第十二話 真田忍群(後)

「どうしてわたしが本命の丑寅うしとら担当じゃないわけ? あの顎長の蜘蛛くも男! まあいいわ、誰でもいいから出てきなさいよ! もう気づいているんでしょう?」

 山道を滑り降りるように西のとりでの方角へと向かっていた根津甚八は、背後から空気を焼き切るような金属音が迫っていることを察知して、すばやく横へと跳躍した。そのまま岩から岩を渡り、森の中へと飛び込み、枝から枝を伝って宙を飛んでいく。

「ふんっ。この山の中で、芸のない種子島たねがしまなんて当たらないのよ! って、なによこれっ? 追ってくる!?」

 根津甚八は「なによこの弾丸!? 木々を避けるように曲がりくねって、わたしを追尾してくる!」と叫んでいた。

「遠当ての術!?」

 それじゃあ、種子島を放った者は筧十蔵! と気づいた。

「まずい! 十蔵が待ち伏せしていたなんて! あたしとは相性最悪の相手じゃないのよ、蜘蛛男!」

 振り切らねばならない。わたしの身体以外の的に、この追尾してくる弾丸を当てなければ。森の主とも言える大木の幹の周辺をらせん状に回転移動しながら、根津甚八はけんめいに逃げた。逃げながら、峠の頂上に放置されていた古代の磐座いわくらの隙間へと飛び込んでいた。弾丸が、磐座の側面に命中して、

穴を穿うがつ。岩を貫く寸前で、弾丸はかろうじて止まった。

 やらかした! 磐座へと追い込まれた。ここは四方から丸見えだわ。うかつにこの磐座から飛びだせない、と根津甚八は舌打ちしていた。

「そうねえ甚八。あんたは水蜘蛛使い。陸の上では、並の忍び。種子島使いのこの十蔵とは、ほんとうに相性最悪よね」

 向かいの一本杉の頂上で、小柄な筧十蔵が自分の身長ほどもある種子島を構えているのが、見えた。

「はあ? なに、あたしを呼び捨てにしているのよ。『さん』をつけろっての、デコ娘が! 甚八さん、だろうが!」

「あーもう! 姉貴風を吹かせるの、やめてくれる!? 砥石崩れでは一杯食わされたけれど、今宵こよいあんたを撃てば一勝一敗!」

 十蔵の「遠当て」の術の力も無限には続かない、時間と距離とを稼がれればいずれ弾丸は操れなくなる。でも、その磐座にいる限り、あんたに逃げ場はないわ、と十蔵は笑った。

「自分を戸隠に放り込んだ父親を恨んでいたヒネガキだったくせに、結局真田の犬になりさがってるだなんて、やっぱりガキはガキね!」

「十蔵は、真田も武田もどうでもいいのっ! こちとら、砥石崩れであんたに見事にしてやられて、もう意地なのっ!」

「ああそう! それで、水の手のない山中にあたしを引きずり込んだってわけ? せっこいやり方もあったものだわ!」

「そっちこそ加藤段蔵ごときの犬になってるじゃない甚八。武田晴信に復讐ふくしゆうするのなら、一人でやればいいのに。あんな血色の悪い幽霊みたいな男におとりとして使われて、恥ずかしくないの~?」

「うっさい! ちょっとばかり『ご神体』に選ばれたからって、姉貴分のあたしを倒せると思ったら大間違いよ! このチビガキっ!」

「あー。そういうこと言うんだ。十蔵はもう怒った。許してください十蔵さま、って土下座して謝ったら、見逃してあげようと思っていたのにな。ぷんぷん。撃っちゃおうっと。ばーん!」

 筧十蔵が身につけた「遠当ての術」は、本来、手裏剣や小刀、石礫いしつぶて、矢などと複合して用いる力であった。

 自ら放った矢や手裏剣の軌道をねじ曲げ、推進力を増幅し、逃げる目標に強引に当てて負傷・絶命させるという、いわば一撃必殺必中の術。

 ある程度の距離または時間を稼がれると「力」が無効化されることや、一発ずつしか放てないといった欠点はあったが、このように目標が視界が開いた場所にいる場合、逃すことはない。

 その「力」を、十蔵は南蛮渡来の種子島と組み合わせて使うのである。

 手裏剣や矢とは、速度が違った。

 むろん、高速で飛ぶ弾丸を操る難事は、並大抵の集中力では行えない。

 十蔵とて、一度の戦闘で「遠当て」の弾丸を放つ回数は、限られている。

(さっきので一発目。これが二発目。ここいらが十蔵の限界のはず。いくらでも連射できるなら、砥石崩れの際に才蔵か蜘蛛男のどちらかに遠当ての弾丸を放っていたはずだもの。あの時は手練てだれが二人同時に現れたので、撃ち惜しみしたんだわ。一度に一発しか遠当てを放てない十蔵は対複数戦では不利だけれど、一対一ならほとんど無敵と言っていい……ガキのくせに調子に乗るはずだわ。そして今が、その一対一!)

 二発目は、すでに放たれている。

 根津甚八は、磐座の隙間から弾丸が自分の頭めがけて飛んでくる未来を予感した。

「ちっ! させるかっ!」

「おっ!?」

 十蔵が、声をあげていた。

 磐座内部から、甚八の気配が瞬時にして消えていたからである。

「なにそれっ? 穴でも掘ったの? そっか。磐座は地下祭壇への入り口だったのね? それとも墓でも埋まっているのっ?」

 しかし甚八の「気」は消えてはいない。磐座の真下に開いた地下空間へと逃げている!

 弾丸は、甚八の肉体が放つ「気」を追って半自動的に追尾しているはずだが、目的を肉眼によって視認していなければ、正確に急所へ当てることは難しい。

「まずいわ! 地下はここからでは見えない上に、これ以上距離を取られると、逃げ切られちゃう! 面倒な姉貴分だわ、おとなしく倒されなさいよっ!」

 十蔵は種子島を背中に背負いながら、一本杉の頂上から一気に磐座へと飛んだ。

「やっぱり! 地下に続く穴! 逃がさないんだから!」

 地下の闇の中であろうが、十蔵には見える。

 地下道を駆けているであろう甚八の背中を捉えれば、弾丸の軌道を直接ねじ曲げて、確実に仕留められる!

