、時はあんたに味方しない。俺のほうがあんたよりもずっと長く生きるからな! いずれあんたは老いる。越後最強の男はこの長尾政景だ!」

「こざかしい小僧めが。ならば、俺は百までも生きてやろう」

「後悔するなよ! 俺は、受けた屈辱は必ず晴らすぞ! たとえ何年かかってもだ!」

「どうだ政景。戦で、俺を殺せるか。俺を殺せたとして、分家の小僧に、越後の豪族どもが従うと思うか? 従うわけはあるまい」

「あんたを殺してみなければわかるまい。望むところだ、戦で決着をつけようじゃないか!」

 両雄、並び立たず。

 同じ長尾家の人間である政景と為景とが、戦場で激突することとなった。

 幾度かの合戦があった。

「これじゃオレが為景と和を結んでやった意味がねえ」と愚痴りながら両者を調停しようと奔走した宇佐美定満は、ひとたび激怒して火がついた両者の心を鎮めるのに苦心した。宇佐美は時には政景についたり為景に味方したりしつつ、「長尾家の両雄が共倒れして越後が崩壊する」という最悪の破局だけは防ごうと駆け回り、ようやく両者を和睦させることに成功した。

 が、その和睦もいつまた破れるかわからない不安定なものであった。

 為景と政景。二人が実の親子であったら、あるいは為景が武勇に長けた政景を自分の養子にして越後守護代を継がせるつもりになったら、越後は為景の代で統一されていたかもしれない。

 しかし、為景は若い頃は己の血というもの、家族や子供というものに無頓着だったが、六十を過ぎてにわかに子供に執着を感じるようになっていた。

 為景には綾という幼い娘がいて、これが晴景よりかなりできがいい子供だった。しかし、綾が優秀であろうが晴景がいくら惰弱であろうが女子に家督を継がせる習慣がない越後では、綾に家督を継がせるわけにはいかなかったのだ。

 そんな、戦に己のすべてを懸けた修羅同士が敵味方の別なく怒鳴りあい激突する殺伐とした越後に、ひとつの異変が起きた。

 場所は、為景の本城であり、春日山の地形をかして縄張りを張った天然の要塞・春日山城。

 為景の妻で、孫ほども年が違う虎御前とらごぜんが、懐妊したのだ。

 虎御前はその勝ち気な性格から「虎」と名付けられた長尾一族の娘だが、越後には姫武将というものは存在しておらず、そのような風習もなかったため、先妻を病で失った為景に嫁いでいた。

 為景も、孫ほど幼いこの新妻を「女にしておくには惜しい勇敢さよ」と気に入っていたが、まさか子供ができるとは想像もしていなかったらしい。

 ある日。

 妻を見舞うため、春日山の中腹にある虎御前の館を目指して尾根づたいの険しい道をかちで登っていた為景は、奇妙なことに気づいた。

 うさぎや熊、鳥、犬や猫のたぐい――数えきれぬほどの動物が、緑に包まれた虎御前の館の周辺に集まっているのだ。

 熊などがおとなしく他の動物とともに館をまもるかのように侍っているのは、おかしい。

 地震の前触れかなにかだろうかと為景はあやしんだが、館に害をなそうという気配もなかったし、獣ごときなにほどのことがあろうと思い、そのまま捨て置いて館に入った。

「おかえりなさい、御館おやかたさま」

 身重になった虎御前が、為景を出迎えた。

 越後には姫武将の習慣がないだけに、戦とまつりごとに関してはすべて夫が取り仕切るが、内々のことは妻に任せきりとなる。

 為景の家庭もそうだった。

 殺伐とした春日山城の中で、虎御前の館だけは、極楽浄土のような静寂さに満ちていた。

 為景は「子ができたとは、まことか」と何度も念を押した。

 虎御前はすでに大きくなった腹をでながら、「ほんとうよ」とほほえんでいる。

 母になることがうれしくてたまらないらしく、笑顔を絶やさない。

「俺はもう六十の半ばだ。いまだに精力絶倫とはいえ、度重なる戦でいつも忙しく、お前と夜をともにした日数は片手で足りるほどしかない。どうにも信じがたい」

「あたしも意外な思いだけれど、ほんとうなの」

 為景は、男女の情というものの機微がよくわからない。

 いい女は抱く、醜女しこめ には身の回りの雑用をやらせる、その程度の荒々しい感覚だけで生きてきた。

 だが、この年になって新妻として迎えた虎御前は別である。

 老いた為景にとっては孫のようなものだったし、すでに女体への欲望も枯れている。だから虎御前をなるべく生々しい「女」としては扱わずに、彼としては珍しく丁重に扱ってきたつもりだった。