 十蔵が穴の奥をのぞき込もうと、穴へ接近すると――。

「捕まえたっ!」

 いきなり穴の中から腕が伸びてきて、十蔵は引き込まれていた。

「……ごぼっ……み、水っ!?」

「残念だったわねデコチビ! この磐座は、地下水脈とつながっていたのよ! 今では打ち捨てられているけれど、古代の井戸だったんだわ!」

 弾丸は、水中では距離が稼げない。

 水圧に阻まれて、推進力を奪われてしまう。

 地下水脈へと飛び込むことで、すでに二発目の弾丸を、甚八は逃げ切っていたらしい。

「……ごぼっ……! ぐ、ぐ、偶然よ……こんな……」

「偶然じゃないわよ! あのいけすかない蜘蛛男は、この砥石城の山そのものが九頭龍の背中の『要』だとかなんだとか、意味わかんないことをぶつぶつとつぶやいていたもの! 気持ち悪かったけれど、あいつの言葉を読唇したのよ! 戸隠も砥石も、天津神とも国津神とも違う、古い古い土着の神――九頭龍をまつる古代の霊場だったってわけ! ならば信濃の先住民が築いた磐座が地下水脈に連なっていてもおかしくはないわよね!」

「地龍と水龍は別物のはずじゃないっ! ごぼ、がぼっ!」

「やっぱりガキねえ! 地龍は山と大地の神であると同時に、地上に流れる水、すなわち川と湖と地下水脈の神でもあるの! 水龍とは、海龍のことよ! もうこんな講義はどうでもいいから、姉貴分に降参しなさい十蔵! さもなくば命を取るわよ! わたしは、水中ならばいくらでも活動できるんだから!」

「……ふん……! 水蜘蛛の術だって、無限には使い続けられないはず……! 逃げ切ってやるんだから……!」

 肺の中の酸素が減っていく中、十蔵は自爆も覚悟で三発目の「遠当ての術」を、用いた。

 すでに水中である。種子島はれて、弾丸は使えない。

 その上、背後から甚八に腕と足を絡められて羽交い締めにされている。

 水圧を受けにくい形状の鋭い棒手裏剣を、懐から取り出して放り投げていた。

「なにやってんの? そっちはあさっての方角よ、どこに投げてんのよっ!」

「あんたのこめかみめがけて投げたのっ! ほら、くるりと回転してあんたの頭めがけてすっ飛んでくるわ!」

「……嘘っ? 速度が落ちないっ!? まさか遠当てっ!? もう、力は残っていないはず! 十蔵あんた、あたしを道連れに死ぬつもりっ!?」

「姉貴面吹かせる半裸女ごときに溺死させられるよりマシでしょっ! 十蔵はもう一人前の忍びなんだからっ!」

「半裸女言うなっ! 趣味で露出してるんじゃないっての!」


 山の東へ走った霧隠才蔵と海野六郎は、深い森の中で「双子」と遭遇していた。

 真田信綱と、真田昌輝。

 肌の色が、異様に白い。

 前方に、一人。

 後方に、一人。

 自分たちが完全に挟撃されていることに気づいた才蔵は、霧を呼びながら(どちらだ。どちらかは影だ)と碧眼へきがんに「気」を集中しながら二人を見比べた。だが、わからない。

「完璧なまでの分身の術だ。本体はどちらだ」

 違う! まるで分身の術のようじゃが、「双子」じゃぞ才蔵、と才蔵の背中を守っていた海野六郎が声を発していた。

「真田の『双子』か! 承知した海野。だが、いつわれらの背後を取った!?」

「こやつらは、以心伝心の術を用いる。別々の場所にいながらにして、お互いの言葉を飛ばし合っておるのじゃ。片方がわれらを見つければ、もう片方は即座に背後を取れる」

「目が四つあるようなものか」

「いーや。頭が一つで、身体だけが二つあるようなものじゃ。こちらは南蛮娘と信州のやんごとなき姫との二人組。息が合わぬ。ちと不利じゃな」

「だが、双子の体術は並の忍びなのだろう? 接近戦に持ち込めばわれらのほうが上だ。ゆえに、視界を霧でふさぐ」

「体術ならば、わらわも得意じゃぞ。琉球唐手の使い手じゃからの、にょほほ」

「そのようなもの、山国の姫がどこで覚えたのだ?」

「にょ、ほ、ほ。なにごとも生き延びるためじゃ。日ノ本に伝わる体術よりも、未知の体術のほうが実戦ではずっと有利じゃからの。特に、一見いちげんさん相手ではの。殺してしまえば術の体系がバレることもないわ。それよりも仏蘭西ふらんす娘。そちのほうこそ、霧隠の術以外にも得意技はあるのであろうな」

「元来、私はクレイモアが得意なのだが、忍び働きにはあの大剣は向いていない。ゆえに、エストックを使う」

 鎖帷子かたびらの狭い隙間をも貫通する刺突用の剣だ。こいつならば鎖帷子を着込んだ忍び相手でも有効だ、と才蔵は無表情のままに腰の剣を抜いていた。

「ほほ。日本刀とも忍者刀とも違うのう。よいの。まさしく初見殺しじゃの。さあ『双子』よ、かかってくるがよい。ほうれほうれ、どんどん霧が深くなってくる。もちっと接近せねば、われらを倒すことはできぬぞ」

 霧隠の術は、陰形おんぎようの術でもある。

 これ以上、霧が深くなれば、逃げられてしまう。

 前後から挟撃している今の絶対的有利な体勢を崩されれば、特異な「初見殺し」の体術を持ち得ない双子は、一転、不利となる。

 そのはずであった。

 しかし、「頭脳と意思が一つで、身体が二つ」という利点は、二対二という状況下でこそ、最大限に有効となるのだ。

 双子が、うなずき合った。

「姉者」

「おう」

 双子が、前後から同時に突進してきた。

 その動きは、完全に同期していた。まるでひとつの意思によって動いているかのようだった。

「げっ? 速ッ!?」

 ドンッ!

 海野六郎は、かろうじて「姉」が繰り出してきた初弾の蹴りを前腕でさばいた。が、その「姉」の足の爪先に、刃物が仕込まれていた。霧で覆われた視界の中、かろうじて気づいた六郎は「にょわっ」と後退しながら、高価な振り袖を切り裂かれていた。

 その背後では、エストックの軌道を外された才蔵が「なぜだ? 当たらない!?」と声をあげながら、「妹」が振りかざしてくる忍者刀を避けようとした。その瞬間、六郎の背中に才蔵の背中が当たっていた。

 かろうじて首をらした才蔵は、前髪を斬られていた。

「にょほっ!? 才蔵、わらわは後退するぞえ! 邪魔じゃ!」

「そちらこそ邪魔だ」

「ええい、そちがわらわの背中を塞いでおると、唐手技の邪魔になるのじゃっ」

「私は、唐手の技など知らん」

 才蔵と六郎の動きが互いに干渉し合うように、「双子」は絶妙の立ち位置に同時に移動しながら、連携攻撃を繰り出してくる。

 言葉を発さねば互いの意思の伝達はできぬ、それがこやつらの以心伝心の術のはずじゃ! と六郎がぼやくが、才蔵は「この二人の呼吸の合い方は、術だけではないな。長年寝食をともにしてきた双子ゆえに、目と目を交わすだけで互いの考えがある程度通じるのだ」と見切っていた。

「まずいぞ! 二対二では、とてつもなく厄介な相手だ! むしろ一対二で戦ったほうが勝機がある!」

 そのことに才蔵が気づいた時にはすでに、才蔵と六郎は双子の接近を許し、間合いを詰められていた――そして、逃げ場はない。互いに相方が邪魔になって、背後に飛ぶことができなかった。

「六郎! 出し惜しみしている場合か。ギダンの術を用いよ! 戦場では最強ではなかったのか!?」

「じゃが、相手は二人。同時には攻撃できぬ。片割れをわらわが倒した時には、もう一人がうぬを襲うか、あるいはわれの背後を奪うであろう。いずれを攻撃せよというのじゃ!?」

「違う! ギダンの術を用いて逃げろっ! この挟撃から抜けて、丑寅へ迎え! 一対二ならば、私にも勝機がある!」

「わらわは高貴なる名門・海野家の姫であるぞ! たとえ南蛮人の忍びとはいえ、相方を置き捨てにはできぬのじゃ!」

「いいから行け! この双子は明らかに囮だ。地雷火を持っている者はおそらく猿飛佐助だ! カトーだけでは防ぎ切れぬかもしれない! 早く地雷火を発見して、奪い取れ!」

「このような異国の地で相方を逃がそうとは、そちはなかなか見上げた忍びじゃな仏蘭西娘よ」

「貴様が邪魔なだけだ、このままでは共倒れだぞ。さっさとね!」

 無愛想で意地っ張りじゃがかわいい娘じゃ。佐助がえらく気に入ったのもわかる気がするの。にょ、ほ、ほと笑いながら、海野六郎は体内の「気」を解き放って、ギダンの術を用いていた――。

 瞬時に、双子の挟撃網から、六郎の身体がすり抜けていた。

 双子の目は、ただちに六郎が「移動」した先を、追尾している。

「姉者! あちらだ! しかし鳶ノ術や猿飛の術とは違う! 瞬時に、地を駆けたのだ!」

「ギダンの術とは、加速の術か! 目にも留まらぬ速さで、駆ける術!」

 はあはあはあ。「気」の消耗が大きすぎる術でな。あまり使えぬ。もう疲れたのじゃ、と愚痴をこぼしながら、六郎は「丑寅」の方角をめがけて跳躍していた――。

「追わせぬ。私が相手をする。自在に動く空間さえ確保すれば、ヨーロッパの剣術も有効な武術となる。双子は、二人そろっていてこそ、双子なのだ。ならば、ここで私が倒れてもいずれか一人を倒せば、それはわれら戸隠忍群の勝ちに等しい」

 いかなるよろいや鎖帷子をも貫通する、一撃刺殺の剣。

 エストックを両腕で構えた才蔵が、自分の背中を「姉」の面前に無防備に晒さらし、「妹」の正面へと突進していた。

「姉者」

「……妹よ」

 妹を見捨てることのできない姉と、姉のために踏みとどまりわが攻撃を受けようとする妹。双子の意思に齟齬そごが生じたはずだった。

 ほんのわずかながらに隙ができた、と才蔵は確信していた。

 双子の動きが、ついに、同期を失って乱れるはずだった。

 挟撃を突破できる好機を、才蔵はつかんだ。

 あるいは片腕ぐらいは犠牲にしなければならないかもしれないが、「妹」が必殺のエストックを避けようとするまさにその時こそ、絶体絶命の窮地を才蔵が突破する最初で最後の機会だった。

(姉妹の情を利用せねばならぬか。忍び稼業とは、アサシンのごとき非情の稼業だな)

 才蔵はしかし、「双子」の以心伝心の術の神髄を、まだ知らなかった。

「妹」が、動かない。

 エストックの刺突を、受けるつもりなのだ。

(私の身体の軌道を固定するためにだっ! 自分を盾にして、私を「姉」に殺させるつもりなのだ! しまった!)

「姉」が忍者刀を振り下ろしてくる気配を、才蔵は、すぐ背後に感じていた。


「フフフ。俺には見えるぞ。砥石城における地龍の――九頭龍の『要』は『丑寅』の方角にあり。『砥石』は一名を『戸石』とも書き記す。『戸』こそは、人間の世界と神々の世界とを結びつける『要』の場所を示す名なのだ。戸隠と砥石はすなわち、いずれも天岩戸の古事にまつわる伝承の地。九頭龍の背中の急所よ。そして猿飛佐助、やはり地雷火を運ぶ本命は真田忍群最強の貴様であったな!」

 砥石城の東北側に位置する山麓さんろく――木々と岩とに覆われた急斜面を、加藤段蔵は平地を走るかの如き勢いで駆けた。その視線の先には、地雷火を抱えた猿飛佐助が身体を四十度ほども傾けながら走っている。

「おっ、鳶加藤どのでござるか! 厄介なのが出てきたでござるよ、にんにん。才蔵どのはいかがいたしているでござるか?」

「捨て石に用いた。知らぬ。おおかた、双子と戦っているところであろう」

「南蛮からはるばる渡ってきた娘子を……ひどいでござるな! これ以上、遊んでおられぬでござる!」

「ただの忍び同士の遊びを、これほどの大事にしてしまったのは武田晴信と真田幸隆よ! 地龍の背中を地雷火でたたいて目覚めさせようなど、武田のやり口は外道にもほどがあるわ!」

「信濃を滅ぼすような火力などござらぬ。いい塩梅あんばいに火薬量を調整しているでござる、少々大地が揺れるくらいで済むでござるよ――その地揺れの際に内応した城兵が門を開き、城主と足軽どもを城より逃がせば、それで砥石城を巡る修羅の戦いの日々は終わりでござる」

「信じられるか! 貴様の言葉がまことだとしても、やってはならぬことだ! 城を盗るというのであれば、勝手に侍同士で殺し合えばよい!」

 加藤段蔵は、斜面を走りながら、鳶ノ術を発動させた。

 瞬間、加藤段蔵の身体は大地に引かれる力――重力から解き放たれる。

 宙を舞い、佐助の前方へと回り込もうとした。

 その加藤の「気」が爆発する感触を背中で感じ取った佐助もまた、同じ術――猿飛の術を用いて、瞬時に宙へと舞い上がっていた。

 加藤段蔵は、鳶ノ一族の頭領として、「武田晴信という人間に信濃を簒奪さんだつさせてはならぬ」と確信していた。

 日ノ本に、信濃の地に、神々はおわす。

 九頭龍はしかし、この日ノ本の大地を生みだした創造神であるとともに、その大地を再び激震せしめすべてを灰燼かいじんに帰す力をも持つたたり神である。

 天津神でもなく、国津神でもない、この古き九頭龍の神を鎮魂し大地を鎮めるために、戸隠があり、「ご神体」という天より飛来せし「飛石」があるのだ。

 この砥石城が落ちれば、村上義清は北信濃に踏みとどまれなくなるであろう。

 村上義清が敗走すれば、武田晴信はいよいよ戸隠へと近づく。

 善光寺平へと進出し、飯縄山をも押さえ、戸隠の「ご神体」へと接近するだろう。

 憎むべきは、武田晴信という「人間」のために門外不出の戸隠の秘術や知

識を戦に用いてまで砥石城を奪おうとする真田幸隆!