 それが……。

 まさか、誰か若い男と内通したのではないか、と為景は疑った。

 それだけ虎御前に愛情のようなものを覚えているのだが、戦いに明け暮れてきた為景にはそんな自分の気持ちの揺れがわからない。

「この子を身ごもった夜に、夢を見たの」

「夢、だと?」

「そう。天界から降り立ってきた軍神・毘沙門天びしやもんてんが、あたしのお腹の中に入ってくる、そんな不思議な夢を」

 虎御前の瞳が、まぶしく輝いている。

 為景は、なにか見てはならぬ神聖な輝きを、そこに見た。

 信仰心などかけらもない為景が、ついためらってしまうかのような、そんな輝きを。

(まだ娘だと思っていたが、虎も母親になったということか。新しき命を与え、子を産む。これだけは男には、どうしても乗り越えられぬ壁よ。男の仕事は、戦い、殺し、奪い取ることだからな――)

 それにしても、毘沙門天が腹に入ったとは、なにごとだろう。

「仏典では、天竺てんじく釈迦しやか が生誕する時、母親は神が自分の腹に入ってくる夢を見たという。お前は、それほど信仰心があつかったか?」

「いいえ。仏道にはあまり興味はないわ。でもあたし、ほんとうにそういう夢を見たの」

「では、そやつが毘沙門天だとなぜわかったのか?」

「そう名乗ったからよ。あたしにはわかる。この子は、毘沙門天から大いなる力を与えられた特別な存在だということが。どうしてあたしのもとに来てくれたのかまでは、わからないけれど……きっと、この子は日ノ本に後世まで語り継がれるような、偉大な人になるわ」

「殺生に殺生を重ねてきた俺の子が、か?」

 為景は、己が悪であることを自覚している。

 そういう意味で、彼は決して愚者ではなかった。

 戦国乱世においては、主筋であろうとも無力な者は討ち滅ぼさねば自分自身が生き残れない、いわば「弱肉強食」の掟こそ乱世の定めなのだ、という覚悟を背負っている。

 地獄というものがあれば、自分は死後間違いなく地獄に落ちるだろうとも。

 そのような俺の子が、釈迦のような偉大な人間として生まれてくるものだろうか?

「フン。そんな甘い話が、あるはずはない……女子供のごとよ」

「いいえ、ほんとうよ。春日山中から生き物たちが集まって、この館を護ってくれているでしょう」

「たしかに、獣どもが館の周りに群がってはいたが」

「この子がこの世に生まれてくることを、山に生きるすべての生き物が祝福しているのよ」

「なにを言いだす。畜生に、御仏の偉大さなど理解できるか!」

「そうじゃないの。人間も動物も同じ生き物だもの。この子が何者なのか、山の生き物たちは知っているんだわ」

「親のひいき目も、そこまで来るとなにも言えんな」

 毘沙門天は、都の北方を守護すると言われている、軍神。

 自ら甲冑かつちゆうを着込んでほこを取り仏悪と戦う、あらぶる神である。

 この聖なる春日山にも毘沙門堂があり、邪鬼を踏みつけている毘沙門天の像がまつられている。

 その恐ろしげな姿からもわかるように毘沙門天はもともとは悪鬼だったが、仏に従いその守護者となってからは、夜 やしやや羅刹といった強力な鬼神どもを従えて正義のために戦う善神になったという。

 起源は、仏教誕生以前からインドで信仰されていた土着の神であったらしい。

 その「軍神」という性格から日ノ本では武家に尊ばれてきた。室町幕府を開いた足利尊氏たかうじや、その足利尊氏と戦った楠木正成くすのきまさしげもまた、この毘沙門天を信仰していた。

 だが虎御前はいたって現実主義的な少女で、神頼みよりも弓馬のほうを好むたちで、今までこのような神がかった迷信を熱心に語ることはなかった。

(母になることから来た、心境の変化というものか?)

 いずれ男子であれば、父である俺とともに戦場を血で染める宿業を背負うのだ、甘い夢など見ることはできん、おなごであれば別だが――為景は、そう言いたかった。

 だが、生まれてきた時に言えばいいことだと思い直した。

 それよりも、ほんとうに俺の子なのか、俺の子だとしてはたして健康に生まれてくるのか――俺はもう六十代半ばだ、と為景は現実に返った。

「父親があまりに年を重ねていると、子にも影響があるとも聞く。生まれてくる子に、なにかなければよいがな」

「毘沙門天の力を与えられた子だから、外見も性格も、他の子とは違うものになるかもしれないわね。釈迦だって、異相だったそうだし」

 本来ならば、越後の習わしでは虎御前から生まれてきた子を引き離して乳母に育てさせなければならないが、子供好きの虎御前はそう簡単に手放しそうになかった。

 今も、血のつながらない為景と前妻との娘・綾を、虎御前は実の子のように手元でかわいがって育てている。

(俺の妻は若年ながら学識深く、また武勇にも長けている。男であれば、立派な武将になれただろう。女は家を護るのが越後の習わしだからと戦場に立たせず、この上、思いがけずもうけた実の子供まで取り上げれば、なにをやらかすかわからん)