 きゃつが理想としている公界くがいなど、しょせんは武家の庇護ひごがなくば自立できぬ夢物語よ。そんなものは、俺は要らぬ!

 加藤段蔵が追いかけ、佐助が逃げる。

 お互いに持てる「気」の限りを尽くして、重力から己の身体を解放し、全速力で宙を駆けていた。

 もしもこの時、砥石城の城兵たちが夜空を見上げていたら、そこに二匹の天狗てんぐが闇を舞っているかのように見えたであろう。

「佐助! 今宵こそは、もはや逃さぬ! 俺の鳶ノ術と、貴様の猿飛の術。どちらが長く耐えられるかの戦いよ!」

「しつっこいでござるよ! 共倒れになるでござる!」

「フフフ。どこまで飛んで逃げるつもりだ? 『丑寅』の『要』より遠ざかっているぞ佐助! 俺の勝ちだな!」

「それは違うでござるよ、鳶加藤どの。拙者せつしやは地雷火の爆発に巻き込まれるとまずいので、逃げているだけでござるよ。にん、にん」

「地雷火ならば、貴様が持っているではないか」

「うきゅきゅきゅきゅ。これは偽物でござる。ここまで来ればもう不要でござるな。あげるでござる、それ」

「な、なにっ!?」

 ぽん。

 佐助が不意に、すぐ背後と迫っていた加藤段蔵の目の前へ、地雷火を放り投げていた。

「貴様、導火線に火を……このような宙空で爆破すれば、地龍を起こすことなどできぬぞっ!?」

「ちなみにそいつは偽物でござるが、中に詰まっている火薬はほんものでござる」

「俺は、その地雷火は『要』に埋めるまでは爆破できぬと思い込んでいた。よもや偽物だとは……抜かった! 猿飛、佐助……!」

「忍びの世界はだまし合いでござるな。まあ、これしきで死ぬ加藤どのではないでござろう。またね。にんにん」

「待てっ猿飛! 『要』には誰も到達していないはずだっ! いったいどうやって地雷火を埋めるというのだっ!?」

「うきゅきゅきゅ。秘密でござる」

 佐助が投じた偽物の地雷火――とはいえ、火薬を詰めたほうろく玉ではあった――がぜた。

 ドンッと衝撃音が天空に伝わって、加藤段蔵の身体はその風圧によってはじき飛ばされていた。

「ぬっ!?」


「くっくっく。兵は詭道きどうなり! 戸隠忍群の警戒網をかいくぐって『要』に直接地雷火を埋めることは、いかなる忍びといえどもできぬ。ゆえに、片足の不自由なそれがしが、いかにも囮であるかのような無様で無力な姿を晒したそれがしが、地雷火を『要』へと運んだのだ。それがしは丑寅の方角とは真反対の方角へと山を登り、ふもとの『要』へと流れる地下水脈の上流へと地雷火を投げ落とした。ほんものの地雷火には、導火線など不要。ゆえに鉄を用いて完全に密閉してあり、川であろうが地下水脈であろうが自在に流すことが可能なのよ」

 わがことなれり。こんどこそ、砥石城は陥落する!

 漆黒の闇の中。

 山頂に屹立きつりつした山本勘助が、高笑いしていた。

 加藤段蔵は、ほんものの地雷火を背負っていたその者を発見していながら、見逃していたのだった。

 地下水脈の上流へ勘助が投じた地雷火は、この時、ついに山麓の『要』へと流れ着いていた。到達していた。

 砥石城の東側に流れる千曲川の支流・神川のほとり

 その地雷火の気配を感じ取った「地雷也」が、その力を発動させて地雷火

に点火していた。

 自在に、火を操る力――。

 だが彼女には、才能が足りなかった。体内の「気」を存分にれなかった。だから、ごくわずかな、小さい小さい炎をおこすことしかできない。

 彼女が自らの視力と引き替えに手に入れたその絶望的なまでにちっぽけな力を、真田幸隆は、南蛮渡来の新兵器「地雷火」と組み合わせることで、日ノ本忍術史上最大の殺傷能力と破壊能力を彼女に与えたのだった――。

「――着火、します」

 望月千代女が九字を切ると同時に。

「要」に到達した地雷火が、水中にあるにもかかわらず、完全に密閉されているにもかかわらず、起爆していた。

「佐助、待てい!」

 加藤段蔵が、風圧を食らって宙を回転しながら体勢を立て直そうとしていたまさにその時。

 加藤がつい先刻まで駆けていた丑寅の山麓……地龍の『要』でも、地底からの爆発が起きていた。

「わからぬ。俺は『要』に間に合っていた。佐助には絶対に、仕掛ける暇などなかった! いったいどうやって仕掛けたっ!?」

 地龍が、九頭龍の背中が、揺れた。

 大地が揺れた。

 砥石城全体が、激しく上下に揺らぎ、崖は崩れ、岩は転げ落ち、木々は

ぎ倒されていった。

 武田方に内応していた城兵が、城門をいっせいに開いた。

「内応だ!」

「山が崩れる!」

「噴火がはじまった!」

「すぐに武田騎馬隊が攻め寄せてくる! 皆殺しにされるぞ!」

 次々と城兵たちが、斜面を転がり落ちるように逃げ惑っていく。

 すべては、夜の闇の中の出来事であった。

 恐怖と流言飛語と疑心暗鬼によって、同士討ちすらがはじまっていた。

 この混乱のさなか。

 加藤段蔵は、佐助の姿を見失い。

 霧隠才蔵は、双子との戦いを中断して、爆心地へと向かっているはずの海野六郎のあとを追い。

 根津甚八は、爆発と同時に下流からあふれ出してきた激流にまれ、窮地から脱するべく筧十蔵の身体を手放して磐座から飛びだしていた。

 加藤段蔵が「結!」と唱えながら千曲川の北岸へと舞い下りてきた時には、すでに海野六郎たち戸隠忍びが再集結していた。なおも大地が激しく揺れる中、夜間を強行してきた武田騎馬隊が混乱する砥石城を攻め立て占領していくさまを、加藤段蔵たちはなすすべもなく眺めているしかなかった。

「してやられたのじゃ! わらわは危うく、爆発に巻き込まれかけたぞ」

「そうか。真田の本命は佐助ではなく、山本勘助だったか。俺の負けだ! 知恵では、あの男にはかなわぬ!」

「カトー。われらも一刻も早く逃げねばまずいぞ。武田晴信はわれらを見逃すまい。城の占領はまもなく終わる。残党を、真田忍群と騎馬隊とを総動員して追ってくるぞ。佐助も、双子も、無傷なのだろう?」

「あたしは千曲川を泳いで一人で逃げ切れるけどぉ。あんたたちはどうすんの? 地揺れもそろそろ収まりそうだし。下手したら龍が目覚めるんじゃなかったの?」

 だいたい蜘蛛男、あんたは悲観的すぎるのよ。人間ごときが龍を暴れさせられるわけがなかったのよとぼやく根津甚八の足下に、ぴょこん、と首を出した小さな動物がいた。

「おっ、飯縄!?」

 ずいぶんと楽しい戦いになったみたいだね。参加すればよかったかなぁと笑いながら、川向こうでいかだを準備して待機している少年忍びがいた。いや、男装しているが、彼女は少女なのである。

「ボクに任せておきなよ。追っ手は飯縄たちに防がせる。霧隠の術があれば問題なく逃げおおせられるさ。このお代は、いずれ返してもらうことにするね?」

「ふん。獣どもを煙幕に用いるか。霧と組み合わせれば、いけそうだな。村上義清も出兵してくるだろう。途中で砥石城落城を知って引き返さざるを得なくなるが、その前に合流してしまえばよい。だが、飯縄をいったい何匹飼っているのだ、貴様」

「ボクにもわからないよ。ボクが飼い慣らしている飯縄を動かせば、野良の飯縄をも片っ端から巻き込めるからさ。とりあえず、飼っている飯縄は『管狐』と呼んで野良とは区別しているんだ」

 唇亡ほろべば歯寒し。飯縄と戸隠は一心同体のようなものだから、仲良く共闘しなくちゃね~、と由利鎌之介は微笑ほほえんでいた。

「砥石城を奪われた以上、村上義清はもはや北信濃を維持できん。次の戦線は、千曲川をさらに北上した川中島・善光寺平あたりとなろうが、もはや村上の剛勇をもってしても戦うことはできぬだろうな」

「蜘蛛男、これからどうすんの? 村上が信濃を追われたら、真田に仕えるわけ? あたしは嫌よ。真田幸隆には恨みはないけれど、武田晴信に仕えるのだけはまっぴらご免だわ!」

「わらわも嫌じゃの。真田などはわが海野家の家臣にすぎん。真田幸隆が改心してこのわらわに仕えるというのであれば、考えてやってもいいがの。にょ、ほ、ほ」

「海野は楽しそうでよいな。私を見捨ててさっさとギダンの術を用いて逃げだした時の鮮やかさは、忘れられんな。最強の術とは、逃げ足が誰よりも速い術ということであったのか。そうだな。忍びにとってもっとも大切なこと

は、相方を捨ててでも生き延びることだからな」

「むきいいいい! お前が邪魔だから消えろと言ったから消えてやっただけなのじゃ才蔵ッ!」

「そうね。逃げ足の速さだけで言えば、たしかにうんこが最強よね~」

「そこの湖賊ッ! わらわは海野じゃっ! 海野じゃっ!」

 こやつらに戸隠と「ご神体」の秘事すべてを明かしてよいのだろうか、と加藤は逡巡しゆんじゆんせざるを得なかった。

 しかし、これほどの暗闘を繰り広げていながら、ついに「地雷也」が誰であるかを見極めることはできなかった。山本勘助が上流から地下水脈を経由させて地雷火を運んだであろうことから考えれば、どうやらたとえ水の中であろうが構わずに地雷火を爆破できる強者つわものであるらしい。

 であれば、戸隠の「ご神体」を破壊することも地雷也ならば可能だ。早急に正体を割り出して始末せねばならんと、加藤段蔵は危機感を新たにした。

「善光寺平を突破されればいよいよ飯縄、戸隠だね。壮絶な合戦になりそうだよね~。いったい何人死ぬのかなあ~。姫武将は殺したくないよボクは」

 由利鎌之介が筏の上で腰の竹筒を開き、「暴れておいで」とささやきながら子飼いの管狐を解き放っている。

 こやつらのうちの誰かを「草」として真田へ埋伏させるか、と加藤は思った。



 砥石城、一夜にして陥落。

 謀将・真田幸隆の「調略」によって、あの村上義清方の最前線・砥石城がついに武田の手に落ちた――。

「一戦も交えることなく、手品のように砥石城を奪い取ってしまったという」

「小笠原に続いて、村上義清までもが武田に破れた!」

「小県一帯は、もはや武田晴信の手に落ちた」

「木曾の国人たちも、武田晴信に恭順を誓い、臣従すると決めたらしい」

「もう村上義清をもってしても、葛尾城を支えることはできぬだろう」

 信濃全土の豪族国人たちが震撼しんかんする中、しかし、武田晴信による村上義清との最終決戦は行われなかった。「砥石城陥落」の朗報を聞いた晴信が勢いに乗って義清の本城・葛尾城へと攻め上ろうとした時、躑躅ヶ崎館で出家し楽隠居していた母・大井の方(大井夫人)が倒れたのである。

 晴信が自分の夫・信虎を追放する際にも、晴信の過激な行動を黙認し、「わたくしも娘・晴信のもとに残りましょう」とそのまま甲斐にとどまってくれた。しかも上田原で村上義清に大敗した時、晴信に書状を送って撤兵を決断させてくれた。その、母である。

 晴信と次郎信繁は出陣を断念し、大井の方のもとへと急いだ。

(あたしはついに砥石城を得た。板垣信方。甘利虎泰。横田備中。三人もの股肱ここうの臣を失い、惑い続け、ついには真田忍びの調略を用いてからめ手で勝利し、今やっと村上義清を堂々と戦場で倒し乗り越える時が来た。そのはずだったが……またしても、城と交換で、あたしの家族が失われようとしている。それも、わが母上が)

 大魚を逸することはわかっていた。窮地に追い詰めた村上義清を今討たねば、あの男は北方へと逃れ、そしていずれよみがえってくる。だが、母を捨てて葛尾城へ攻め寄せることを、晴信は自分に許さなかった。

「姉上。気をしっかりもって。砥石城落城によって、信濃中の豪族はすべて姉上に恭順した。村上義清はもう葛尾城にはこもれない。武田による信濃統一は、達成されたわ。母上にそのことをご報告すれば、きっと持ち直していただけるはず」