 六十を過ぎてなおも四方に敵を抱えて戦っている為景にとって、家庭の問題にまで関わるのは煩わしいことだった。

(奥向きのことは妻に任せておくのがよい。俺は越中に進出するのだ。越中ではわが父のかたき、本猫寺門徒どもが得体の知れぬ娘を生き神とあがめて、一揆をなし、いっこうに俺たち武士の言うことをきかぬ。土民どもが。黙って年貢を納めておればいいものを。この年になって今更生まれてくる子のことで悩む余裕などない)

 為景には、子を産み育てることを仕事とするはずの女が槍を取り戦場で戦う「姫武将」という奇習を、越後に持ち込むつもりはもうとうなかった。



 雪が降り積もり一面の銀世界となっていた春日山城で、その運命の子は生まれた。

 その日は、一月二十一日。今の暦では二月十八日だったという。

 虎御前は、涙を浮かべながら、わが子を胸に抱いていた。

「御館さま、見て。元気な女の子よ」

「……みゅう、みゅうう……」

「怖がらないで。あなたのお父上よ」

 長尾為景はしかし、虎御前が抱いているその赤子の異相に、驚きしばらくは声も出なかった。

(な、なんだ、これは?)

 これは人の子であるのだろうか?

 白い。

 肌は透き通るような雪の白さ。

 肌の下を流れる血管が透けて見えるほどに白い。

 赤子にしても、やけに大きな目。

 瞳の色は真紅。

 うっすらと頭頂に生えた髪も、白金色に輝いている。

 日ノ本の人間の子供には見えない。かといって、異国人とも違う――。

「これは、生きておるのか」

「ええ。もちろん。元気に、生きているわ」

「だが。なんという不吉な。身体に色がない。白子だ!」

 赤子は、いわゆるアルビノ――先天的に身体の色素を持たない子供だったのだ。

 この時代、白子の生き物は神の使いとして尊ばれたり、逆に不吉をもたらすものとして恐れられたりしていたが、人間の赤子ではまず見かけることがない。

 それが、よりによって越後の「主殺し」長尾為景の娘として生まれてくるとは。

「まるで化生の者ではないか。これは、長尾家の終焉を告げるものではないのか? 俺が主君を次々と殺したから、ついに長尾家に神罰が……」

「いいえ。虎千代は、あなたの子よ。そして、祝福されている」

 すでに、虎御前はこの赤子に「虎千代」という名を与えていたらしい。

 自分のお腹を痛めて産んだ初めての子よ、と虎御前は喜んでいた。

「『虎』だと? お前には見えないのかっ? こやつの目の色も肌の色も、まるで兎のようではないか! 本猫寺の教祖は代々、人でありながら猫の耳を持つ妖怪変化の類であると聞いている。こやつもまた、兎かなにかの血をひく妖怪ではないのか? つまり、俺の子ではない」

「あなたの子よ。言ったでしょう。この子は、軍神・毘沙門天から特別な力を与えられたのだもの。ただの人とは違うの。だから、異相を持って生まれてくるって」

「誰が信じるか! 俺の子が化生であるはずがない! これは宇佐美定満の子ではないのか。やつは、兎の耳を前立てに飾って道化ているからな!」

「……虎千代を信じてあげて。誰とも異なる異相に生まれついたこの子には、誰よりも多くの愛情が必要なの」

 あうー、あうー、と、兎が赤子に化けたかのような異相の子が、無邪気に笑いながら為景のほうへと小さな真っ白い手を伸ばしてきた。

 男であれば面倒だった。殺すこともあり得たが、女ならば捨て置いても問題はなかろう。だが、この異相では婚姻同盟の駒に用いることはできん、役立たずめ、と為景は生まれてきたばかりの虎千代を罵りたかった。

(畜生め! やはり俺が老いたためか。子種がすでに老いていたからか……)

 という嘆きを、為景は口にできなかった。

 なぜならばこの虎千代との対面の儀に、息子の晴景、娘の綾、さらには激戦の果てに和睦を結び今は「家臣」として自分に仕えているがまったく油断ならない長尾政景や宇佐美定満たちをずらりと引き連れていたからだ。

「……これは……父上」

 嫡男の晴景は、母親が違い年齢も離れたこの新しい妹にさして興味を抱いていないが、しかしその雪の精のような儚げな異相には少なからず驚いている。

 為景が郎党と家臣団の手前、どう振る舞えばよいか迷っていることくらいは、晴景にも察しがつく。

「虎千代のことは姉の綾に任せればよいでしょう、父上」

「ええ。わたしに任せてください!」

 利発な綾はむしろ、「わたしがこの子を守ってあげなければ」と姉としての情愛のようなものに目覚めたらしく、虎御前の手から小さな虎千代を受け取って、「わたしがおねえちゃですよー」と優しくあやしはじめた。

「きゃっ、きゃっ」

「とらちゃは、かわいいですねー。兎さんの赤ちゃんみたいですー」

「綾は、虎千代が好きなのね。ありがとうね」

「はい母上さま。とてもとても、かわいい笑顔です。とらちゃ。おねちゃと母上とで、とらちゃを大切に育ててあげまちゅからね」

「きゃふ、きゃふう」

 このような一家団欒だんらんの一幕は、為景が苦手な光景であった。

(なんという甘ったるい……! こんな子は間引いてしまえばよいのだ)

 為景はこのような席で「おうおう」とほほえむ好々爺こうこうや になるには、あまにも人を殺しすぎたし、あまりにも血の気が有り余っていた。

「へえ。虎千代か。希有けう な人相の持ち主だな、うひひ」

 殺伐とした春日山城にもこんな清らかな空気をたたえた館があったとはなあと面白がっていた宇佐美定満が、綾に抱かれてはしゃぐ虎千代の屈託のない笑顔を眺めながら、「オレに虎千代ちゃんのおもり役をやらせてくれねえか」と言いだした。

 為景は、「断る」と一蹴した。

「遊び人の貴様に、娘を預けられるか!」

「おいおい。娘と言っても、生まれたばかりだぜ?」

 何度も合戦で殺しあってきた間柄だ。いつまた、再び敵対することになるかもしれない。いくら白子の虎千代でも、為景がその養育を宇佐美に許すはずがない。

「宇佐美よ。ほんとうに俺に仕えるというのならば、貴様は武人を育てろ!女子供に兵法書を読み聞かせて、どうなるというのだ。ばかばかしい」

「為景さんよ。この子は、特別な容貌の持ち主だ。あんたが手を焼いている越中の門徒どもが教祖をありがたがるのも、教祖一族が代々持つ猫耳という異相を『神のしるし』だとありがたがっているからだぜ。なにしろ北陸は本猫寺が強い。加賀などは、守護を追い出して坊主どもが国を持っている。越後の国人たちだって、荒っぽいくせに根っこではやたらと信心深い連中さ。

北陸の国々ではいくら戦で勝っても、民や国人の心までは支配できねえ。だがこの子を『神の子』として押し頂けば、あるいは越後はひとつになれるかもしれんぜ」

「くだらん。ただの小娘をあがめるような愚かな土民など、すりつぶしてやるばかりだ! 逆らえば殺す! やつらは黙って武家に年貢を納めていればそれでいいのだッ! 宇佐美よ。貴様のような弱腰では、領土は増えぬぞ!」