 並んで廊下を進みながら、次郎が晴信を励ます。

 姉妹二人で、部屋へ入った。

 晴信が部屋へ入る折に、入れ違いとなった薬師くすしから、もはや助かりませぬ、と小声で見立てを伝えられた。

 すでに起き上がれなくなっていた母の枕元へ、晴信は駆け寄っていた。

「……晴信。わたくし自身が筆を執って、あなたの一代記を書き残し後世に伝えていく。それが、わたくしの最後の仕事と思い定めておりましたが……もはや、書けませぬ」

 枕元には、すずりと紙が置かれてあった。

 なにかを書こうとしていた。あるいは、毎晩、睡眠時間を削ってすでに書き続けていたのか。

「母上? そのお身体で、そのような仕事など。なぜ、命を削られるような真似まねをなされたのです」

「あなたは世間に誤解されています。父を駿河に追放して国主の座を奪った悪逆非道の野望の女だと……母親であるわたくしが、後世に、真実のそなたの姿を書き残したかったのです。わが子晴信のまことの姿を。ですが、母のひいき目ゆえか、感情ばかりが先走ってうまく書けませなんだ」

「……そのような」

「春日源五郎に、武将働きの合間を縫ってそなたの一代記を新たに書き起こすよう、伝えておきました。春日どのならば、やり遂げてくれましょう」

 これで信濃の平定は終わりましたね晴信どの。いずれ信虎どのと和解なさいませ。武田の上洛がなった暁には、駿河より甲斐にお戻りいただきなさい。それでそなたの悪名も消えましょう、と大井の方は微笑んでいた。

「……次郎」

「はい!」

「よく晴信を支え続けてくれましたね。父子、きょうだいが血で血を洗い家督と土地を奪い合い続けてきたこの戦国の世では、希有けうなことです。晴信の功績の半ばは、次郎、そなたが姉に尽くしてきてくれたおかげです」

「母上。わたしはただ、姉上をお慕いしているだけです。尽くしてきたなどという意識は、わたしにはありません。父上を追放することになったのも、姉上の意思というよりも、わたしの意思です。父上が駿河へ去ってくれれば、わたしは誰にはばかることなく、姉上とともに生きることができると……そう、思って……」

 ですから姉上の悪名も、ほんとうはわたしのものです、と次郎は声を詰まらせていた。

「そなたも晴信も、今は双子のように寝食をともにしておりますが、いずれは独り立ちせねばなりませんよ。二人とも、婿を取りなさい。姫武将は、ともすれば合戦に明け暮れて婚期を逃し、世継ぎを作るきっかけを失ってしまいます。急ぎなさい。よろしいですね」

 晴信は、妹の禰々から夫を奪い、追い詰め、死なせた。晴信を「国盗りの野望と家族家臣とは交換である」という呪いから解き放とうとした横田備中をも死なせた。最後は、孫六信廉を自分だと思わせて横田備中を騙し、戦場で捨て殺しにした。「承知いたしました」と言うべき場面なのに、どうしても、言えなかった。

 そして次郎は、

「母上。わたしは生涯、姉上ただ一人に仕えます。父上を追放すると決めた時から、そう思い定めています。夫は要りません」

 もっと明確に、婿取りを拒絶した。

 なにごとにも寛容で、決して我を出さない次郎が、危篤に陥っている母親に反抗するとは、晴信は想像もしていなかった。驚いていた。

「……次郎どの。それは、いけないことですよ。晴信どのを、縛ることになります……姉妹といえども、別々の魂を持った異なる人間なのです。そなたたちは信虎どのによって恣意しい的に差別され、仲たがいさせるように育てられ、引き裂かれて苦しめられてきました。今はそれゆえに、晴信どのと別れがたいと思い定めておられるのでしょうが、次郎どの。あなたは次郎信繁として、生きねばなりません。それが、お互いのためです」

「いいえ。わたしは何年かかっても、姉上との時間を取り戻します。わたしは元々、父上から家督を譲られる寸前だった立場です。自立などすれば、家中をまた二つに割り、いずれわたしと姉上とが争わねばならなくなります。そんなことになるくらいなら、そのような苦しみを姉上に与えねばならなくなるくらいならば、わたしは生涯、姉上の影でありたい」

「……次郎どの……晴信どのよりも、幼いあなたのほうがより多く、傷ついておられたのですね……」

 晴信は、(あたしは自分が父上に愛されないことばかりを気に病んで、一人で勝手に苦しみ続けていた……父上にえこひいきされる側だった次郎が内心ではこれほどに傷ついていたことに、気づいてあげられなかったのか……いや、自分のことで精一杯で、そのような余裕がなかったのだろう。しかし、これからは)と自分の心の冷たさを恐れ、後悔し、次郎の手をそっと握っていた。

「影になどしない。次郎。武田が海へ出て、上洛を果たせば、武田の故地である甲斐信濃は次郎にすべて委ねる。あたしが都を治め、次郎が東国を治めればいい。源頼朝も、足利尊氏も、東西に兄弟が割拠したことから仲違いして殺し合ったが、あたしと次郎とは別だ。次郎は、絶対にあたしを裏切らない。だから、影になど、なるな」

「……姉上。あたしが欲しいのは、国ではなくて……姉上と過ごす、時間なの。一緒に、いたいの」

 わかった。ならばずっと一緒に行こう。ともに海へ出よう、と晴信はうなずいていた。

 目の前で、母親が死のうとしているのだ。

 突き放せば、次郎がどうなってしまうかわからない。

 だが、母を安心させることも必要だった――姉妹ともに生涯独身を貫くなどとは、決して言ってはならなかったし、疑わせてもならなかった。

「母上。お世継ぎに関しては、ご心配なく。あたしが子をさねば、次郎が家督を継ぎます。いずれ折を見てかかるべき婿を得れば、あたし自ら子を生します」

 次郎がぴくりと背中を震わせたが、晴信はその次郎の背をさすって、暗に(言葉の上だけだ、安心しろ)と次郎に伝えた。

「……その言葉を聞いて安心しました。よき相手が、いるでしょうか。晴信どの」

「広大な信濃を併呑へいどんした武田は今や、北条・今川と肩を並べる東国を代表する強国となりました。上洛を果たせば、引く手あまたとなりましょう。天下人としての地位を固めるべく、よき相手をこちらから選びます。信濃を平定した今、武田は北の海にも南の海にも出られます。海へ出れば、あとは武田騎馬隊を率いて瀬田に武田びしの軍旗をはためかせるだけです。五年、いや三年で上洛は成りましょう。ご心配なさらぬよう」