「……やれやれ。あんたには、義がないな」

 越後守護代の座を狙い続けている若き驍将・長尾政景は、この間、ひたす

らに無言で虎千代を凝視していた。

「……フン……長尾虎千代、か」

 雪の精のごとき姿で生まれてきた虎千代になにがしかの感慨を抱いているのか、あるいは己の野心を遂げるための利用価値を見出したのか。

 この時点では誰にもわからないことだったし、為景はもう虎千代などどうでもよくなっていた。娘ならばすでに綾がいるし、そもそも嫁に出せないのでは政治利用できない。

 だが、若い政景は逆に、虎千代をじっと観察している。

 綾はそんな政景を不気味に思い、腕の中にいる虎千代をさらに強く抱きしめた。

 きゃっきゃっ、と虎千代が手を振って笑った。

 為景が「この不吉について誰も口外するな。虎千代の異相について漏らせば、殺す」と脅しながら一同を解散させようとしていたその時。

 ずらりと、異形の集団が現れて、館へ入ってきた。

 年を経た、大勢の僧侶たち。

 まるで天狗のような赤ら顔を持つ、修験道の行者ども。

 例の、館を護るように囲んでいた山の獣どもも混じっている。

「なんだ、貴様らは」

「拙僧らは、叡山えいざんから来たもの」

「わたしどもは、高野山こうやさんより」

「われらは、出羽でわ の山から来た」

「わたしどもはみな、春日山に輝きを見ました。偉大な王が、この春日山にお生まれになったことを知り、祝福に参りました」

 越後の偉大な王なら、ここにいる、俺だ、と為景は顔をひきつらせた。

「ああ、ああ。虎千代さま。この純白のお姿は、まさに神仏に選ばれた証し」

「われらの目に狂いはなかった。このお方は人にして、ただの人にあらず」

「末法の世の衆生を救済するべく、お生まれになったのです」

「毘沙門天に選ばれしお方。いえ、それどころか毘沙門天そのもの。毘沙門天の化身かもしれませぬ」

「人心が獣以下にまで落ちた乱世に、義の光を輝かせるお方」

 妻の虎御前がずっと以前から、この子は毘沙門天から選ばれて特別な力を与えられたと言い続けていたことを、為景は思いだしていた。

 あの噂が巡り巡って、とうとう「毘沙門天の化身」などと言いだす坊主たちまで現れたというのか。

 忌々しい。

 この連中は噂を聞いて、こうして物乞いに来たのだ。

 こんな真っ白い不気味な赤子が、救世主などであるはずがない。

 あの世にならともかく、この世に、神仏などいない。

 いれば、主殺しを二度もやってのけた俺はとっくに地獄へ落ちていなければならんではないか。

 為景はそうわめいてつばを吐きかけてやりたかったが、得体の知れない修験者はともかくも、叡山や高野山から来た高僧たちをあしざまにするわけにはいかない。

 いぶかしんでいる為景を押しのけた巨漢の青年僧兵が、虎千代を前にして叫びはじめた。

「それがしの名は正覚院豪盛しようがくいんごうせい。叡山で修行と武芸に励む僧兵にござる! ほう! これはなんともお美しいお姿。この異相は間違いなく、覚者の証し。出家なされば、釈迦牟尼むに弥勒菩薩みろくぼさつのごとき救世主となり、戦乱に苦しむ衆生を救うお方になるだろう。だが……惜しい!」

 なんと、女だったとは! と、正覚院豪盛が「すべては終わった」と言いたげに嘆いた。

「残念じゃ! 叡山は女人禁制の山、女は座主になることができんのじゃ!女人に五障あり、女人は梵天王ぼんてんおう帝釈天たいしやくてん魔王まおう転輪聖王てんりんじようおう仏陀ぶつだ のいずれにもなれぬという。比丘尼びくにの中でならば頂点を極めることはできようが、日ノ本の仏教界の頂に立つことは不可能……!」

 高野山は叡山ほど女人に厳しくはありませぬが同様です、格式ある古い宗派はいずれもそうです、惜しいことです、と高野山から来た高僧もつぶやいている。

 虎御前は「女だからというだけで、出家の道はそんなにも厳しくなるのですか」と不満げに目をいからせたが、僧侶たちは一様にうなずくばかり。

「左様。女人が悟りを開き救われるには、まず男にならねばなりませぬ。なぜなら女体はけがれているからです。それを仏の教えでは、『変成男子へんじようなんし』と呼びます。これほどのお方であれば、男になるのも不可能ではありますまい」

「女人が女人のまま救われるという教義を持ち、それどころか女人が生き神としてあがめられる宗派といえば、新興の本猫寺くらいでしょうな。あすこは、女人が教祖をつとめている」

「いやいや、あすこは新興ゆえのあさましさで、なんと、世襲。仏教の根本である禁欲を否定し、教祖が家族を持ち子を作り、その子に教祖の座を継がせている。『猫の耳』の威光でな」

「宗教者でありながら婚姻し子をなし『血』を重んじるとは、まるで貴族か武家よ。あれでは、虎千代さまの入る余地はない。むしろ、兎と猫とでは……」

「本猫寺からは、虎千代さまは悪魔の化身と呼ばれるやもしれませぬな」

「なにぶん虎千代さまの祖父は、越中での合戦中に一揆勢に殺されている。そういう、悪しき因縁があるからのう」

 だがしかし、と出羽から来た修験者が言い放った。

「おう、そうだ。武家ならば、男女の区別はさほど厳しくない。この子は、越後守護代長尾家の娘である。当世流行の姫武将となれば、天下に君臨する偉大な転輪聖王となり、必ずや日ノ本の歴史に『義』をその身をもって示し遺す、そのような偉人になられよう」