 晴信はこの時、よもや自分と山本勘助の遠大な天下盗りの策が、越後初の姫武将によって阻止されることになるとは夢にも思っていなかった。

 次郎もそして母も、うなずいていた。

 太郎義信が。孫六信廉が。次々と、駆けつけてきた。

「母上! なんてこった、葛尾城で村上義清と最後の決戦をはじめるって時に、まさか母上が! 巡り合わせが悪すぎらぁ!」

「太郎。縁起の悪いことを言うもんじゃないサ」

「あああっ、なんでこうなるんだよう! 甲斐を追われた親父どのは駿河でめかけを迎えてぴんぴんしてるってのによう! 子供まで産ませたってうわさだぜ! これ以上、弟とかいらねえっての!」

「だから太郎。母上がご重体だというのに、ここはそういう話を振るべき場面じゃないサ。あんたはもう、ほんとに、しょうがないねぇ。いつまでも子供だねえ」

「……そうだった! 悪かった孫六っ! だーっ! 俺はどうしてこうもバカなんだああああ! 母上、申し訳ねえっ!」

 末妹の禰々はもう死んでしまって、ここにはいない。しかし、駿河に義妹として入った定を含めて、武田家にはなお五人の姉弟がいる。大井の方は、五人のうちでいちばんできが悪い太郎の慌てぶりを目を細めて眺めながら、

「……太郎。今後も、武田家の当主である晴信どのに忠実にお仕えするように。かんしゃくを起こして暴れてはなりませんよ。そなたがいちばん心配です。ほんに、しょうのない子……ふふふっ」

 太郎と孫六の顔を見て、張り詰めていた気が、いちどに解放されたのだろ

う。

 それが、大井の方の、最後の言葉となった。

 四人の姉弟たちは、しばし瞑目めいもくし、母の死に顔に白い布をかぶせていた。四隅をそれぞれの指で持ちながら。

 次郎が「姉上。ここは、わたしたちが。姉上は軍議へ。山本勘助が待っているわ」

(また失った。信濃一国と引き替えに、あたしはついに母まで失ったのだ)とうなだれていた晴信の目つきが、「軍議」という言葉を聞いた瞬間に一変していた。

「山本勘助が? なにがあった、次郎」

「わたしも詳細は聞いていないけれど、勘助はかなり焦っていたわ。もしかしたら想定外の事態が起きたのかも」

 晴信は、評定の間へと駆けた。

 母を失った悲しみに暮れている時間すら、武田家の当主にはなかった。

(母上。これが戦国大名として生きるということのようです。申し訳ありません)

 母にびながら、平伏している勘助の前へと躍り出ていた。

「どうした勘助! 村上義清に動きがあったか! まさか、あたしの母が危篤だと知って、一か八かの逆転を求めて村上が攻め寄せてきているのか? そういう男ではないと思うが」

「は。それが、それがしの想定外の事態となりました。上州にて異変が」

「上州? 上野にはまだ、関東管領・上杉憲政が踏ん張っていたはずだが。真田幸隆を引き抜き、佐久でさんざん叩いてやってからは、半分死んだようになっていたな。北条氏康についに滅ぼされたか?」

「ははっ。その上杉憲政が――北条氏康に滅ぼされるくらいならばと、上州を捨てて、越後の長尾景虎のもとへと亡命いたしました!」

「越後の、長尾景虎!? だが越後長尾家といえば、関東管領家の宿敵ではなかったのか!? そもそも、かつては関東管領を殺したような相手だぞ。それが、なぜ?」

「関東管領家と相争っていたのは、下克上上等をむねとしていた先々代の長尾為景どのでございました。長尾景虎は、為景とはまるで真逆。義と秩序を重んじる姫武将。長らく長尾家の傀儡かいらいとなっていた越後守護の上杉定実からも景虎はまことの義将と覚えめでたく、上杉家の人間ではないにもかかわらず、越後守護職を与えられたとのこと」

「ふん。力ずくで奪ったのであろう」

「それが、そうではないようなのです! 上杉定実自身が景虎の人物にれ込み、越後を統一できる英雄は景虎しかいない、と自ら進んで守護職を景虎に継がせると越後中の豪族どもに言ってまわったのです。これにより、揚北衆や上田長尾家の長尾政景ら独立心旺盛なうるさ方も、みな守護職という大義名分を得た景虎にひれ伏して、越後全土は今や景虎のもとにまとまっておるとのこと」

 いったいどのような姫武将なのだ長尾景虎とは、と晴信は腹立たしい思いを抑えながら勘助に問うた。

「長尾景虎は、生まれた時から父親である為景に疎まれ続けておりました。為景晩年の、末子です。己の実の子ではないと、為景はずっと疑っておったようです。その外見も、奇怪なものであると伝わっております」

「奇怪?」

うさぎのように赤い瞳と、雪のように真っ白い肌、そして銀色に輝く髪の持ち主なのだとか。それゆえ、長尾景虎は父親に遠ざけられ、寺に押し込められていたのですが、家督を継いだ病弱な兄に代わって戦場に立つや否や、おそるべき強さで戦に勝ち続け、ついには越後諸将に担がれて兄から家督を継いだのです」

 要は、親に愛されなかった娘が、兄を追い落として武力で家督を奪っただけではないのか、あたしとなにが違うのだ? と晴信はつぶやいていた。

「野望にまみれた姫武将ではないか」

「それが、評判はまるで逆なのです。景虎自身は家督にも守護職にもまるで興味などないにもかかわらず、常に、周囲が勝手に景虎を押し立てていこうとするのです。長尾景虎は無私無欲にて、されど戦においては神の如き采配を振るい、自ら常に先頭に立って敵陣に斬り込み、その武勇はまるで――北方の守護天・毘沙門天びしやもんてんの化身そのものであると。しかも常に敵を許し降伏した将は決して殺さず、城を奪うこともない、希有な義将だと」

 その義将としての評判が信頼となり、周囲が景虎に権力を持たせようと動くのです、と勘助が冷や汗にまみれながら述べた。父を甲斐から追放して家督を奪い、「野望の女」という悪名にまみれた晴信にとっては、聞きたくもない話であることは明白だからだ。

「偽善にもほどがある。敵を倒しながら必ず許し城を奪わぬなど笑止だ。それでは、いつまでも城盗りの合戦が繰り返されて、堂々巡りになるだけではないか。長尾景虎という姫武将は少しばかり、どうかしているのではないか?」

「たしかに、どうかしているのかもしれません。自らを、毘沙門天の化身であると信じて疑わぬそうです。ゆえに、戦場においても甲冑かつちゆうをつけることすら滅多めつた にないと。矢や鉄砲玉のほうが、景虎の身体を勝手に避けていくと」