 それはいいなと宇佐美定満がつぶやいたが、姫武将は越後にはおらぬわ、

と為景が切って捨てた。

「いやいや為景さま。かつて天竺の王族の城にて釈迦牟尼が生まれた時、と

ある聖者が、この子は出家すれば衆生を救済する仏陀となり、武家を継げば

世界を支配する偉大な転輪聖王となる、と預言したという。虎千代さまは衆

生の魂を救う仏陀になられるか、それとも……」

「……姫武将となり、乱世に武威を示し戦う転輪聖王となるか」

「あるいは、釈迦牟尼とは異なる道を歩まれるのかもしれぬ。このお方はそ

のために、敢あ えて女人として生まれてこられたのかも……」

「しかし惜しい。なぜ女に。まことに、もったいない話じゃ!」

「いや豪盛。今の乱世は、言葉と教えだけでは終わらぬ。末法の果ての世よ。

自ら武器を取って義のために戦う軍神こそが、人々から求められているのか

もしれぬ」

 ええい、貴様らはもう出て行け、と為景が怒鳴り散らした。

「やくたいもない、くだらん会話を俺の前で続けるなッ! この世に、神も

仏もいないのだッ! 越後の王は釈迦でも転輪聖王でも毘沙門天でもない、

この俺だ! 白いガキがそれほど珍しいならば、好きなだけ山を探せ!」

 自分を無視して虎千代を褒め称え、あるいは「なぜ女に」と惜しがる彼ら

の態度が、自尊心が強すぎる為景には耐えられなかったのだろう。

 ことに、「姫武将となれば偉大な王になる」という預言が、気に入らな

かった。

 越後では、戦は男の仕事と決まっている。

 こんな、ほんとうに俺の子かどうかもわからない生まれぞこないの娘が、

なぜ俺よりも偉大な王になれるのだ、これだから坊主どもは役に立たぬのだ、

罵倒ばとうしたかった。

 嫡男の晴景も、(嫡子の僕を無視して、なぜ虎千代だけが偉い坊主たちに

ちやほやされるのか。真っ白いからか)とつまらなさそうにしている。

 綾はなおも虎千代を見つめている政景の視線から避けるように、「とら

ちゃ。お風呂に入れてあげまちゅからね」と虎千代を抱いて裏庭へ駆けて

いった。

 利発な虎御前は、「出家するか姫武将となるかは虎千代自身が決めること

よ。御館さま。無理強いはよしてね」と為景にすかさず釘を刺してきた。

 虎千代の人生がとほうもなく前途多難なものになることを、虎御前はよく

知っている。

 なにしろ、真っ白い姿を持って、現世に生まれてきたのだ。

 そして虎千代の父親は悪逆の限りを尽くす武人・長尾為景。

 あたしはたとえ刺し違えてでも虎千代を守る、と虎御前は死を覚悟してい

た。

 為景は、そんな幼い妻の燃えるような目に、自分に憎悪の視線を送ってく

る越中の門徒たちの目を重ねて思いだし、(これだから狂信者は厄介なの

だ)と忌々しげに舌打ちしていた。

「なあ、虎御前よ。生まれた子があのような子で、さぞかし驚き恐ろしかっ

ただろうな。安心せい、間引きはせぬ。あれは、綾とそなたに育てさせる」

 だが、絶対に姫武将にはせぬ、力こそすべての越後に軟弱な姫武将などは

不要よ、と付け加えた。

 春日山を下りる途中。

 宇佐美定満は、「なぜ女なのだ」とまだ悩んでいる正覚院豪盛のケツを蹴

り上げながら、笑っていた。

「おい坊主。叡山ももう時代遅れだな。一休宗純いつきゆうそうじゆんいわく、『女をばのり

御蔵みくら うぞ に、釈迦もだるまもひょいひょいと生む』、って言うじゃ

ねえか」

「ぶ、無礼な。このかぶき者が!」

「ほう。なにが無礼だ。あんたら、毎晩お稚児さんのケツを掘ってるんだろ

う? 人の肌を求めねえ人間など、いるわけねえ。女を断つから稚児なんぞ

必要になるのよ。無理すんなよ」

「だ、黙れッ! わしにはそのような汚れた稚児趣味などないっ!」

「じゃあ、身体のほてりをどうやって発散するんだい。その巨体じゃ毎晩力

が有り余ってたまらんだろう」

「武芸だっ! きええええええっ!」

「いや、そこは修行して悟れよ? お前さん、坊主だろ?」

「身体を動かさねば目が冴えて眠れん! 伝教大師でんぎようだいし最澄さいちようさま以来、われ

ら天台の僧は叡山にこもって童貞を守り数百年! 女人へのあさましき欲を

すべて武の道に注ぎ込み続けている叡山は! 日ノ本最強の僧兵軍団であ

るっ!」

 いろいろこじらせてるな、こいつは、と宇佐美定満は思った。

 禁欲を美徳とする昔ながらの宗教ってのは厄介だ、普通に考えりゃすぐわ

かるが禁欲ってのはたいていの人間にとっては無理がある、だからこそ当世

流行りの衆生仏教ってやつは親鸞しんらん以来女も酒も妻帯もなんでもありだっての

によ、まあそれはそれで俗世と容易に結びつき、すぐに武器を持って集まっ

て一揆をやるから面倒なわけだが、さて――。

(猫と兎とでは合わないってぇのは本猫寺の門徒じゃねえ俺には理解しがた

い話だが、だとすれば俺が想像していたよりも虎千代は苦労することになる

な。雪深い北陸の民はえらく信仰心が強い。昔から本猫寺の門徒だらけで、

容易には武家にまつろわねえ。為景のように武力一辺倒では、どうやったっ

て治められねえ)

 それに、女は叡山の頂点に立てねえってのなら虎千代をあまりこいつら宗

教者に近づけてかぶれさせないほうがいい。あの出羽から来た修験者が言っ

ていたように、いっそあの子を神の異相を武器とするまばゆいまでの「姫武

将」に育てよう、と定満は決めた。

(そうだよ。そもそも釈迦が出家なんぞせずに素直に転輪聖王になってい

りゃあ、今頃乱世なんぞなかったかもしれねえじゃねえかよ)