「神がかりか」

「だが、強いです。あり得ぬほどに、強いのです。まるで、天に目を持っているかのような采配ぶりだといいます。軍師役であった宇佐美定満なども、景虎の戦場における天才ぶりを一目見て理解し、以後はなにも口を挟む場面がなくなりあえなく失脚したのだとか。これほどに強い武将は日ノ本の歴史においても源義経と長尾景虎だけだと、越後では言われております。景虎はなにぶん越後初の姫武将であったゆえに、諸将の驚きは激しいものがあるとのこと」

「源義経も、戦が強いだけで政治というものをまるで理解していないバカではなかったか? そういう、娘か」

「はっ。ですが景虎は義経よりも厄介ですぞ。直江大和なる策士が景虎の背

後にはべり、景虎の政治感覚のなさを補っておりますゆえ」

「では、越後の海へ出るのは少々難しくなったということか、勘助」

「いえ。それだけではござらん。事態は、大きく動きました。その長尾景虎のもとに、なんと、関東管領上杉憲政が救いを求めて逃げ込み、あろうことか関東管領職を景虎に譲ると言いだしているのです!」

「関東管領職を!? それは、東国の王の座ではないか!? 越後守護職などとは重みが違うぞ! 上杉家の血をひかぬ者に、まさか。あり得ん!」

「北条氏康などに捕らわれて関東管領の座を奪われるくらいならば、義将・長尾景虎に託そう、と決めたようです。景虎は、弱者に救いを求められれば決して断らない義将。関東管領就任の件は辞退しつつも、関東管領の復権という上杉憲政の悲願は自らの手で果たそうと決意した様子。関東遠征を視野に入れはじめているようでございます」

 ならば、北信濃で戦う武田にとっては好都合ではないか? 越後の長尾景虎の目が関東へ向かえば、村上義清は孤立無援となる。村上義清を完全に叩きのめし、信濃を完全に支配する絶好の機会といえる、なぜそうも慌てているのだ勘助と晴信はいぶかしんだ。

「違います。御屋形さま。御屋形さまと長尾景虎とは、ほんとうに水と油のようになにもかもが逆なのです。長尾景虎が、北条家という大敵を背負い関東管領という厄介な名分を抱えている上杉憲政の亡命を受け入れたという噂を聞いた村上義清もまた、越後へと亡命したのです!」

「……あの、孤高の男が!? 葛尾城を捨てて? 越後へ? 亡命っ!?」

「長尾景虎は、義将。村上義清の申し出をも、断らなかったのです。村上義清もまた、長尾景虎に北信濃奪回を依頼したのです。頼まれれば決して断らぬ、それが義将・長尾景虎であるゆえに。村上義清自身がそう決断したのではなく、信濃守護の小笠原が村上を通じて景虎に要請したそうですが。武田軍を信濃から甲斐へと押し戻し、信濃守護の座に復帰したい、と。村上義清は、長尾景虎という奇妙なこの義将に、興味を抱いて亡命を受諾したようです。いったいどれほどに強い姫武将なのか、武のみを頼みに生きてきた男として、見てみたいのでしょう」

 それでは関東と信濃の二正面作戦になるではないか! いくら戦に強くとも、そのような無謀は不可能だ! 武田と北条を同時に敵にまわして、勝てるはずがない! 越後は滅びる! と晴信はいらだちを隠せなくなり、怒鳴っていた。

「この信濃を併呑した武田とて、北条と今川を同時に敵にまわせば生き延びられぬ! それゆえ、われらはけんめいに三国同盟の準備を進めてきたのではないか勘助。それを、長尾景虎は……己の領土など一寸も増えぬ頼まれ事の戦を、二つも同時に抱えるというのか? 負け犬どもを次々と抱え込んで、武田と北条を敵にまわして戦うと? 役にも立たぬ守護たちを復権させるためだけに? 戦国の世を、めているのか!?」

 あるいは、兄から家督を奪った心の負い目を糊塗ことするために、義戦などという偽善を持ち出して、引っ込みがつかなくなっているだけだ! とてつもない愚か者だ! と、晴信の罵倒は止まらなかった。

 それほどに激高していた。

 母を失ったその日に、これほど許しがたい話を聞かされるとは。

「勘助。長尾景虎はほんとうに、北信濃へ出てくるか!?」

「いかに軍神とはいえ、関東遠征にはそれなりの準備が必要でしょう。すぐには行えませぬ。ですが、北信濃は景虎の居城・春日山城からほど近く、すぐに軍を率いて遠征できましょう。善光寺平から川中島にかけてが、戦場となりましょう」

「川中島、か! 戸隠の山も、近いな。勘助。加藤段蔵は、戸隠山にあたしを近づけたくなかったようだが」

「このままでは加藤段蔵率いる戸隠忍群や善光寺の僧侶どもも、長尾景虎方につきましょうな。あれらは、神の国・信濃における古き神々に仕える者どもでございます。諏訪と同様に、武田が押さえねばなりませんぞ」

「あたしは母上の葬儀を終えたらただちに、川中島へ向かう。戦場となる場所を視察し、地理を頭に叩き込んで、軍略を練りたい。相手が戦の天才であ

れば、なおのことだ。長尾景虎はあの村上義清よりも、強いのだろうか?」

「……おそれながら、一騎打ちにおける強さは別として、義清どのなどは景虎に比べることもできますまい。あの景虎なる者、戦をやらせれば比類なき天才にございます。軍師すら必要としないのです。毘沙門天の化身と豪語しながら、越後の猛将どもが誰一人その言葉を疑わず、数十年にわたる内戦をやめていっせいに恭順いたしました。これだけで――」

「もうよい。貴様のような傲慢ごうまんな男がそこまで言うのならば、ほんとうなのだろう、勘助」

 ただし、一騎打ちにおいても、景虎はそれまで越後最強と呼ばれていた猛将・長尾政景を自らの剣で倒しております。しかも、とどめを刺さず命を救っております。いずれは一騎打ちの腕前でも村上義清以上の強者となりましょう、と勘助は自らが練り続けてきた周到な策が一人の天才によって一気に崩れ去ろうとする予感に震えていた。

「長尾景虎。神がかりの偽善者め。信濃はすでに神の国ではない。このあたしが支配する、人間の国なのだ。乱世は、神がかりの武将などを求めてはいない。現世を生きる人間こそが、乱世を終わらせることのできる唯一の存在なのだ。そのことを、知らしめてやる!」

 母を失った。禰々を失った。四天王を三人までも失った。信濃の平定と「人間の国」としての新たな国造りを、越後の神がかりなどに邪魔はさせない。父に愛されず、兄から家督を奪った野望の姫武将が、自分となにも変わらぬ野心の塊のような戦争狂いの小娘が、義将だの軍神だの毘沙門天の化身だのと周囲の男武者たちから持ち上げられていい気になっている姿を想像するだけで、晴信は、怒りと悔しさのあまり目から涙が溢れてくることを抑えられなかった。

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