 戦ってやつは腹が減るし人が死ぬし面倒だが、義人といえど戦わなければ

人に義を知らしめることもできない、誰が誰を殺すかもしれねえ今の乱世

じゃあ、と定満は苦笑した。

 しょせん人間は言葉では悟れねえ、行動で示すことしかできない、と現実

主義者の定満は思っている。

 ただ、虎千代を見てからなかなか口を開こうとしない野心家・長尾政景の

態度だけが、宇佐美定満にもどうも不気味だった。

(政景は武勇抜群の豪傑だが、まだガキだ。戦に夢中で、女も知らないらし

いしな。妙なことにならなければいいんだが……)



 雪どけの季節が、春日山城に何度か巡ってきて――。

 純白の娘・虎千代は、現代で言えば幼稚園児ほどの年齢まで育った。

 母の虎御前と、年が近い姉の綾とに愛されて、幼少期を過ごしたといえる。

 ただ、父の長尾為景は、相変わらず合戦に明け暮れてほとんど館には顔を

出さなかった。うかつに虎千代に深入りするのを避けていたようだった。虎

御前と綾に噛みつかれるのが面倒だったのだろう。

 なので、虎千代は、為景にはなつかなかった。

 また、嫡男で兄の晴景とも、疎遠だった。

 晴景は恐ろしい父である為景の合戦につきあわされる一方、兵が田畑に

戻った季節には趣味の風流道楽のほうで忙しく、真っ白い妹にかまっている

暇がなかった。

 虎千代は生まれつき身体が小さく、なかなか大きくならなかったが、さら

には身体そのものが弱かった――というよりも、日光に弱かった。

 肌や瞳に、色がないためだろう。

 まぶしい日光を恐れたし、雪が積もった山を歩くことも恐れた。

 虎千代は、目があまりよくなく、ことに光が苦手なのだ。

「ちゅっ? まぶしくて、みえないでちゅ」

「とらちゃ? とらちゃ、だいじょうぶ?」

 綾が白銀の山に散歩に連れ出すと、虎千代はいつも目を小さな手で覆って、

その場にうずくまってしまった。一面に降り積もった雪が照り返してくる光

がまぶしくて前が見えなくなり、こけてしまう。

 雪の中を歩いているうちに、白い肌が赤く腫れることもあった。

「……いたいでちゅ……ひりひりでちゅ」

「とらちゃ、ごめんね。おねちゃが、お外を歩かせすぎたね」

 薬師くすし から「日の光が、虎千代さまのお肌と瞳にとっては、毒に

なります」と伝えられてからは、虎御前と綾も、虎千代を長時間日光にさらさないように気を配らねばならなくなった。

 なので、夜の時間に月を眺めながら綾と二人で春日山の山道を散歩するの

が、虎千代の日課になっていった。

 夜の春日山は、静寂と深い闇が支配している。

 人はみな寝静まっている。

 太陽の輝きを、見ることはできない。

 そんなことをすれば、肌と瞳が焼き切れてしまう。

 てつくように冷たい月の光だけが、虎千代には、許されている。

 日中、外に出て遊ぶことができないので、同年代の友達もできない。

 自然、虎千代は物思いにふけりがちなわらべになった。

 同年代の子供に比べて、身体は二回りほど小さい。

 時折館を訪れる家臣たちや家族たちは、まるで兎の子供が童の姿になった

かのような虎千代に、愛らしさとある種の奇怪さとがあいまった複雑な感情

を覚えるらしい。

 みな、この人なのか雪の精なのかわからない虎千代という不可思議な童に、

どう接していいのか迷うようだった。

 とりわけ、父である長尾為景が、虎千代の扱いに困っていた。

 その上、虎千代の精神は、異常なほどに繊細だった。

 他人の抱く善意や悪意といった「感情」に、妙に鋭く反応する。

 視覚が弱いぶん、感受性が鋭敏なのかもしれなかった。

 夜の散歩の途中、虎千代はよく目をうるませた。

「とらちゃは……おとうちゃに、きらわれてるでちゅ? よわよわで、夜に

ならないとお外に出られないから……」

 姉の綾は、そんな虎千代の小さな手をひきながら、

「ごめんね、とらちゃ。でも、いっぱいご飯を食べて大きくなれば、きっと

お昼間にもお外に出られるようになるよ!」

 と、けなげに妹を励まし続けた。

 虎千代は生まれつき胃が弱く、食も細い。

 とりわけ、鶏やいのししの肉が食卓に出ると「どうぶつさんをたべ

るのは、かわいそうでちゅ」と泣きだすくらいに、肉を食べるのが苦手だった。

 料理人が鶏をさばいているところを見て以来、感受性の強い虎千代は動物

を食べられなくなったらしい。

 その上、現代で言うところのアレルギー体質というものも持っていて、た

とえば大豆を食べると「かゆいでちゅ、おえええ。うええええ」と吐いてし

まう。重度の大豆アレルギーだった。これは当時の薬師には原因がわからず、

「わがままで好き嫌いをさせてはなりません」と何度も問題の食材を食べさ

せ、しかしそのたびに吐いて震えている虎千代にさじを投げ、「これは強情

やわがままではござらん、ある種の病でしょう。治し方はわかりませぬ。お

吐きになる食べ物は避けたほうがよいでしょう」と折れざるをえなくなる始

末だった。

 虎千代はともかくも手のかかる童だったが、虎御前と綾は、これほど様々

な問題を生まれながらに持っていながらけんめいに生きようとする虎千代が

時折家族の愛情に反応して浮かべる笑顔に、家族愛をさらに超えたある種の

神性に対する感動のようなものを見てやまなかった。

 だが、虎千代の時間の大半は、「自分は人とは違う」という悲しみととも

にあった。

 その夜も月を眺めながら、虎千代はつぶやいていた。

「おねちゃ。とらちゃは、シラコだからお嫁にいけないでちゅ?」

「誰がそんなことを言ったの? とらちゃは、お嫁にいけるよ。ご飯を食べ

て大きくなれば。だいじょうぶ」

「……でも……とらちゃ、おとこのひと、苦手でちゅ……おとこのひとは、

怖いでちゅ。血なまぐさくて、まるで獣みたいで……」

 父・為景のあの戦場で鍛え上げられた巨体と殺伐とした表情を、虎千代は

苦手にしていた。

 為景が自分によい感情を抱いていないことがわかってしまうだけに、つら

い。

「とらちゃががんばれば、いつか、かわいい赤ちゃんも産めるよ」

 綾は虎千代の背中を でて応援するが、

「そんなの……こわいでちゅ」

 赤ちゃんはほしいけど、「チチオヤ」はこわいでちゅ、「チチオヤ」がい

ないと女の子は赤ちゃんを産めないそうでちゅ、でも「チチオヤ」はこわい

こわいでちゅ……。

 為景から粗略に扱われている虎千代にとって、大人の男性は、恐怖の対象

でしかなかった。

 戦場に出たことはないが、戦場から城へ戻ってきた男武者たちが発する

生々しい「血」の臭いをかいで震え上がったことは何度もある。

 台所で料理人にさばかれている鶏も、血を流していた。

 戦場で、男たちは、あれと同じことを人間にやるのだ。

「……こわいでちゅ。おねちゃ。とらちゃを、捨てないで」

「だいじょうぶ。ずっと一緒だよ!」

「おねちゃは、怖い『チチオヤ』に痛いことされないでちゅ?」

「おねちゃはここにいるから。とらちゃが大人になるまでは、お嫁にもいか

ない。なにも心配しないでいいの、とらちゃ!」

 綾は、虎千代に誓った。

 約束してくれた。

 だがこれは、虎千代が大人になった暁には、綾は為景の意向で誰かのもと

に嫁ぐかもしれない、ということをも意味する。

 為景にとって、娘は政略の道具である。

 いずれ、越後の有力な豪族に自分を嫁がせて越後統一を推し進めるくらい

のことはやるに違いない、と綾も覚悟していた。

「でも、おねちゃには、とらちゃのほうがだいじだから。おねちゃがとら

ちゃを守るよ!」

「……やさしいでちゅ、おねちゃは」

 綾にすがるように抱きつきながら、虎千代はふるふると震えた。

 いつか、おねちゃと離ればなれになってしまうのだろうか。

 そのうち血なまぐさい獣のようなおとちゃがやってきて、おねちゃは怖い

「チチオヤ」のもとへ連れ去られてしまうのだろうか。

 おねちゃが好きになった人ではなく、おとうちゃが家の都合で決めた相手

のもとへ。好きでもないチチオヤの赤ちゃんを産まされるのだろうか。

 そんなのは嫌だ!

 もしかしてとらちゃが大人にならなければ、ずっとおねちゃと一緒にいら

れるでちゅか、と幼い虎千代はけんめいに知恵を絞って考えた。

 だが、すぐに、それではとらちゃを育ててくれているおねちゃを裏切るこ

とになるでちゅと気づいて、自分で自分を叱りつけた。

(早く大人にならないといけないでちゅ。おねちゃを「チチオヤ」に られ

る前に大人になって、とらちゃがおねちゃを守るんでちゅ)

 虎千代は、(そうでちゅ。じぶんのことよりも、おねちゃがだいじでちゅ。

とらちゃがこうして幸せでいられるのも、おかちゃとおねちゃに大切にして

もらっているからでちゅ。とらちゃは、ワガママ勝手な子になってはいけな

いんでちゅ)と、心の中でつぶやくのだった。

 長尾虎千代――後に「越後の龍」上杉謙信となる運命の少女は、荒々しい

男たちの影におびえながら、薄暗い月明かりの夜のもとに育てられたのだった。

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